香取神宮をうろうろ(70)
 香取志 (4) 邪馬台国の時代は?

 とりあえず邪馬台国は私の中では出水平野とその東の山の中を勢力圏としている国のように妄想することにしました。経済基盤は多分九州山地の鉱物資源だったのでは?朝貢貿易で金などの資源があったら、それを差し出せということになるので、そういったものを秘匿するために、帯方郡からの使者を山に近付けなかったのではないかと妄想してしまいます。邪馬台国・・・ヒミコ=アマテラスとして考えていますから・・・隼人と熊襲も組み込まねば・・・体制側の隼人、反乱を起こす隼人とかも面白いかも?しかし、史料に基づいた妄想研究だと、様々な歴史上の事象のピースが比較的まともに嵌っていくようです・・・理由は簡単で、先人の研究を無視して新たな視点というか、知識がないために辻褄が合っているうちはぶれることなく構築しているからだと分かっています・・・まあ、論理的妄想研究は継続できるのが良いのです。感情的妄想研究だと直ぐに破綻してしまいますからね。自分に正直に構築するか、記録に対して素直に構築するかの違いかな?今日の気分は珊瑚・・・赤く艶やかな石・・・といっても生物の骨格ですね。深海産の珊瑚虫が生み出すもの・・・炭酸カルシウムです。真珠も同じ物質ですね。真珠も珊瑚も大きな珠は高価ですが、こういった細いものは安価で色も悪くないので好きですね。これは・・・多分、地中海産の珊瑚ではないかと思われますが・・・不明です。安かったから・・・多分。

 さて、邪馬台国の位置に関しては、里の定義をそれぞれの方法で24時間で到達できる距離を1000里として定義しました・・・船なら100km、馬なら500km、徒歩なら100km程度、徒歩や馬では川があればその規模に合わせて、それなりに時間を調整すればOKということで・・・このシステムの利点は12000里と言われれば、昼夜兼行で最速で12日と分かりますからね。船なら24時間走り続けるから問題なし、馬なら・・・あ、馬は1日に10頭の乗りつぶしまでだから160km弱(公式令)までですね・・・そういえば、役人の赴任に際しての速度の規定がありましたっけ・・・公式令に速度の比は馬:徒歩:車=7:5:3であると・・・馬で1日70里、徒歩で50里、車で30里・・・この場合は、里が固定された長さを使っている・・・馬の最速を基準にした里・・・まあ、駅が設置されていますからこれで良いのでしょうし、合理的・・・駅馬を使っての逓送は非常な高速通信のためのシステムじゃん・・・160kmを8時間程で走り抜けるシステム・・・まあ、昼間しか走れませんから300里を上限としているのでしょう。・・・近代デジタルライブラリー - 国史大系. 第12巻 130コマ 公式令 ふむ・・・親王及び一位に駅鈴10剋、伝符30剋が支給・・・運用システムが分からん?どうやら権利を持ていて、役所に申請すると発給されるような?

 役人の赴任に関してはずいぶんとゆっくり進ませているような?駅馬で300里なんって、1日の行程ですが、役人が徒歩だと6日の行程になりますね。車なら10日・・・牛車だから遅いのか・・・まあ、なんとなく里のシステムが分かったような・・・まあ、妄想ですけどね。じゃあ・・・水行10日蛮地の陸行2日だと距離は水行で1万里、陸行で駅馬の理論値の2000里、これを役人が歩くと水行10日と2000÷50=40日・・・10+40=50日、民間で馬の利用が可能で急行すると10日と2000÷300=7日かね?・・・そういえば、我が国軍の輜重輸卒を使った輸送計画の立案ってどんな計算をしていたのか?必要量を延べ計算して・・・輸送力で割っていますね・・・輸送力は時間と量の積分?・・・ああ、速度があったぞ・・・近代デジタルライブラリー - 各兵科下級幹部野外必携 10コマ 歩兵は分速85.5m=時速5.13kmで行軍して、速足で分速90m=時速5.4km、走れば分速144m=時速8.64kmを基準にするようですね。騎兵は普通に進んで分速90m、速足で分速210m、駆け足で分速300m・・・速足5分普通に10分進むことを繰り返すから15分間に210×5+90×1=1950 1950m進むから1時間には7.8km進むことになる。そうすると30里16kmは2時間ほどで到着、駆け足なら16÷0.3=53分20秒で進むことができるから、約1時間ということになるようです。どうやら、ほぼ私の妄想が裏付けられたような感じですね。まあ2000年ぐらいでは人間も馬の仕様も変化ないでしょうから・・・明治36年の当時の騎兵の馬は・・・1932年のロサンゼルスオリンピックに向けて西男爵中佐が1930年に買い込んだウラヌス号などは、それ以前のオリンピックで日本が日本馬で参加していてポニーで出てきたとかの反動だから・・・やはり明治時代の騎兵は日本馬ですかね?

 さて・・・里のシステムは交通手段とかかる時間を勘案したシステムのような感じですね。ルールが明確なら便利なシステムの様な気がしてきました。まあ、今でも海上では海里を使ったりしますから・・・家から自転車で10分、電車で50分、歩いて30分で目的地に着く・・・これを決して家から目的地までXXkmと言わないのと同じことだと思うのですが・・・事実上里は時間の単位ということになるのかね?・・・この例だと家から自転車で14.4里、電車で72里、歩いて43.2里となるか?・・・そういえば暦法での時間の単位に1日を100刻に分ける方法があったような記憶が・・・まあ1日は1440分だから、1日を100刻に分けるのでは足りないので1000に分けたか?歴書では1日を10000に分けた刻の分まで考えて計算していたような・・・まあ、このあたりまで計測しないと暦の計算はできなさそうですから・・・近代デジタルライブラリー - 古事類苑. 方技部3 30コマ 漏刻 それらしき内容がありますね・・・多分、里に関する妄想は正しいような気がしてきました・・・

 なんだか、凄いことになってきたぞ・・・2000年ぐらい前には既に、かなり高度な天文学の知識があり、それなりの時間を測定するための道具も揃っている・・・こりゃ侮れないぞ・・・多分陸上の里程は、歩測の結果を馬の里に換算して表記しているのではないかと・・・出かけるときに問題になるのはかかる時間なので、川などの自然障害に関しては一定のルールで距離に組み込んでいるとか?多分、私が東山道をチェックしたときに川を越える際の時間を考慮しての妄想的計算なども定式化されていたのではないかと・・・さて、神様の話だ・・・

 とりあえず、邪馬台国は出水平野から日向にかけての山の中にあるものとしました。隼人や熊襲の領域ですが・・・それで良いのではないかと思います。そして、九州北部勢力と対立関係にあるものと仮定します。魏志倭人伝の頃には出水平野は開拓がかなり進んでいて富の蓄積があったのではないかと思います。なんとなく・・・邪馬台国ってのが魔術のように湧いて出てきた国家の様な?そんな気がします。事によると天孫降臨・・・ある日、熊襲とか隼人と呼ばれる戦闘能力が異常に高い人々の集落に進んだ文化を持った人々がやって来て文化の力で手なずける・・・そして、北部への侵攻作戦を考える・・・北部侵攻作戦は出水平野の開拓から・・・ここで米の生産を行い穀物の備蓄を行う・・・種籾が十分あれば、数年でかなりの収量を上げられるようになるのでは?米と酒があれば、狩猟採集民の熊襲・隼人を懐柔するのは簡単では?景行天皇の時代にやられていますから・・・そして、武器の供給を・・・邪馬台国の活躍時期を見ると景初2年;238年から正始8年;247年までは活発な外交・・・見えなくなるのが泰始2年;266年・・・絶頂期10年ほどですよ・・・・国際社会に顔を出しているのが30年・・・これが、倭国大乱を勝ち抜いた国とは考えにくい・・・そして、空白の4世紀がやってきます。

 倭国大乱・・・これは、九州北部での抗争事件と限定します。妄想的見解によれば・・・漢委奴国王印との兼ね合いかね・・・発見された志賀島って・・・元寇の際の元軍の退却パターンから推測すると・・・志賀島へ撤退、壱岐島へ逃げられす・・・・武運つたなくという感じですから。これが、倭国大乱の終末の様子。時期は220年代では・・・建武中元2年;57年に朝賀使が奴国へもたらした印の最後、そして後漢の滅亡というやつですね。この印は後漢の勢力があって有効な印璽ですから・・・どうだろう?単に、邪馬台国の朝貢の10年ほど前の想定しただけですが・・・

 後漢の衰退期は?多分・・・166年の宦官による行動的な豪族の公職追放事件あたりではないかと・・・この頃には、後漢の初期に大きく拡大した文化は沈滞していくのでしょう・・・そして、豪族の台頭・・・文化の担い手が皇帝の都でだけではなく地方に広がって行った時期なのでしょう。従って、洛陽まで出向く必要がなくなったのでしょう。そして184年の黄巾の乱あたりで商人は首都を離れてしまっていたとか・・・徐々に北九州勢力は先進の文化の吸収ができなくなって、後漢の混乱とともに委奴国の地位が低下したのでは?ちょっとこのあたりを踏まえてまとめてみるのも良いかもしれません。

 国際社会に56年委奴国が現れます。朝貢によって、最新の文物が日本にもたらされます。これで委奴国の地位は飛躍的に高まり・・・北九州の盟主となれるでしょう・・・交易の船を出したのはムナカタ商会の前身になる会社でしょう。この頃水運関連では瀬戸内水運で後の合名会社イザナギ・イザナミ、もうひとつの水上勢力・・・多分、南西諸島を中心に交易を行うグループ・・・後の邪馬台国の中枢を作り上げる勢力・・・なんとなく邪馬台国って中途半端なんです。それから、大和朝廷の隼人政策が・・・なんとなく税の優遇措置の様な感じ・・・それに、軍事関連に何故服属を表明していないような中途半端な連中を入れるかね?・・・気分的にはグルカ兵を彷彿とさせますね・・・少し変な関係が後々まで続く・・・カグツチが生まれるのは210年代後半にしたい・・・この頃合名会社イザナギ・イザナミは神世七代から受け継いだ仕事を15年ほど続けていると妄想します。すると、195年ごろに合名会社イザナギ・イザナミが成立としたい・・・毎年支店を殖やし急速に拡大・・・出雲には陸運系のヤマタノオロチ商店が頑張っている・・・概念図としては右の様になるかね?

 権力関係の推移は・・・想定することは可能だが・・・余りにも荒唐無稽になりそうなので・・・一応編年体にして検討はしているが・・・とても公開できない・・・でも、面白い・・・歴史など、現代に住み、そこから時間を遡れずに動く事が出来ない人間が見ているのは歴史を文字で書いた影なのだが、それが歴史だと思い込んでいるだけですから・・・所詮、歴史というのは現実に起こった事の影にすぎないのだが・・・それでも歴史である!という確信になってしまう。所詮歴史などは、現実に起こった事の影にしか過ぎないのだからどのように考えても実害はない・・・勢力集団をふざけた名称で呼んでいますが、一応、歴史を読み解いていくと近代的な国家と違って領域・国民・権力のセットの概念が少し違うような感じで・・・どちらかというと経済団体のような感じがするのでね。一応・・・私の中での経済基盤の違いを示せるようなネーミングで遊んでいますが・・・社団国家風に書けば学術論文風になるでしょうが・・・所詮遊びなんでね。いずれにせよ、大和朝廷の時代に入れば、連邦国家へと移行し、大化の改新で強い中央政府を持つ国家として統一・・・律令の制定で立憲君主国家・・・そして、逆行・・・明治維新へ・・・

 とにかく、合名会社イザナギ・イザナミの直系の子孫はオオワタツミ・オオヤマツミ・カグツチで良いのでは?そして、合名会社イザナギ・イザナミの系列に入り、カグツチの代わりに、合資会社高天原系のアマテラス・ツキヨミ・スサノオが業務を引き継ぐので良いかな?そして、スサノオがヤマタノオロチ商店を乗っ取り、合資会社高天原のコントロールから外れようとするので国譲りが行われて高天原勢力に吸収合併・・・そして、東征の開始・・・何しろ九州は平野が少なく、奈良盆地が欲しくなったのでしょう。多分、邪馬台国は基本的に海洋民族なんでしょう。そして、社会の基底部には、なぜか山岳系の戦闘集団の存在かね?・・・基本的に農耕を行わないから免租、そして米と酒で懐柔され共存可能な誇り高く、儀式や祭礼の好きな民族・・・神々のように現れ、秘密の人吉盆地の米と酒で周辺山岳民を懐柔し出水平野を開拓し、日向の地も開拓、合資会社高天原は新たな開拓地を求めて・・・移転・・・日向を出て、ムナカタ商会の地でしばらく様子を眺めて・・・東征・・・瀬戸内経由、奈良盆地を狙うが・・・紀伊半島、熊野を経て東から奈良盆地を征服という事のようです。ここで、ちょっと気になるのは・・・天孫降臨で神々のように現れた民族はどこから来たのか?高度な文明を持ち、筑紫の地にわずかな期間だけ留まり、東征で奈良を手中にした集団は・・・

 大筋の考えはまとまってきましたね。では經津主神は・・・カグツチの血から生まれたわけですから、明らかにイザナギ・イザナミの直系なのでしょう。カグツチの子の代が岩裂神・根裂神でその孫の代が磐筒男神・磐筒女神で曾孫が經津主神であるわけです。そうなると、200年代半ばに活躍したのではないかと・・・プロジェクト東征の頃には初老では・・・そういえば、近頃出雲国風土記を読み返していない・・・ずっと以前に読んだきり・・・出雲のあたりを車でうろついたのもずいぶんと前・・・記憶を新たにしないと・・・そう、經津主神は日本書紀と出雲国風土記、出雲国造神賀詞などに見られる神ですから・・・近代デジタルライブラリー - 出雲風土記 [註解] ちょっと読んでみましょう・・・

 出雲国は八束水臣津野命によって創建されたが、ちょっと小さかったようです。そこで、まわりを侵略して広くした・・・どうやら、この地域は志羅紀=新羅、北門佐岐=隠岐道前、北門裏波=隠岐道後、高志=越の勢力によって割拠されていたみたいですね。八束水臣津野命はどこから?八束・水臣・津野命・・・なんだか水軍系の名前みたいなような?国引きのフレーズ・・・童女の胸取らして、大魚の腮衝き別けて、幡薄、屠り別けて、三縒の綱うち懸けて、霜黒葛へなへなに、河船のもそろもそろに、国来国来・・・分からん!漢文では右のようになるようだが・・・

 良い所を選び分けて・・・ぐらいの意味かね?引っ張ったぐらいの話かね・・・まあ、ヒントになるような内容は読みとれない、童女の胸を鋤取るって何だ?寄せて上げてかよ??でかい魚のえらを衝き分けるとは?波多須々支穂振別・・・歌謡だよね

 女の子が心を躍らせるような、大きな魚の・・・支多は鰓えらかね?を広げた・・・何かね?発音を考えると・・・でかい魚で、したが衝き分かれた・・・はたすすしほふりわけて・・・なんだか、急に大きな魚を食べたくなった・・・変な解釈が・・・女の子が胸を躍らせるような、大きな魚で下あごを飛び出させている、そんなハタにススと塩を振りわけて、三本撚りの綱を打ち掛けて、霜で黒く葛がなる頃にへへななに、川船のももそそろろに、くにくにここ・・・単に、お腹がすいていての妄想的解釈・・・塩漬けのアラが食いたくなっただけで・・・珍説・・・これは求婚の歌であり、若い女の子の心をときめかせる、塩を利かせたアラ(ハタ)の塩漬けで、ちょうど新巻鮭の様な形で差出し・・・妄想もこんな所にして・・・へへ・なな、もも・そそ・ろろ、くにくに・くく・・・ああ、なんだか安田徳太郎が人間の歴史ってやつで展開した論のようになってきたぞ・・・でも、こういった解釈の方が面白い・・・女の子の胸を(心の内を)開かせるとか・・・まあ、いいか・・・まあ、無理な解釈だと分かっていますが、正統派ではないのでね・・・經津主經津主・・旨いものが食べたい・・・何をしたいのやら?アラは旨いからな・・・塩漬けのアラの代用品が新巻鮭・・・アラまがいの鮭か?これまた珍説だな・・・・

 出雲風土記で、經津主神は意宇の楯縫の郷で現れますね。天の石楯を縫い直した場所とか・・・何のため楯を縫い直したのか不明ですね。楯縫は楯縫郡がありますが・・・近代デジタルライブラリー - 出雲風土記 [註解] 58コマ ここにはフツヌシの話が無いですね。これは別系統の楯縫ということですね。

 多分、經津主神は実在・・・古事記が書かなかった理由は何か?物部系の神だから?古事記に記載が無いのは・・・物部氏が500年代の末に没落したから、その後は蘇我氏ですね。古事記が編纂されたのは和銅5年;712年です。そして、貴族の館を渡り歩いて話をしていた稗田阿礼の素敵な語りのものを詔により太安万侶が本にしたわけです。没落した氏族の祖先=神など語っても受けない・・・従って語られないことになるのでは?つまり阿礼君の話は、編集の魔術に彩られているわけです。文学的に優れているから宣長君は正史以上に力を入れて古事記の宣伝をしています。私は、日本書紀の方が信頼できるような気がします。理由は・・・異説をちゃんと載せているから・・・これって、普通ではありえないでしょ!編集放棄ですから・・・しかもポピュラーなものに対して・・・異説を唱えるなど意味がないが、それをあえてやっていますから・・・200年に渡る通説を覆す形で日本書紀が描いているので、それが正しいのでは?舎人親王の人となりを知りたい・・・藤原氏寄りかね?それなら經津主神など無視して武甕槌神で塗りつぶせば良いものを・・・しかし、違うから良心的な人間で、信頼できる・・・宣長君は信用できないことにすれば、小林君の論が正しいことになるか・・・香取志をやってるんだった・・・宣長君も古事記を読み解いたことで舞いあがっていて、それで經津主神を無視したんでしょう・・・

 經津主神は、高天原の全権を担って出雲に出向いたのですから大したものだと考えるべきでありましょう。そして、やはり気になるのは・・・出雲国造神賀詞ですね近代デジタルライブラリー - 古事記・祝詞・風土記 198コマ 天夷鳥命ってなに?読み方が悪いのか?天夷鳥命爾布都怒志命乎副天・・・天夷鳥命に經津主神がくっついて行ったのか?爾、乎、天・・・に、を、て・・・だよな?小林君や清宮君は出雲国造神賀詞は目にしていたはずなのに、これの言及が無い・・・多分、史実としては出雲国造神賀詞が正しいのでしょう。まずい・・・久喜の鷲宮神社が出てきたぞ天夷鳥命=武夷鳥命を祀る神社で関東最古の神社と目される・・・Wikiに記載の社伝によれば、神代の昔、天穂日命が東国を経営するために武蔵国に到着し天穂日命のお供の出雲族27人の部族と地元の部族が当地の鎮守として大己貴命を祀ったのに始まると伝える。その後、日本武尊の東国平定の際、別宮を建てて天穂日命と御子神の武夷鳥命を祀ったという・・・大内氏か・・・百済の聖明王の第3王子である琳聖太子の後裔と称している。琳聖太子が日本に渡り、周防国多々良浜に着岸したことから「多々良」と名乗り、後に大内村に居住したことから大内を名字としたか・・・ふむ、知らないことがいっぱいあるなぁ〜

 まあ、文字による記録がたくさん残っていると、古代に関する知見を増やす事が出来るのでしょうが・・・そういえば、日本に文字がもたらされたのが・・・古事記の・・・名和邇吉師、即論語十巻、千字文一巻、并十一巻、付是人即貢進・・・で習ったような・・・これは、現在流布されている千字文とは別のものでしょうが、中華帝国の事ですから、その時代時代の流行りの公用フォントの配布を行っていたのではないかと・・・公用文にはこの千字を使う事、書体もこれでないと駄目!勉強せよ!蛮夷の書いたものは読みにくい却下!とかやってたとか?まあ、説文解字の成立が西暦100年ごろですから・・・日本にも御家流と称されるものがありますから・・・武家の公用文用の書体、結局これだよな・・・御家流のくずし字を学ばないと草書が分からんから・・・現在使われているフォントはいつまで使われるのやら?ちょっと気になりますね。まあ、普及率からすると千年ぐらいの寿命があるのかね?

 まあ、經津主神の存在は確認したから良いでしょう。しかし、古事記は基本的に、講談と同じレベルと私は考えてしまうのだが・・・天保水滸伝の様なもの・・・史実は含むが・・・という感じ・・・大学を卒業するときの、ゼミの指導教官との会話を思い出しましたね・・・結局のところは、徒弟制には馴染めない人間なんでしょう・・・徒弟制には自由は無い事を知っていましたから・・・

 さて、經津主神は雲国造神賀詞の説を取るのが良さそうな気がしてきました。イザナギ・イザナミの子、カグツチの子孫で、どういった経緯で合名会社イザナギ・イザナミの存続会社の合資会社高天原に雇われたのか分かりませんが、合資会社高天原のスサノオの支店がヤマタノオロチ商店を乗っ取って、さらにイザナギ・イザナミの子孫を吸収して成り上がった大国主商会を合資会社高天原に吸収合併させ、プロジェクト東征で軍事顧問を行った神であるようです。私としてはこれで、納得・・・どうやら、古代のクニは社団として考えると良さそうな感じです。

 ついでに、後漢末期から神武東征に至るまでの噴飯ものの妄想年表を掲げておきましょう・・・実は、こういった作業をして、經津主神の存在の確認作業を行っていたんです・・・普通の人間の一生の期間に、神々の行いを当てはめるという不遜な行い・・・どうやら、妄想的解釈による国の始まりを考えてみたのですが・・・

170年代から後漢の威が落ち始める。それに伴って、貿易は漢の辺境の帯方郡辺りを中心に朝貢によらない密貿易の形になり宗像氏の独占状態が緩和されるが、それでも海外貿易の中心は宗像氏、新興勢力としては南西諸島を中心に活躍していた高天原が江南地方への進出を図る事で、最新の文化の受容を行う・・・
195年 合名会社イザナギ・イザナミ本店を沼島に置き全国展開を図る。トレードマークは十握剣。
195年 イザナミがオオワタツミを派遣しての合名会社イザナギ・イザナミの福岡支店を企画するも失敗、イザナミがオオヤマツミを派遣しての合名会社イザナギ・イザナミの出雲支店を企画するも失敗・・・イザナミはイザナギを導くことはできるが、経営能力に欠けるようである・・・2つのシマを流してしまう・・・経営権はイザナギへ・・・
196年 イザナギが合名会社イザナギ・イザナミの淡路支店を開設
197年 合名会社イザナギ・イザナミの泉州支店を開設
199年 合名会社イザナギ・イザナミの四国支店を開設
201年 合名会社イザナギ・イザナミと宗形商会と業務提携、九州支店を開設
203年 合名会社イザナギ・イザナミの隠岐・佐渡支店を開設
205年 合名会社イザナギ・イザナミの能登支店を開設
207年 合名会社イザナギ・イザナミと合資会社高天原と業務提携、宮崎支店を開設
209年 合名会社イザナギ・イザナミとヤマタノオロチ商店との提携、岡山支店の開設
212年 カグツチ誕生・イザナミの死・・・合名会社イザナギ・イザナミの分社化の動きが始まる。
216年 営業譲渡、統括権は合資会社高天原がツキヨミは南西諸島・北九州支店のスサノオが北九州地区統括及び日本海方面事業部を引き継ぐが、合資会社高天原の資本注入は続く。統括権の象徴は十握剣を引き継ぐ。
218年 170年代からの委奴国の宗主権が脅かされ、委奴国簿財務基盤のムナカタ商会は高天原の息がかかり、合資会社高天原の傘下に入る。これにより財政基盤が著しく低下した事で委奴国を宗主とする北九州連合の崩壊。
220年 後漢の消滅による宗主権の失効により、委奴国は破産・・・ムナカタ商会の管理下に入る。スサノオはムナカタ商会に地位を脅かされ、大陸へ留学、事実上追放。これ以降、合資会社高天原に資本参加する国々が増加。
225年頃 ほぼ九州全域が合資会社高天原の傘下に入る。スサノオ留学先より帰国、凍結されていた日本海方面事業部を再開、合名会社イザナギ・イザナミ時代に計画倒れになっていた出雲支店の再開と、ヤマタノオロチ商店の乗っ取りを行う。乗っ取りの成功により、新社名大国主商会を創設、ヤマタノオロチ商店の販売網の近代化と拡充で、東方へ「神社」チェーンを展開。
238年 邪馬台国が宗主となり朝貢の開始。
240年 ・・・
 ヒミコ・イトの交代・・・神武誕生は・・・經津主の合資会社高天原入社は・・・
266年 プロジェクト東征の発動

 妄想研究はどのように考え方の枠を壊すかという作業でもあるので面白い!論理的であれば荒唐無稽でもOK・・・

2013.10.23

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東京大学史料編纂所 Historiographical Institute The University of Tokyo
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