香取神宮をうろうろ(49)
 香取新誌 (9)

 なんだか、とてつもなく範囲が広くなって来たような?香取神宮の社殿配置だけでいいのに・・・なんって状態ではなくなってきました。選んだ本が悪かったようです。困ったな・・・何かを選ぶってのは難しい・・・何故この本を選んでしまったのだろうなんって考えてしまいます。私は物を買おうというときに、物を選ぶのに余り時間がかかりません。気に入ったら買いますけど、気に入らなければ買わない・・・無理に買うことはないからかな?まあ、ぱっと決めちゃう方なんです。前回の20ユーロセント貨は、お気に入りですね。理由は持った瞬間の重さでした。厚みのある硬貨はズッシリ感がありますから。そして、魅力的な金色ですから。これよりよい感じのコインは、オーストラリアの1ドルコインですかね。これはよい感じのコインです。ふと、これが金貨ならなんって思うわけです。ソブリン金貨よりちょっと大きく重いコインですが・・・なんとなく良い手触りです。100枚ほど欲しくなりますね。スクルージなんって人名が頭をよぎりますが・・・ソブリン金貨の地金価格は4万円ぐらいですかね?なんとなく、金貨っぽくてよい手触り・・・と、馬鹿みたいに喜んでいます。こういった硬貨を金貨に見立てて、きちんと積んで金庫に納めて守銭奴ごっこもリッチな雰囲気で面白いかも?いつかは金貨を!って・・・さて、続きですが・・・
 近代デジタルライブラリー - 香取新誌 25コマ このあたりを読んでるのでした・・・降下社からです。


 降下社は、矢作村の天降社の影祀なるべし、香取社伝種々にて、一定せざれど、それなるべし。


 降下社=天降社ですか・・・これは境内末社で、現在は市神社に合祀されていて、祭神はイキシニホ(伊伎志爾保)神、カギモリ(鑰守)神とのことです。イキシニホ神は天孫降臨供奉32神に1神だとのこと近代デジタルライブラリー - 国史大系. 第7巻 120コマ 旧事本紀 偽書という噂もあります。ここで現れる神・・・この社は以前は本宮の東50歩にあったようですが・・・50歩って1.8×50=90mか?ちょっと離れているのでは?明治39年の絵図だと諏訪社と天降社が出ています。どうやら、現在の香取文庫の裏の方にあるような感じです。矢作村の雨降社か・・・どうやら、香西村本矢作馬場崎にあって、アメノナカヌシ(天之御中主)命を祀るようです。大戸神社の神宝の龍面がここに降下したから・・・降下社というようです。天之御中主命か・・・天地開闢のときに、最初に現れた神々の1神ですね・・・別天津神・ことあまつかみ・・・どういった神なのか?気になります。千葉神社の祭神・・・妙見様かね?なかなか難しい・・・さて、続きは・・・大戸社か・・・


大戸社蔵古面、是のみならず、香取宮にも分蔵している。
地元の人は龍面と呼んでいる。陵王部の面である。旱魃の年に、雨乞いの祭りをすると、必ず雨が降るという。このあたりの伝に、嘉暦3年3月矢作村に天から降ってきたといっている。これは、後醍醐天皇の御世の
嘉暦2年に、龍面に別当明鑑と識されていた。中宮禧子御安産の御祈りと称して、諸寺諸山の貴僧、高僧を呼んで、実は北條高時とその一族を調伏するという理由で、つながりを持たせた。小野文観僧正、浄土寺忠円僧正は、別勅で種々の秘法が行われたことから、香取宮へも御祈願があって、楽人や楽器などもよこして来ることもあっての伝えであろう。古は、朝廷より下されてくることを、天下ると云ったので、その言葉を後には神の話になって、上天より下されたものというようになったに違いない。ただし、いったん北朝の世になり、下総は足利家の管理する国になったので、特に、その事を秘とするようになったに違いない。


 大戸神社の古面の話になりました。陰謀説ですね・・・龍面、雅楽で舞われる龍頭の面というわけです。香取神宮に伝えられているのは右のようなものですね。

 そして、大戸神社のものは左のようなものです。この写真の右側の面が、雨乞いに使われる羅龍王の面です。旱魃のときに水を注げばたちどころに雨が降るとか・・・多分・・・そういったありがたいお面なんだそうです。

 しかし、この面の由来についてはずいぶんと現実的な内容になります。嘉暦の騒動がらみですね。北條家つぶしの調伏の祈りか・・・小野文観僧正か・・・淫祠邪教ですね。真言立川流の大成者・・・忠円は拷問を恐れ・・・とにかく秘法を使って調伏・・・香取神宮にもそういった話が来たに違いない・・・で、この面などは祈願に関係のあるものだと言いたいようです。微妙な表現が・・・朝廷側の指示によって調伏が行われる・・・北朝の手にゆだねられる事になると、このことは秘することになる・・・思わせぶりな表現ですが、何を言いたいのかね?ちょっと、この時代を眺めていて不思議なことがありますね。領地の一円支配へと移行するというのが・・・しかし、それぞれが独立して存在するわけでもなく、運輸通信システムは動いています。ですから、中央の状況だって、かなりの田舎でもそこそこ伝わっていきますし、手紙のやり取りだって行っているし・・・物資の移動もそれほど悪くなっているようには見えない・・・こういった社会インフラはどのように維持されていたのか?専門業者が発生しているわけですが・・・そういった業者がどのようにネットワークを作っていたのか?だって、通信システムって、中央集権的なものであると思うわけです。完全な地方分権であれば、境を接する所だって、特に通信の必要はありませんから・・・地域の中で中央集権的なシステムが分立していれば良いのでしょうが・・・なんってね。しかし、ちゃんと全国ネットの通信システムは生きているような?政治や動乱とは別の世界のような?

 まあ、天皇が支配している形になっていますから・・・天皇制の下で構築された律令システムの内、社会インフラに関する部分に関しては、天皇の名での支配は形骸化されているのにもかかわらず維持され、強化されて行っているような感じがします。さて、続きは・・・


三島社は、香取志では、伊豆の国の三島社のうつしであって、大山祇の神を祀っている。又見の社の末社であるけれど、大禰宜家の先祖に、三島という人がいる。いわゆる、三島社とは、この人を祀っているのであるに違いない。この家は、神の末裔であると伝えられている。


 香取志の説に対してですね。すると、この本を読む前に、香取志をきちんと読むべきだったのか・・・香取志 次はこれか?多分、今までの調査の範囲に入るような感じですから早く終わるかな?と思うのですが、結構裏切られるかも?

 伊豆国の三島社か・・・三嶋大明神・・・伊予大三島系の神様か・・・伊豆の三島も篤胤君のおかげで祭神が面倒なことになっていますね国立国会図書館デジタル化資料 - 群書類従. 第23-25冊 72コマ 賀茂の事 これですね。古くはオオヤマツミノミコト(大山祇命)なんですが、篤胤君がコトシロヌシノカミ(事代主神)だと騒いで、明治に変更・・・昭和には二神同座に・・・どうしてこうなるのかね?神は存在しないのか?そういえば・・・近頃は神意を窺う事をしなくなった・・・物忌がいませんから・・・物忌を廃絶するような考えが、篤胤君のような論理による横暴を招くことになったのでは・・・そんな気がします。篤胤は結局、神など信じていなかったのではないかと思いますね。ただ、自分の神界を構築しただけなのでは・・・膨大な知識を基礎に、感覚的かつ恣意的に・・・そして、門人が20人もいれば、基本的に生活でき、あと20人いれば、本が出せ・・・本によって、心酔者を増やす事も可能・・・1000人を酔わせれば・・・大家になれる。・・・私にはこういった生き方はできない・・・自分が酔えないから・・・新しい条件が出ると直ぐに再構築してしまうから・・・心酔する者を維持できなくなる・・・門人は居つかなくなる。

 さて、大禰宜の先祖に三島と名乗った人がいたか・・・近代デジタルライブラリー - 房総叢書 紀元二千六百年記念. 第9巻 系圖・石高帳 169コマ 香取系図 ありますね。この179コマにその旨が書かれています。經津主命から繋がる一族・・・さて続きは・・・


香取文書目録2冊あり、元禄年間に、水戸家が取りまとめたのが最初で、文化年間に公命で塙二郎がまとめている。次として、弘化にその残りを色川三中がまとめたが、なお残っているものがあるに違いない。これを継ぐものが現れるのを待っている。総計1287葉。
神宮寺の文書はわずかなお金で1・2葉ずつ、他へ売却されたという。
文書の豊かさは、関東では、香取神宮が一番である。およそ、目録だけでも2冊ある。その多い事を知らねばならない。



 近代デジタルライブラリー - 香取古文書目録 これですね。色々な文書があります。千葉県史料 中世篇 香取文書に収録されている主要文書ですね。元禄の事から取りまとめられているのか・・・塙二郎って塙保己一の四男、通称次郎って塙忠宝の事ですね。群書類従・續群書類従って公命で作られたんでしたっけ?武家名目抄は幕府の命令で補助金は年50両・・・予算のつく仕事はよいなあ・・・しかし、幕末は大変だね。この二郎君、外人のもてなし方の研究を行っていて、それで誤解され奸賊であるとして暗殺されてしまいます・・・渋沢翁の話では、暗殺者は伊藤博文と山尾庸三との事・・・時代というのは恐ろしいものです。とにかく大量の文書と、その文書を元に、様々な文書が再生産されるわけです。さて、続きは・・・


二又村は、丁子村へ合わさった思われる。ここには玉田稲荷というのがある。玉田は二又の省略されたものである。かつ、二又とは、田圃の丁子と大倉とへ燕尾に入り込み、二又の留まりは、大倉山があるからである。また、大畠村というのは、新市場村の事である。大畠村へ市が立つようになったので新市場というようになったと思われる。匝瑳郡神宮寺村は、神宮寺の料に充てたからであるに違いない。


 地名考か・・・二又村か、これは知らない・・・かつての丁子村の村域で玉田稲荷がある場所、文安年間に二又・二股で表記される村が存在していて、それが丁子村に合併という事のようです。玉田稲荷は・・・玉田神社として地図にあるものですね。お稲荷さんか・・・現在の地名は大倉丁子という事のようです。そうすると、この大倉丁子が二又村であるというわけなのでしょう。大畠村が新市場村へ変わっていくのは、香取文書では応永から文安にかけて併記されていたような事なので、古くは大畠村で、年代からすると南北朝の動乱の終息後に市が立つようになり市の名が通るようになり、新市場と称するようになるのでしょう。1300年代の末の事のようですね。確かに、この時期は、色々と大きな変化があった時期と思われます。匝瑳郡の神宮寺村・・・何で?こんな所の神宮寺の料に充てる話が出る?何か目的があるのかね?玉田神社は別に香取神宮には関係なく、かなり後になってから勧進されたお稲荷さんなんだと思いますが・・・そうでなければ、境外社などで現れるはずですから・・・見ていないから違うだろうと・・・しかし、稲荷が流行るのは、鎌倉末から戦国時代にかけてではないかと・・・稲荷が荼枳尼天と習合して・・・続きは・・・


古内村のことは、鹿島社の神材は昔は常陸の国の那珂郡古内村から取って来たと志料に載っている。この古内村も、香取社の神材を取った場所なのであろう。この村の中に香取黨という古家12軒があるという、その事は詳しくは分からないが、いにしえの名残であろう。小見川のあたりにも古内という村がある。この村から分かれた村であろう。今も土器をオサワラと称し、ドウキメンなどとも云う。
香取郡田部村も匝瑳郡田部より分かれれたのであるに違いない。また仁良村も新倉という所にあって、三倉村から分かれたのであろう。

 地名か・・・清宮君は色々と付会するのが好きだから・・・鹿島神宮の用材は古内から持ってきていますね。だから香取神宮も同じ所から持ってくる事にしちゃうのか?清宮君は香取神宮が元であると考えていて、鹿島神宮がそうであるなら、当然香取神宮でもそうなのだと言いたいようです。この香取党は気になりますね。小見川の古内か・・・郡境に近い場所ですね。香取郡はかなり広いですね。結構出かけていたはずなんですが、主要な道路でも通ったことがない所が結構ある・・・現在を十分に知らないのに、過去を掘り返すのはなかなか困難です。しかし、府馬のあたりの地名が多いが・・・匝瑳郡の方からの分村のような話ですね。なんとなく、香取郡の南部って気になるんです。栗山川の流域って、多分、古代の入り江でしょう。しかもかなり大きな・・・成田空港へ飛行機で降りる時にこの川の上あたりを飛ぶことがあって・・・ふとその地形を見てね・・・香取の海夫注文にはこのあたりはないですから、鎌倉時代には既に湾ではなかったのでしょう。そして、特に積極的な支配は行っていなかったか、同じ郡ではあるが支配関係が違っていたのでは?なんとなくね・・・


福田村に福王の社がある。古文書には、神領の下福田とは、この村の事で、源頼朝の寄進の土地である。
或云、福王子は、宇多帝の母の光孝皇后班子の事であると云う。この地は、その荘園地でもあったのだろうか。
当時、源頼朝の鹿島へ寄せられた書は、吾妻鏡に見られるが、その書は逸して社蔵にはない。香取へ寄せられた書は、吾妻鏡には漏れているけれども、依然として、その文書は社蔵に現存している。これは奇妙なことであると言えるだろう。鬼神の呵護とも思われる。
戸頭村に香取社の影祀あり。戸頭は、源の尊氏より寄付の地なれば、古に、本宮をうつし祀れるなるべし。



 福田もどうやら先ほどの栗山川の湾の地名のような?集落自体は、縄文海進の頃から存在する村々なのかもしれません。どの東征であれ何であれ・・・既に日本人は日本の国土に散らばっている・・・それを1つにまとめて行く作業ですからね。そうでない場合は、技術の進歩によって、開墾できるようになる場合でしょう・・・あ、忘れていました。狩猟採集の社会に農耕を持ち込む場合ですね。それは・・・常陸国風土記の夜刀神などがそうですね。鹿などの追い込み猟を谷津で行う民の地を奪って、農耕を行うというやつ・・・さて、下総台地の上は・・・やはり基本は放牧地ですかね?馬はいつ頃から飼い始めたのか気になりますね。あれ、また清宮君はやってくれますね。吾妻鏡に載ってる文書を失くした鹿島神宮、吾妻鏡に載ってない文書を持ってる香取神宮・・・鬼神の加護・・・発音は同じだろうけど呵護だと、かわいがるぐらいの意味かね?笑いを含むような意味合い・・・なぜ、この語なんだろう・・・こういったのも気になりますね。諭吉君の云う言葉の問屋みたいなのは困るんです。知識を総動員しても足りなくなるから・・・唐突に戸頭か・・・香取郡内にはないな・・・戸頭か取手にある・・・ビンゴ!足利尊氏から観応三年;1352年に戸頭郷を香取神宮へ寄進ししたようです。さて、続きは?・・・あ、面倒なやつだ・・・こりゃ長くなるから次回だな・・・

2013.09.06

関係ないが、興味深いもの
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香取志 
東京大学史料編纂所 Historiographical Institute The University of Tokyo こいつがあったのを忘れてた・・・
 
 
 
 
 

  










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