東北をうろうろ(15)
 出羽三山へ・・・・1

 山岳信仰やら修験道ってのに興味があるというか・・・以前日光修験に関して調べてことがあるんです。まあ、本来の関心は阿久地蔵ってのの探索なんですが・・・阿久地蔵ってのがあるらしいんだが調べて欲しいって飲んだ席で頼まれて・・・日光か何かの講組織に関連があるとかないとか・・・修験者とかそう言った話があってね。

 日光修験に関連するものを調べると、日光山縁起ってのに出くわすわけです。この日光山縁起のなかで、都に有宇中将という遊びが好きなお公家さんがいて、ある時、鷹狩りにはまって勤めをサボって帝の逆鱗に触れます。

 中将は雲隠れを図り、飼っていた雲上という鷹と犬の阿久多丸を連れて青鹿毛という馬に乗って都を去ります。そして、下野国の二荒山に来たところで朝日長者の姫君に興味を持ち、姫君に恋文を届けさせ、お決まりの通り、朝日長者は中将を婿に迎えます。やがて中将には都と母を思う心が湧いてきて、姫君を残して京都へ上ろうとしますが、途中で病に倒れその死が近いことを感じ、青鹿毛に手紙をつけて、都の母へ、姫君のもとへ行かせます。

 中将は一度は死んで、閻魔の裁きを受けます。そこで、浄玻璃鏡に映ったものは中将の前世の姿の、二荒山の漁師で防寒の鹿革の服を着た母親を射殺してしまい、猟をするのは貧苦のためで、自分はこの山の神となって、自分たちのように貧苦にあう者を助けようと願を立てたことがわかります。このことで、閻魔は中将を蘇らせます。

 蘇った中将は都に帰り大将になります。朝日長者は陸奥国を治め、中将と姫君の間に生まれた男子の馬頭御前は七歳で都に上り、十五歳には少将に、中納言にまで出世します。そして、東国に下り、朝日長者のもとに戻り長者の侍女に男の子を産ませます。この子はあまりにも容貌が醜かったので、中納言は都に上らせもせず、奥州小野に住みます。そこで、小野猿丸と称する弓の名手として知られるようになります。

 有宇中将の方はやがて願いの通り、神となって下野国の鎮守すなわち日光権現となります。日光権現と赤城大明神の間では中禅寺湖を巡る勢力争いが激化します。日光権現は鹿島大明神と相談すると鹿島大明神は、小野猿丸というあなたの孫の弓の名人に加勢を頼むことを助言します。

 日光権現は鹿の姿に変えた女体権現を遣わし、猿丸を鹿の姿の女体権現を追わせて日光山まで誘い助勢を頼み、了承させます。

 決戦の日、日光権現は大蛇の姿となり、猿丸を従え、巨大な百足の姿をした赤城大明神と対峙します。猿丸は百足に矢を射かけ左目を貫き、日光権現が勝利します。日光権現は猿丸の働きに謝して、太郎大明神となった馬頭御前とともに人々を助け守ることとを望み、猿丸を山の神主にします。猿丸はこれに対して中禅寺湖の南の岸で舞い踊り歌を唄っいます。この場所が歌ヶ浜とはいうようになったそうです。

 このとき、紫の雲が降るとともに中から二つの翼の左に馬頭観音、右に勢至菩薩を乗せた鶴が現れます。そして、鶴は女の姿に変わり猿丸に、馬頭観音は太郎大明神、勢至菩薩は猿丸の本地であるから、衆生を導くようにと告げます。

 中将が都から連れて下った、雲上という鷹は虚空蔵菩薩、阿久多丸という犬は地蔵菩薩、青鹿毛という馬は馬頭御前こと太郎大明神に生まれ変わり、馬頭観音として現れたそうで、有宇中将は男体権現、その本地は千手観音、またその妻の姫君は女体権現にして阿弥陀如来の化身であり、太郎大明神は宇都宮二荒山神社近くの下宮山に鎮座して、若補陀落大明神として人々の崇敬を集めた。

まあ、こんな話です・・・ほら、阿久多丸と地蔵菩薩のつながりが見えたのですが・・・この、関連を証明するものが見当たらない・・・日光修験の中で、中禅寺湖を取り巻く山々は日光十王子と結び付けられ・・・阿久多丸=地蔵菩薩=小真子王子=小真名子山という感じですかね。でも、山頂に地蔵はなさそうで、地蔵は・・・となると、荒行の回峰修業を楽に行うための平地にうつされたコースがあるはずと調べると、一応はそれらしきものがあったのですが、廃仏毀釈の影響ではっきりしないのです。

 まあ、修験道は明治政府によって禁止され解体されていきますから・・・日光修験などは大きな影響を受けたようです。

 とにかく中尊寺を後にして、市内を車で少し回って、鳴子方面に向かい、だらだらと進んでいきます。何しろ時間はかなりありそうな雰囲気ですから・・・道の駅でも見つけたら、4時間ぐらいは眠りたい気分というわけです。考えることもたくさんあるし・・・道の駅とざわだったかな?とにかくここで、結構休みましたっけ・・・街灯の近くに止めるとポメラで文章書きができるし、本も読めます・・・なんだかんだで、本は買いますから・・・中尊寺やえさし関連の本など買いましたからね。

 車を走らせていると、観光パンフレットも読む暇がないし・・・近頃は道の駅が便利です。この道の駅・・・地滑りの展示があるとか・・・残念ながら、すでに営業時間は終了していました。のんびりとして・・・ひと眠り・・・じっとしていられなくて、結局出かけてしまうわけですけどね。

 出羽三山神社を目指します。47号線を進み、羽黒山へ・・・三山神社へ入る有料道路は夜間閉鎖だし・・・月山への有料道路は除雪が終わっていない・・・ふむ?後で気づきましたが、7月1日が山開きだと・・・2時ごろに着いても行き場がないので、国宝五重塔に近い随神門わきの駐車場へ入れて、再び眠るしかないというわけです。

 4時半を過ぎるとさすがに寝てられなくて、カメラを片手にぶらつきます。なかなか、立派な入口が・・・これをちょっと通り過ぎて・・・トイレがあるんでね。

 再び、戻ってのんびりと鑑賞・・・かつては仁王門であったということ、神仏分離で仁王様はどこかへ出されてしまった・・・

 信仰というのはなかなか面倒なものです。修験道は、日本古来の呪術的な内容をもつ山岳信仰にその時々の最新の宗教の、密教や道教、儒教などの影響を受け?積極的な受容によって?平安末にはそれなりの宗教体系を備えるに至ったものでしょうから、日本の古代を色濃く残していたのではないかと思うわけです。

 案内板をしばらく眺めて、どんな具合に回るかを考えました。案内板によると・・・隋神門から本殿まで上り50〜60分、下り30〜40分なんって書いてありますからやや気が萎えるというわけです。

 羽黒山自動車道で三山神社脇までいけるという内容も読み取れるわけですから、一段と気力が萎えて・・・とにかく、五重塔は見に行かないと・・・とは思うわけです。

 後で、よく考えると、ここからバスで三山神社まで上がって、帰りは歩いて下ってくれば良いことに気づいたり・・・なかなか、知恵は回らないものです。

 まあ、上りの2kmの道のりを歩くかどうか?歩いて登ると歩いて下らなければならない・・・近頃、運動不足でね。

 とにかく、隋神門を入って、杉並木の中を進むと、急な下りです。先の見えない石段が続いていきます。素敵な雰囲気です。信仰心に欠ける人間にとっては、やや息詰まる感じもしないわけでもないのですが・・・この清浄な雰囲気・・・穢れ多き人間には・・・などと、つまらぬことを考えます。

 森林の林床の植物を眺めながら下っていきます。どこまで下るのか?気になる道です。だって、上り60分とかそういった案内があって、下りですからね。下った上で登るとなると・・・上りは間違いなく辛いのであります。

 下って登って参拝して、下って、最後の登りか・・・そんなことを考えると、さらに陰鬱な雰囲気が・・・信仰があれば軽いのでしょうが・・・

 山岳信仰には興味はあるし、以前は山歩きもしましたが・・・このところさぼっていて・・・

 早朝ですから、人影もなく・・・引き返すには絶好の条件です・・・これで、大勢人が歩いていると逃げられない・・・なんと消極的な考えと思うのですがね。

 さて、この継子坂を下っていくと神橋に着くはずなんですが・・・あれ?なかなか立派な建物が・・・ああ、祈っている人がいる・・・まだ5時ごろなんですが・・・

 神さびた雰囲気が素敵なんです。祓川の手前の神社群・・・どのような神が祀られ、どのような意味があるのか?気になるんです。どの建物も立派です。朱塗りであったあとが残り・・・

 私は、こういった風景が好きなんですが・・・ネットでこれらの神社について調べても・・・羽黒山 杉並木 祠とかで調べても、あまりはっきりとは出てこないんです・・・なぜ?祈る人もいて、非常に気に入った景色なんですが・・・

 ふと、ネットの中で言及がないと、なんとなくこの現実の空間が仮構のもので、幻影では?なんって思えてしまいそうになるのが、奇妙な感覚です。


 私はここに行った。しかし、誰も言及していない・・・幻か?祈る青い服を着た人・・・挨拶したんで、現実の人であると思うのですがね・・・

 幻か?・・・早朝というのは、頭が良く働いていないとか・・・余計なことを考えてしまいます。とにかく、素晴らしい空間だと思うのですがね。

 資料はないか・・・羽黒三山のパンフレットに根裂神社・五十猛神社・大年神社・磐裂神社・天神社・豊玉姫神社とありますね。

 ここには、立派な建造物がたくさんありますから、取るに足らないものなのかもしれませんが・・・こういったものの総体としての信仰なのかな?とか思うわけです。

 信心というものがない人間が語る内容ではないですが・・・一応は気になるんです。

 やっと、神橋が目に入ってきます。そして、滝がありますね。このあたりからそれらしくなっていくようです。

 滝と小さな祠・・・小さな方が岩戸分神社、不動明王の像があり、大きな社は祓川神社・・・須賀の滝とのこと・・・この滝は江戸時代に月山より8kmの水路をひいて作ったものだとか・・・

 観光開発か?それとも幽玄さを表すためか?滝はなんとなくありがたい感じがします。不動明王か・・・神仏分離の後に、再び現れているのでしょうか?

 神仏・・・昔は仲が良かった。一体のものであったが・・・後に人が裂いたのか?

 滝があれば、不動明王かか倶利伽羅剣とかが良く似合う気はしますが・・・まあ、河の水につかって、不動明王の真言であるナウマク・サマンダバザラダン・カンを唱えれば願いが成就するというので・・・修験者の滝行に関連して刷り込まれているのか?不動明王は、炎を背負ってるんですが・・・

 倶利伽羅剣というやつも不動明王の象徴として使われますが・・・剣のまわりに龍がまきついたやつです。この姿は・・・不動明王が外道との争論の中で変身した姿とか・・・不動明王・・・大日如来の化身とか心の内の決心を示すものとか言われますが・・・

 なかなか分かりにくい・・・修験系の話ってどうなっているのやら?

 なんとなく、日本古来の信仰そのものがベースで、それに仏教であるとか、仏教の影響を受けて縁起の形で、もともとは建物を持たなかった口承により受け継がれた信仰が、文字にあらわされて肥大化していったという感じでしょうか?

 まあ、宗教施設といっても・・・テーマパークのようなものであると考えると・・・常に何かの変化がみられて、着実に立派なものへ発展していかないといけないということなのでしょう。

 順調であれば、自らの財力を誇りたい人は、さまざまな寄進を行うことになるのでしょう。廃仏棄釈前に羽黒山中にはどんな建物があったのやら?仏教色の強いものは、ほとんどすべて破壊されたのでしょうからね。仏塔が残っているのは変な気がしますが・・・

 さてさて、この少し先に爺杉があって・・・樹齢1000年を超えるとの事・・・1000年か・・・今回の旅では環状列石など1000年より昔の人の営みにふれていますから、この杉が周りの杉と同じくらいの時にも、このあたりでは人が活動していたと思うと、1000年など大したことはないのか?なんって思えてきます。

 そして、国宝の五重の塔が現れます。美しいものです。創建当時から白木・・・なんとなく、表面は白く見えるのですが・・・しかし、この湿気の中で良く持つものだと思います。

 しかし、羽黒山って江戸の初めにも幕府による大きな改革で揺さぶられています。もともとは、羽黒山は真言宗吉野派に属していたのが、室町期に吉田神道の興隆に乗っかって三山を開山し、羽黒修験の開祖を変えて独立したようです。

 この独立によって、修業の程度によって位階を与えるようになったわけですが、慶長18年に出された幕府の命令で、吉野か熊野のどちらかに属さないといけなくなります。

 さらに慶長19年には宗派の序列を定め、1番が天台宗、2番手が真言宗になります。幕府の信仰政策は天台に傾いていますから・・・羽黒山は真言四ヶ寺をまず羽黒末寺として、羽黒山が真言宗から天台宗に改宗して幕府の信仰を集めて繁栄を図ろうとして、訴訟を起こしたりしたようです。

 明治の廃仏毀釈の嵐はすさまじかったようです。明治6年から7年にかけて破壊されていきます。この五重塔もどこぞの寺院が引き取ることになっていたのですが、移転の金策に困って移転が遅れているうちに、なぜか神社所有に移って残ったということのようです。この五重塔の前には念仏宗の道栄寺がありましたが移転を命じられ土地はもらったものの、移転費用がなくて壊しちゃったとか・・・二の坂の上の別当寂光寺などは間口二十九間奥行き三十七間、建坪は662坪4合4勺もあったそうで・・・

 現在の様子とは全然違っていて事が分かります。つまり、この参道沿いの平らな場所には所狭しと堂宇が立ち並んでいたということになりますかね?

 しばらく五重塔の周りをうろうろして、車に、戻ります。この後・・・どこかへ行って時間を少しつぶして、自動車道をのぼって三山神社を眺めようというわけです。

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