東北をうろうろ(14)
 キューポラの館から中尊寺へ・・・・

 キューポラ、熔銑炉だったかな?銑鉄を熔かして鋳造するための炉・・・甑なんって言い方もあったような?

 水沢は南部鉄器の発祥の地として知られていますね。そこにあるのが、このキューポラの館です。

 キューポラの館の展示は興味深いものでした。原料の銑鉄をキューポラで熔かし、型に入れるわけですが、製造法は確立しており、芸術性の問題のようですが・・・

 鋳鉄の技術って・・・たたら製鉄によって製造される銑鉄を使うわけですから、たたら製鉄がこのあたりでは古くから行われていたのでしょう。

 そういえば、東北の製鉄技術って結構早かったのでは?例の蕨手の刀などは東北地方の生産品ですから・・・中央政府系の製鉄遺跡らしいのは・・・東北電力の原町火力発電所あたりにあるやつですかね?あとは、柏崎のあたりにも似た規模の製鉄遺跡があるか・・・7世紀後半あたりから12世紀ごろまで稼働していた製鉄コンビナート・・・木炭を製造し、砂鉄を採り、たたらを踏み・・・まあ、年代からすると中央政府系なのか?ちょっと気になりますね。

 どうやら、たたらの構造が途中から変わっていますからね。私は、大和政権って基本的に文化的侵略が得意だったのでは?なんって思うのです。大陸系の先進文化を使って、仲良くすると最新の文化、ファッションが手に入るよ・・・ってね。

 古事記なんって基本的には、そういった話ではないかと・・・川岸とか人の集まりそうな所の木に、さまざまな商品をぶら下げて、地元の人が服属関係の契約と引き換えに剣や玉とか鏡とかを与えている話のような感じですからね。国を生むとは・・・ってね。

 東北のすでにあった製鉄コンビナートに、俺のところには優秀な技術者がいて、今のやり方と似てるが、ずっと効率的だちょっと試しにやらせてみないか?とかね。生産量がアップすれば、莫大な利益が上がるはずですからね。案外、何とかの柵とか呼ばれる古代の城のようなものは、交易所であったのかも?なんって・・・

 戦略的要地って、交通や商業の中心ですからね。その場所に特別な生産拠点がなくても良い・・・そこに、戦略的に物資が運び込まれ集積され、異なる文化圏に対して商品を流入させればよいわけですから・・・その付近の人がおなじみさんになり、一般の商人が交易を担える状況まで順化したら・・・交易所はさらに奥地へと分け入っていけばよいわけですから。

 完全に人工的な街でしょうから、生産現場は後から移入される工業・加工系のもので、原材料は運び込まれる形で、付近の住民を引きつけるだけの威容を誇り、取引の公正や安定・・・価格維持のために、周りには柵を設けて個人的な取引を防ぐ必要があるでしょう。

 あとは、加工技術の伝習などの事業も行われていたのでは?経済的にも依存させるには・・・そして、技術や文化は担い手ができれば、その周辺地域に放散していきます。そして、最新の文化の中心でなくなるとき・・・その地域は、文化的に服属することになるのでは?文化というのは、ある意味価値観ですから・・・

 古代には大規模な戦闘があったのか?あれば、それなりに埋葬地であるとか儀式が執り行われた大規模な遺跡があってもよさそうな気がしますがね?まあ、評価が変わっているかもしれませんが、いい加減な記憶によれば、材木座海岸では大量の人骨が見つかっていたような?鎌倉攻めのやつではないかとか・・・海岸に古くからの埋葬地があったのかもしれませんが・・・

 鉄瓶などを眺めながら・・・たたら製鉄の方への関心が向いて・・・色々と考えてしまうわけです。古代の城柵は外周防衛用と目される柵は、1回作られ、その後更新が行われず、中核となる建物は何回か建て替えられていくパターンが多いようですから・・・そして、いつしか忘れ去られてしまう・・・通商や地下資源で栄えた場所の必然か・・・なんってね。

 時間はあっという間にたち・・・いよいよ中尊寺へ・・・

 駐車所に車を止め、月見坂を登り、八幡様や弁慶堂・・・そして、歴史的景観は右の写真のようなものであるそうな?

 中尊寺というのは、どんなプランで作られた寺院なのやら?ちょっと気になるわけです。伽藍は・・・月見坂に沿って・・・パラパラとあるようです。

 有名なのは金色堂ですが・・・確かに、ずっと同じ場所に立ち続けていますが、鉄筋コンクリートの覆堂におおわれ、ガラスケースに入った状態ですから、博物館に展示されているのと事実上同じですね。やはり、旧覆堂の方が、なんとなく立派に見えるのです。

 芭蕉の像があり、その先に覆堂があります。まあ、これで覆われていても、逆に湿気がこもり、明治時代にはすでにぼろぼろであったようです。

 明治時代に、修復が少し行われ、戦前にも修復を行いますが不完全、昭和37年から金色堂は解体修理され、創建当時の姿に復元修理が行われたとのこと・・・

 このときの解体修理は、柱などの内部がくさっていて、解体すると、漆などの装飾がばらばらになってしまうことが予測されていて、なかなか大変だったようです。X線で撮影し構造を確認しての解体修復で、かなりの部分が新たに作られてようです。

 程よく壊れていたので、技法などを理解することができ、そのぼろぼろの状態が、技術を知る資料になるとか・・・そんなことで、旧技法を再現しながら、新規にたくさんの部材が作られたようです。

 ネットの上には、昭和37年から7年間の修復作業の様子を示した記録映画が、修復されて公開されていますね。よみがえる金色堂 - 科学映像館インターネットは、便利な代物です。おかげで、木瓦のの様子などつぶさに見ることができました。板葺ということなんですね。そして、材には漆などはかけられておらず、白木であるわけです。

 中尊寺で気になるのは・・・白山神社の能楽殿ですかね。こいつは立派です。

 こういったのが、寝殿造の対屋なんかはこんな感じだったのかな?なんってね。

 この状態のものに蔀をはめれば・・・とか考えるわけです。この建物にも蔀はあったのかな?なんて。

 こういった舞台での能などを鑑賞したい気がしますが・・・きっと入場料が高いのでありましょう。

 一通り眺めて、車に戻り毛越寺へ向かいますが、前まで行って・・・なんとなくパス・・・基本的には発掘された庭園ですから・・・一見の価値はあるのでしょうがなんとなく・・・夕方ですし・・・これから先、どこへ行くかも決まっていませんし・・・仲間から電話があって・・・どこにいる?いつ帰る?そんな話もあるし・・・

 こうなると・・・意地でも帰るまいと思うのであります。山岳信仰の関心も湧いてくるし・・・こうなると、鳴子を抜けて出羽三山しかない!なんって思うわけです。山寺もいいな・・・とか。

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