香取神宮をうろうろ(101)
 香取志 (35) 鹿島新宮・馬場殿・市神社・降下社・・・

 インターネットって不思議なものです。接続料を支払っていますが・・・そこにあるコンテンツは様々で、なぜそこにあるの?と疑問に思うものもあります。基本的には揮発性が高くて直ぐに無くなってしまうものもありますが・・・揮発性に対抗する手段をある程度供えると、所詮データ・・・見える物は保存できるというやつを利用すれば良いだけですが・・・実体物もコピーも等価・・・当たり前と云えば当たり前・・・でも不思議・・・色々と手を考えますが・・・不思議なものです・・・3096Daysも興味深い映画です・・・右のは米国アマゾンで見かけたドイツ版ですね。

 近頃はHDMIを搭載することでコピーガードを行おうとしますが・・・HDMIをNTSCに変換するとOKだったり?不思議なものです。結局の所・・・費用対効果の時代は終わり、時間というものが大きなファクターになる事が分かります。物質的に満ち足りた時代には、それを享受する時間が圧倒的に不足するという単純な考えです・・・酒を飲んで倒れているなんって無駄な時間を費やす贅沢など無いような気がしてきました。そりゃ、良い酒も飲みたい・・・でも、あと生きたって10000日とか考えるとね・・・不老不死の夢が実現するならもうちょっと楽しみ方が変わるかもしれませんが・・・行きたい場所も色々あるけど・・・行くか!なんって踏ん切りがつかないし。もし、月とか火星の片道ツアーでもあったら応募しますね。辿り着かないかも?なんって心許無い条件でも行きたいです・・・たとえ旅行条件で・・・最後は飢え死にか窒息死・・・それでもいいですね。かなり、頭がおかしい人間なんでね・・・

さて、安上がりな過去への旅を続けるとしましょう・・・何しろ貧乏なんで・・・香取志 18コマを続けましょう。

鹿島新宮
伝えるところによれば、大和国山辺郡の布留神社を招いて祀っている。文永の官符に一間桧皮葺金物あり作料官米30石、無足の間荘々の官米の内を以て、行事の沙汰と為しこれを造り進す。

 ありゃ?予想が外れました。鹿島新宮は武甕槌を祀っていると思ったのに、そして、春日社との関連で春日から武甕槌を引いて来たと思ったのに・・・残念・・・布留神社・・石上神宮ですね・・・従って、布都御魂大神を祀る事になるのでしょうが・・・花園神社の布留引神事は何?ってなるわけですね。結局は堂々巡り・・・何れにせよ武甕槌の扱いに苦労しているのではないかと・・・現在の祭神は武甕槌大神、天隠山命との事・・・布留神社との関係は不明・・・右の写真が、現在の鹿島新宮ですね。

 この鹿島新宮が祀られた経緯が知りたいですね。気になるのは、なんでこういった摂末社を置いたのか?本殿だけでも良さそうなんですが・・・地域支配のための本殿と離れた場所の摂末社は理解できるのですが・・・荒魂・和魂までは理解できますが・・・武甕槌などは、本殿にも鹿島新宮にも祀られています。こういったのが特に分からない・・・本殿のまわりの社の存在意義は?元禄の造替の際に、建物が存在しないものがずいぶんとありましたからね。管理の悪いものとか・・・寺社奉行所から指摘があって、管理体制の見直しなどもしていますから・・・神の役割か・・・

 国造体制下の神社の役割ってのが・・・地方自治という事のような気がしてね・・・確かに、プリミティブな信仰という部分と、地域社会の紐帯を確実なものにするための装置としての神社という風に考えてしまいますから・・・神・・・漠然と力を持った存在として考え、その力を具現化する装置としての神社・・・律令国家は、氏神を単位とする地方自治を利用しているわけで・・・そのレーティングシステムとして神階を置いた・・・神階・・・氏の長者が得ることができる位階の上限なんって勝手に考えていますが・・・神階って神社とともに神毎に与えられていますね・・・でも、分祀の場合には神階は引き継がれない・・・神階の引き継ぎも行うなら勅許が必要だよな・・・祀って置いて神階を得る?

香取神宮の神階は
続日本紀で宝亀8年;777年7月乙丑16日条に鹿島社正三位、香取神正四位上
続日本後紀で承和3年;836年5月丁未9日条に下総国香取郡従三位伊波比主命正二位、常陸国鹿島郡従二位勲一等建御賀豆智命正二位
続日本後紀で承和6年;839年10月丁丑29日条に下総国香取郡正二位伊波比主命、常陸国鹿島郡正二位勲一等建御加都智命並従一位
文徳天皇実録で嘉祥3年;850年9月己丑15日条に建御賀豆智命、伊波比主命二柱乃大神正一位

 官位相当制との兼ね合いは・・・食封・位田・・・延喜式では幣帛の類が・・・色々とありますね。律令政府からの物を引き出すための装置としての神社?XXの祈願については本殿のXXと摂末社のXXでも行いますので、本殿祭祀料としてXX、摂末社祭祀料としてXXをお納めください・・・下司の妄想だな・・・でも、国司が祭祀用途を充当するわけですし・・・貰えるものが不明瞭になって来ていたから延喜式で再定義する必要があったような感じですし・・・ただ、この頃って技術革新などによって布などの価値はインフレかね?何しろ・・・取に来いって言っても、取に来なくなる神社が増えているようですね。旅程の長大なる事を理由に・・・出向いて貰う価値はないものへと・・・なんとなくそんな風にも見えなくもない・・・ただ、氏の長者の権威も下がってきているのか?なんって気もするわけです。

 多分、土地が細分化され、新興のプチ氏の長者が増えて行った・・・地域一番の実力者というのが小粒になって・・・商業の発展によって土地以外の価値あるものが創造されていく?たとえば・・・倉庫業者であるとか酒造業など・・・国衙・郡衙・神社・寺院に付属した文化装置が一般に広がり、古い文化装置としての神社の地位が下がった?そして、新しい文化装置としての寺院に押されていくのか?その中で、神社は寺院の要素を吸収していく?

 風土記の特産品でも見直すかね?風土記で特産品を報告させ、街道の整備で物流が盛んになり・・・産地間での切磋琢磨で・・・中央から下って来る上質な製品に並ぶような産品がそれぞれの地域で生産されるようになった?国府や郡衙がそういった産品の奨励と技術導入の場としての役割を終えたときに・・・地方の時代がやってきたのか?その転機となるのは・・・中央政府が大陸との交易によって得た世界最高水準の商品を得なくなった時・・・遣唐使の廃止あたりですかね?と仮定すると・・・寛平6年;894年の菅原道真がゴネて中止になった遣唐使ですかね?中央の力が衰えた時期なのかね?国内の整備に追われ・・・延喜5年;905年に延喜式の編纂開始・・・康保4年;967年施行・・・この時代には政府運営も徐々に困難になり・・・貿易による利益は西国では伊勢平氏の手へ、東国では奥州藤原氏やら津軽山賊とか十三湊かね?

 基本的には「天下の富を有つ者は朕なり! 天下の勢を有つ者も朕なり!」が権力の根源でしょうからね。これが失われれば御仕舞ですからね。・・・800年代って地方に、国府のような人工的な中核とは異なった、地域中核となる都市というか・・・街が形成されるようになったとか?国立国会図書館デジタルコレクション - 常陸国風土記 16コマ 高浜には市が立っていたような?香取神領内では市などはどうなっていたのだろうか?まあ、佐原が水運の中核になってしまいますから・・・津宮=香取神宮という繋がりで古くは・・・ああ、例の妄想の古代には、神宮に付属する、現在の参道の駐車場あたりや、御神井のあたりに津を持ち、海退とともに津宮の重要性が出てきて・・・右のやつね・・・津の東西社と董橋と香取神宮への道の妄想的な津のイメージ・・・これが失われた時点で、津宮の比重が下がったのではないかと・・・そして、小野川の河口が栄えたとか・・・

 唐突に・・・香取神宮の物品調達の部署は何だろう?・・・不断所関連で調べたときに分飯司ってのが庶務のような感じでしたね。そう・・・愛染堂は神宮の所有物で、金剛寶寺が借りているような感じでしたから・・・確か、愛染堂の畳がボロボロなんで、直してほしいとかそういった話の持って行く場所が分飯司でしたね。宮之介は森林関連の仕事をしていたような・・・ちょっと、メモ・・・享保21年1月13日の大禰宜家日記に、元禄の造替の際に、土を取った堀が護摩堂屋敷との間にあって、この堀を整備して道にし、桜を植える事になったようです。そして、材木蔵のあたりから裏まで道をつけて左右に桜を植えようとかやってますね。本殿の位置を下げるにあたっての土取り場の場所が特定できるかな?

 さて・・・なんだか支離滅裂になりそうな・・・先へ進めちゃいましょう・・・

馬場殿
神宮の坤の方50間余りにある。素戔鳴尊を祀っている。馬場にあるのでこのように呼ぶ。


 ふむ、シンプルな・・・神宮の南西にあるわけです。どうやら場所は変わっていないようですが、現在は、市神が左にあります。旧参道の階段を上った左側、木母杉の近くの社ですね。

 なんとなく、疱瘡神かと・・・牛頭天王とかそういった雰囲気が素戔鳴尊にはあるんで・・・鹿島神宮だと確か・・・そうでしたね。神様にも流行りがあって、それで導入するのか?

 ふと、頭の中に引っかかっている神階に関して鹿島と香取の違いは何なのか?神階に差がありますね・・・続日本紀で宝亀8年;777年7月乙丑16日条に鹿島社正三位、香取神正四位上 さて、正三位・正四位上この違いは・・・支配領域の違いかね?日本の律令制は中華帝国のものを輸入していますが、官位相当制に関してはずいぶんと差があるような気がしますね。案外、律令制の導入の際に、氏の長者の支配地域を位田として登録して、これから官位をはじき出したとか?

 新抄格勅符抄によれば大同元年;806年の牒によると、香取神70戸、鹿島神105戸という差からかね?この神階というやつはどうも、奈良朝の頃のものと平安朝になってからのでは意味合いがちょっと違うような感じですから・・・古い時代の神階の表でも無いかね?・・・開発領主的な神社なら神階の上がり具合も違うとか?

 まあいいや・・・国造体制下では全国統治のためのシステムとして、既存領主=氏の長者のレーティングシステムとして、所有している領民と土地についての評価をした・・・この評価に対して官位を与えて、領主権を追認した・・・まさか、地方行政単位の「評」ってレーティングの算定基準で「評」なのかね?そうだったら分かりやすい・・・そして、正式に大宝律令が発効すると評は再編されて郡に化けるとか?650年頃からレーティングシステムを使って地方行政単位を律令体制に組み込むための準備段階が始まり、地方を評と呼ばれる単位で評価して・・・それが、700年代で正式名の郡へと変わったというのはどうだろうか?中華帝国が隋から唐へ代わり、朝鮮半島経営が600年代の中ごろには調子が悪くなって、日本も中央集権国家に脱皮するために動きがあるが、既得権益を如何に守るかが問題だったのではないかと・・・官位は、それぞれの支配している場所の力関係によって与え、官位に応じて国政に参加する資格でも与えるんですかね?ただ、そこそこの戸を持っていても無位の神社があったりしますがこれって何?支配体制の違いかね?神社という法人名で官位を受けずに、氏の長者の個人として官位を受けているとか?ちょっと気になったのは安房坐神社ですね。ここは94戸で無位なんです。ちょっと気になって国造本紀を眺めると・・・安房国には国造がいますね。先代旧事本紀など偽書だといわれているし・・・まあ、妄想研究だからこんなところで良さそうです。細かく見ると不安になって別の事を考えなければならなくなりますからね・・・そのうち、国造本紀と新抄格勅符抄のチェックでもしてみましょう。さて次は・・・

市神社
馬場殿に相向かいて南の方にある。蛭児の神を祭っている。


 上の写真の左側の神社ですね。馬場を挟んで馬場殿と向かい合わせになっていたものが、この場所へ移転しています。蛭児か・・・恵比寿さんですかね?一応は・・・平安末期には恵比寿さんを商売の神として市神として祀っているようですから・・・香取神宮にも市が立っていたのかもしれません。そして、江戸の初期には・・・新市場って地名がありますね。新市場字辻に珠寶山地蔵院ってのがありますね。真言宗のお寺で大日如来を本尊として、創建不明ですが古くからあるお寺のようです。何故地蔵院なのかね?・・・新市場村は元は大畠村と呼ばれていたようですが、慶長12年;1607年の造替の際に、造替の職工達のために物資の取引のための市場を開いた事による名称変更のようです。そうすると・・・特に市は無かったのか?ちょっと気になります。現在のように神宮の周りに人が住むようになるのは江戸の初め頃という記述を目にしたりしていますから・・・神宮のまわりはさびしい場所だったのか?なんって・・・鎌倉時代は、地頭に追われて神宮に立て籠もる羽目になっていたりしますが、井戸が無いため基本的に生活するのが困難な場所だったようですからね。この市神の目的は?気になりますね。

 香取神宮のあたりで市が立ちそうな場所というと・・・やはり金剛寶寺や不断所、雨乞塚の辻ですかね?残念ながら不明です。旧参道も、江戸時代は金剛寶寺の敷地でしょうから、多分旧参道も今とはずいぶんと違っていたはずですから・・・さて続きは・・・

降下社
神宮の艮の方30間ばかりの所にある。伊岐志邇保命を祭っている。山城国造の祖、皇孫尊降臨供奉の32人の神の一人である。旧事紀にある。或は瓊々杵尊が祭られているともいう。また鑰守の神であるとも。毎年五箇度の御扉開きの神事が終わって御扉を閉めるごとに、大宮司がこの社を祭っている。これが鑰守の神を祭るという理由である。正殿の御鑰は大宮司の司掌であるからである。この神を祭った後で、御鑰を璽社内陣に納め奉るのを例としている。


降下社ね・・・現在の名称は天降神社のようです。そして、市神社に合祀されていますね。かつては鹿島新宮の裏手にあったようです。昭和初期の神宮の改修あたりで市神社に合祀されたような感じです明治の改修では右の図の場所にあるようです。右の図だとニニギが祭られているようになっていますね。

 伊岐志邇保命・・・山城国の国造の祖・・・どんな関連なのやら?天孫降臨に供奉して下って来た神の一人・・・確かに神社の名にふさわしい・・・天下りですね。

 ただ、ちょっと興味深いのは、猿田彦の社が北東の隅にあります。これがちょっと不明・・・天孫降臨系の神々も祭られていた形跡があるのですが・・・

 ふむ・・・ニニギに猿田彦に諏訪社もありますね・・・これって・・・天孫降臨と国譲り繋がりですか?・・・ってことは經津主神の一代記を境内を使って表現しようとしたのかね?

  天香香背男も星塚で表現されますし・・・ふむ・・・なんとなくテーマパークのようなものを構想していたとか?鑰守の神は何でしょうね?・・・・鑰を璽社内陣に納める・・・印鑰・・・ああ、なんとなくイメージが・・・本殿を開くのは印と鑰が必要なんだね。書類をつくって、鑰を出してその上での開扉・・・印や鑰を保管する特別な建物に出向く儀式ですね。国衙に於ける国印と国倉の鑰の扱いを儀式化しているのかね?

 ふむ・・・どうやら、降下社・猿田彦は天孫降臨、星塚・諏訪社は国譲り、鑰と璽社は国事行為系・・・なかなか複雑ですが、なんとなく納まりが付いたかな?でも、要石の所の押手社と璽社とが重なっていて・・・内印・外印か?可能性はありそうですね・・・大宮司が管理する内院関連の儀式を行うための内印、対外的な事に用いる大禰宜が管理する外印とか・・・ここらで切って、次回ですね・・・

2014.02.07

  

関係ないが、興味深いもの


参考になるもの。
東京大学史料編纂所 Historiographical Institute The University of Tokyo
電子資料館 | 国文学研究資料館 
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