香取神宮をうろうろ(48)
 香取新誌 (8)

 どうも、いろいろな話へと飛んでしまう種をたくさん持った本です。読んでいくと疑問が膨らんで・・・悪い傾向です。まるで、宿題を出すために作られた本のような感じです。高御倉社の項目を読んで、それに関連する史料を探し出して、この項目で解説しようとしている内容をレポートにせよ・・・まるでこんな感じ・・・思いすごしですかね?

 右はの写真は、ふと眺めた20ユーロセント上はドイツ・ブランデンブルク門、下左は・・・何だろう?イタリア・ウンベルト・ボッチョーニ作 空間における連続性の唯一の形態 難解だ・・・ 下右は、オーストリア・ベルヴェデーレ宮殿 ある価値の表象物が様々な顔を持っている・・・

 こういった硬貨の図柄の違いは大したことないけど・・・同じ神を様々な形で信仰するとかは理解しにくくトラブルのタネにもなるのが厄介です。一つの名称の物に対しての様々な説明、説明のための説明の連鎖・・・いろいろな顔を持つ硬貨・・・清宮君の文章もそういったものがあって・・・わけのわからんやつが出てきたりする・・・元は同じだと言っても、私のように知識の足りない人間にはその根源部分がわからないので困るんだな・・・投げ出すか・・・かなり弱気になりますね。とにかく先へ進むしかない・・・

 近代デジタルライブラリー - 香取新誌 23コマ このあたりを読んでるのでした・・・高御倉社からです。

高御倉社
高御倉社は未だにはっきりとしたことが分かっていない。今も祠官に高倉目代という家がある。本郡滑川村のあたりに高倉村がある。そこに、櫻井という苗字の家があって、屋敷は高倉目代の住まいの跡であるという。社伝の云々は押当のことなるべし。或云う、布都の御魂の古事によりて、高倉下などを祭れるにあらざるこにや、いかが。
羽生郡羽取村に香取社の影祀あり。これは高倉目代に引合えることなるべし。当時その事を秘して伝なければ、再考を待つ。



 さて、困った何を書いているのか完全に理解不能に陥っています。高御倉社・・・この話は読んだことがないような?・・・高倉目代というのが香取神宮の奉行と呼ばれる職についている10人の中にありますね。・・・滑川村の近くの高倉村か・・・滑川駅の南数Kmのところでしょう。ここに高倉目代・・・高倉の目の代わりになる者=代官の屋敷の跡ってわけですね。今は櫻井さんの家があるところなのか・・社伝の云々は押当・・・高倉がらみの社伝の内容が不明、よって押当もまた不明・・・推当という意味で使っているのか名詞なのかも不明・・・我が言語能力の低さを知る・・・こんなので判るのかね?押当・・・まさか中国語の小さな質屋じゃないし・・・布都の御魂・高倉下・・・これなら知ってますよ・・・東征のために神武天皇が率いる軍が悪神の毒気によって熊野で倒れとき、天照大神と高木神が建御雷神を遣わそうとしますが、建御雷神は自分では行かず布都の御魂の剣を降すことにします。そこで、この剣を高倉下の倉に降ろし、高倉下へ夢で、この剣を神武天皇に献ずるように告げます。高倉下は朝起きると倉の中の剣を持っていくと、倒れていた神武天皇が率いる軍が起き上がることができたという話ですね。この故事で高倉下を祀った社という・・・羽生郡羽取村か・・・成田市・・・利根川の近く国道408号線沿いの集落ですね。香取社はどこにあるのかね?・・・秘して伝えず・・・これじゃ考えようもないじゃないか・・・困った文章だ・・・続きは・・・


さて、以上の説にては、上古の事なれど、我らの所見は、源頼朝時代のいわゆる高倉の宮のことなるべし、この宮の令旨にて、頼朝も家を起こしたることなれば、必ずその宮の跡の名目にても、立つようの世話せしなるべし。すでに常胤のこの円城寺日胤跡を立て、円城寺氏の人あり、寺も佐倉辺りに、城村あり、即ち円城寺と云う寺あり、又三井寺と云うも西大須賀村にあり、この高倉の宮の跡もなんとかせしなるべし、香取祠官に高倉目代と云うあり、猶考えるべし。


 我らと来たか・・・どんなメンバーなんですかね?・・・高倉の宮の目代・・・つまり、後白河天皇の第3皇子の以仁王の領地が高倉にあって、その目代の屋敷跡が櫻井さんの家になってる所だ、高倉の目代は香取神宮の職の奉行の中にあって高倉目代の名を引き継いでいる、社伝に高御倉社というのが見られるが、廃絶した摂社などにも見られないが、多分この事であろう。ただし、高倉下が神武天皇に献上した布都の御魂の剣に関連する社かもしれない。また、高倉の宮の館が西大須賀の三井寺・・・東三井寺遺跡かね?って話もあるし・・・ってかね?例の羊存の論法かね?危険な類推、何でも言える・・・とにかく分からん話です・・・


荒海駅
日本後紀に見ゆ、和名抄香取郡駅語は駅家の誤りにて、即ちこの駅のことなるべし。油田村なるべし。大宮司家の址、惣持院跡もあり。昔、勅使の宿は大宮司家なるべければ、駅家はこの地にて都合宜しき。この村のほどりに、スクモ塚という字の地あり。駅址にある地名なり。香取文書の葛原牧もこの地の事なり、葛原牧は葛原親王の荘園のありし地とみゆ、歴史に見えず。それゆへ、平氏も下総へ蔓延せしなるべし、この隣の神生村に大宮台と云う所あり。大宮とは由緒ある称なるべし、そこに葛原親王の小詞あり、さて荒海の油田となりしは、元荒海は神が野のよこなまれるにて、隣の神生も神野なるべしければ、一円に神野にて、ありしなるべし、然るを、灯油料になりしより、油田牧と云うも、即ち葛原の牧のあと、推し知らる。

日本後紀か・・・面白くない本を引いたものです。大体4分の1しか残ってない史書ですが・・・それでも10巻あるのか・・・平安初期・・・新郡の設置や駅を置いたとか・・・国土を開いていく時期なんですね。ふむ、綿調を停止、銭で・・・貨幣経済が浸透しているようですね。なかなか興味深いことが書かれているけど・・・叙位叙勲たぐいばかりだと飽きてきます。近代デジタルライブラリー - 国史大系. 第3巻 35コマ ありました。日本後紀巻13に下総国印旛郡鳥取駅、埴生郡山方駅、香取郡眞敷・荒海等駅廃す。要らないから・・・か・・・805年の出来事ですね。和名抄は・・・近代デジタルライブラリー - 和名抄諸国郡郷考 15巻. 巻之六 東海道下 22コマここには駅に関する記述がない・・・あれ?27丁がだぶってる?まあ、いいか・・・さて、油田村ねえ・・・大宮司家の址?総持院跡?分からん・・・

 ちょっと荒海駅について、清宮君の論法を利用して無理やり付会してみましょう・・・荒海駅の所在地は勝手に神崎と決めます!私の感です・・・さあ、無理やりここを荒海駅にするぞ!神崎=荒アとします。単純ですね。有力な神社が鎮座したので神崎になった。じゃあ、荒崎である理由は・・・神崎あたりの台地全体を取り巻く海の事を荒海と呼んでいた・・・理由は鬼怒川・小貝川は河内町の中を流れ、荒海の北の方に流入していて・・・つまり滑川から神崎の北側の海は干満の際に潮津波が発生するような場所だったと考えます。だから、神崎の船着き場が重要・・・ここで潮待ちしなければならない、だから関が機能した・・・やがて、砂の堆積でこの台地の周りには湿地が広がるようになっていった。そして根木名川と荒海川の合流地点あたりを中心に、海跡湖となり、段々縮んで現在の荒海の地に荒海の名が残った・・・羊存羊存・・・でも、これってかなり本当らしいと思うのですが・・・神崎なら間違いなく香取郡ですから。荒海村は下埴生郡です。香取郡眞敷・荒海としているものに一致します。

 こうなったら、この荒海駅を壮大な妄想でさらに、歴史的に重要な地にしてしまいましょう・・・ふと、思いついてしまいました。浮島・・・景行天皇53年10月・・・日本書紀を・・・上総国に至りて海路より淡水門を渡りたまふ。是の時に、覚賀鳥の声聞ゆ。其の鳥の形を見さむと欲して、尋ねて海の中に出ます。仍りて白蛤を得たまふ。是に、膳臣の遠祖、名は磐鹿六雁、蒲を以て手繦にして、白蛤を膾に為りて進る。故、六雁臣の功を美めて、膳大伴部を賜ふ・・・淡水門なので海水じゃないのでしょう・・・多分汽水・・・理由は外洋の濃度の高い塩水では本蛤は生育することができない・・・房州産のハマグリって聞かないような?海の中に漕ぎ出して白蛤を得る・・・これって、船で浅瀬に渡ったってことでしょうね。ここで、常陸国風土記・・・近代デジタルライブラリー - 古事記・祝詞・風土記 211コマ 例の潮来の南の洲の話です。でも、案外このあたりの洲の話であるのなら・・・香取の津宮あたりかとも思いますが・・・気になるのは・・・稲敷郷です。上代ではかなり名の知れた郷ですね。多分・・・飯名の神=筑波山の神の敷の稲敷・・・稲敷へ真向かい・・・眞敷ってのはどうだろう・・・これでも、神崎は良さそうです。再び妄想の領域で・・・駅馬と駅船が分かれていたとか?駅馬は眞敷、駅船は荒海とか?多分、郡衙の近くに駅馬が、神崎神社の山のあたりに津があったとか?なんとなく1か所にまとめるとすっきりするんですが・・・この荒海駅、他に日本後紀の他に何に出てるのやら?神崎町の郡って・・・郡衙がおかれた場所でここに郡衙が置かれる前は眞敷と呼ばれたのなら簡単なんですが・・・郡衙が置かれて郡になったが・・・駅は旧来の名称を残し眞敷だったらね・・・妄想妄想・・・戸・津の関係ってどうなってるのやら?

 そして、神崎と香取神宮の関係は・・・確か、神崎から台地の上の道を通って香取へ行く道があったような・・・香取郡の郡衙と思しき場所が・・・現在の神崎駅のあたりの郡でしたから・・・古代の駅船は多分、神崎神社の駐車場のあたり・・・八坂神社のあたりに繋がれていたとか?なんとなく・・・神崎の河岸はかつて2つあって西側の方がなんとなく深そうなので、大型船の荷役作業ができる河岸で、反対側は小舟を浜に引き上げていたのでは?なんっていい加減な推測、西側の方は利根川の本流が接していましたから・・・鹿行をうろうろ 044 こんな感じと推測しているので・・・対岸からの写真が良いのです・・・先の夢想に戻って・・・香取郡眞敷。荒海等駅・・・香取郡の眞敷にある荒海駅なのでは?理由は・・・眞敷という地名が思い当たらない・・・南敷ねえ・・・これはかなり無理があるような?そして、小見川にも駅があったとすると、香取神宮には小見川の方が近い気がする・・・その場合どうなるのか?気になるわけです。何かに・・・香取神宮へは陸路では神崎経由という話があったような気がしますから・・・少なくとも、香取神宮が終点=駅というような話はなさそうですからね。そして1つの郡に2つの駅があるってのが気になるわけです。調べてないのでわかりませんが・・・よほど大きな郡?確かに、香取郡は大きな郡ですが・・・駅の目的からすると、有力な津が2つあってそのそれぞれに道が必要であるというのなら・・・南敷はそれに該当しない・・・終末点にはなりえないような気がします。中継地点かもしれませんが・・・30里=約16kmの基本ルールからするとちょっと短い・・・荒海をどこに置くにしても10kmほどにしかならないのでは?

 ただ気になるのは・・・郡ごとに伝馬が5疋置かれる規定とか・・・そして、駅伝制と駅地は廃絶といいますが・・・明治時代の官衙の連絡は・・・なんだか、大昔からの連続の中に存在したような感じです。地方史・・・XX町史とか眺めると・・・江戸幕府以前から受け継がれ生きていたような気がするのですが・・・官衙の日誌などを見ると、運夫・脚夫などが存在するような・・・なんとなく、色々と姿を変えた連絡が続いているような?

 鹿島神宮・香取神宮への勅使の順路は?別々なのか?色々と気になることがありますね。勅使は・・・明治時代なら分かるかも・・・鹿島神宮社務日記や香取神宮御由緒取調記によれば、明治元年は鹿島神宮へ12月6日、香取神宮へ12月9日・・・明治3年9月4日の鹿島神宮へ大奉幣。勅使神祇少副福羽美静・宣命使大弁坊城俊政参向、明治3年9月7日香取神宮へ大奉幣、勅使神祇少副福羽美静・宣命使大弁坊城俊政参向・・・同一グループのようですから、鹿島神宮が先なのかね?だとすると・・・古代は・・・勅使は東山道経由で・・・・妄想・・・下館・石岡・鹿嶋・香取と進んだか?帰りは?香取から船で石岡かね?・・・明治の時のは、東京から江戸時代と同じで利根川で鹿島に入って香取へ行って香取から利根川で東京へというコースなのでしょう。気になるのは、香取郡本大須賀村吉岡下町だか香取郡昭榮村吉岡(現成田市吉岡)の大慈恩寺の勅使門があったり・・・これは何?香取神宮との関係はあるのか?往古香取神宮奉幣使の街道にあたり、本寺を以て旅館に充つるを例とす・・・なんってのも見ますから。鑑真和尚の開基?で、文永年間には破れ寺状態で復興・・・光明天皇が足利直義に命じて安国寺利生塔の設置で勅願寺になった・・・近代デジタルライブラリー - 房総叢書 紀元二千六百年記念. 第1卷 縁起古文書 129コマ 下総大慈恩寺文書 ふむふむ・・・この寺もそのうち眺めてくることにしましょう。

 油田を忘れていた・・・油田牧か・・・これは現在の香取市九美上とか油田のあたりの牧ですね。この後に出てくる総持院は・・・油田にあったのかね?又見社の近くの追野にあったとか?大宮司の旧宅は不明・・・油田牧は台地の上の放牧地ですね。そして、右の図のような馬を追い込む場所があって捕獲するんですね。

 右の図は下総名勝図絵で、これによれば、油田の牧は、矢作・福田・牧埜に続く、毎年秋八月駒を捕らえさせる。これを野馬捕という。大谷家よりお触れがあって、近くの村から、石高に応じて人夫を出す。御用人足何十人某村と書いた幟を立てて、1人ごとに竿を持って馬を追い出す。牧士馬上で扇で指示して、野馬をまとめて少しずつ追い詰めて、福田の囲いに追い込んで、捕獲した駒を酒々井村の御馬役所へ牽いて行かせる。野馬捕は見物人が多く集まる。

 馬の生産地であるが、駅が置かれたとは考えにくいような気がしますね。神生村大宮台か・・・

 香取市多田にある綱原屋敷跡遺跡ってのがあるのか・・・綱原村にあった大禰宜家の所領、ここは葛原牧の一部であった可能性もある・・・小野村・織幡村・綱原=葛原村あたりが葛原牧でその中心が綱原かね?葛原牧と油田牧は別物のようですね。

 どうも、清宮君は香取神領を広げたいようですね。困った本だ・・・あと、半分ぐらい残ってる・・・唐大和上東征伝も読みたいし・・・

2013.09.05

関係ないが、興味深いもの
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