香取神宮をうろうろ(53)
 香取新誌 (13)

 また、古銭をいじり始めました・・・今度は明治以降の邦貨ですね。私の好きな、2銭銅貨・・・500円玉よりも大きく、重さは500円硬貨の2倍あります。重たいコインで・・・だから好きですね。ただ、こんなのを財布に入れていたのでは大変だったかもしれません。右の写真は明治13年のコイン、並み以下のグレードのコイン・・・清宮君が亡くなった翌年のコインですね。

 2銭銅貨と言えば、日本の本格探偵小説の草分けとしても有名です。しかし、この2銭硬貨を2つに挽き割って鋼鉄のゼンマイで造った鋸を隠すのはかなり高度な技術が必要だと思うのですが・・・技術的な興味も持ってしまいます。そしてこの二銭銅貨は、暗号も目玉でしたね。南無阿弥陀仏の6字を用いたもの・・・これも、興味深いものです。・・・ヤードリー君の著作も読んだっけ・・・ブラックチェンバー 江戸川君の著作権はまだ切れませんね。あれ?近代デジタルライブラリー - 検索結果 江戸川乱歩 著作権は許諾で公開されているものが少しあるだけですね。青空文庫には無し・・・

 ある意味、わたしも古い文献の中に隠された暗号を読み解いているわけですから・・・二銭銅貨の世界かね?さて、真面目に続けましょう。近代デジタルライブラリー - 香取新誌 32コマ このあたりを読んでるのでした・・・東庄玉子社・・・からです。


東庄の玉子の社は香取の御子であって、祠員10名ばかりもいる。祭祀も香取に次いで多い、とりわけ、21年目には御浜下りといって、銚子外川へ神幸して、その旅所を香取台と云う。香取にちなむ事を推察せよ。そこに宮さぶと云うものがあって、神輿を降ろす事になっている。この家の苗字は山口氏であると云う。その傍らに、和名抄、海上郡の神代郷あり、今は上代と書き、10ヶ村程に分かれている。これ古昔、香取の神領の地に違いない。また、船木の郷がある。今も舟木台村、小舟木村などと云う村があるのは、その名残であるに違いない。二神海門の鎖鑰と云う内に、上古神領も、船木の地も、海夫とも、香取に付属させた。これ、香取が正当である事を推察せよ。そして、もともとは香取・鹿嶋の影祀でないわけはない。往古の様子を思いなさい。


 例によって強引な論が展開されます。東庄の玉子社か・・・これは東大社の事ですね。この社の祭神は、玉依姫尊です。景行天皇の東国巡幸のときに、祀ったのが始まりです。この神社は千葉氏の東氏にかかわりがあり、東氏は・・・鹿島神宮の東宮司家とも関わり合いがあります。私の妄想では、鹿島の東宮司家が、鹿島の運輸通信を牛耳っていたのではないかと思うのです・・・根拠は、薄弱で・・・神野の十人殿原と呼ばれる侍のような屋号を持つ家が、物忌・当祢宜に仕え、鹿島様のお告げの鹿島の事触などを売り歩いていたとか・・・このからみの家から良く目にする運送屋が出ているようです。あとは・・・春日大社へ、鹿島の神を送り込んだのも当祢宜家らしいとのうわさがありますね。

 私の大妄想では・・・景行天皇は、房総半島を船で回って、銚子の外川あたりで上陸、東大社経由で浮島方面に進出したのでは?多分、景行天皇の時代には、まだ、椿海が外洋につながっていて、東大社の南東の津に上陸、そこから陸上を移動・・・そして、再び船で移動・・・常陸風土記の行方の条などは、海が入り江に深く入り複雑な地形をつくっている様をよくあらわしていると思うのですが・・・そして、この水面は浮島の話で分かるように、汽水で、真水ではなく、真水が貴重な事を示していますからね。そういえば・・・館山から伊豆大島って見えましたよね・・・熱海からも見える・・・古代の航路は浦賀水道なんって通ったのかね?伊豆大島を南に見る航路かね?浦賀水道って・・・流速2ノットぐらいになるのでは?これってかなりの速さだと思うのですが・・・だから、浦賀水道の沖合を通るとか?残念ながら、この手の知識はこれが限界・・・いいかげんな推測・・・そのうち調べないと・・・潮流推算点選択 2ノット近くなるから・・・6km程度の海峡だけど、これを1時間程度で渡るのでも、その2ノットで3.6km流されて6km進むから・・・直角三角形の斜辺の長さは・・・7kmかすると、4ノット程度は出さないと渡れない・・・潮が止まりそうになった時に出発すればOKだが・・・

 ただ、景行天皇の時代は東海道はまだ整備されていないし、基本は海路での移動なんでしょう、そして律令時代に入って整備されるが・・・600年代半ばだね。そして、荒海の駅とか廃止された時期には、既に道路事業が、国家事業から地方事業へと移った。更級日記の時代1020年頃かね?には普通の道として日常的に楽に利用できるようになっている・・・と云うことではないかと思われますね。ただ、景行天皇時代の海運も当然存続しているはずですが、こちらはどうなってたんだろう?・・・ふと、律令制の衰退とともに、交通制度は乱れて行ったなんって記述をよく目にするけど、運輸通信の活性化によって、中央が指揮する中央一極の体制が崩れて行ったのではないかと・・・人間って便利なものは放棄しないでさらに改良を加えますからね。たとえば、郵便制度を考えると、民間会社なんかいらないような気がします。郵便事業に日通の仕事をまとめるだけで、宅配なんって民間事業は無くても良いが、全国ネットを有する民間企業が何社も併存する状態ですからね。

 私の、歴史解釈が歪んでいるのかもしれませんが・・・いや、歪んでるな・・・私は政治史を軽く見て、社会システム発展史の方を重視しますから・・・政権なんって一時の看板で、社会システムの上に政権が載ってるにすぎないと思うのでね。ただ、全国的な広がりを持つシステムを構築するのは、政治によるものであると分かりますが、それが有用であれば、その事業に参入する業者が多くなり、やがて、政府主導の物ではなくなるという事なんです。ただ、政権が不安定になると、新規の全国レベルでの標準化されたシステムの構築はできなくなり、社会は沈滞する事になると思うだけです。戦国時代に武将があちこち走りまわれたのは、社会インフラの利用があってのことでしょうからね。だから、良い武将とは、社会インフラの破壊なしに勝利したものとなると思えます。だから、見かけの大きな戦功が無いにも関わらず遇される武将の方が、上席の武将で、ロクに戦いもせずに、社会インフラに莫大な損害を与え、直ぐに殺されちゃうと悪い武将になれるのでは?

 政権なんってのは看板に過ぎない・・・近頃は、3本しか用意していない矢を打ち放して気勢をあげ・・・矢玉がない所をオリンピックですくわれている状態の・・・

 しまった、東大社を考えていたのに・・・ええと、東大社は20年ごとに神輿を銚子の外川へ送り出す神幸の儀式を行っています。銚子の高神西町ですかね?この町の地割りは興味深い・・・一部が海岸に接している・・・この神幸祭で、必ず立ち寄る事になっている宮サブ?・・・宮三郎家の事のようです。この当主が山口姓を名乗っている・・・初代は、600年頃に福岡から紀氏とともにやって来たようです。

 あとは、例によって、東庄町の神代界隈も香取神領であるとのこと・・・このあたり一帯は香取の支配下である平伏せ!ってかね?東大社へも行ってみたいね・・・そのうち・・・しかし、清宮君が強弁することから、逆に鹿島郡に東大社があるが、これは香取神宮とは違った系統の神社である事になるような気がしますね。太平洋の沿岸航行で椿海-東大社-鹿島のラインがあって、利根川を銚子口から遡上するような航路の設定は無かったのでは?銚子の太平洋岸の外川から利根川沿いの桜井という陸上での繋がりもありますから・・・なんとなく・・・続きは・・・


玉子社は、香取文書のみならず、棟札にも、香取の末祀と記されている。縁起にも、この神、香取神の先駆けをしたということである。この社は、松沢の熊野と視界ので、もしや、若一王子のことであるかと思われるが、そうではなく、香取の王子であるに違いない。または太玉の命に因むのではないか。玉子であるが、玉子と書くが、王子と称える。なお考える必要がある。


 棟札の史料は・・・見つかりませんね。東大社関連は近代デジタルライブラリー - 利根川勝地案内 82コマ東ノ庄寄航場とか・・・近代デジタルライブラリー - 香取郡誌 75コマにあるのが詳しいですが・・・どうも、清宮君の様子がおかしい・・・まるで、東大社が香取の敵対勢力並みの扱いのような?このパターンは・・・清宮君にとって認めたくない何かがあるような?付会して押し広げたい地理的な領域を眺めると、神崎界隈と栗山川流域と小見川・東庄・・・妄想が・・・社会基盤というのは、代々受け継がれていく社会インフラに力の根源があると思うのです。為政者と云うのは、その社会システムの看板に相当する・・・だから、看板は簡単に挿げ替える事ができる。為政者がだれであれ社会は活動し続ける・・・ある朝起きたら、江戸幕府はなくなり、明治の御世になっていた・・・民衆は動揺するか?実感がないから、しばらくは、そうなの?って感じでしょう。香取神宮の場合は、その看板が社会システムと一体になっているのでしょう。多分、神崎あたりは物流の関係で1つの社会システムをになっていて、それが駅であるとか郡衙であるとかの看板を背負っていたのでしょう。そして、縄文海進頃は、旭市櫻井あたりに椿海と香取海をつなぐ交通路、ここが海退によって使えなくなると、椿海-東大社-香取海の東へ変わり、さらに銚子の外川-桜井ライン、多分、これが1000年ごろの交通路ではないかと・・・香取神宮の勢力圏を外した中央からの支配のための交通路・・・案外、大妄想のプロジェクト”東征”の拠点としての香取神宮が、中央の支配から外れてしまった・・・牽制のために、両サイドに別の陣営を置き、交通を遮断することで陸上への覇権を抑えた・・・東大社は鹿島神宮とセットで、東北経営+香取神宮の牽制で、そのために、景行天皇の行幸が香取神宮を飛ばして行われた・・・そして、この時代、鹿島神宮はまだ、香取神宮の影響下で、香島だった・・・本格的に鹿島神宮が独立して活動を開始するのが、天智天皇の御世かな?

 神社の式年造替・・・これって、金を出すから言う事を聞け!か、この場所の支配権を維持するために、建物を維持する!というのと同じような気がしますからね。コントロール下にある・・・足りないものがあれば、申請によって出してやるよとかね。神社システムを利用しての全国制覇が大和朝廷の戦略で・・・延喜式に記された神社は、運輸通信の社会インフラから外れつつあった、若しくは、外れてしまった残照を示しているに過ぎない?900年ごろには、日本全国に運輸通信網は張り巡らされて、神社がそういったものを担う必要が無くなっていた・・・後には、一部・・・神社を中心とした座が残滓として残ったが・・・江戸幕府によって、整理され、消滅・・・明治政府によって、名称の西欧化で律令時代から繋がる我が国の社会システムが、あたかも西欧からの輸入であるかのような顔をして再登場かね?

 案外、中華帝国の英知を集めた唐律を学んだ連中が、受容力に富んだ日本で、理想の国家組織の基礎を置き、勤勉な大和民族がそれを洗練化し、民営化して、政治情勢の変化に左右されないシステムを発展させ、900年頃には為政者の思惑で動かす事の出来ない社会インフラが完成していた?皇朝十二銭などが終わるのが900年代半ばですから、既に政府発行の通貨ではなく、開元通寶が事実上基軸通貨になっていたとか・・・民間ベースの輸入でね。多分、大量の良貨が、発行枚数の少ない政府発行の悪貨を駆逐するという、反グレシャムの法則が成立してしまったという、不思議の国なのかもしれません。そして・・・通貨に関しては、応和3年;603年に諦めた・・・改鋳の出目で儲ける時代の終了・・・つまり、貿易によってもたらされる影響の大きさを知る時代と言うのがこの頃だったのでは?

 確かに、日本は不思議の国かもしれません・・・政府主導で何かが始まる、しばらくすると、より洗練されたシステムが民間ベースで成立・・・政府の主導権が失われて、一般化・・・政府のやる事は遅れている・・・というものの、政府が導入するものは、日本の英知が導入すべきであると考えたものであるから、ベースとなるシステムは優秀、それをさらに高度なものにして、国家からの干渉を排するというのが大和魂なのかも?

 明治政府が導入した西欧風の社会システムは、日本では・・・多分鎌倉時代の末には、社会インフラとして既に組み込まれていたような気がします。社会福祉だって・・・江戸時代の麻生藩の文書を眺めると、子供手当や、妊婦の検診無料化とかありますから・・・日本って凄い!と思うのですが・・・基本的に、政治家は無能ですけどね。特に近頃は・・・貧乏人のご機嫌伺いが好きな政治家が多くて・・・衆愚政治に至りつつある。確かに、金持ちより貧乏人の方が多いので、貧乏人のご機嫌取りを行うと当選の確率が高くなるというわけで・・・貧乏人の上前を刎ねる乞食の様な政治家が増えていると言えるのでは?

 私は・・・納税額によって+社会貢献度によって、投票権を1票から最大5票ぐらい与えても良いのでは?なんって思います。まあ、割り振りが難しいですが・・・個人と言うのは様々な顔を持っています。家族の中での顔、会社員として、企業家として、投資家として・・・様々な社会的な役割を持っています。社会貢献もせず、お情けで生きている人間に1票なら、多くの社会貢献を行い、その上莫大な税金を納めている人間には、その人間の持つ顔の数の分だけ投票権を与えても良いのではないかと思いますから・・・おっと、余計なものを・・・続きは・・・


この社は、海上郡の国造の香取の王子の居址へ祠を建てて祀ったものであるに違いない。その隣の今郡村は、ただ、郡村と言うのを1郡に2つの郡村があるのは紛らわしいので、今郡村と改めたというわけだ。祠官の苗字を、郡権頭と云うことからも、元の名は郡村であるに違いない事が推量される。古昔は門望がなければ、国造に任ぜられなかった。海上国造は、穂日の命の神の末裔であるから、国造にもななったのに違いない。


 段々、清宮君流の考えが身について来たような気がします。実は東大社のあたりの地図を眺めていて今郡というのが目に入ってね。いま、この文を読んで、同じ事を考えていたなと・・・さてさて・・・海上郡の国造は香取の御子で、その居宅の址に祠を建てた・・・香取の御子かは不明ですが・・・祭神は玉依姫尊で、鵜葺草葺不合尊が相殿ですね。經津主の御子とは系統が違うような・・・清宮君は、東大社が置かれるより前に、このあたりが香取の支配下にあったと言いたいわけなのでしょう。でも・・・ちょっと無理では?そして、今郡村ですね・・・今郡があるわけですから、古郡がどこかにあった・・・1つの郡に2つの郡村がある場合紛らわしい・・・違うだろ、多分神崎町に置かれた郡衙が、東庄町へ移転したのでは?距離が離れているから、神崎町の郡は古郡とか元郡とかに改称せずそのままになった。移転先では郡とするわけにいかないから今郡と称するわけですね。神崎の郡衙が東庄へ移転した時期は・・・可能性のあるのは荒海駅の廃止時期805年かね?気になるのは、匝瑳郡と海上郡が香取郡などに比べて小さい事ですね。律令時代の海岸線はもっと内陸寄りだったはずですから、さらに狭くなる。匝瑳郡の建郡は・・・モノノベノオゴト物部 小事が6世紀前半とのことですね。近代デジタルライブラリー - 国史大系. 第3巻 續日本後紀 巻4 110コマ 昔、物部小事大連、節ヲ天朝ニ錫シ、出デテ坂東ヲ征ス。凱歌帰報。此ノ功勳ニ籍リテ下總國ニ始メテ匝瑳郡ヲ建テ、仍テ以テ氏トナスコトヲ得シム。是レ即チ熊猪等ノ祖也。ですから・・・邇藝速日命の御子の系統なんでしょう。海上郡も似たような事情では?そういえば、海上郡はうなかみ郡・・・椿海の事ですかね?近代デジタルライブラリー - 国史大系. 第7巻 国造本紀 218コマ 下海上国造がありますね。軽島豊明朝御世、上海上国造祖孫久都伎直定賜国造。・・・って、上海上郡・・・市原の方から太平洋岸に進出してきたようですね。豊明豊明の宮の時代か・・・応神天皇の御世ですね。この上・下海上国造の間には武社国造が入りますが、私の妄想としては、陸上交通路が市原あたりから多古あたりまで通じて房総半島を廻る航路より短時間で人が移動できるようになって2つの航路の乗り継ぎの便が図れるような施設が置かれたのでは?いずれにせよ香取神宮勢力とは異なる勢力の根拠地であったようです。そうすると、今郡が郡衙として消滅して銚子方面に移ったのなら・・・田中玄蕃殿の工場のあたりが、近世の中心地ですかね?それとも飯岡?そのうち何か見えてくるかもしれませんね。なんとなく、清宮君は香取神宮包囲網が気になっていたのでは?

 さて、次回は海上国造からとしましょう。

2013.09.16

関係ないが、興味深いもの
 近代デジタルライブラリー - 制度通 これ、後で読んで理解しよう・・・
 
 

参考になるもの。
東京大学史料編纂所 Historiographical Institute The University of Tokyo
電子資料館 | 国文学研究資料館 
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 近代デジタルライブラリー - 明治神社誌料 府県郷社. 上 千葉県 534コマ
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国立国会図書館デジタル化資料 - 和名類聚抄 20巻 
大日本海志編纂資料 資料分類
近代デジタルライブラリー - 大日本神名辞書
茨城県遺跡リポジトリ
近代デジタルライブラリー - 仮名日本書紀. 上巻 204コマ 景行天皇


近いうちにやりたいもの
香取志 
古文書(冊子・一紙・巻子・絵図) 日本銀行貨幣博物館 これって面白そう・・・特に、社会関係史料が・・・
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