歴史の中をうろうろ(4)
 日韓併合でどんな変化が・・・(4)封建社会の崩壊b

 封建制社会って、経済的に非常にもろい社会体制のような?そんな気がします。日本の場合は国内に沢山の金属鉱床があって・・・金属に関してはかなり豊かであったようです。鉄は豊富な砂鉄から、銅山には金銀が付随して出ますし・・・戦国時代には軍資金が必要で鉱山が開発され・・・封建制の中に、貨幣経済が浸透していく素地があったということのようです。そして、江戸時代の、実用的な通貨システムのおかげと、両替商の金銀の純度に対する知識による、改鋳による出目対策などで、海外の一流国並みの通貨システムが出来上がっていた上での開国、封建制の終了に対応できたのでしょう。
 江戸時代の封建制と貨幣経済・・・どんな具合に連動していたのか?気になります。

 確証は全然ないのですが、日本の為替システムってかなり古くからあったのではないかと・・・中央と荘園と・・・米なんか動かすのは大変です。現物は動かさずにデータだけやり取りしていたのでは?そのため、早い段階で送金のシステムが確立して、江戸時代には整備された飛脚のシステムと連動して世界最高の為替システムが確立していたと思われます。

 飛脚のシステムだって、基本的には律令時代の役所と役所を結ぶ連絡システムから連綿とつながって、明治時代まで残っていたようですから。鹿島神宮の社務日誌に、郵便制度に変わっても、飛脚の方が便利であるとか書かれていますからね。しかし、中央の役所は郵便でないと受理しないとか・・・そんな感じです。そういえば、裁判所の競売の入札も郵便でないと受理されませんね・・・

 さて、日本というのは、案外運輸通信金融が非常に進んだ封建制社会を持っていたのでは?なんって思えます。今も寺社の巡礼で朱印をもらって歩くというのは、古代の物流システムの名残では?なんってふと思ってしまいます。

 社寺は、それぞれ独立したものではなく、本社・末社、本山・末寺の関係で結ばれています。たとえば、A神社の系列のA1、A2・・・A50という50社があったとします。A1神社に米を1俵納めて、それを認め朱印を押した書類を作ってもらい、A2まで行って、米3合を御馳走になって消費したことを書き記し朱印を押して次の神社へ・・・と、神社のネットワークを利用して、現物を動かすことなく、各神社間では必要であれば差分だけを何か価値あるものを使って清算することだって可能だと思うわけです。

 何しろ、鎌倉時代の御家人は、こういった為替のシステムで俸給をもらっていたようですからね。割符なども同じような考えのものでしょう。同数の同等品を受け取るというシステム・・・通貨の普及していない時代には、証文のやり取りで物を動かした方が断然楽ですから・・・

 ふと、下らないことを・・・このまま消費税が高くなったら・・・書類の上でのバーター取引などが流行るかもしれません。賃金は形式的に物をもらい、その証書を受け取る、これを欲しいものと交換する・・・お金のやり取りではないから消費税は?なんだか、パチンコ屋が景品を介して換金することで、賭博にならないようにするシステムに似てるな・・・

 おお!今月分として会社からパチンコ玉1個を1円として・・・今月はパチンコ玉30万個のカードをもらう、このうち380個で野菜を買った・・・5000個をパチンコ屋で使い、20000個に増やした・・・儲かったので、肉屋で1500個と引き換えにステーキ肉を買って帰った・・・・パチンコ屋と大きなスーパーが結びつけばそういった業態ができるかもしれません・・・

 日本中のパチンコ屋で使える共通券があれば・・・円の代わりに通貨のように流通させることができる・・・しかし・・・日本では現物のパチンコ玉はパチンコ店の機械の中だけで循環しており、人々は現物であるパチンコ玉を手にすることなく、パチンコ玉で取引を行っている・・・現物のパチンコ玉には価値がないが、経済は全てパチンコ玉の玉数で動いている・・・政府は、パチンコ玉移動税つくり、政府サーバーに直結する公認端末を銀行を通じて国民に強制的に利用させることにより、所得税と消費税の代わりに税として回収している・・・これにより、所得税と消費税率を等しくすることで効率的な税システムを構築することに成功した・・・

 馬鹿みたい・・・しかし・・・電子マネーになって、政府が本気で徴税を行うとしたら・・・そういったことになるのでしょう。まあ、パチンコ屋は公営になっちゃうでしょうけどね・・・

 さて、封建制社会というか通貨を持たない場合には、交換媒体として米とか穀物などの現物を基本として、割符とか蔵預かり切手などが制度として動いている社会なら、経済的発展は可能でしょうが、個人のツケに頼る社会では、閉鎖的な地域の連合体の形を取るしかなく、そこに通貨が入ったら・・・富の不均衡が地域社会を破壊する可能性があります。

 あたかも、ユーロで統合されたヨーロッパが、ユーロを基軸として貧困地域を作り出しているような感じもしますね。通貨を単位として閉鎖された社会であれば、国内=その通貨が通用している範囲内で均衡していれば問題がないが・・・ということなのでしょう。

 さて、朝鮮半島での事情はどうだったのでしょうか?李朝朝鮮では銅貨を使っていて、日韓併合の少し前に白銅貨を発行しているようです。この白銅貨の流通量が足りなくて、私鋳銭が多く出回ったようです。私鋳銭なのか贋金か分かりませんが・・・銅貨の時代もやはり鐚銭が横行してたらしく、品位によって選銭を行っていたようです。この白銅貨の偽物は鉛貨が多くて・・・鉛貨は買い上げずに破却して地金はそのまま返したとのこと・・・まともな白銅貨は二銭五厘で買い上げとのこと・・・鎖国が破れたために開港場では日本の円や外貨が普通に流通していたようです。

 昔から流通している銅貨の常平通宝、一般に葉銭と呼ばれていた方は、海外の銅相場の高騰で流出しており、新貨への交換は順調であるとか・・・

 とにかく、李氏朝鮮は、末期には中国へ運ぶ金銀にも事欠いていたような感じです。第三次日韓協約で日本は李朝の金融システムを改めるために2000万円弱の資金を無利子で貸し付けています。まあ、日本人官吏の給与その他の用にあてるためのものですが、このほかに李朝は国債を発行して合わせて3500万円を超える金をこしらえて、新貨への転換を図ります。

 銅貨の方は、本位貨幣だったものが、1枚2厘、5枚で1銭、1円を上限に流通する補助貨幣に格下げになりますから、経済の混乱は激しかったのではないかと思われます。

 まあ、日本で新政府が小判や金・銀判・丁銀やらを円貨に切り替え、銭を流通させつつ解消していった手法が採られたようです。

 銅銭が本位貨幣から補助貨幣に変わったために、銅銭の相場を禁止していくことになります。そして、急激な買い上げを控え、ある程度の流通量を確保し、葉銭相場が高騰しているような感じを与えないように、新貨への交換を行っていきます。

 日本の維新の際の政府の通貨変換はどんな具合だったのやら?ちょっと気になります。とにかく新しい通貨体制に慣れる必要があるということになります。そういえば、2000円札というのがありますが、私などは3回しか触れたことがありませんね。これを考えると、新しい紙幣にふれるなんって特殊なことであって、なじめないということなのでしょうか?とにかく、新しいものが流通するにはそれなりの下地が必要なのか、全面的に変わる必要があるのでしょう。

 さて、朝鮮にはもう一つの通貨がありましたそれは・・・なんと布です。租庸調の調布・・・政府の決めた、縦糸5升(80本)長さ35尺が1反、2反で1疋、これが事実上の通貨として流通していて、交換率は・・・成人男子の奴婢がで布100疋まで、成人女子は120疋と定められていたようです。王朝の末期の14世紀になると通貨用の象徴的な軽いガーゼのような布で貨幣として流通したようです。この制度は19世紀あたりまで機能していたようです。

 日本の場合は、調布を納める代わりに銭での代納が利くようになっていますから。日本でも調布の規格で高額通貨のような役割を持っていたのかもしれませんね。

 ふむ、歴史上の経済の発展というのは技術の発達に伴って価値の体系が変わっていくことになるということでしょうか?狩猟採集時代は食べるのがやっと、したがって経済というものはそれほど大きくなく・・・そう、多分石器や石器の材料となる黒曜石やサヌカイトや、生活必需品の塩などが通貨としての役割を担い、農業の発展により米などの穀物が基軸となり、さらに機織りなどの技術と、手間と材料と規格によって一定の価値が認められた布になり、鉱工業生産及び鋳造の発達で金属貨幣が現れ・・・今は、象徴的な価値としての紙幣へと移行していったということなのでしょう。

 李朝の貨幣史はなかなか面白いものです。布や米が通貨として通用していたなんって・・・封建制社会での金融というものがどのようなものであったのかの資料を眺めていると・・・・これは面白いものです。明治の初めころまで朝鮮半島では租庸調の租・調が一定の規格であることから通貨であったのですから。律令体制の財政は、基本的に地域で完結した財政だったのでしょうか・・・納入された米はそれ自体が富の象徴で、調布は現金のように流通し、調布の上等なものは都で加工され、幣物として地方の神社へ納められます。 「いついろのあしぎぬ」とかになってね。

 先進の文化が、富を生みだす装置として働いているのだとか・・・今は、お金が自在に流通していますが、昔は通貨の発行高が少ないので十分な流通は見られなかったようです。今昔物語に、引き剥ぎの話があったり・・・衣類を剥がれてしまうというやつです。まあ、布ぐらいが高価なものだったのでしょう。明治大正期のやくざも、旅でどこぞの親分さんの厄介になるときに、手拭いに熨斗紙を付けて出して、出る時には新しい熨斗紙がついたのが帰ってくるとか・・・儀礼的な布のやり取りがあったとか・・・

 通貨を眺めたのですが・・・今度は通貨の元になる朝鮮の鉱工業生産なども気になりますね。日本の場合、戦国時代に金属鉱山が開発され、戦国時代の戦費を稼ぎ出しているようですが・・・朝鮮半島の鉱業はどんなものだったのやら?しかし、ちょっと気になるのは戦国時代ですね。商業・鉱工業の飛躍的な発展・・・戦争をやっていたとは思えないほどの・・・まあ、戦闘は農閑期のちょっとだけなのでしょうが・・・案外、戦国時代で、実質的な封建社会=前貨幣社会は終了し・・・貨幣経済が国の隅々まで浸透していくことになり、江戸幕府の貨幣制度の下で、多分1660年代には寛永通宝などの通貨システムが浸透し普及したのではないかと思われます。この頃、15年間ほどで20億枚ほどが発行されていますから、これだけの量なら十分な流通量が確保できていたのでしょう。

 そして、日本の開国で、銭の流失が始まり、鉄銭が作られたり、真鍮貨になったりを経て、明治政府へと移っていきます。貿易というものが、どれほどの富の不均衡を生みだし、財政をコントロール困難にするものか興味深いものです。そして、明治の世になると寛永通宝などは1厘として通用し、明治の中ごろまで取引に使われていきますが、通用が完了するのが昭和28年かな?銭・厘が廃止されるに伴ってですね。

 通貨を自然な形で変えていくには時間がかかるということなのでしょう。日本も敗戦によって莫大な国債が残されましたが預金封鎖、新円切替、財産税の徴収で見かけのお金は消えて国債も紙くずになって・・・という素晴らしい国の不良債権処理の一幕です。

 李朝朝鮮も、事実上破産状態で身売りということだったのではないかと思われます。頑張って、史料をもう少し読み進めることにしましょう。
(2012.10.16)

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