香取神宮をうろうろ(83)
 香取志 (17) また、なぜか登呂遺跡・・・

 さて、いよいよ素敵な石は払底・・・赤系統の石だと・・・不透明なのはどうも一連で買う癖があるような?インカローズ・・・不透明な石だと糸を通しても、気にならない・・・透明な石だとなんとなく貫かれている様子が好きになれない・・・なんだか豚バラ肉のような?インカローズ・・・赤く透明感のあるインカローズより、なぜか豚肉のようなのが好きなんです・・・ロードクロサイトといわれると・・・なんとなく、ペルー産の透明感のある石を思い浮かべてしまう・・・なんとなく・・・

 方解石の仲間なので、硬度が低く、所謂宝石ではない石ですが・・・なぜかインカローズは好きなんですね・・・美味しそうな石・・・菱マンガン鉱・・・

 前回の続き・・・支配とか権力って何なんだ?初期の稲作を担った人間は何?なんって妙な疑問を・・・階級社会ってのは・・・人一人一人の能力が異なる以上必然的に発生する・・・そう思われる。古代が平等な社会であったなんって信じられない・・・幻想ではないかと思われる・・・登呂遺跡の出土品には、階級差を見出すべきものが無さそうな感じ・・・だから、何らかの意図が働いているように思われる・・・これだけ整然とした区画を有するプロジェクトが、平等な人間によって階級差の無い人間によって成し遂げられるとは思えない・・・プランナーがいて、それを実施する人間・・・

 狩猟採集、そして、栗や栃や森林の食物に慣れた人間が、どうして水稲耕作など始める?という素朴な疑問・・・何か新しい生産体制に入るってかなり厳しい事・・・そして、慣れない沼田圃仕事・・・やりたがるのか?湿地帯はマラリアの猖獗地帯・・・まともな頭を持った人間が、夜間は近付かない世界・・・オンディーヌの世界・・・多分、マラリアやツツガムシ病などを考えると水辺は禁断の世界・・・なんとなくそう思えるので・・・台地の上を生活の舞台として、湿地帯が切り込んでいる谷津の湧き水を汲み生活し、同時にこの湧き水を求めてやってくる動物を狩る人々・・・夜刀神の眷族・・・古い生活を守る人々・・・

 さて、外来の文化である水田耕作・・・人員を集約する必要のある灌漑農業・・・古くから水争論が繰り返される厄介な代物・・・絶対に平等な社会ではなく、権力または権威を持った中核となるものがいなければ成り立たないものだと思われます。まあ、家父長でも良いですが・・・うるさいおやじがいなければ成立しない・・・そう信じますがね・・・

 水田耕作は、基本的に手間がかかります・・・開田して最初の年は何を食べる?収穫までの食料は・・・新技術の導入はなかなか大変です。収穫の夢を見ても収穫が得られるかどうか?ある意味賭けですね。比較的安定している生活をしているものが、新たな職業に就いて成功できるかどうかなんって・・・蓄えか、後ろ盾がなければできないと思うのですが・・・

 やり方を変えるって非常に大きな力が必要になると思うが・・・たとえば、今では当たり前の正条植ですら、明治時代に導入され奨励されたときは従うものは少なく、罰金まで科せられるという強制的指導が行われサーベル農政なんって言われるわけですから・・・当たり前と思われている事を変えさせるのはかなり大変です。塩水選・短冊苗代・正条植たった、この3つの事を導入するだけで・・・強権を以て行わねばならないのですから・・・稲作技術を遡れば何か見えるか?

 現在当たり前に行われている事と、それが導入される前を比較することで・・・現在の機械化された乾田では、選りすぐりの良い種籾を浸種・催芽させ、育苗器に入れて30℃程度で芽を出させ、1p以内の出芽で、潅水・覆土を行い緑化床へ移し3葉ないし4葉が出た所で田植えに入る・・・育苗中に、田起こし、田に水を入れて代掻きを行い田植えを行う、圃場管理を行い、稲の収穫期を待つ、収穫期に入ったらコンバインで刈り取り、通風乾燥器にて籾の水分量を15%程度に調整・・・籾すり機にかけて玄米にし、さらに精米機にかけると白米ができる。

 選りすぐりの良い種籾・・・現在は外見検査、塩水などによる比重による選別、ちょっと前は春の彼岸の頃に種籾を1斗から2斗入りの小さな米俵のような種俵に詰めて種びたしの池・種井戸に放り込んで沈めて2週間から1ヶ月ぐらい置くと弱い種が腐り種子の腐敗臭が立つようになるまで待つ・・・種井戸は5から10戸ぐらいが共同で管理する、地域によっては盗難防止のために昼夜休まず交代で番をする。腐った種子と健全な種子を分け、健全な種子を昼間は陽干しに、夜は風呂の湯船の上に板を浮かべて発芽を促進する。発芽が3mm程になった頃・・・4月20日ごろから苗代に水を張り一昼夜程で水が済んだ頃に苗代の周りから発芽種子を放り込むベタ蒔きを行う1反あたりおよそ8升から1斗・・・籾を肥やしにするかというほどの量を放り込んだようです。今なら4kgぐらいですから4倍ぐらいかね・・・短冊型の苗代ではおよそ6升程度・・・この時期に雨が降り気温が上がらないと・・・苗の段階で稲作は失敗、二番蒔きを行う事になると、田植えまでの期間が短くなり、小さな苗を植える事になるので収量は見込めなくなる・・・苗代に播種して30日ほどで田植えに入るため田植えは6月になる。田植えは正条植が普及する前は乱雑植とかゴチャ植・・・筋を引いて植える前は梯子型の定規、その前は縄を使った正条植ですね。

 あとは収穫期までの圃場管理・・・稲刈りが秋分ごろから行われ、10月中旬まで行われ、稲架に掛けられて乾燥させられ納屋に納めて脱穀・・・

 利根川の提外地の湿田だと利根川の運ぶ土によって肥料なしでの収穫ができたが、基本的には田舟や田下駄を使っての農作業・・・稲刈りは利根川が増水すると、穂先近くまで水に浸かるが、稲藁も副業の原料になるので、水中に鎌を入れての作業になる。湿田は穂首刈りが楽・・・という事は・・・稲藁の利用があまりなされず、藁細工は麦藁かね?そしてマコモなどが主流だった・・・湿田だから稲の株を放置しておけば土が溜まって土地が広がって行くのか?このあたりが気になるが・・・石包丁では根刈りは困難でしょうから・・・道具の発達との兼ね合いかね?國學院デジタルミュージアム 登呂遺跡 横槌・腰掛 登呂遺跡から横槌が出ていますから藁細工などを行っていた可能性はありますが・・・

 鹿嶋・神栖あたりの稲藁製品の発展は・・・稲縄や莚の需要が江戸時代に地引網漁によって漁獲された鰯を干鰯にして出荷する際の俵・・・入れ莚の生産に始まるようです。そして幕末から明治にかけて干鰯の生産が落ち込んでくると、裏莚・・・貿易での梱包材としての通称神奈川莚の生産へとシフトしていきます。この需要の増加は、1つは北海道開拓のための物資の輸送用に使われた事と、海外貿易用の需要のようですね。北海道での需要は・・・鰊漁の発展によるものが大きいようです。

 こういった莚は、千葉の商人が買い集めて神奈川に送りだしていたようです。幕末期の千葉の商人が暗躍かね?千葉の廻船問屋が明治期の東京湾水運の中心だったか?なんって・・・ふと・・・幕末から明治初めに千葉の商人がネコの輸出に狂奔したようで・・・ネコは儲かる!これを聞いて猫をたくさん集めて神奈川へ、動物の猫ではなく・・・ネコは小判の隠語なんで・・・金の輸出で儲けた連中がいたようです。

 とにかく、物資の移送に欠かせなくなった稲藁製の莚の生産が、日清・日露の戦争などもあって飛躍的に伸びて行く事になるわけです。こういった事があるから・・・穂首刈りではなく根刈りに移行していくのではないかと思われます。需要と技術の進歩によって生活は知らぬ間に変わって行く・・・しかし、行政指導にはあまり従わない・・・自らの利益と違って、公共の利益から演繹される個人の生活を変化させる行為は進まない・・・目先の利益が生活を変化させる原動力になるのか?

 狩猟採集、山林樹木の管理を主務として行って利益を上げて生活してきた人達が、低地の外れの湿地を舞台に湿田を開き稲作を始めるなんって・・・考えにくい。生活環境が違いすぎる・・・全然違った生活、目先の利益が見えないから、移行しにくいはず・・・考えられるのは、稲作文化を持った人たちの静かな定着か?やはり気になるのはマラリア・・・縄文人はマラリアを避けるために低湿地を避け、台地上での文化を持った・・・というか、台地の上での生活をしたものだけが生き残れた・・・何しろマラリアはWHOによれば、2012年のマラリアの症例は世界全体で推定2億700万件。同年のマラリアによる死者は推定約62万7千人ですから・・・世界の総人口が70億人だから・・・未だにマラリアはかなりポピュラーな死にいたる伝染病・・・気になるのは、日本では如何にしてマラリアが撲滅されたか?そのうち検討してみる事にしましょう・・・・登呂遺跡を考えていたんだっけ・・・登呂遺跡で水田耕作を担った人は?という問いですね。

 登呂遺跡の周辺には古墳は無い・・・多分、重湿地の中のちょっと乾いた場所で、ちょっとの燃料となる森林があって、生活を営める場所であった・・・古墳がないことから大きな権力=余剰生産はあまりなかったと考えるか?しかし、それなりの倉庫が設置されていた・・・富の蓄積があるはず・・・登呂遺跡の周辺の権力=古墳の分布は?

 ち、またやっちまった・・・登呂遺跡の地域的な条件などのチェックをしていなかった。例によって興味本位で始まりますから・・・登呂って小字かね?安倍郡?それともその南の有渡郡?その境か?ってね・・・登呂遺跡は・・・静岡市石田か・・・この地域の警察の管轄は石田交番で石田一・二・三丁目、登呂三・四・五・六丁目、中田三丁目の一部、中田四丁目、中田本町、南八幡町を担当・・・有渡郡大字石田字登呂かね?石田村は寺社領で明治22年に豊田村と大里村に編入か・・・明治29年安倍郡・有渡郡を安倍郡に・・・石田村は東照宮領・悪王神社除地・牧牛寺除地か・・・近代デジタルライブラリー - 駿河国新風土記. 第3輯 52コマ 石田 これか・・・どうやら、大昔は低湿地で池などがあったようですね。牧牛寺は現存、悪王神社は現在の石田神社だとさ・・・

 右の写真の左上の集落が、石田村で、この村の南端あたりに牧牛寺、北のはずれに石田神社があるような感じですかね。雰囲気からすると、微高地の石田の集落があって、海岸集落は浜提の上に発達した集落で、登呂遺跡は石田と浜提の海岸集落との間に広がっていた弁志田池の岸辺にあった湿田だったのでは?やがてこの池が広大な水田地帯になって行ったということかもしれません。

 近代デジタルライブラリー - 駿国雑志. 3冊 68コマ 石田村 長田庄 石田郷 一村の石だか534石1斗4升2合也・・・なんとなく集落規模は分かりますね。

 池があったか・・・弁志田池・・・この池の想定位置は標高データからすると左の図のようになりますかね・・・浜提と安倍川の自然堤防で囲まれた池で、建物などの関係があるので詳細データは分かりませんが、下水処理場の位置から登呂遺跡がこの池でも深い部分に接していたはず・・・この標高データによると安倍川沿いに集落はもっと後代にならないと発達しそうもないですね。そうなると、プロペラ工場の埋め立てに使うための土を運び出した東側の丘陵地帯に古くからの住民が居て、登呂遺跡は開拓部落として存在していたか?

 登呂遺跡の全体像と、プロペラ工場の造成が始まる前の様子の重ね合わせをもう少し精密にできないか・・・というより、いま想定した、東の有度丘陵との関連を見出すための航空写真が・・・えい!繋げちゃえ・・・というわけで再びいい加減に航空写真をかき集めて繋いでみました。

 そして、登呂遺跡の測量図を重ねると右の写真のようになりますね。あちゃ・・・川がない・・・てっきり有度丘陵との間に川があると思っていました。何かで見たんで・・・一応細い川というか水路がありますが、この川の河口は何処?現在の河口の部分は大谷放水路西・東って信号のある交差点があるから・・・ここに落ちていたのではない・・・

 大谷放水路は清水港の方に流れていた巴川を昭和28年に分流して太平洋に落とす計画を立てて、平成11年に完成・・・なんと、登呂遺跡は有度丘陵の西側の水の落ちて行く先で、駿府の町辺りからの水の落ちる先でもあるわけだ・・・なんだか妙に納得・・・凄い場所じゃん・・・そうなると登呂遺跡の南で、海岸集落が連綿と続いている北側、大谷放水路の東あたりからこの写真の左下の集落の切れているあたりにかけて弁志田池が広がっていた事になるか・・・登呂遺跡の水田は、浜名湖のように浜提が切れた事で汽水湖になったのかもしれない・・・そして淡水化するまで耕作されなくなって残ったか・・・

 ふむ、この弁志田池を埋めた土砂の出どころは、どうやら有度丘陵のようですね。この丘陵、浸食が激しい・・・原因は活断層が通っていますね。写真の右の丘陵に沿って道がありますが、どうやらこの道は断層の上を通ってるのではないかと・・・道って断層の上を通ってる場合が多いので・・・なんとなく・・・ぐずぐずになっていると思われ、東西方向に谷が入っているように見えるので、有度丘陵が崩れ小河川によって運ばれ埋められていったと・・・あ、大谷川があるから違うよな・・・

 妄想はもろくも・・・近代デジタルライブラリー - 静岡県史 一卷 149コマ 安倍川は無茶苦茶な流路を作り出していました・・巴川や大谷放水路ってのは元の安倍川の流路じゃん・・・大谷川での流路で有度丘陵からの土砂の流出はないのか?ただ国府が駿府城の近くに置かれていたみたいですから、登呂遺跡の時代には江戸時代の流路になっていたのではないかと・・・ただ、この地図からすると石田のあたりは安倍川の流路はない・・・さて、どう考えたものか?大谷川の古い流路は分かったが・・・どうやら石田の集落はちょっと高い所にあるのか・・・まあ、河口の位置から海から砂が運ばれていく様子もなんとなくわかるし・・・

 大谷川があるために大谷川の東側が高い?いや違うな・・・このあたりは隆起しているのか?とにかく登呂遺跡のあたりは低湿地で田下駄などが出ているので、水浸しの湿田である事は間違いない・・・マラリアは流行していたのではないかと・・・畔や水路は杭や矢板を打ち込んで保護・・・木材は、遺跡の北西側からスギ16本、シラカシ4本、イヌガヤ3本、ナツグミ2本、エノキ、クスノキ、タラノキ、マユミ、イヌマキ、ネムノキ、各1本の立ち株が発見されたらしい・・・

 これらの樹木は伐採?枯死?・・・まあいいか・・・とにかく、大量の杉材を投入していますから、どこかに加工場があったはずです。金属器はほとんど出土していないようですからね・・・あれ?気になって大谷川をチェックしていると昭和21年の米軍による航空写真には河川の付け替え工事が行われている・・・

 上の地図では右の方へ蛇行しつつ1.5kmほど先の方へ流れて駿河湾に落ちているのに・・・掘削されたていますね。戦中の作業ですかね?巴川からの分流に先立って工事があった?

 巴川からの放水路計画とは別のものなんですかね?なんだかよくわからないが、様々な治水工事が計画されていた事は間違いないようです。治水か・・・そうだ、頭悪いよな・・・ハザードマップがあるはずじゃん!どうして気付かないんだろう?登呂遺跡のあたりのハザードマップを見れば津波被害の想定域がわかるはずじゃないか・・・

 というわけでハザードマップを探すと、ちゃんとありますね。葵区bP5、駿河区bQ

 どうやら登呂遺跡のあたりまで津波は来ないようですが・・・この想定って甘くないか?なんとなく・・・ここまで上がってくるとなると、勾配の小さな暗渠をかなりの圧力で水が逆流しそうな気がします。あちこちで水を吹き上げながら暗渠が破壊されるか、暗渠の先にかなりの水があふれるのではないかと・・・河川を遡上する水についての考慮はあまり為されていないような?4m程度の津波を想定している?

 2011年の地震による津波でえりも町の暗渠に流入した津波で道路が破壊されたりしていますから・・・静岡市の暗渠は道路といっても自転車道や歩道ですから強度は低そうな感じですが・・・

 ん?内閣府の想定している津波の高さで考えると・・・対策の打ちようがあまりないような?静岡が非常な低地である事は分かりましたが・・・未来について悲観的な想定を並べるのは趣旨に反しますから・・・震源の位置によって津波被害の想定は大きく変わる事は間違いないですね。

 さて、登呂遺跡で耕作していた人達・・・これって、完全なよそ者の集団か、近くの裕福な地域から派遣された男たちの開墾ではないかと・・・なんとなく・・・八重山諸島のマラリアと戦いながらの稲作が頭に浮かんだのでね・・・マラリア地帯にはマラリアに免疫を持たない人間はかなり厳しい・・・死亡率は30%を越えるとか・・・女子供は連れて行けない・・・だから、裕福な地帯から昼間に指導に当たり、夕方には帰ってしまう指導者層と、現地労務者に分かれるのではないかと・・・多分、富裕層は台地の上に住み、低地の夜歩きはしなかったと思われてなりません。

 低地の住居は・・・戸を締め切り草で燻して蚊を防いでいたのではないかと・・・それでなければ・・・蚊帳を吊るとか・・・蚊帳の歴史も古いようです。

 史料を見出しました・・・屯田兵のマラリア感染関連ですね。近代デジタルライブラリー - 我邦ニ於ケル麻刺里亜蚊伝搬ノ証明 なかなか大変ですね。近代デジタルライブラリー - 実際のマラリア学 手引書としてはこれが良いようです。

 水田関連の感染症って・・・そういえば撲滅されましたが日本住血吸虫なんってのもありましたね。他には・・・ツツガムシ病だな信濃川・阿賀野川・最上川の河川敷・・・森林も危ないな・・・日本紅斑熱なんってダニが媒介するやつ・・・他には・・・何だろう?

 なんとなく、私が知っている古代集落が台地の上にあることからこんな風な考えを持つような感じです。日本のマラリアは何処へ行った?その原因が知りたい気がします。

 あれあれ、稲作の変遷を考えるはずだったのが・・・どうしてこうなる?気になるのは直播法から苗代を作る事なんですが・・・日本のような寒い所で稲は直播法を行うのは困難だと・・・なんとなく妄想的に思うので・・・それから稲は多年生草本ですが・・・日本のような寒冷な気候では枯れちゃうような気がしますが・・・低温と乾燥で発芽しなかった種子が田圃にあれば、春には発芽するかもしれませんが・・・絶えてしまうような気がします。稲の発芽温度は15℃程度でも発芽するようですから・・・秋の収穫期に放置しておくと、雨でも降れば穂に付いたまま発芽しちゃう・・・寒くなれば枯れてしまう・・・どうやら日本ではやたらと手間のかかる作物である事は間違いないようです。

 しかし、日本人は昔から勤勉なようです。そのままにしておくと消えちゃう蒟蒻芋とか里芋をしっかり保持していますから。稲もちゃんと収穫して保管しているから種籾として働いてくれるし、サツマイモだって・・・放っておいて大丈夫なのは・・・ジャガイモかね?近頃あまり見かけないキク芋は?

 結局のところ・・・稲作には高度な技術が必要で、春先に失敗する可能性が非常に高いという事のようです。そして、秋にやってくる台風・・・縄文の生活に満足していた連中が移行するには非常なハイリスクのような気がして・・・従って、稲作は完全な稲作民族の移住によって成り立って、それを見て、目先の利益に飛びつく連中が導入して行った・・・だから、常陸国風土記の夜刀神の話が成立する・・・夜刀神は台地に暮らし台地を支配する民、低地は鹿狩りを行う場所で、谷津に追い込んで狩りをする。谷津の奥には水場もある・・・稲作民は湖畔の常に水のある泥の湿田を相手にし、作柄が良ければ富の蓄積を行い、谷津の水源に向かって下から開田作業を行い少しずつ田を広げて行く・・・やがて、夜刀神の狩りの区域まで田を伸ばし水路を整備しはじめると猟場を荒らす困った奴に変化・・・夜刀神と稲作民の対立・・・和解が一時成立するが、その後、強権によって夜刀神達の権利は奪い取られ放逐される・・・天皇の名のもとに!というより・・・低地に暮らす事なんってマラリアで無理!って考える人達を尻目に、マラリアに対抗して住み、大きな収穫を得て、さらにそれを糧に水田を開き、見たこともない灌漑設備を目の当たりにして・・・その豊かさを我が物にしたくなる地の人間たちという構図かもしれません。

 ちょうど、旧式な邸宅に住む人が、最新型のガラスと金属の高層建築に憧れるような感じかね?立派な天然素材に囲まれた、ある意味豊かな生活をしている人が、安ピカ物のプラスチックを有難がるとか・・・そんな感じ。満足とは持ていないものを手に入れる事に他ならないから・・・目先の欲望が生活を変化させる・・・なんとなく、結論めいた事にたどりついたからOKとしましょう。多分・・・縄文的な生活を行っている者にとって最悪の環境と思える所に好んで居住する先進、いや別の文化を持つ、ある意味馬鹿者に見える取るに足らない者として入り込み、その文化の持つ豊かさで、周囲を魅了する事になる移住者・・・文化的侵略だね。これなら納得できる・・・ さて、続きは・・・

2013.12.20

関係ないが、興味深いもの

参考になるもの。
東京大学史料編纂所 Historiographical Institute The University of Tokyo
電子資料館 | 国文学研究資料館 
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