現在をうろうろ(5287)
日本貧窮者経済新聞
 北朝鮮の興南から見る北朝鮮の化学工業は・・・?(3)→この最初へ

 さて、今日も雨・・・外で遊べないよ・・・仕方ないから、昔の工業のおさらいでもするか・・・どうも、朝鮮での日窒の事業は終戦時にはほとんどの生産が朝鮮でも行われていたようですから、日窒の全ての事業に関してのチェックが必要かね・・・?戦前の化学工業のレベルを知るのも良いかもしれないし・・・日本窒素事業概要 - 国立国会図書館デジタルコレクション この昭和15年の本を精査してみるか・・・どうせ、選挙までは大きな報道は無いだろうから・・・

 さて、日本窒素肥料は明治39年に野口遵によって設立される発送電の曾木電気に始まるわけですがわけですが。曽木第一発電所が1907年明治40年に曽木の滝の水を使っての発電を開始、余剰電力は水俣のカーバイド工場を動かすわけです。32°00'43.8N 130°34'35.8E - Google マップ この滝の上流側で取水してすぐ下流へ導いての発電のようですね。

 この発電所の電力では不足というわけで1909年明治42年に曽木第二発電所の一部が稼働し始めると・・・水害で、両発電所は停止、第一発電所は閉鎖、第二発電所が翌明治43年に修理が成り完工・・・32°00'38.6N 130°33'46.5E - Google マップ ここが第二発電所の遺構ですね。このダム湖の水位が下がると・・・

 左のような煉瓦造りの発電所の遺構が現れるというわけですね・・・

 右が在りし日の曽木第二発電所ですね。第一発電所の詳細は不明ですね・・・短命だった発電所ですから・・・

 野口君は帝国大学工科大学電気工学科を出て、江ノ電の運転手をやり、事故で退職仙台電気へ・・・この仙台電気で日本初のカーバイド製造を・・・38°16'01.1N 140°50'25.0E - Google マップ この三居沢発電所の電力で製造・・・この発電所の取水は38°15'39.6N 140°49'07.1E - Google マップ ここね。沈砂池を経て暗渠へ・・・三居沢発電所 - Wikipedia 野口君はここでのカーバイド事業に参加しているわけですね。カーバイド需要が大きく伸びたのは、どうやら日露戦争での攻城戦での・・・坑道の照明需要のような話がありますね・・・これで、仙台電気はそれなりに儲かったようですね。1ポンド原価4銭が12〜13銭で売れたとの事・・・これで、長岡にもカーバイド製造所が新設・・・カーバイド産業で野口君が得た事は、その事業の根底の思想として・・・

 同業者に先駆けて、できるだけ安く良質な物を作る!
 消費されて形が残らぬものを売る!
 営利を目的とせず国家的見地でやる!

 こんな3つのモットーでやるわけですね。この頃まで野口君は・・・まともに働いているわけではないようですね・・・電気関連の仕事を物色して歩いている・・・シーメンスの自転車や電気製品の取次販売をやって小遣い稼ぎをしていたようですね。

 そして、東京電機が200万円の社債を起こすので、米国での売り込みで渡米、米国では日本が日露戦争に負けるだろうと、相手にもされず渡欧・・・ミュンヘンで日本海海戦の勝利が伝わり、シーメンスの機械を買うということでドイツ銀行との借款が成立・・・この洋行は、野口君が親戚から借金しての持ち出しで、慰労金が1万円程出て・・・日々新橋で・・・どんちゃん騒ぎ・・・ここで、鹿児島の名士様たちと水力電気の話になり・・・32°06'09.1N 130°37'16.2E - Google マップ ここにあった永里勇八の金山への送電という話になったわけです。

 ここで導入された発電システムはシーメンスのもので、800kW、送電電圧11000Vを導入したわけね・・・野口君は、この流れで朝鮮にもこの11000Vシステムを導入という事のようですね。

 さて、金山需要を狙った発電ですが、大口・牛尾・新牛尾の3金山での需要では大きく電力が余るので、日本カーバイド商会を設立、工場を水俣に建設します。日産15トンの当時最大の工場で1906年に事業を開始・・・この秋に、カーバイドに空中の窒素を吸収させて石灰窒素の特許が取得されたという話で・・・野口君は渡欧・・・明治41年3月に日本を発ち平時は肥料に戦時には爆薬へ・・・という両用技術の取得へローマへ向かうわけです。結局は契約は取れるわけですが、自分の持ち金で手付だけ払って・・・三井の資本でという話になるわけですが。日本へ戻って三井にかけあうと・・・株を51%重役の指名は三井に一任という条件・・・全事業が三井の傘下になる事が条件というわけです。未だに商社はこれをやるようですね・・・羽振りの良い新興事業者が仕入れと売り先と資本で急成長して・・・創業一族の引退というパターンね・・・

 これで三井との話は終わって、三菱へ話を持ち込むわけです。これで株式は50%ずつで明治41年8月20日に日本窒素肥料株式会社と社名を改めることになるわけです。

 この石灰窒素製造が軌道に乗るまでしばらくかかるわけですが・・・問題は、販路の開拓ね。石灰窒素の使用法が確立されていないわけで・・・ただ、使用例で作物に直接施肥すると枯れる、苗代に発生するイトミミズによる稲の発芽障害対策・・・イトミミズが苗代の表土を揺らすので種籾が土の中に沈んで発芽障害を起こすが、苗代に石灰窒素を散布すると、このイトミミズが全滅すると・・・これで、東北地方では使用が始まり・・・農業試験場により施肥法の発表があって・・・やっと普及へ向けての基盤ができるわけですね・・・

 明治44年の暮れには会社は給料も払えない状態へ・・・何とか持ちこたえて、各種肥料製造を行い・・・硫安の製造に着手・・・これが大正に入った頃ですね。そして、野口君の会社の転機は大正3年の第一次世界大戦の勃発により輸入肥料等の輸入の途絶・・・

 これで、大正5年に増資・・・経営の拡大、そして戦後不況が・・・それで、再び野口君は渡欧、今度はアンモニア合成の特許を取得・・・カザレー式アンモニア合成工場として延岡工場が建設され発明者のカザレー博士が大正12年9月1日に横浜に・・・しかし、関東大震災で上陸できず神戸へ上陸し、延岡へ

 延岡工場は左の様なものだったらしいですが・・・現在の工場が広大になって・・・左の写真だと、まだ事務所が無いね・・・?

 多分、昭和23年の航空写真では右のような感じね。矢印の先にある道が左の写真の左下の特徴的な道ね・・・

 現在はこの道が建物の間で分かりにくいので・・・一応は現存か・・・ロールオーバーを組んでありますからカーソルを写真の上に持って行くと現在の姿が現れます・・・32°34'02.3N 131°40'17.9E - Google マップ ここが、矢印の先の事務所の位置ですね。

 左の場所ね・・・事務棟の後ろにはアンモニア製造装置が展示されているようですね。左上の写真の背の高い建物にアンモニアの反応塔が設置かね・・・?

 上の写真の中央上の大きな白い屋根の建物は・・・

 右の写真の下の木々の間の奴で・・・この写真は昭和8年の宮崎県郷土読本. 尋常科用 - 国立国会図書館デジタルコレクション 66コマ ベンベルグ会社見学 これのものですね。戦争に向けて、この工場は大きく拡充されていくわけですね・・・

 偉大なる安倍晋三閣下に従って、戦争に邁進しないと米国の一番の子分のポチ国の経済の再生の道は無いのかね・・・?戦争野郎ぜ!かよ・・・?まあ、勇ましいのが大好きな国民性だから仕方ないかね?予定通り、拉致被害者の奪還で出兵するとかね・・・戦争は楽しいかもしれない・・・

 ついでに韓国も併合だ!とか・・・?幼い普ちゃんの考えている国際秩序ってのはかなり不思議な奴だからね・・・

 さて、一旦切って昼飯だね・・・ああそうだ・・・野口君に関しては・・・今日を築くまで - 国立国会図書館デジタルコレクション これから引いていました・・・

2019.07.14

    

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