香取神宮をうろうろ(25)
 建物が建ち始め、いよいよ本殿が・・・

 ふと・・・神道か・・・原初的な自然崇拝の残滓・・・だと思いますね。それで良い・・・願文は即物的な物が多く、それを許容する神々・・・そして、神仏習合・・・大慈大悲、十一面観音菩薩などはその最たるものか・・・私は、基本的に神仏融合論者なんで・・・すべてを受け入れる神か・・・そこには複雑な行の概念が無い・・・日々の行いが行でもあるのかもしれませんが。欲望を純化する必要があるのか?人間から煩悩を奪ったら何になる?神道は・・・麻薬にはなりえない・・・神道での法悦なんってのはなんとなくそぐわない気がするのでね・・・その意味では、価値ある宗教なのか?女の脛を見て空から落ちる行者などは素敵に思えます。人は人からは解脱しえなくて良いのではないかと思うのでね。神様・・・お願いです、XXを諦めますから○○をお願い・・・XXがあるうちが華なのでは・・・それを許容する神は素敵です。

 さて、日々の行いの集大成の造替に戻るとしましょう。宮柱が立って以来の連綿とした人間の価値ある行為の集大成が造替だと思うのでね。少し、昨今の事に寄り道しましたが、過去があっての現在で、現在から過去へと遡っても、普通は過去を見る事はできないことも知っていますけど・・・それでも、あまりにも荒唐無稽な妄想を抱くのは、長期にわたる妄想を維持できないことも知っているので少しだけ眺めて来たというわけです。さあ、壮大なる妄想の世界へ!と続けることにしましょう・・・

20日丹波・図書と津宮の十左衛門の宿舎へ嵐見舞いに出向く。この夜に小屋番へ夜廻りを出した。嵐のため御普請は休みだった。
7月21日十左衛門は神前の会所へ出かけて、丹波と図書を呼んで、本社御柱立を行う良い日は何日なのかと尋ねた。予定日は8月9日・10日を予定していたはずだが、急な話なので今日明日にでもとか・・・結局22日に決まった。
・原町の太郎左右衛門の所に、髪結いの吉三郎とという者が宿泊しているところへ、江戸から安兵衛・文兵衛という者がやって来て、欠落;かけおちしている者であると。太郎左衛門が宿泊させているのであるが、宿泊している事の証文を取ろうとしたのだが、町年寄りたちは、太郎左衛門が宿泊させているが、津宮の又左衛門の口入れで宿泊しているのだから、又左衛門の書付が無ければ、証文が成立しないと言っている。そういったわけで、双方と相談のしているところであるとのこと。丹波と図書は安兵衛・文兵衛を呼んで話を聞き、丹波が言うには江戸に行く予定もあるから、江戸まで届けると言って、覚書を書いてやった。
岩城生まれの吉三郎の主人の髪結長右衛門は窪町八百屋清左衛門に寄宿している。引受人の京橋のどこそこ町中田屋太兵衛苫 請人安兵衛・文兵衛
22日朝、御本社御柱立地鎮祭、大宮司・大祢宜・権禰宜・物申祝・大祝・副之祝・三奉行・膳部が出仕した。供物とお酒を供え祝詞・奉幣などを取り行った。引目など執り行う。十左衛門ならびに役人たちは皆、お酒と供物を貰って行った。請け負っている棟梁や下奉行達へもお酒と供物を出した。この日、愛染堂の棟上げがあった。

 とりあえず元禄13年もそこそこ台風がやってきていることが分かりますね。そして、興味深いのは・・・欠落者・・・最初けつらくしゃって何だ?よく考えれば欠け落ちなんですね。エグザイルかね?髪結いですから町人連ですが・・・五人組組織はてっきり農民に関するものかと思っていました。

 まあ、考えればそうですね。髪結い業を志して入門し見習い期間も過ぎぬまま逃げだせば欠落ですね。社会秩序に反するものは罰するというより、矯正しなければなりませんから・・・欠落者か・・・ふと自分の事かと・・・考えすぎでした。別段、修業中の身分でもないし・・・近頃は、社会の欠落者状態に近いのでね。一応は、毎日のように仕事はしていますが・・・生活に追われるので・・・おとなしく、きちんと研究者としての修業をつめば良かった・・・年季があけて、そのまま別の社会へ移ったのが問題だったか?研究者としては欠落者であったことは間違いないですけどね・・・ぶちぶち・・・髪結い吉三郎か・・・飯場生活を望んだんですかね。なんとなくわからないでもないのですが、ここで苫ってのが出てきて悩むわけです。苫・・・雰囲気で、寄宿する者とでも解釈しましたが、こいつが不明ですね。

 寄宿、仮の宿ゐ・・・秋の田の 仮庵の庵の 苫をあらみ わが衣手は 露にぬれつつ・・・からの連想ですがね。これもわからん、古語辞典でも持ってくるか・・・なるべく辞書も使いたくない横着者なんでね。辞書は悪魔のように人を誘惑するので・・・居はゐ・いどちらだっけ?忘れた・・・というぐらいいい加減だものな・・・気にはしてるけど・・・だから研究者にはなれない・・・

 しかし、仕事場から逃げ出した人間も探しあるかなければならない社会システムってのもなかなか面倒ですね。人別から即外して相続を完了させてしまうというのが美しいような気がしますが・・・戻っても無一物、鬼籍に入ってしまうわけですから・・・今の世の中でも、債鬼に追われて無宿となるものがいますからね。住民票を移転すると、督促状という不幸の手紙が舞い込むとか・・・ただ人別から即外すシステムではなく、とりあえず捜索期間を1年とか定めていましたっけね・・・探してから相談・・・

 本社の御柱立祭で供物・酒を神さまと人が供食して楽しみ、さらに引目などしたのか・・・蟇目の音も良いですね・・・飲んで騒いで挙句の果てに爆竹やロケット花火でも鳴らすのと似ているような気もしますね。そして、この日に愛染堂も棟上げがあったという事は・・・金剛寶寺も騒いでいたんですね。お役人様もお酒と供物を貰って・・・2つの宴席のかけもちですかね?しかし、愛染堂というのが気になります。この建物の実体は不明。絵図には、長方形でしめされていると思われるのがありますが・・・明治の廃仏毀釈で壊されたことになっていますが・・・明治元年に経堂と愛染堂は取り壊し・・・本尊の愛染明王を取り出してしまえば、その御堂は愛染堂ではない・・・そう考えると、この場所には後に花園神社が置かれたようですが・・・そのあたりが疑問なんです。

 明治31年の香取名所図会の中に右のように本殿南西に位置する花園神社が描かれています。それなりに、立派な形をしています。この花園神社は・・・愛染堂が破却されてから新造されたのか?確か・・・楼門の左の方には花園社があって、楼の上の龍神の霊を祀っているとされていましたっけ・・・この図会ので楼門左を見ればよいのか・・・

 楼門左には社殿がありません。すると、明治31年までの間に花園神社は楼門左から移転していることになります。楼門といえば直近は明治17年の絵巻だな・・・

 ありがたいことに、楼門の左に社がありますね。多分これが楼門の龍を祀る花園神社でしょう。明治17年から31年の間に、花園神社は楼門内に移転したことになるのでしょう。

 しかし、この花園神社と神楽殿は明治31年に存在が確認できますが、それ以降の写真資料には現れませんね。

 そして、右の写真では、社殿は旧拝殿になっていますから昭和15年より以前の物ですが、ここまで引いて撮っていますから・・・多分木母杉から10mほど社殿よりの位置と思われますから、この写真が撮られた時代には花園神社はない・・・

 しかし、この花園神社の図は変な感じ・・・なんとなく違和感がある・・・どうして横に2つ並んでいる?明治29年に造られたら・・・昭和10年ごろまで存続してもおかしくないが・・・ふと、花園神社って愛染明王と仲良しでは?気のせいかな・・・いずれにせよ、現在はこの場所に花園神社はないというわけです。さて、続きを・・・

23日十左衛門より、堂塔の柱立の良い日の相談で、塔の方は今月中に、堂の方は来月10日前に良い日を選んで申請するようにとのこと。金剛寶寺とも相談するようとのことだった。妙塔院は閉門なので、金剛寶寺も見ているはずだから、公儀の書付も法式の事は本寺に知らせる、社例のの方の書付は金剛寶寺へ従っても良いとのこと、書きつけにあった。金剛寶寺へもそう伝えた。
24日御普請は従前のように続いている。会所の十左衛門の所へ顔を出してきた。
25日幣殿・拝殿の土台石を据えた。本殿の足代木を建てて、足場を掛け始めた。十左衛門の息子が病気との話が出て、祈祷札を欲しがっていたので、札を出した。
26日楼門足場穴を掘りはじめる。鹿嶋社取立、愛染堂の屋根葺き、拝殿の柱立があった。十左衛門は会所へ見廻りにやってきた。青木藤蔵・喜多嶋儀兵衛・川野庄左衛門がやってきた。この3人に見廻らせる。この人たちより先に宿舎を見廻ってきた。
この日は鈴木文蔵・半田弥一右衛門がやって来て、賭博が神領内で行われているらしいから、賭博をさせないように命ぜられた。年寄方へもずいぶん問いただして、賭博の監視の夜廻りをすることになった。

 今度は金剛寶寺の堂塔の柱立ての日の相談ですね。どのくらいの人足が働いているのかとか、工法などに関する記述が絶えてしまいましたね。どうやら、土台の版築のような物や、木遣によって動く人や貨物には多少の関心があったが、石工・木工の類にはあまり関心が無いというか、知っていることなので関心が薄いのかのどちらかなのでしょう。

 そして、足場が掛けられ、いよいよ本格的に社殿が建設されていくようです。ちょっと気になるのは、愛染堂などの小規模なものだと足場を掛けずに建てているような感じですね。愛染堂の規模が知りたいものです。確か、畳の部分は5畳であったはずですが・・・

 さて、困った・・・鹿嶋社の取り立てとは何?取り壊して建てるってことかね?金を取立てる・・・神社を取立てる・・・違うな、大臣に取立てる・・・神社の位置が分かるように盛砂や榊などで印をしていたものを、社にするという感じですかね?不明・・・考えても無理ですね。

 息子が病気か・・・ありがたい御札の効果は如何?そして、棟梁連中がやって来ていよいよ大工仕事が本格化するようです。そして、博打も流行り始めているというわけですね。女郎に野郎、そして博打・・・次は何だ?とにかく、色々と手回しの良いことで治安対策・経済対策などを行っていますからね。さて続きは・・・

27日普請は前のように続いている。会所の十左衛門の所へ顔を出してきた。
・この日江戸から大仏師法橋善慶という者が、仏像や神宝の見分にやってきた。御普請役人より見分の案内をするようにとの添え状が来る。案内をさせて見分を済ませた。
この日六所社の敷地が狭いので、左右にある小さな松や杉を伐って敷地を広げた。
・宮下名主文左衛門を呼んで、文蔵・弥一右衛門の話した通りにするように告げた。丹波は留守、蔵人も若いので、お前たちがしっかり調査して賭博が無いようにせよと申し聞かせた。
・雉子判官を呼んで文蔵・弥一右衛門が、新市場には悪者が入り込んでいるとのことだから、年寄と相談の上、追放するように、指図を守って行い報告するように告げた。雉子判官は判りました相談の上そのようにしますと言った。
・金剛寶寺の普請場へ顔御出して、賭博の事について金剛寶寺へも相談した。物申祝・大祝もいたのでその件の話をする。
28日御普請は今までと同じように進んでいる。会所の十左衛門へ顔を出す。
29日御普請はいつも通り進んでいる。会所の十左衛門へ内膳が顔を出すと、彩色小屋ができるまでの間は、丹波殿の座敷を彩色所に借用したいと問い合わせて欲しいとのこと。わかりましたと答えた。

 賭博対策はかなり困難だと思うが・・・開帳しているところが問題なだけですね。この時代の賭博は・・・丁半ならそれなりの広さの座敷が必要ですから、しょぼいお宅では開帳できないので・・・それなりの長さの盆茣蓙を敷いて、貸元が駒札を貸し付け、お客さんは駒札を持って、盆茣蓙の丁方か半方に着座、壷振が賽を振り中盆が掛けを誘導・・・丁方・半方の駒札の数が等しくなったら、勝負!壷を開くと勝負が決まり、勝った物の方へ駒札が移ることになります。盆茣蓙の上での駒札の勘定が遅いと・・・盆暗となるわけです。やや記憶が曖昧・・・生活史叢書 てきやの生活 に出てたっけ?やくざの生活だっけ?昔々に読んだ本・・・最寄りの図書館だと、くるわの生活 って本がある・・・このシリーズは非常に興味深いですね。てきやの生活は古本で壱萬円以上するぞ!旧版は・・・こりゃ買えんわ!新版の中古は2100円か・・・そのうちに・・・

 彩色小屋か・・・何の彩色をするのやら?彫刻などですかね?仏像や神具の類なのか?

 神職連中は造営作業をぽかんと眺めているのかそれとも分かり切った作業なので面白くないのか?田舎の技術水準と都会の技術水準の差は大きいですから、職人連中は技術の習得で忙しいでしょうが・・・眺めている者は達はどれほどの理解力で眺めるかが問題なんでしょう。間もなく8月がやってきます。さて、どうなることやら?

2013.07.23

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