香取神宮をうろうろ(26)
 建物が建ち始め、いよいよ本殿が・・・

 さて、いよいよ本殿が建ちそうな気配です。しかし2ヶ月程でそれなりの形になるのか、予定では9月の20日過ぎに正遷宮を行おうとしていましたから・・・このスケジュールはなかなか厳しいのでは?そんな気がして・・・300年以上前の事で私が気にしても意味ないのですが、まだ細かな所は読んでないので・・・事実上、リアルタイム風に日記を読んでいますからね。そりゃ断片的な知識はあるのですが・・・分かっていることは、元禄13年中に完成をみるということぐらいですかね・・・先読みしたら面白くない・・・毎回数日分を読み取って、それで書いていますから・・・

 しかし・・・300年前の人間も今の人間と大差ないような・・・300年前の新市場ってどんな集落だったのやら?どんな所で賭場を開いていたのか?こういった物の方が気になりますね。さて、先へ進めるとしましょう。

27日普請は前のように続いている。会所の十左衛門の所へ顔を出してきた。
・この日江戸から大仏師法橋善慶という者が、仏像や神宝の見分にやってきた。御普請役人より見分の案内をするようにとの添え状が来る。案内をさせて見分を済ませた。
この日六所社の敷地が狭いので、左右にある小さな松や杉を伐って敷地を広げた。
・宮下名主文左衛門を呼んで、文蔵・弥一右衛門の話した通りにするように告げた。丹波は留守、蔵人も若いので、お前たちがしっかり調査して賭博が無いようにせよと申し聞かせた。
・雉子判官を呼んで文蔵・弥一右衛門が、新市場には割るものが入り込んでいるとのことだから、年寄と相談の上、追放するように、指図を守って行い報告するように告げた。雉子判官は判りました相談の上そのようにしますと言った。
・金剛寶寺の普請場へ顔御出して、賭博の事について金剛寶寺へも相談した。物申祝・大祝もいたのでその件の話をする。
28日御普請は今までと同じように進んでいる。会所の十左衛門へ顔を出す。
29日御普請はいつも通り進んでいる。会所の十左衛門へ内膳が顔を出すと、彩色小屋ができるまでの間は、丹波殿の座敷を彩色所に借用したいと問い合わせて欲しいとのこと。わかりましたと答えた。

 7月も終わろうとしています。法橋か・・・称号ですね。法橋の位にある善慶という大仏師がやってくるというわけです。この時代、善慶の作品はいくつか残っているようですね。修理は何処で行うのか?ちょっと気になります。馬の飾りとかそういったのは大細工でしたっけ・・・大細工屋敷が、二の鳥居の北側の低い方か高い方かにあるらしいことが分かりましたが、詳細は不明でしたね。

 何故、大細工屋敷を使わない?それとも、このときには材細工屋敷が存在しないとか?こういった事は記録にあるのか?ちょっと気になります。こういった名称を持った屋敷って・・・役宅だから個人の物ではなく役職に就くと、その屋敷を使う事になるのか・・・大細工は庭上神官だから・・・大細工の職掌の1つは知ってます・・・白馬祭で・・・幣は幣所祝がこれを出して田令に授け、田令が神夫がこれを馬に付けた。馬面は大細工が製作して、大仏子に描かせ田令に授けて、田令はこれを神夫に授けて、神夫が馬に1・2の馬に被らせた。なんって感じですから、大細工の所に家内工業的な職人がいるんでしょうか?案外、庭上神官たちってそういった職人集団を統括している者たちだったが、時代が下ると職人集団の持つ技術が流出し、ついにはアウトソーシングへと移行していくとか?こりゃ、ちょっと神職の一覧などを作る必要があるかな・・・そして、その職掌についても知りたくなるし・・・ただ・・・あまり厳密にやると遊びじゃなくなっちゃうし・・・というもの・・・手持ちの史料が増えるに従って、初期の妄想はほころびてきますから、こいつを科学的な精神に基づいて再構成すると・・・そりゃ、本気の研究になっちゃいますからね。

 そうそう・・・この白馬祭の馬面だって・・・惣持院と言う真言宗の寺がある。一月七日に白馬祭の馬面を納める寺ってあって・・・馬面は大細工が製作して、大仏子に描かせ田令に授けて、田令はこれを神夫に授けて、神夫が馬に1・2の馬に被らせた・・・2つの文章をつじつまが合うようにすると・・・香取神宮では注文というやつがありますからこういった物をくっつけると・・・

 白馬祭に先立って、白馬祭に必要な物資の注文がなされる。馬面は真言宗の惣持院に注文が発せられ、その料XX斗とかXX貫文が惣持院より納められ、その料によって外陣の祭式に奉仕する庭上神官の一人である大細工が大仏子に発注して作らせ納品させる。納品された馬面は白馬祭で大細工が田令に授けて、田令はこれを神夫に授けて、神夫が馬に1・2の馬に被らせるというものであった。

 こんな具合に偉そうにですかね・・・これに、それぞれの文の出典を付けて、読む人を納得させるような事を繰り返すと、それなりの美しく、本当っぽくなるというわけです。

 しまった・・・別の史料が出ちゃった・・・祭器ならびに神饌名目考によれば・・・馬面、大細工製作し、大仏子これを描く、大仏子は惣持院住職之に兼務す、図は左のごとし、1・2の神馬に付ける。

 大仏子って惣持院の住職が兼務、住職が馬の顔の絵を描くのか?描いて納めるなら大細工が作ることはないじゃん?ブツブツ・・・何が正しいのやら?正しいと信じてもらえることが大切で、多くの人が信じるとそれが史実でなくても、本当の事に化ける!

 さて、神職一覧とかどうする・・・元禄13年の造営に関する日記を1回読み解いた時点で考えますかね。ん!よき日本文化に則って・・・先送り・・・先送り・・・

 六所神社が狭いとな?ふむ、現状の六所神社は右の様なものです。これで狭いとなると元のサイズはどんなものだったのやら?気になりますね・・・このところ、香取神宮と鹿島神宮を比較してしまうのですが、おぼろげな記憶では、鹿島神宮にもこれに似た雰囲気の末社があったような記憶が・・・

 確か、二十末社ってのが・・・場所は仮殿と宝物館の間を入って、神武殿の下へ降りる道があって、小さな橋を渡った左のあたりにあったような記憶があります。ちょっと、細かなところまで記憶が無いのですが、赤い社が並んでいたような記憶が・・・現在このあたりは、工事中ですね。大規模な地形改変が行われています。どんな具合に変わるのか?一応、工事事務所の所に張ってあった計画図も眺めましたが、二十末社の半分ぐらいが工事にかかるのではないかと・・・私の好きな場所だったのに・・・発掘調査が入って、入れなくなったままになった空間でしたけどね・・・一応地図があると分かりやすいですね。確か、写真も撮った記憶がありますから、そのうち探してみましょう。

 この地図に示されている二十末社への道は、既に過去の物ですね。

 なんとなく、香取神宮・鹿島神宮は互いに影響を与えあって時代を越えてきたような気がしますね。また脇道へ・・・どうも、失われゆくものが好きなようです・・・

 いよいよ8月です。先に進めましょう・・・

8月1日御普請は休みである。津宮の十左衛門の宿舎に、八朔の祝儀に出かける。この日、惣左衛門がやってきた。津宮まで図書と顔を出しに行く。内膳の方へも暮れ方に顔を出しした。
2日惣左衛門・十左衛門両人が参詣のためにやってくるので、蔵人・図書その他の社家の頭が原町まで出迎えをする。その後会所で話を聞いた。惣左衛門によると、御神宝の内遷宮が終わった後で完成しても問題ないものをリストアップするようにとのことであった。
楼門の随身 八龍神 玉箱 広矛箱 御行器 これらの物はもし完成していなくて、遅くなったとしても困ることはないと記した。
この日楼門の柱立、幣殿の柱立、拝殿の屋根地、御本社の柱を4・5本立った。

 8月1日は休みか・・・八朔ですね。八朔の祭は香取神宮でやってたっけ?・・・十左衛門の宿舎に八朔の祝儀か・・・ああ、思い出した。幕府の公休日ですね。徳川家の八朔祝賀の儀・・・天正18年8月1日に徳川家康が江戸城に入城したという事で幕府の祝日でした。その休みに乗ってか・・・八朔=8月1日って、秋の収穫のはしりの時期ですね。そこで、初穂=田の実(見)を恩を受けている人などに贈るというわけです。それで田の実の節句などと言われ・・・それが初穂を送ること=日頃お世話になっている事を示すものになり・・・お役人様に対しても報恩・・・祝儀の金包みを役所に持ていくと、それが食べ物に化けて下賜されてそれで宴会を行うので八朔の祭が江戸中期あたりから大々的に行われる地域が発生したか?なんてね。典拠は・・・特にないな・・・こうなると調べてみると 近代デジタルライブラリー - [大阪市]社会部報告. 第200号 職業紹介事業關係史料 正月や八朔は祝儀が行われていたことが分かりますね。この資料面白い・・・女口入れ仲間か・・・色々あるものだ。祝儀も固定化され、権益の独占の代償としての上納金のようになっていくのでしょうか?興味深い・・・

 さすがに9月20日過ぎの正遷宮の日程に間に合わない物が出てきた感じです。御神宝類の修復はどんな予定でそんな具合に間に合わないのか?ちょっと気になります。彩色小屋ができていないとかやっていますから、装飾関連の部門で遅れが出ているような感じです。旧本殿から外した彫刻類の修復は江戸でやっているようですが、御神宝の彩色などの予定はどうだったのやら?江戸へ運んで?それとも香取で?・・・入札が不調とか・・・色々と原因が考えられますが・・・優先順位をという話になっているようです。御神宝の内、遅れが許されるのは・・・楼門の随身 八龍神 玉箱 広矛箱 御行器 か・・・楼門の隋人か・・・これは新規の作成?新規だとすると・・・昔は龍神を置いていたが、神のお告げがあって龍神を楼の上に安置して、隋人に替えたという事であるって・・・その前は仁王門だった。

 変な所で切れている昔の絵巻を無理やりつないで画像処理したんであまり美しく繋がりませんでしたが、右の様なものですね。

 ふと・・・門って、立てまわした塀の所に開けられた開閉自在の入口ですが・・・閉鎖的な空間ではないのがね。門の意味は気分程度のもののような感じです。

そもそも、この造営の前に楼門があったかどうか不明・・・例の数日間の記録が消滅していますから・・・ただ、楼門の取り壊しは3日程度では終わらないような気がしますから、解体の開始、解体の終了の記述があっても良さそうな気がします・・・すると、この時期には楼門は存在していなかった可能性がありますね。

 こりゃ、リストを作ってチェックしないと、新造か修復か分からなくなる・・・

 八龍神は幣殿にあるとか・・・幣殿って、この造営によって作られるようですから、それ以前は何処にあったのやら?本殿ですかね?それとも中門・・・しかし、幣拝殿または中門の様なものを解体した話もないし・・・例の空白の数日間にバタバタと解体したか?

 慶長年間の造営の資料を見たことが無いので何とも言えないですが・・・でも、記録があるみたいな雰囲気・・・香取神宮のホームページには・・・この本殿は、慶長年間の造営で用いた桃山様式を元禄の造営時にも取り入れよく受け継いでいます・・・・とあるので・・・慶長年間の造営で用いた桃山様式というものがはっきりとしているようだ・・・

 私の手元には柱の木を切ったのと、山口祭があったのと、大工などの工人リストがあるだけで、建築の内容は不明・・・建物に関する記述は慶長11年9月24日に本社の棟の上、5丈程の高さから大坂衆の金七が落ちたが死ななかったという程度ですね。15mほどの高さから落ちた・・・当時の本殿の高さは5丈ほどあったわけですね。残念ながら、情報はこれだけです。これによれば慶長10年から用材の切り出しがはじまり・・・新修香取神宮小史によると・・・慶長11年3月3日釿始め、柱立が11年8月12日、上棟は12年8月22日、遷宮は8月24日らしい・・・工期が非常に長い・・・柱立から上棟まで1年あるとは・・・記録が変なのか、それとも、工事の中断か? 気になりますが・・・史料を集めるのは面倒だし・・・これが問題・・・そのうち何か気付くでしょう・・・釿始めから柱立が長いのは木材の乾燥期間と考えれば納得できますが・・・他に文献資料があればチェックできますが???・・・そのうち・・・調べましょう。

 その他の神宝・・・玉箱 広矛箱 御行器 まこもの巻行器じゃないよね。立派な曲げ物の器か?漆塗りの凄いのとか・・・宝物館に展示されているとか?気になりますね。玉箱って何?もしかして・・・馬泥棒の件か?陸奥から馬を徴発して逃げてきて馬渡で満珠と干珠を使って上手く牧まで連れて来て隠した話の玉の箱か?広矛は・・・経津主の矛の箱か?まあ、遷宮には使わないですね。

 箱を作るという事は・・・満珠と干珠は存在するのか・・・これがあれば、はまぐり取りには絶大な威力を発揮するのに・・・なんって下らないことを考えてしまいます。さて・・・ろくに進めないうちに長くなってしまいました・・・ここらで切るとしましょう。それでは次回・・・

2013.07.24

関係ないが、興味深いもの
近代デジタルライブラリー - 新しき年中行事 新しきと題されていますが、連綿と続いて来た年中行事は名を変えて引き継がれてきているという立場で新しく名を替えてきた年中行事の古の意味であるとかを示しているものです。この本でもベースにして年中行事の学問ごっこを行うのも面白いかも!今後の予定に組み込むことにしましょう。
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