香取神宮をうろうろ(5)
 香取神宮の社殿・・・

 近代デジタルライブラリー - 房総叢書 紀元二千六百年記念. 第8巻 紀行及日記 この本の続きですね。さあ、大鳥居から先へと進んでいきましょう。そういえば鳥居の代わりに華表って書いてルビに「とりい」って表記を見かける時がありますね。これって何?華表って中国の門柱みたいなやつですね。なぜ、こういった書き方をすると気があるのか?ちょっと、気になります・・・多分、神仏習合で、坊主の側からは華表で、神人の側からだと鳥居なのかもしれませんね・・・まあ、良くわからんとしておきましょう。ああ、そういえば、この本の中に・・・神秘であるって言い回しが出てきますね。まさか、良くわからんと書いてあるんじゃないでしょうね?ってね。さて、続き続き・・・

 町の行き止まりの所の石の階段の下に二の鳥居が西に向かって立っている。石の階段を上るとそこは大宮の馬場である。大宮の間を東西に延びて、その上に老杉が枝を垂れてほの暗い幽玄さを醸し出している。

 ふと気になるのは、鳥居の数え方・・・本殿に近い方から一の鳥居と表記される場合、本殿に遠い方から一の鳥居とする場合の2種類あるような?確か、この本の最初の方で、里人は一の鳥居と言っているというような書き方をしていたみたいです。正式な文書では、本殿に近い方から一の鳥居のような気がするが?気のせいかね?まあ、本殿側から見るか、それとも外から参詣で来るかでの順の違いのような気もしますがね。

 現在の石の階段は右のようなものです。残念なことに鳥居はありませんね。この場所から延々と続いていた敷石はどこへ行ったのか?ちょっと気になります。石はリユースが利きますからね。少なくとも、雨乞塚あたりまでは伸びていたはずなんで・・・多分・・・かつては、ここに売店が立ち並んでいたのですが・・・今は昔ですね。

 さて馬場の方は・・・右のような感じですね。馬場が東西に延びてその先に石段・・・馬場でやるのは流鏑馬ですからどこに的を置いたのか?本殿の方に弓を引くのか?ってちょっと思いました。だって、反対から走ってくると、石段から落ちちゃうみたいな気がしたんでね。道が曲がっている・・・馬場楼門と平行して、この写真のもっと右側の方に続くとすれば良いのか・・・
 例の図の上に馬場を書き込むと左のような感じになりますかね?ここで、流鏑馬が行われたのはいつ頃までなんですかね?

 なんとなく、気分としてはここで行われなくなって、桜の馬場が整備されたのではないかと・・・例によって根拠はないのですが、そのうち何か出てくるかもしれませんがね。ただ、鹿島神宮でも、表参道で流鏑馬をやっていましたが、奥宮の参道の方へ流鏑馬と馬の品評会だか馬市なのか?は移転していたはずですね。

 香取神宮でも、同じような経緯をたどったか?ちょっと気になります。

 毎年五月五日に、この馬場において流鏑馬の祭りがある。馬場の入口、右の方に馬場殿、龍雷の神を祭る。左の方には市神社があって事代主命を祭る。事代主命は市を守る神なので、当社にも四月五日の御田植祭の説には、宮中・宮下両町に市を開き、遠近の商人が商品を持ち込み、あるものは見世物、軽業などさまざまな見世物もあって賑やかである。

 ふむ・・・馬場殿は現在は左に移っていますね。そして、龍雷の神は市神社と相殿か?現在は末社市神社・天降神社と馬場神社がありますね。

 右の写真で、左が末社市神社・天降神社で右が馬場神社です。ふと・・・この写真正しく写っているのですがなんとなく、2つの社がそっぽを向いているような感じになりますね。真ん中から撮ったのが良くないのか?

 気になるのは、後ろにある十三重の塔ですね。仏塔なのでしょうが?種字が入ってるんで・・・水火塔とか書かれた木札が建てられていましたが、苔生して良く読めない・・・さあ、次の文へ・・ 

 馬場の中ほどに一の鳥居が南向きに立っている。鳥居を入ると楼門があって、左右には隋人が置いてある。昔は龍神を置いていたが、神のお告げがあって龍神を楼の上に安置して、隋人に替えたという事である。ここには神役の人が出て玉串を持って、参詣の人の穢れを除いている。公儀が御巡見や御参詣等の時には、楼門の内に沿って神役の人が手水を捧げている。左の方には花園社があって、楼の上の龍神の霊を祀っている。

 現在は楼門の前に鳥居は無いですね。なければ、画像処理で立ててしまいましょう・・・ついでに、戦前には日露戦争での鹵獲した大砲も置かれていました。昔の絵葉書と合成すると、右のようになるようです。大砲はどうしたんだろう?気になりますね。戦時中に街の鉄山を掘れ!って供出されたかな?花園社は、現在はここには無いようですね。

 他には、速射砲や機関砲とかも展示されていたようですね。おっと、江戸時代の話をしてるんだった・・・過去の戦争は大好きで、未来の戦争は憎悪しているんで・・・まあ、せっかく合成したんでそのままにしておきましょう。しかし、なぜ鳥居がないのかね?ちょっと気になります。案外、初詣対策?この場所に大勢の参拝客があれば、かなり邪魔か?なんってね。

 楼門の上には龍がいるんですかね?ちょっと気になります。しかし、この龍の御霊を祭っているのが花園神社で、ここに花園神社がないという事は・・・龍もいないのかな?それとも・・・大山祇神社の事なのか?それなら、神徳館の裏から入った所の璽神社のちょっと先にあるが、桜大刀自神社は本殿の裏手、ああ、六所神社に花園神社が入ってるんだっけ?・・・よくわからん?おお、こういうときですね、神秘なりを使うのは・・・それじゃなければ、今後の研究を待たなければならないかな・・・だめだ、格調高くなんってできないなぁ〜・・・まあ、花園神社は六所神社に相殿か・・・で龍は・・・神秘なり。

 ふむ、楼門では玉串を持った神役が参詣者の御祓いをしていたか・・・玉串って、榊の枝に紙とか麻の繊維を付けたやつですね。おおぬさ(大麻)じゃないんだ・・・偉い人が来ると、手水も捧げるという事は・・・手水舎は無いのか?・・・そういえば、寛永の造営の際に、境内に井戸がないから掘ってくれって注文があったような・・・基本は、御神井とか御手洗で禊してくるのかね?しかし、江戸時代に至るまで、境内に井戸がないなんって・・・不便だったのでは?これも神秘なり・・・さて、次の文へ・・・

 楼門を入って左の方には神楽殿があって、神楽の者や八乙女などが、毎日神楽を奏する所である。右の方に禰宜の宿舎がある。当番の祠職の詰め所である。その南に並んで御供所がある。ここでは毎日清められた火をつくり、それで供物を作っている。この前に大木の杉と槇がある。大宮は南向きで、楼門の正面にある。正神殿には後庇がある。神社で後庇があるのは稀なことである。正神殿と拝殿との間の渡殿を幣殿という。ここに八種類の竜神が祀られている。拝殿から正殿を囲っている瑞籬は四十間あって左右には掖門がある。社殿は二十一年式年の造営をすることになっていて・・・慶長十二年に徳川家康は神宮を造営して、元禄十三年に徳川綱吉によって造営されたものである。

 現在は神楽殿が無いんですが、もしあるとすれば右の写真のようになるかな?なんって・・・毎日、神楽が行われるのなら・・・神楽殿はあると良いのですが・・・神楽や雅楽を聞く機会って少ないですから、本当はこういった所で奏されていると良いと思います。この神楽殿があったと思われる場所には、現在木が植えてありますね。そのうち再建されるのでしょうか?再建されるなら・・・壱萬円位なら寄付しても良いねぇ〜文化だから。

 右の方に禰宜の宿舎か・・・御神木の北側にあるのがこの図では参籠所となっていますね。これが禰宜の宿舎のなるのでしょう。その南に御供所とありますから・・・御神木の東側に書かれている建物がそれに相当するのでしょう。

 ふむ、手水舎がありますが、言及されていないですね。この前に大木の杉と槇があるって?これって御神木の話ですよね?なぜ、御神木って記述がないのか?なんとなく、御神木という概念がないみたいな書き方をしている?これって何故?この図の中で三本杉は表記がありますが・・・注連縄でも付けてあれば、それで表象されるか・・・それもない、でも玉垣があるからそれで御神木と示しているのか?

 宮は南向きで、楼門の正面にある。正神殿には後庇がある。神社で後庇があるのは稀なことである。この後庇がね・・・ここが神座が置かれている場所らしいので厄介なんです。

 普通は、神座は身舎の方にあり後ろ庇は物置に使われることはあるんでしょうが・・・というわけなんでしょう。ちょっと、このあたりは判らないんです・・・本殿拝殿は作業シートで覆われて眺めることはできません・・・作業服を着て潜りこむか・・・駄目だろうな?なんってね。

 ただ、この庇に関しては結構有名な話のようで・・・色々と研究している人がいるようです。本殿は現在修復工事中で蚊帳の中なんでパスですね。さて、次の文章へ・・・次回ね。

2013.06.14












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