香取神宮をうろうろ(4)
 香取神宮の津宮からの参道・・・

 近代デジタルライブラリー - 房総叢書 紀元二千六百年記念. 第8巻 紀行及日記 この本の中に、香取参詣記が収録されています。この本は、久保木清淵は香取郡津宮村の儒者で文政年間・・・多分1820年代に書かれたものですね。さて、香取神宮のまわりの神社や道について眺めて行くことにしましょう。

 香取神宮は大槻郷亀甲山にあって、香取神宮に参拝するには、船路を表口としている。船の着く場所は津宮といって、利根川沿いの河岸である。上下2つの河岸に旅館などあって参詣の人が泊ることもできる。鹿島への船も出る。上の河岸には水中に大神宮浜の大鳥居が立っている。表口の鳥居なので、里の者は一の鳥居と言っている。ここから本殿まではおよそ2kmほどある。
 津宮村の大鳥居から南へ300m余り南へ進むと、右の田の中に東宮というのがある。膽男宮(みるをのみや)とも言われる。毎年6月晦日、名越祭りがある。本宮の社人数十人、各々官位に合わせた色の衣を着て、大鳥居の渚でみそぎして、この社の庭の上に列座する祭礼行事がある。この社から200m余りの所に西宮という社があり、これを忍男宮(おしをのみや)という。この2つの社は、本宮浜手守護の神である。このあたりは昔、軍陣祭が行われたとき、行殿(おたびしょ)を建てて祭事があった所で田の中の所々に古い祠の跡などがある。

 先ずは津宮のあたりが書かれています。あれ?津宮の鳥居河岸から神宮へ行く道の右にあるのは忍男神社じゃないか?この西に膽男神社・・・現在は逆になっている?それとも記述に誤りがあるのか?著者は地元の人だが・・・誤記か、編集でおかしくなったか?思い違いか・・・さて、名越祭か夏越祭ですね。現在は神宮の境内で茅の輪くぐりとかやってますね。この時代は、忍男宮でやってるのか?明治18年に定められた祭りでは大祓式ですね。

 とにかく、明治時代に大きく祭式が変更されていますから・・・香取神宮ではなんといっても80余名の神職が20名程度に減っていますし・・・さらに神領を取り上げられていて、神職は事実上公務員みたいなものになってしまいますからね。新しい神道が建てられそれによって旧来の儀式祭式が大きく変更になってしまったわけですから・・・

 東宮より100m余り溜渠(ためゐ)に渡した板橋を草履抜橋とかくつぬき橋という。本名は董橋(たゞすばし)又は津宮大橋という。昔は、神山の麓のあちこちから湧きだす清水がここに流れて集まり、利根の川の水も通るので、例幣使が来るときは、ここで身滌を行ったというようだ。ここで勅使がくつを脱いだのでくつぬぎ橋というようにもなった。今では、神山の際まで田畑を開いているので、かつての清水も田の用水に使われるようになり、利根川との流れも無くなって里人の溜渠になってしまっている。でも、この橋の修復では、神娯の囃などが行われて祝われるのに、今では肥やしの持ち運びなどで穢されている。ここから100m余り進むと道の右に松が1本ある。御休所という、軍陣祭のとき、しばらく御輿をとどめるための場所だ。

 ふむ・・・董橋は右のやつですね。昔は板橋だったのか・・・今は立派ですね。今はどんな水が流れているやら?ちょっと気になります。この橋のたもとには何か石碑が立っていますね。近いうちに何の碑なのか見てこなきゃ!もちろん、2つの神社も・・・行くところが沢山出来ちゃう・・・さて、御休所という、軍陣祭のとき、しばらく御輿をとどめるための場所は多分・・・

 左の写真のものでしょう。昔の様子がどうだったのやら?ちょっと気になります。

 この場所は神道山って言って山の頂上付近に大きな前方後円墳があり・・・経津主神の墓ではないかとか?とかやっていたようです。陵墓であるかもしれないって内務省へ御伺いを立てたりしたようですが・・・不明ですね。

 
さらに300m余り進むと、道の右に槻の木の大木が2本ある。根本寺で社僧が住んでいたところだが、焼失して再興されていない。少し進んで田の中を南へつながる畷を五段畷という。昔は、神山の清泉がこのほとりを縦横に流れていて、畷の中に橋を3カ所作り、一橋・二橋・三橋と言って泉の水を流していた。今では一面田になって、用水が通る堀が1つだけ残っている。昔の風情を残しているのは、11月7日の夜に、社人5・6人が馬でやって来て長生養という笛曲を吹く橋祭がある。笛の音が上弦の月にさえわたって、非常に物静かな祭りである。この畷は300m余り続き、その先200m余りで神山の入口に着く。

 この先にあるという根本寺の所在は不明ですね。残念ながら、この2本の槻の大木は失われているようです。入り株が残っているという噂もありますが良くわかりません。槻ってケヤキの木の事でしたよね・・・残っているのか?

 航空写真から、それらしい場所が分かりますが、今度見に行って来るかな・・・

 まあ、根本寺が神職の隠居所のように使われていたとか言うようですから、ここの神道古墳群はかつての神職の墓所であるのかもしれませんね。少し進んで田の中を南に真っ直ぐに伸びる道があるようです。これは多分・・・香取の信号の交差点に伸びる道の事ではないかと思いますね。ただ、距離の点からすると現在の道とは少し違うような?宅地の所に古い畔のような物が伸びています。これを伸ばすと香取の信号の所に出て300m余りになりますから大体このあたりでは?

 しかし、この参道が整備されたのは元禄13年の大改築の際の石材や木材運搬のためなどもあってのことか?・・・ちょっと分かりませんね。

 1947年の航空写真を眺めると、概ね右の写真の上に黄色で線を引いたあたりに畷と思われる畔が伸びています。多分・・・現在の道は明治以降の物ではないかと・・・

 左の写真が1947年のものですね。耕地整理が行われる前の様子と思われます。

 しかし何でこの道を整備したのか?それとも、五段畷とほかにこの広い道が整備されていたのか?判りませんね。

このあたりが、ネット上にある無料の情報源の限界かな?法務局の資料も見れば・・・なんって思いますが・・・あとは役所の資料か・・・そこまで気力はありません。実地調査は観光までですね・・・

 11月7日の神事って側高神事ですね。この中の話ですかね?この側高神事は堀祭・白状祭・橋祭・團子神事・璽神社神事・同社蔵神事などで構成されていたようです。何かの本で詳細をちらっと眺めたような気がするので、もう少し調べるとしますかね。

 しかし、なかなか優雅な神事ですね。上弦の月の下・・・という事はこの神事は夜中前に終了する事になるのでしょう。7日の月ですからね。夕やみの中の弱い月明かりの中の神事・・・これは復活してくれると非常に美しいのでは?でも・・・交通の便がね。それが問題かな?タイムマシンでもあると面白いのに・・・

 神山の入口の右の方に田圃に飛び出している山を御船山という。軍神祭の御船の木を切り出すところである。昔から地震がない場所だとされている。神山の入口の坂を大坂という。表口の坂であるからそういうのである。左右は切り立っていて、わずかに道を通している。老樹が枝を垂れて、昼間でもほの暗いところである。

 ふむ?田圃の中に飛び出している山・・・という表現をしていますから・・・白黒の航空写真で白く太く見える現在の参道を歩いているとしたら、こういった表現をするだろうか?やはり、五段畷は黄色の線でしめしたやつで・・・現在の香取の信号のある交差点より東のあたりにつながる道ではないかと・・・そして、大坂につながる道との兼ね合いですね。そうすると・・・なんとなく、右のような感じの道がつながっていたのではないかと?

 どうやら当たりのような感じです。

 古い絵葉書の中に、津宮道から亀甲山を見たものがあります。ちょっと画像処理がうまくいかない部分があって、気に入らないのですが・・・多分黄色い線とほぼ一致するような感じです。この写真では、右の方にあるはずの新しい直線の道路は無いようですから・・・多分・・・よくわからん?森の重なりの特徴が・・・これも、実際に行ってみないと分からないような感じです。・・・・後日行ってみました。結果は、これはその白い方の道ですね。残念・・・

 問題は、どこに堀があったのか?笛曲を何処で奏したのか気になります。近頃はこういった風情のある道が減って面白くない気もしますね。

 とにかく、この道が続く先の右側の山が御船山という事になるのでしょう。さて・・・次の文は・・・

 神山は中央が高くなっていて、四面に登り口が8つある。どれも坂道なので、これを神山の八坂という。大坂はそのうちの一つである。大坂の中ほどより左へ登る坂を、別登昇路といい、昔は、わけのぼりの坂といった。いつの頃かこの坂の行きつく先に別当の寺を置いた事がある。この事が混ざって、別当小路ともいう。この坂を登れば大宮の後ろに出る。また、桜の馬場六社明神の方にも出る事ができる。

 ふむ・・・登り口は全部で8カ所か、大坂の中ほどに、大坂原町青年館ってのが地図にあって、そこから左へ入る道がありますね。これが別登昇路なのでしょう。文章からすると、この坂は途中で2つに分かれていて、右へ行けば本殿の裏手に出るし、この坂を道なりに行けば桜の馬場の六社明神へ行けるという事のようです。という事は、もしかして寒香亭の脇の坂に出るのか?それとも、もう少し先に行った所の、桜の馬場へ入る道なのか?実際に歩いてみないと判りませんね。GPSロガーでも持って行って歩き回るしかない・・・

 大坂を登りきると、そこには社家町が広がっている。農家や商家が入り混じっている。それから200m余り進んで左の方へ曲がると、そこには欄柵(こまよせ)をまわした所がある。諸神塚という。また雨乞塚とも言う。聖武天皇の御世に勅命によって雨乞行われた時があって、そのとき雨乞いのため諸々の神を拝んだところである。

 これは明確ですね。諸神塚=雨乞塚は確かに左に折れてすぐの所にありますし、ここまでのおよそ200mぐらいは概ね平らで家々が立ち並んでいます。ちょっと気になるのは、鳥居のある四角い池ですが、これの記述がありませんね。右の写真のやつです。こういった井があるんです。

 すると、これは比較的新しいものなのかもしれませんね。参道について回ると思っていた御神井は既に出ていましたっけ。

 忍男社の近くの董橋の所の渠がその役割をしているのかな?それなら、こういった所に御神井は必要としないでしょう。

 しかし、後の時代になって、立派な御神井がないのが気になるようになって、ここに作られたのか?なんってね。

 今度、このあたりを歩いた時にきちんと回りもチェックしてみないと・・・この写真は車の窓から撮ったんで、良く見ていなかったのです。

 さて、次の文を眺めるとしましょう。

 左に進んで200m余りが社家町で宮中町という。商家や旅館が立ち並び、軒を並べて華やいだ場所である。中ほど右に大禰宜の館がある。この家は神宮預かりの旧職で、ご鎮座の始めから神宮へ奉仕していて、先祖は香取連秋雄と伝えられている者から70余代も続く旧家である。延喜式に「香取神宮禰宜一人」と書かれているのはこの事である。また、續日本後紀に「香取の禰宜に笏を把る事を勅許せり」という事がある。この家を主としているのであろう。

 ふむ・・・ここの通りには現在は笹川屋旅館と岩立商店の2つの店舗がありますね。

 岩立商店のあたりから撮った写真と思われるもので、右の建物が笹川屋旅館と思われるのですが・・・正面は祖霊社?元の金剛宝寺で雨乞塚がその前にあるようなんですがね?

 つまり、金剛宝寺の脇、現祖霊社の脇の道は今とはずいぶん違うのだという事のようです。

 さて、残念なことに、話は神宮の方へ進んでしまうので、この時点では金剛宝寺や不断所の話が現れてこないのです・・・

 どうやら?金剛宝寺は本地堂としての役割を持っていて本堂には十一面観音がありました。そして、境内の経蔵と愛染堂を管理していたようです。不断所は?良くわからないんですね。でも、梅木山不断所に「天真正伝香取神道流」の始祖の飯篠家直の墓がありますから・・・それは奥宮の近くですから・・・このあたり・・・読み進めれば何か出てくるでしょう。

 右の写真が、旧参道が華やかなりしころのものですね。確かに、今とは違って商店が立ち並んでいますね。

 ちょっと気になるのは、この旧参道から、現参道への付け替えですが・・・何が目的だったのやら?雰囲気としては、道の集まるところに広場が欲しかったのかもしれませんが・・・賑々しい所から直ぐのところに社殿があるのが面白くなかったか?

 少なくとも、現在の参道は、土産物店を社殿から遠ざける効果はあると思いますね。昭和10年代の精神性の現れですかね?ちょっと気になります。

 私なんかは単純だから・・・奉祝行事にかこつけて施設の一新を図りたいなんって、俗物的な考えを持ってしまいますが・・・でも、俗物的である方が良いのかもしれないなと思うわけです。だから、いわゆる学者になりそこねるんでしょうね。

 さて、次は大鳥居を入って馬場から本殿へと進んでいきましょう。
2013.06.14















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