香取神宮をうろうろ(82)
 香取志 (16) なぜか登呂遺跡・・・

 さて、素敵な石は払底かな・・・そうだガーネットがありますね。やや、薄いので・・・それでもかなり濃い赤なので悪くないのですが・・・およそ8カラット・・・見かけは大きいのですがね。多分アフリカ産のものでしょう。比較的安い天然石なので・・・まだ12月か・・・1月の誕生石・・・

 深い赤い色・・・ただ、ガーネットは紙やすりの表面のざらざらに使われる石でもあるんでね。こちらなら沢山あります。和名は柘榴石・・・昔はルビーとスピネルとガーネットがごちゃ混ぜだったみたいですが・・・確かに区別しにくいものがありますね。私なんかは直ぐに分からなくなる・・・紫外線や光の屈折などを利用しないと分からんし・・・そんな事をしてまでチェックする気力もあまりないのでね・・・比重や屈折率、複屈折するかとか・・・知識は利用するものですが、そこまでやっても・・・高価な天然石は買わないので、気合を入れて見る必要がない・・・騙される前に、合成石の美しいものにしか手を出さない・・・天然石も内包物の沢山ある個性的な安物にしか手を出せない・・・お財布と価値観の問題ですかね。だから、私にとっては高級おはじき・・・

 ずっと以前・・・筑波山に柘榴石を探しに行ったっけ・・・残念ながらケシ粒大の物ぐらいしか見つかりませんでしたね。ケシ粒・・・あんパンに乗っている小さな種子ぐらいの大きさですね。しかし、なぜ餡パンにケシの種子なのか?気になりますが・・・漉し餡だっけ?胡麻は潰し餡?桜の塩漬けは粒あんだっけ?なんとなく、あんパンが食べたくなった・・・さてさて、現地調査をやったところから脱線してしまったようです。国造体制や集落についてもなんとなく理解したような気がするので良しとしましょう。

 とか言いつつ・・・古代の田圃は、堤防も無いような川の中州のような所に水草などを取って来て埋め込むようにして広げて行ったのでしょうかね?半ば浮いているような・・・基本的に、川の中州などの流作とか浮作ってのは肥料が要りませんからね。ただ、手賀沼などの場合は田へ水草;モクを取って入れたりしていました。堤防の沼側の田を少しでも高くするためですかね?土は取ってはいいけなかったようです。土は・・・トロッコで台地の方から運んだとか・・・そうやって、徐々に田が広がって行ったのでしょう・・・そして、大がかりな干拓・・・田圃って結構長く使われますから・・・北浦の周辺には律令時代からの地割りが残っているような感じですから・・・手賀沼・・・昭和45年ごろは・・・富栄養化前で手賀沼の水は綺麗で、底質は概ね砂だった気がします。タナゴやクチボソなどの小魚が沢山いましたっけ。・・・貝類も豊富でした・・・モク取りをやっていたからですかね?ヒシとかもあったし・・・不思議な形をした実・・・マグマ大使のゴアの円盤のような・・・手賀沼の岸辺に田圃がありましたっけ・・・近頃はどうなっているやら?

さて、香取志 11コマ 返田神社と行きましょう・・・

返田神社 または萱田と書く
香取郡返田村にある。神宮をから1里の所にある。鵜草葺不合尊を祭っている。今、女子が子を産むとき、この神に祈ると安産を得られると云う。これは御母、豊玉姫命が子を産むときに急いで産屋を立てたが屋根が葺き終わるのを待てずに、産屋に入って、御子を産んだことに因むのであろう。一説には、軻遇突智神を祭っているという。世人この神を悪王子神という。末社記にもそうであると云っている。これは、母神が焼かれて死んでしまった事によって云う。


近代デジタルライブラリー - 香取郡誌 218コマ これによれば、軻遇突智神を祀り、埴山姫神を相殿としている。祭日は11月13日・・・返田悪王子神社として知られていたこと、元禄13年の造替の際に改造されていますね。悪王子か・・・悪王子社というと八坂神社・・・ここには、牛頭天王と習合した素戔嗚尊の荒魂が祀られていたようです。返田神社では軻遇突智神ですから・・・悪王子を毘沙門天とするところもあるから・・・かつては悪=強いという意味合いが一般のようで・・・疱瘡神かもしれないし・・・よくわかりません。祭神はどのようなプロセスで決まったのか?そういった事も気になりますね。

 どうも、神仏習合や廃仏毀釈などの影響もあって・・・一説には・・・とか、祭神が不明とか・・・場合によっては、個人が祀ってた神が地域信仰へと変わったり・・・悪王子か・・・色々とあってね。祭神を決定するのは難しい・・・信仰があればよいわけでしょう。気になるのは・・・素戔嗚尊の荒魂とか出てくると蘇民将来が気になりますね・・・ふと、思うのですが・・・蘇民将来って・・・蘇民-将・来かね? 蘇民・・・どうも、出身地に見えてね。江蘇省とか・・・蘇の民の将・来という感じ・・・なんとなく・・・それとも、蘇から将来された・・・とか、どうもそんな風に読めてね・・・技術導入系に考えてしまいますから・・・

 蘇民将来・・・近代デジタルライブラリー - 上代文学新選 校註 44コマ 釈日本紀によるものですが・・・近代デジタルライブラリー - 古風土記逸文 栗田君の本もありますね。

 上代文学新選のは・・・疫隈の国の社、昔北海に坐しし武塔の神、南海の神の女子を婚にいでまししに、日暮れたり。その所に蘇民と将来と二人ありき。兄の蘇民将来はいと貧窮しく、弟の将来は富饒みて屋倉一百ありき。ここに武塔の神、宿処を借り給すに、惜みて借し奉らず。兄の蘇民将来は借し奉りき。すなはち、粟柄を座として粟飯棟を饗へ奉りき。奉ることここに畢へて出ませる後に、年を経て八柱の子を率て還り来て詔り給ひしく「我、奉はれし報答をなさむ」といひて、「汝が子孫蘇の家にありや」と問ひ給ひき。蘇民将来、答え申さく、「己が女子とこの婦と侍ふ」と申しき。すなはち詔り給ひしく「茅の輪を腰の上に着けしめよ」と詔り給ひき。詔のまにまに著けしめしに、その夜に蘇民の女子一人を置きて、皆ことごとくに殺し亡してき。すなは詔り給ひしく、「吾は速須佐能雄の神なり。後の世に疫気あらば、汝、蘇民将来の子孫と云ひて、茅の輪を腰の上に著けよと詔る。詔のまにま著けしめば、その夜ある人は免れなむ」と詔り給ひき。

 ん?栗田君の方は巨旦を補っていますが・・・原文には無いとのこと・・・栗田君は綺麗にまとめる方が好きみたいな・・・この巨旦は何から引いてきて補ったのやら?近代デジタルライブラリー - 国史大系. 第7巻 319コマ 素戔嗚尊乞宿於衆神 京都大学附属図書館所蔵 平松文庫 『釈日本紀』 このあたりには巨旦は出てきませんね・・・或本作巨旦將來也・・・だね。出典が不明・・・栗田君はどこから引いて来たんだ?もう一か所の巨旦の方には補ったと無いのが気になります。右の赤で囲んだ部分ですけど・・・(二)の注は確かに補ったと書かれていますが・・・なんとなく・・・前に注を入れていますから、後の部分から引いてきて前に入れたように見えちゃいますが・・・釈日本紀には巨旦が見当たりません・・・ちょっと不思議・・・古眼の為せる技なのか?

 さて、どこから巨旦を引いて来たのやら?・・・近代デジタルライブラリー - 採輯諸国風土記 87コマ 備後国 こちらには注式にあるとしていますね。なんとなく微妙な・・・

 なんとなく、都合よく編集されているような気もしなくもない・・・蘇民将来の話はどのように考えたらよいのか?身なりのぱっとしない武塔神という姿に身をやつして、その地域の有力者を出自とするお金持ちの所と、貧乏人の所へ行って、その人間性を確かめる・・・その後に、人格的に優れたものを取立てて、資本注入でもする準備かね?悪い方を葬ってしまえば、その財産は良い方へ移る・・・立派な姿をして現れて・・・支配権を確立する作業でしょうか?

 この伝承はどの時代なのか?これが気になります。水稲が導入される前だと、粟が高級な食べ物なのかもしれない・・・貧乏でも奮発して粟を出した?主食がサトイモとか・・・しかし、気になるのは、この話は古そうなんでね。武塔神って何?多分後の付会で速須佐能神となるのでしょうが、なんとなく違うような気がしてね。行疫神・疱瘡神というのが気になるわけです。薬師如来とか・・・鹿島神宮では須賀社に祭られていますね。12月の初午の日の夜に神衣を捧げるとか、このときの神官の姿を見ると疫病にかかるとか・・・この夜は人々は戸を閉じて出歩かないとか・・・香取神宮にもこういった話があったような?風の神様だっけ?どこかで読んだ・・・おぼろげな記憶・・・

 病気関連の古い大陸系の由来を持ちそうなのが・・・十不全の系統にある神様ですかね?なんとなく・・・十不全の系統のものは・・・羽黒山の能除大師・・・月山・羽黒山あたりの文化は縄文から続くような感じで・・・六脚の鐘楼なんかは三内丸山遺跡の復元建物を彷彿とさせるし・・・ヌマ小屋などは竪穴式住居の直系の子孫のようなものですから・・・なんとなく、日本海文化の気配が・・・

 私の妄想的な見解では紀元前3世紀ぐらいの話に紀元200年代のスサノオの話を上書きしたような感じ・・・疫病を自在に扱う武塔神が、出雲の方から備後を経て四国か九州へ夜這いに出る・・・その宿での話・・・立派な姿で戻ってきて、権力秩序の改変を行う神・・・九州から大陸へ出て戻ってきて出雲方面へ進出したスサノウの話とダブらせた・・・なんとなく、民族というより文化の問題かな?古い縄文は北方系の文化で、江南地方から広がった黄海・東シナ海文化が弥生の基本となる文化・・・ただ、もうひとつ気になるのは、縄文の南方系文化のサトイモ喰いの連中かな・・・サトイモは日本では自生できないはずですから・・・多分・・・あれは凍結させたら駄目でしょうから・・・多分5度以下になると腐ってしまう・・・縄文のイージーな食いものは何?山芋かね?クリ?栃の実?縄文の深い穴倉はサトイモ用かね?水道管を埋設する所よりちょっと深く掘らねばならないでしょうね・・・南方からやってきた人たちが、寒冷な日本で頑張って食文化を維持した・・・いや、数次にわたって日本へ入ってきた・・・試行錯誤の繰り返し・・・

 日本で自生できない、人間の手で冬を越させないと生き残れない作物・・・北方系の物を駆逐する南方系・・・それは・・・南方系の多産かね?そして・・・米作へ・・・外来の高級食材の系統にあるもの・・・サトイモ、米・・・在来系の高級食材、ヤマノイモ、粟・・・かな?これに比べるとクリや栃の実は虫との競争かもしれないが、多量の収穫が望めるのか?

 ふと・・・農業とは何なのか?野生の樹木なら・・・その所有権の主張から始まる、種で冬を越すものは・・・冬にその種を保ちたる者・・・ふと気になる事が・・・北浦沿いの奈良毛とかの水田は奈良時代の区画のようなんですが・・・水田は簡単には放棄されない・・・連作障害とか出ないから延々と使われ続けるが・・・登呂遺跡は何故耕作放棄された?まあ、しばらくの中断なのでしょうが?・・・安倍川の洪水によって・・・集落が埋め尽くされその上に新しい水田が開かれた?登呂遺跡・・・有名な遺跡ですが、詳細は知らないなぁ〜

 登呂遺跡が発見される契機になるのは住友軽金属の航空機用プロペラ工場の造成に始まるようです。この工場は水田地帯に作られる事になったので、2kmほど離れた有度丘陵を切削してその土をトロッコで運び出す事になるわけです。多分・・・現静岡大学のあたりですかね?しかし、時局は丘陵地帯からの土砂の輸送だけではなく、応急として、工場予定地の南側の水田の表土を剥がして工場用地の造成を行います。その結果、水田表土の削土の中から様々な遺物が見出されて行ったという事のようです。これが昭和18年の1月ごろの事のようです。そして、中田国民学校の教師・生徒によって6月ごろから小規模な発掘が行われ、中央の専門家に報告されたようです。

 ちょうど奈良県唐古遺跡の発見の余韻が残っているため注目されたという事のようです。唐子遺跡の発掘に続く大発見!という事のようです。

 1939年の陸軍の航空写真・・・左のが昭和14年10月のものですが、水田地帯が広がっているだけで良くわかりませんね。登呂遺跡のが所は中央やや上のあたりと思われますが・・・この写真ではまだ造成の痕跡は認められませんね。そりゃ、登呂遺跡発見が昭和18年ですから、その痕跡すら無いわけで、水田の地下数メートルの所に埋もれていた遺跡ですからね。写真上の集落はどこかね?石田交差点のあたりかね?

 昭和18年7月11日の新聞報道の直後の7月15日には、昭和15年の静岡大火からの復興のための復興局によってこの遺跡の測量図が作られます。そして8月に入って8月9日から12日にかけてもう一度測量が行われ、発掘調査は8月17日から29日まで発掘が行われたようです。これが登呂遺跡の一次調査に当たるようです。

 そして、戦争の中に登呂遺跡は沈んでいきます。そして、掘り出された杭などの遺構はよく燃えるので戦中戦後のどさくさの中で消えて行きます。

 昭和21年の米軍によって撮影された航空写真の上に昭和18年の測量結果を重ねると右の写真のようになりますね。あまり厳密な考証をしていませんが、地形との相関関係だけですから果たしてあっているか?まあ、水路の遺構や、工場敷地、土取りをした跡などからの雰囲気としては概ねあっていると思いますがね。

 他にもいくつかの測量図がありますが、組み合わせるのは微妙に困難なので諦めましたが・・・まあ、概ねこんな感じでしょう。

 重ね合わせは・・・モノクロのデータからアウトラインを取ってそれを黄色にして重ねるだけだから簡単・・・昔なら暗室作業での根気仕事が、PC上の安直な作業で済むんですから・・・技術の進歩は・・・まあ、厳密さについてはやや疑問がありますが、登呂遺跡の発見の経緯は分かりました。

 ただ、この遺跡を埋めたのは何によるものなのか?水田の地下1mほど・・・この1mほどの層を堆積させた事の方が気になります。まあ、灌漑が行われていた事、そして田圃だった所が放棄される事はあまりない事だけ確認できましたからOKですね。

 すると、流作や浮作の水田はやがて本田へ変わって行ったと考える事ができ・・・水田遺跡は水田の下に在って、何らかの原因で・・・多くは洪水などでかなりの厚さの表土が新たに堆積する事で保存される事になるのでしょう。さて、登呂遺跡の全体像もなんとなく分かったしOKですね。登呂遺跡の高床倉庫は4m×2.5m地面から床までの高さは1.45m・・・多分10トンぐらいの倉庫ですかね?10町程の田からの収穫物を入れるのかね?一辺が300mほどの方形区画・・・登呂遺跡は・・・1世紀頃の遺跡ですね。灌漑用の水路や畔とかを考えるとおよそ450m四方・・・律令官人か徐福が考えたらどんな計画を立てるのか?居住・作業区画と耕作地、倉庫区画・・・だって、これって計画村落のような感じですからね・・・この周囲も地下1mぐらいの所に遺跡が眠っているような感じですから・・・東名高速道路の建設の際に発掘は行われたのか?ちょっと気になります。・・・一応は1968年頃に調査報告書がずいぶんと出てる感じですね。こんなのも見たい気がしますが・・・ネット上にあればね・・・

 登呂遺跡は・・・1月ごろから遺跡が出始めたみたいですから・・・このあたりは乾田ですね。冬場に地下水位より高い所にある表土を剥がしてそれで造成か・・・そして、地下水の出てくるあたり・・・2000年ほど前の湿地の地層まで掘り下げ、そこから木製品が色々と出てきたわけですね。水に浸かっていたために腐らなかった・・・掘り出して乾燥させると縮んで形が変わる・・・保存はどうしてるんだろう?・・・乾燥・・・まさか、電子顕微鏡の試料を作るときみたいな方法ですかね?まさかね・・・あれは、液体二酸化炭素と水を置き替えて乾燥時の表面張力による変形を防ぐために行われますね・・・大昔の知識・・・臨界点乾燥ってやつだっけ?今はどうしてるんだろう?大きなものは乾燥できませんかね?・・・出土品は・・・ああ、ポリエチレングリコール置換ね・・・了解・・・

 ネットの中の情報をもう少し掘ってみると・・・推定される登呂の集落・・・住居跡12戸、高床倉庫跡4、水田総面積7万585u、人口は住居の大きさと数からみて、70人ぐらいか・・・ふむ・・・想定に近いような?食料需要に対しての計算をしてみると・・・水田面積7.6万平米はおよそ77反で77石77人分の1年の米を生産できる・・・77石の米の2〜3年分を貯蔵できる倉が床面積で10平米×4=40平米 1平米あたり 3年分として77×3=231石だから 231÷40=5.775石 米櫃式に蓄えたら、およそ6石は1立米だから・・・1mの高さまで積み上げればOK・・・玄米ベースで・・・この時代は何で蓄えていたのやら?

 あきらめが悪い人間なんで、昭和14年10月の陸軍の写真に、昭和18年の測量図を重ねてみました。道がずいぶんと改変されていますから面倒でした。昭和21年の地図を重ねて位置を確認したものです。

 どうやら、工場用地の左上の水路は改修を受けているようで、左の写真では道から離れた所を通っていますが、どうやら工場を造成した際に水路を道沿いに付け替えたようです。土地宝典でもあればもう少し正確な位置が出せるかな?

 ちょっと気になるのが、上の昭和21年の米軍の航空写真に重ねたもの・・・登呂遺跡の南端の部分の細長い土取りされなかった場所・・・ここって、東名高速道路になった場所かね?紀元1世紀頃の地割りが、律令時代に引き継がれ、20世紀まで残ったか?そして、登呂遺跡は、この水路のクランクになった右側に在って、この水路が溢れて壊滅的な打撃を受けた?そこで、集落はこの場所の対岸の、写真にある位置に移動した?・・・この水路の位置は、現在の静岡放送センターの脇の道のあたりではないかと思います。このあたりの様子はGoogleEarthで眺めたからOKです・・・行きたい気がしますが、ちょっと遠いし・・・

 こういった遺跡は、残念ながら右の写真のように鳥瞰しないとあまり意味を持たないような?こうして集落の全貌を眺める事が出来る50mを越えるようなタワーでもあれば行きたいですね。車で周囲を廻っても、残念ながら空間を把握できそうにないのでね。

 景気が良ければ、こういった場所にランドマークタワーを建てるのも良いかもしれませんが・・・五稜郭タワーみたいなやつか・・・五稜郭タワーは平成16年着工だから、今でもやればできるのか・・・富士山が世界遺産になったし・・・まあ、そのうち都市化がもっと進んだら、近くの高松浄化センターが地下になるか移設する事になるから、富士山を望むようにタワーを建てて、ついでに、高速のサービスエリアを設置して、繋げばそこそこ利用しやすいが・・・日本坂と日本平のパーキングエリアの中間か・・・多分、登呂には行く機会は私にはなさそうです。

 しかし・・・ちょっと気になるのは登呂遺跡は安倍川の氾濫によって壊滅し、その後、田が再建されるようですが・・・標高データを眺めると、ここまで安倍川が氾濫して壊滅するかね?

 登呂遺跡を海岸集落にするには海水面を4mほど上げると左のようになりますね。これからすると・・・登呂遺跡のあたりに安倍川が来るのは・・・?

 まあ、有名な遺跡ですから十分な学術調査がなされているのでしょう。私のような遊びとは違いますから・・・このあたりまでの資料を眺めると・・・なんとなく津波による湿地への海水の流入で、相当な期間塩害で耕作放棄・・・塩分が抜けて、再び耕作を開始・・・集落は移転して、現在の石田3丁目あたりに移転してその集落が続いたとか?

 妄想的な解釈にはお金がかかりませんからOKですね。これを証明するためには・・・このあたりの土のサンプルが必要ですね・・・ケイソウか何か化石でも見つかるなら、登呂遺跡を塩害というか・・・海水に住むプランクトンの化石でも出てくれば・・・気になるのは・・・

 航空写真は面白いものです・・・登呂遺跡って、一度水田に戻されているようです。そして、その後、再び発掘が行われたのか・・・

 1959年かな?右の写真は・・・これによれば、登呂遺跡は水田になっていますが・・・東名自動車道は1966年に資金のめどが立って工事が開始されていきますね。どうやら、東名自動車道のあたりが、当時の砂浜と海岸低地の境目辺りかね?鹿島灘の海岸の田を普段眺めている印象からですけど・・・東名高速道路になった部分が、浜提になっていて、登呂遺跡あたりが後背湿地になっていた・・・そこに海水が流れ込んだためにかなり長い期間、塩害になってたのか?

 どうも、津波を考えてしまいますね。登呂遺跡の高床倉庫の発掘写真でもないかな?・・・ああ、そうだ大場磐雄博士写真資料があるはず・・・國學院デジタルミュージアム 登呂遺跡 ちゃんとありました・・・國學院デジタルミュージアム 8本柱倉庫跡と立ち株群付近の状況 どうやら、鉄塔の位置からすると、南の方から撮っているようです。この写真から、建物に働いた力を推測するのは困難・・・場所の特定をするためには・・・高圧鉄塔の位置は分かっているが・・・候補は3か所程度・・・

 とにかく登呂遺跡の倉庫群は昭和14年当時の水路の左側の石田の集落の南方にあるような感じ・・・森林跡と説明があるようですが・・・登呂遺跡の集落の近くには墓地が無いとか・・・

 もうひとつ気になるのは・・・この低地集落・・・日本はマラリアは無かったのか?という小さな疑問・・・歴史が教えるところによると、日本にもマラリアがあったが、現在は撲滅されている・・・登呂遺跡ってここで居住していたのか?

 ふむ・・・そういえば、古い集落って、台地の上にあったりしますね。まさか、マラリア対策かね?鹿嶋市の神野なども台地の上に集落があって、ここは台地の下の井戸から水を運ぶので大変だったとか・・・マラリアというやつも考える必要があるのか?稲作はマラリアとの戦いなのか?

 朝鮮総督府の朝鮮半島での調査の中でそういった話が出てましたからね・・・日本でマラリアが撲滅されたのはいつ?屯田兵などもマラリアの罹患者が多かったとか・・・もし、このあたりもマラリア地帯であったのなら・・・この場所に人が居住するのは困難ですね。最寄りの高台は・・・このあたりに土を運んだ静岡大学のキャンパス辺りかね?およそ2kmの距離・・・歩いて30分ぐらいですかね?色々と可能性は考えられる・・・上の1960年頃の写真で、赤丸の部分が登呂遺跡・・・この左上の集落が古き石田の集落でしょうから・・・昭和14年の写真と測量図の重ね合わせはほぼ正しい事になるか・・・

 石田の集落が高乾な場所で、マラリアの影響を受けない場所で、登呂遺跡の住居跡は低地の出作地かね?従って墓地は無しとか?金属器は極めて限られているが、木工品が山ほど出ている・・・従って・・・ここで加工したのではないのか?愚問が山ほど・・・妄想研究だから仕方ない・・・ハマダラカは夜間の吸血だから・・・ここは昼間だけの集落とか?ふと、炉の構造が気になる・・・住居内が煙に満たされているような構造ならOKかなって・・・出作小屋?まさか昼寝用の小屋かね?冬は月山のヌマ小屋のように器物を埋蔵してその上にヌマ仁王として屋根を構成する部材をまとめて置いておくとか・・・しかし、倉庫があるから、出作小屋ではない・・・

 ふむ・・・鹿島や香取神宮のある地域はマラリアの影響が無さそうな場所ですね・・・事によると何か関連があるのか?無理やりかね?でも面白そう・・・しかし、上の写真からすると、一度掘り返された登呂遺跡は、再び水田になっている・・・農地の改変って困難なのかなと・・・

 しかし・・・なんで登呂遺跡に迷い込んだ・・・遊びの妄想研究だから・・・その割には気合が入っている・・・完全に楽しんでる・・・稲作ってマラリアとの戦いなのか?ふと・・・ちょっと、心にとめておこう・・・このあたりで登呂遺跡は終わりにして、香取志へ戻らねば・・・なんとなく納得したから・・・疑問は持ち越し・・・とはいかないか・・・整備された登呂遺跡の水田跡の正方形区画は昭和14年の陸軍の航空写真の中に石田の集落の南の方に広がっているのと似ているような?

 画像処理をちょっと繰り返してみると、右のような感じです。どうやら、プロペラ工場になったあたりと、登呂遺跡のあたりでは区画割りが変わっているような?方形から短冊に変わっている?

 方形の田と短冊形の田って開発年代の違いかね?こういった形って計画者の文化の違いとか?設計思想の違いかね?地形は概ね同じような感じですから・・・登呂遺跡が津波による塩害で放棄され、再開発されたときには違う設計思想によって再構築された・・・

 昭和21年の航空写真でも明らかに地割りが違う・・・このあたりの区画整理事業は?と別の興味がわいてきますね。困ったものだ・・・

 少なくとも、登呂遺跡が安倍川の氾濫で埋没したのでない事は確実かな?だって・・・安倍川は糸魚川静岡構造線の南端に当たるようです・・・構造線や断層の上は浸食されやすいから、それほど川道は変わらないだろうというだけですから・・・しかし、ここの地割りの違いは何だろう?

 近代デジタルライブラリー - 静岡案内 20コマ 衛生的設備 これがヒントか?

 静岡市は多年の宿題となり居れる下水道改良問題あり東西の都人士静岡の下水路を見て驚かざるもの無し降雨二時間を続けば下水路氾濫し道路は川と化し濁流滔々として河川に異らざるの機関を呈するも豈に不思議なりとの観念を起こさざるに至れるありさめにして之れ常時当然として恬と省みざるに至れり・・・・か・・・登呂遺跡は下水処理場の脇に在りますから・・・古来、このあたりは雨が降ると水の流れ込む場所だったとか?それで、耕作の様子が違っているとか?伏流水の影響・・・地下水位が高いから・・・津波の塩害による影響は短期間で消えそう・・・少なくとも、耕作地が流されても、新たに地割りをする権力は古くから存在した事は間違いなさそう・・・支配とか権力って何なんだ?初期の稲作を担った人間は何?なんって妙な疑問を・・・

2013.12.18

関係ないが、興味深いもの
近代デジタルライブラリー - 検索結果 培養秘録 興味深い・・・
近代デジタルライブラリー - 日本経済叢書. 續 第1巻 19コマ 清良記 農業技術も・・・
 近代デジタルライブラリー - 検索結果 日本経済叢書 興味深い本がずいぶんと収録されている・・・
 
参考になるもの。
東京大学史料編纂所 Historiographical Institute The University of Tokyo
電子資料館 | 国文学研究資料館 
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国立国会図書館デジタル化資料 - 和名類聚抄 20巻 
大日本海志編纂資料 資料分類
近代デジタルライブラリー - 大日本神名辞書
茨城県遺跡リポジトリ
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国際日本文化研究センター 怪異・妖怪伝承データベース
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