香取神宮をうろうろ(71)
 香取志 (5) 香取神宮の鎮座・社殿

 ああ、また寒い冬を迎えることになるようです。政府の電力行政は何をやってるんですかね?北海道ではさらに厳しい寒さが訪れることになるようです。電力料金はどうなるのかね?市場原理からすると、電気料金を値上げすれば需要は減少しますが・・・全く、どんな生活をすればよいのか?それずら分からない状態になるような・・・真冬の北海道で広域停電が続いたらどうなるんだ?ガソリンスタンドは停電になったら動かなくなることは、先頃の震災で理解しましたが・・・庶民の普段の営みすら影響を与えるような状態で、工業などの活性化など図ることすらできないのでは?工場建てました、電気きません、生産できません、負債が嵩んで倒産ってパターンしか思いつきませんからね。より省エネが求められる・・・いや、生産拠点の海外移転の方が楽、さらに、国内に本社を置かない方がさらに効率的と判断されるのかも知れませんね。政府の指導力はどうなってるのかね?・・・しかし、この税金の馬鹿高い国に、なぜ本社を置くかね?・・・寒いのは嫌いだし、消費税が上がるというのですから、私も、暖かい国へ渡って冬を凌いだ方が良いのかもしれません。夏は夏で、涼しい国へ渡るとか・・・卑近な話では、オール電化にした家なんって・・・電気が来なかったらどうなるのかね?兄貴の家がオール電化だって言ってたけど・・・そっちの方が気になりますね。原子力を廃止すれば、代替えの発電所の建設に気合が入るが、原発が動く可能性があるなら・・・そんなのいらねぇ!だろうし、結局、北海道電力の株が下がってる・・・こりゃ買いかね?気分は・・・美しくカットされたガラスだね・・・写真は14カラットぐらいの美しくカットされたガラスです。気泡は肉眼では確認出来ませんから美しいものです。見ただけじゃガラスだなんって分かりません。物の価値など・・・価値があると言われているから価値があるような気がします。寒くて・・・目の前に札束とマッチがあったら・・・と奇妙な事を考えてしまいます。ペリドットを彷彿とさせる、オリーブ色のガラス玉・・・

 經津主神だけでずいぶんと考えてしまいましたが、これで、すっきりと先へ進めます。しかし、この手の本は読むと、自分の無知がばれるんで厄介です。清宮君の本で知識が増えているはずなんですが・・・さて香取志 9コマから始めるとしましょう。と言っても前途多難・・・

鎮座
我が神宮の鎮座は国史に初めて現れるのは長保2年11月の3日の旧記の神殿法位の條に五間四面大床高さ六尺柱々の本に金を巻く、外陣三間自余内陣千木陽の位なり・勝男木九本、拝殿神殿は桧皮葺也、神代より鎮座とか・・・


 香取神宮が史書に現れてくるのは長保2年(辛丑);1000年11月3日の旧記だそうです・・・旧記って何だ?一条天皇の御世ですが・・・近代デジタルライブラリー - 国史大系. 第5巻 日本紀略 506コマ ここから一条天皇の御世になりますが・・・出てくるのか?近代デジタルライブラリー - 国史大系. 第5巻 日本紀略 532コマ 11月3日頃は春日祭でお出かけのパターンが多いような?出典は何だろう?明月記にもないし・・・小右記か・・・わからん?神殿法位も不明・・・わかった!香取群書類聚の1巻の最初の当社香取大明神神秘三十六ヶ大事の話か・・・長保2年11月3日神主左馬頭從五位上武名って締めくくられている文書のことだな・・・省略されている部分は・・・文武天皇三年御願犬養の小左見之を造、御文九曜星也ですね。680年代の中ごろに社殿が作られたって?ふむ・・・どうして、云々で終わらせるかね?編集の魔術を使う予定なのか?気になる所です・・・さて、続きは?この調子だと前途は多難か?出典を当たると、この編集の魔術にかからずに済むことがありますが・・・だから、原典が重要だと言われるわけです。しかし・・・何があるのやら?朝廷の出資を気にしているのか?

 812年に造営の詔があったという日本後紀の記述との兼ね合いか?現在香取神宮の社務所から出されている収集香取神宮小史はこの日本後紀からの引用となっていることに関連があるのか?近代デジタルライブラリー - 香取古文書目録 三中君の目録まで見ちゃいましたよ・・・おっと、出典を眺めたわけですが、内容的なものは・・・神殿は五間四面か・・・どうやら、正面に2つの扉があるパターンの本殿のようです。外陣が3間か、残りが内陣・・・千木陽の位?陰陽・・・千木の削ぎ方ですかね?男神の社の千木は外削ぎ、鰹木は9本か・・・千木は交差させて契るって感じですかね?鰹木・・・表記としては勝男木・堅魚木・堅緒木・葛尾木などがあるから・・・堅緒木・葛尾木・・・これが良さそうだね。なんとなく草葺の屋根に関係がありそうな名称ですから。鰹木は多分、屋根で厄介な大棟の部分の構造の関係部材ではないかと・・・

 左の写真のような草葺の屋根では流れの部分では雨漏りの心配はないですが、大棟の部分からの雨漏りが面倒だと思われるのです。そのため、大棟の部分に様々な工夫がされていますからね。この建物は、田麦俣の家屋です。内部の写真もずいぶん撮ったはずなんだが・・・とにかく、大棟の部分を上から押さえこむ構造が必要になるわけです。私がこの手の草屋根の構造を、細い丸太と縄で安直に作ったとしたら・・・と考えるわけです。なるべく簡単に・・・材料も規格化して・・・草は右のように束ねたものを横木に掛けるパターンが良いでしょう。こういった草束を沢山用意してこれ1種類で葺く事を考えます。流れの部分は、下から順に引っかけては整えるを繰り返せばOKでしょう。

 横木の間隔は草束の全長の3分の1程度ですかね・・・やったことが無いのでわかりませんがそのぐらい重ねれば良さそうな気がするのでね。まあ、草の束の太さとの兼ね合いかもしれませんが・・・流れの部分はこれで考察終了、実験する気力はないですね。そう、海岸の小屋が台風でかなり破損しましたから、そろそろ新しいのを建てても良いかも・・・草葺にはしませんがね。問題は大棟の部分・・・使用するのは同じ草の束であるとするなら左の図のようにすると楽かな?千木は必然的に作られる形ですからOK・・・個人的には、千木の部分を大棟を覆う草束の中に入れたくなりますが、とにかく左の図のように大棟の部分を草束で覆う事を考えます。問題は、どうやってこの部分をうまく固定するかですが、ここで鰹木の登場です。

 私が草屋根を作るとしたら、束にした草をかなりの力で締め上げないと雨が洩りそうな気がしますので、適当な太さ・長さを持った棒を草束と一緒に縛っておきます。そして、この棒をねじると左の図のように横向きになって縄は締め上げられることになります。しかし、草の縄では、草束を作るには十分な強度かもしれませんが、こんな機械式にねじあげる強度を持った縄は・・・麻とか棕櫚などの縄を使わないといけないでしょう。そこで、先ほど気にした堅緒木・葛尾木・・・この2つの言葉がキーになるような・・・堅く緒を締めあげる木、葛で作られた緒・・・よって鰹のような形をした木と言う訳の分からんものではなく、「強靭なで作られたを堅く締め上げるための」と言うのが鰹木の語源ではないかと思うわけです・・・我が妄想的解釈にしては、まともな感じですね。

 これで、大まかな平面プランと、屋根の構造についてはOKですね。でも、桧皮で葺いているわけですから、千木や鰹木は古い形式を伝えているにすぎないことになりそうです。桧皮葺の場合の下地って丸太で組んでOKかね?ちょっと気になります。竹釘がうまく利くのか?どうも丸いものに平らなものをくっつけるって難しいので気になるのです。桧皮か・・・案外、上の図の草束の上に大きく剥いだ桧皮を載せて縛りつけていたのかも?それで、竹釘の発明で、流れの部分にも桧皮を使うようになったが、千木や鰹木はかなり後の時代になっても残っていたということですかね?妄想は面白い・・・

 立体的なプランに関しては、大床は6尺の高さで、柱の元の部分は金属で補強されているか・・・銅でも巻いてあったんですかね?掘立柱に最初から巻いてあったのか、柱が腐食してきたから金を巻いたのか?腐食防止で銅を巻いたのか?

 右の図は奥行きは3間しかないですが、正面の意匠は変わらないと思われます。大床までの高さが6尺ですから、背の高い建物です。でも、下を空気が通り抜けますからこの建物に住むのは・・・夏は良いですが、冬はもの凄く寒くなる建物と思われます。ですから、これって倉庫ですよね。この頃も、香取神宮の境内には井戸が無いはずですから、居住は困難です。大きな倉庫のような神社で何をしていたのか?気になるところです。

 右の図で、ちょっと気になるのは、中門は礎石の上に柱がありますが、正神殿は掘立柱のようです。これって何故?正神殿は使い捨て?気になるのは、現在の正神殿=本殿が、日蔭と呼ばれる部分が、どうやら旧時代の解体品を整備して組み上げることをしているようなので・・・彫刻類などを解体して江戸で修復して本殿の背面の庇の部分に組み上げているとか・・・あとは、この屋根や柱の上の装飾品が気にならないわけでもありませんが、そういった細かい所を気にしていると、何か大きなものを見誤る可能性があるので・・・でも、この絵は下手なのかそれとも、プラットホーム工法を示しているのか微妙なところです。どう見ても、大床の上に別の建物が置かれているように見えるからなのです。正しく描かれているとするならば、大床から下が、造替の際に完全に新しくなる部分で、神殿本体の上部構造は整備されて再利用か?かなりの彫刻類が備わっていますから、その可能性は否めない・・・しかし、今はそういったものが外側に残っていない?これって、龍とかの類ですから・・・八龍神に姿を変えたとか?過去の引きづりつつ新たな形へと変化するのかね?気になるのはこの扉が減った時期ですかね。ある時期に、鹿島新宮として、タケミカヅチが正神殿から出たとか・・・これがね・・・それから、鹿島神宮が、香島から鹿島へ表記の変更を何故したのか?これですね。

さて続きは・・・

建久年中の旧記に神武十八年戊寅始めて宮柱を建つ・・・古老の口碑が伝えるところによると、神武元年十八年の両説がある。総国風土記に、駿河国富士郡中具羅の郷中具羅の神社が祭る所の經津主の神である、活目入彦五十狭智の天皇三年甲午八月之を祭る。この天皇は十一代垂仁天皇である。同記に武蔵国足立郡植田の郷孝安天皇諱名は日本足彦国押人天皇庚寅三月經津主神を祭らる。經津主神の鎮座する国は多くあるが、香取を以て源としてあちらこちらに、招いて祭ったとのことである。このようにして孝安天皇は人皇六代庚寅は即位二年であって、この時すでに我が神宮を彼の所にへ招祷祭を神武の御世に宮柱を建て初めると云う、疑いがあるはずが無い

 また旧記と来たぞ・・・これはどうも正和5年;1316年の香取神宮文書のようなんですが・・・神武元年なのか十八年なのか不明とあるけど、神武天皇の時代がどこあたりかによりますね・・・3世紀の末ごろではないかと妄想してしまいます。そうすると戊寅だと・・・258年か318年ですかね。200年代の中ごろに、プロジェクト「東征」が発動されたなら、318年が神武18年、神武元年は西暦300年ということになるか・・・近代デジタルライブラリー - 紀記論究. 建国篇 神武天皇 152コマ

 神武東征の開始は、後の神武天皇カムヤマトイワレビコが兄のイツセと葦原中国の首都はどこにするかという話から始まります。日向から筑紫に向かい、宇佐で仮宮住まい、岡田宮で1年、阿岐国の多祁理宮で7年、吉備国の高島宮で8年、ここまでで、16年か・・・その後は、浪速国の白肩津に船が着いたところで、ナガスネヒコの放った矢でイツセは負傷、イツセは紀国の男之水門で死にます。熊野で窮地に追い込まれるが・・・さて、古事記は經津主神を消し去っていますが、ここで經津主の存在を垣間見ることができます。多分・・・国譲りの際の經津主神の軍団にタケミカヅチが参加しています。俺もますらおになりたい!・・・未成年を連れて行くのか・・・という議論があって、まあ初陣には良いだろうで参加、後に經津主神の軍団を引き継ぎ・・・熊野でイワレビコが窮地になると、タカミムスビがタケミカヅチに軍を出すように指示を出し、タケミカヅチは經津主軍団の節刀を出して、イワレビコに下し經津主軍団を預けたのではないかと思います。經津主軍団はそのまま、東征軍に吸収された・・・節刀は本来出したものの所に返るものだが・・・軍団は委譲されて、その節刀は石上神社に入ることになるわけです。カムヤマトイワレビコが率いたのは水軍ですから、熊野の山の中で水軍が苦戦・・・經津主軍団は陸戦隊なのかもしれませんね。ふと、節刀で思いつくのは・・・中郎将、後漢から任官された人がいますね。・・・中郎将のなかに、世襲するやつもあったような?・・・中郎将に任命されたのは・・・邪馬台国の掖邪狗が正始4年;243年12月率善中郎将の印綬を受けましたね・・・掖邪狗が經津主神であってもおかしくないかな・・・妄想妄想・・・ついでに妄想・・・タカミムスビ、時々大事なところでぽろっと出てくる・・・高天原の造化の三神のひとつ・・・なんとなく、高天原最高軍事評議会議長のような感じ・・・

 經津主軍団を高天原=邪馬台国の本土防衛軍と仮定して、これを出したということは・・・遷都が確定した時期なのかもしれません。さて、熊野での窮地の状況は・・・カムヤマトイワレビコの上陸部隊の前に、大熊=重装備の大軍が現われてすぐに消えた・・・いや・・・するとカムヤマトイワレビコや戦意を喪失、上陸部隊は離散・・・熊野のタカクラジの所で、經津主軍団の節刀を渡す=經津主軍団の指揮権を移譲する儀式を行い、カムヤマトイワレビコは戦意を回復、經津主軍団の力の前に敵対勢力は降伏・・・離散した上陸部隊も戻ってきた・・・そして、タカミムスビからの指示で遷都準備地下組織八咫烏の案内で、熊野から大和の宇陀へ侵攻、經津主軍団の登場で遷都は現実のものとなり地下組織八咫烏が表の組織へと再編、そして、宇陀の支配者のウカシ兄弟の服属を打診、ウカシ兄弟はこれを拒絶、しかし軍事的に劣勢のため、服属を餌とした吊天井の罠を仕掛け、東征軍首脳の暗殺を謀るが、ウカシの弟が寝がえり、この罠にウカシの兄が嵌って死んで併合、そして、忍坂で地元の豪族を集めて宴会を行い、そこで惨殺・・・ナガスネヒコ・トシキ兄弟と戦う・・・地元勢力の代表のニギハヤヒが服属表明で東征の第一段階は成功裏に終わる。畝火の白檮原宮にて即位・・・西暦300年・・・東征の開始はこの20年ほど前の西暦280年頃に遠征軍の日向出発があったとすれば良さそうです。神武即位後に伊勢に水軍を蓄え、石上の經津主軍団は西暦318年には香取の地に進出・・・とすればOKかね?神武十八年戊寅を基準とするとこんなストーリー展開が良さそうです。

 総国風土記か・・・国立国会図書館デジタル化資料 - 日本総国風土記 4巻. [3] 30コマ 総国をチェックしようとしたら、別の日本総国風土記が出てきて、ここの下総国に香取神社が現れますね。これによると・・・所祭径津主也欽明天皇三年辛卯七月始奉 圭田行神礼有神家巫戸祝部之家・・・だと・・・この本は藤原正方の写本で安政5年のものとのこと、この本はなに?欽明天皇3年か・・・542年で壬戌とWikiにあるが・・・欽明天皇在位中の辛卯は在位32年571年があるが・・・不明・・・ひとつ前の辛卯は511年で継体天皇か・・・継体天皇5年・・・よりによって厄介な時代が・・・このあたりって日本史のよくわからない時代じゃん・・・面白そうだが、これをいじると大変な作業量になるからそのうち・・・妄想研究の題材としては面白いのですが・・・ただ、古事記がね・・・多分、天保水滸伝のようなものだと、私は思うので・・・宣長君ごめん・・・

 下総国風土記は・・・ないよな・・・この総国風土記かね?中具羅が見当たらない?永倉か?長窪?よくわからんな?どうも、古文書の中に埋もれた場所と神社のような?いくつかのバージョンに当たったが不明・・・とにかく經津主神を祀る神社は数あれど・・・香取神宮がその源であると言いたいわけです。

 あれ、ちっとも進まない・・・妄想の中に浸っていると・・・お腹も空きます。鯛のアラがあるので、オーブンで軽く焼いて身を解して、でんぶを作って、残りは鍋に入れて出汁を取ってありますから、鯛の出汁で飯を炊く事にしましょう。腹が減っては戦はできぬ・・・仕事の原稿も仕上げなきゃ・・・明日が締め切り・・・続きは次回に・・・

2013.10.27

関係ないが、興味深いもの
近代デジタルライブラリー - 国史大系. 第5巻 日本紀略 ふむ、この本も日本書紀系なんですね。經津主神が出てくる・・・經津主神を無視しているのは古事記だけ?
近代デジタルライブラリー - 東洋史上より観たる日本上古史研究. 第1 これも読まなきゃ・・・
国立国会図書館デジタル化資料 - 日本総国風土記 4巻 こんな本があるんだ・・・
 
参考になるもの。
東京大学史料編纂所 Historiographical Institute The University of Tokyo
電子資料館 | 国文学研究資料館 
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古文書(冊子・一紙・巻子・絵図) 日本銀行貨幣博物館 これって面白そう・・・特に、社会関係史料が・・・
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