歴史の中をうろうろ(3)
 日韓併合でどんな変化が・・・(3)封建社会の崩壊a

 隣国について知らないことが多すぎることに気付きました。それは朝鮮半島の国ですね。ネットの上にも古い映像資料があることはあるのですが・・・コメントがすごいのでちょっと食傷気味、こうなると自前で集める気になるというわけです。他人が書くコメントはあまり欲しくないものですからね。自分が見たものを、自分で考えるのが好きなんでね。

 ・・・日韓併合期の朝鮮の様子に興味を持ったのですが、封建制に関して気になることが多くて・・・ちょっと、明治に日本が封建制から資本主義社会へ移行し、それを朝鮮にも持っていったということになりそうなので、封建制を経済面から理解すると、イザベラ・バードの朝鮮紀行ってものの内容の理解が進むような気がしてね・・・ちょっと、封建制というやつを眺めてみることにしましょう。とりあえず封建制社会=前貨幣社会として、この貨幣に依存しない社会を構成してみましょう。

 貨幣のいらない経済というのは想像しにくいのですが・・・賃金以外の物質的・精神的な安堵を与えることで対価を払うというのが非貨幣経済の原則でしょう。多分・・・強奪というのは例外として・・・いや、強奪も含めてもOKかな?つまり本当の一個人としてなら・・・

 社会の構成要素は個々の人間、個体から始まります。一応個体は親から生まれ、ある年齢に達するまで親(本当の親でなくても可)の保護の下にいなければ死んでしまいますから、保護するもの保護されるものというので1つの社会関係がつくられます。もうひとつの社会関係は一人の親から子は生まれませんから、ひと組の男女の関係がもう一つの社会関係です。

 鶏が先か卵が先かの論争になるのは嫌ですから、とりあえずひと組の男女の関係が社会の基本要素の家族であるとしましょう。家族の基本単位は、他人となるわけですから、まさに社会・・・他者との関係・・・のスタートにふさわしいような気がします。社会という言葉は出自がはっきりしていますね。1875年東京日日新聞の主筆である福地桜痴が英語の「society」 の訳語として登場させ、日本語に定着した言葉です。この時代まで、日本では社会という概念が希薄であったということのようです。宋代の中国にも社会と言う言葉がありますが、社に集い祭りを行う人々といった意味合いのものでしょう。

 人類の全体社会というのは定義するのは簡単ですね。地球人類の暮らしている範囲が社会でしょうね。個人からみて、伝聞によっても構わないが、そこにも人がいるぞという通信可能な範囲にいる人も社会の中に入るのでしょう。さて、社会の最小の単位の「ひと組の他人の男女」まあ、「ひと組の他人の兄弟関係を結んだ人」でも基本は同じでしょうが兄弟関係からは子孫は残せませんから、基本最小単位は「ひと組の他人の男女」で良いでしょう。

 社会と同じように、個々の人間、個体だけでは意味はなく複数の個体が集まると問題になるのが経済です。経済という言葉は面白い言葉です。現在はお金にかかわるようなことを経済と言ってるような気がしますが、原義は中国晋代の抱朴子の中の「経世済民」にあるとされています。この経世済民は、「世を治め民をたすける」この世の中をどのようにするか?ということを表していて明治になって、この経済はeconomyの訳語とされます。このeconomyの語源もギリシア語 oikonomiaで、 oikos=家と nomos=慣習,法 からなる合成語で、家の管理運営のあり方を意味します。まあ、固い言葉なら家政ですね。

 ほら、社会と経済が社会の最小単位の「ひと組の他人の男女」につながったぞ!ギリシア・中国で独立に発達した社会も根本原理は同じであるということでしょう。

 「ひと組の他人の男女」の中での経済は?ひと組になる前に持っていた個人財産の統合から始まるかな?おまえのものは俺のもの、俺のものはおまえのもの・・・しかし、処分したり付け加えたりするときは?個人ではなく法人として動くわけか・・・人であれ財産であれその集合体に法人格を与えてひとまとめで考える方法・・・ファミリーネームは法人名・・・鈴木太郎と斉藤花子の他人がひと組の家として鈴藤家をという法人を作り、その社員として鈴木太郎と斉藤花子がいて、法人として行動する場合は鈴藤のものですが・・・そして、2人の各々の個人財産は鈴藤に属する・・・婚姻は法人の設立と寄付行為によって始まる・・・とか?

 そして、ここから社会制度の問題が始まるか・・・先ほどの例で婚姻によって新たな姓を創出したのは、男系か女系かという面倒な方に持って行きたくなかったからであります。別姓のままでもOKですけど、ファミリーネームを冠すると楽だったのでね。

 社会の最小単位は「ひと組の他人の男女」でとりあえずOK・・・一夫多妻制とかそういった複雑なのは、後にしましょう。ここから問題になるのが、「ひと組の他人の男女」は他者とのかかわりを持つということです。互いに両親という4人の他者が(生きていれば)そして、新しい家族を創出したことから、両親はその家から労働力と財産が新たな家の創出によって失われるということです。

 ああ、財産権を先に考えないと・・・個人に属するもの、所有権というものは基本的に認められる権利として考えることができると思います。他に人がいない時、所有権は意味を持ちません。たとえば、地球上に自分しか存在しなければ、全てを所有することを欲するではなく、そこにある・・・所有は意味を持ちません。まあ、限定的に毎日のように使う身近なもの、ああそこにあるなと認識しているだけでしょうからね。

 「ひと組の他人の男女」が新たな家という法人を創出すると、個々の所有物は家のものという概念になり、これはいつも自分が使うもの!と宣言する一部のものが法人所有の個人占有物になる・・・多分・・・共有財産は、その構成員が使うよ!って宣言によって、一時占有が認められしばらくの保管責任が生じるのでしょう。使用の対価は?基本的には、構成員の福利厚生及び生産などに使う場合は法人の利益になるから・・・占有の対価は必要としない・・・生産したもので得た利益は家という法人のもので、構成員の必要によって分配される・・・家政ですね。

 さて「ひと組の他人の男女」は別の「ひと組の他人の男女」の子として別の家に属していて今は完全に独立していれば良いですが、農業などの場合には耕作地が限られていますから、どちらかの「ひと組の他人の男女」の側にぶら下がると考えると、新たな社会の構成要素が見えてきます。

 男系になるか女系になるかということです。独立した家計を持たずぶら下がると大家族制になりますね。食料の自給を基本とすると、家という法人からの支出はありませんから、家という法人の中では通貨は必要なく、何かをしてあげた、何かをしてもらったの関係があるだけです。さて、自給自作農なら問題はありませんが・・・それ以外の人間がいると・・・何か?仕事ありませんか?とやってきたら・・・労働はある程度あるでしょう、この人間は家という法人に属する人間ではないので、仕事が終わったらそれ相応の対価を支払わなければなりません。

 1日の仕事なら持てる程度の穀物などを渡すことで支払いは済むでしょう。では、もっと長期間であったら・・・それなりに才能があり能力があるのなら・・・食客として養うことになるのでしょう。労働の対価としての食事・・・現物経済ならこうなるのでしょう。それなりの才能がないと・・・農奴として使われる・・・

 ある空間内で、人の行き来がない場合は富の出入りがなく、共同所有であれば貨幣は不要・・・テレビ見ていい?100円!なんって家庭内の会話ではないですからね。

 封建社会というのは・・・家という法人に属する富める「ひと組の他人の男女」と直系の子という血縁集団がいて、その他に食事と屋根の保護を受け、その対価としての労働を提供する集団があり、貨幣によらない経済的共同体ということになるのでしょうか?

 この集団内での消費貸借はどうなるのでしょうか?対等な関係なら・・・おなかすいて死にそう、食べのも分けて・・・ほらこのパンをお食べ・・・今度返すからありがとう・・・金銭はありませんから、自己の処分権限内で借りを返すか、夕食のときに、これパンのお礼、僕の分の肉を半分あげるよ・・・食料の貸与って次の食事あたりまでで解消されてしまうのもですから比較的簡単でしょう。もちろん蓄積や原料としての食品は別ですがね。

 封建制の基本の中で考えた持てるものと持たざる者の関係は?たとえば支配者階層が被支配者階層への借りは倍返しとかね。そのパンをくれ、後で屋敷へ来い。で済むでしょう。厳然たるルールであれば、黙って取り上げてもOK、そして支配者は義務を果たす限りにおいては被支配階層からの信頼は失わずにいつでもそれで済むでしょう。

 これを拡大していくと封建領もしくは荘園という法人というものも、家という法人と規模の差だけになるのではないかと思われます。そう、法人内で現金の授受なしで動く組織って・・・封建制的な枠組み・・・従士制度の末裔の軍隊などそうでしょう。兵舎・被服・食事が保障され軍内部では金銭は必要とされない。しかし、私物は存在し私物の所有権は明白。軍という法人・・・軍という法人を設置する富める「ひと組の他人の男女」と直系の子、軍という法人を運営する中核となる士官、そして農奴のような兵・・・武装した兵が軍から追い出されるとき・・・武器・兵装は解かれ、裸に近い形で放り出される・・・武器・兵装は軍という法人に属しているから。

 まあ、部外者から見たらそれは、支配者が被支配者から強奪しているようにも見えるでしょう。多分、所有権というものは非常に強い権利でそう簡単に侵す事はできないと思われます。封建領もしくは荘園という法人所有と領民の個人所有はきちんとわかれているが、その組織内のものでなければわからない暗黙の法が存在するのでしょう。慣習法・・・その組織内のものなら当然知っている生活を縛る不文法、したがって封建制=貨幣によらない経済的共同体は、かなり強い慣習法によって成り立っていることになり、よそ者は入り込む余地のないもの・・・よそ者はその慣習法を知りませんから、身分によってその階層の客分としておとなしくしているしかありません。ちょっと例をあげて考えてみると・・・

 Aの客分としてよそ者が来た。Aとよそ者は荘園内を歩いていた。子供が鎌を持って歩いていたので、それを取り上げた。しばらくしてそれを役人風の男に渡した。Aはある商家に入りいくつかの饅頭をもらい対価も払わずに出る。饅頭を食べながらAとよそ者は歩いていると、立派な身なりをしたものがやって来て、Aに手を差し出すと、Aはお辞儀をしてその立派な身なりのものに饅頭を恭しく渡した。別な店でAは店にあった立派な皮の鞭を手に取り、領主の屋敷を指さしただけで、その皮の鞭を持って店を出た。Aは村の広場に着くと、広場の片隅に集められた人々の前に行った。Aはその人々の傍らの男に鞭を示しうなずくと、その男は人々の中から一人を指さし、この人は広場の柱の横木に腕をつられるように縛られ、Aは皮の鞭を傍らの屈強の男に渡し、鞭打ちが始まった。鋭い鞭の音、叫び声、広場の人の嘲笑とすすり泣く声・・・鞭打ちが終わるとAはにっこりとして鞭を受け取り、よそ者と共に自分の家に向かった。

 Aの客分のものは、この様子をどのように見るかの問題です。客分となってきたものは、Aと同じ行動が許されるか?これは無理・・・饅頭を対価も貰わずに・・・これはAの客分としての行動なら許される範囲かもしれませんが・・・

 この客分はどのようにこの様子をとらえるか?資本主義経済の人間だとこの様子はかなり奇異に見受けられるでしょうが・・・

 私はAのところへ遊びに行くと、Aは自分の村を案内してくれた。Aは子供から鎌を取り上げて、それを役人に渡した。ここでは強奪が一般的に行われ、強奪して役人に上納するのが習わしのようである。また一定の身分を持つものは商家に入って金も払わずに商品を持って出るのが普通に行われている。そして、上級のものは下級の者に対して欲しいものは手を出すだけで手に入るようだ。そして、鞭のような高価な商品については、領主の権威によって取り上げ、その鞭を試すために、村の広場の人を縛らせ鞭打たせ、満足そうに家に戻った。

 はたして正しいのか?ということなんです。Aの客分が封建制社会の住人ならこんな風に感じないでしょう。

 Aは手広く商いをやっている荘園の中でもなかなかの人物で、私が遊びに行くことを快く承諾し、村の様子を見せてくれた。子供が鎌を持っていた。どこからか持ち出した荘園の鎌だろう。それを取り上げて、荘官の手下の者に渡した。Aは商家に入り饅頭を買った。Aのような大家のものの買い物は全てツケでこのあたりでは年末の清算のようだ。私のあたりだと期末清算なのだが・・・Aの上役に道の途中で会い、Aに手を差し伸べ、Aは饅頭を手渡しお辞儀をした。まあ、これで上役の家の祭りのときには豪勢な御馳走に上席でありつけるだろう。持ちつもたれつの地域社会だ。Aは武具の店に寄った。そこで、領主のツケで上等な皮の鞭を買った。Aは警察権を行使する立場の人間で荘警察の大物なのだ。今日は、債務不履行者の鞭打ちなのだそうだ。鞭打ちでは債権債務関係は解消されないのだが、これをやらないと綱紀がピシッとしない。とりあえずは債務の履行は1年待ってもらえることになる。そして、幾ばかりかの銭が渡され、今年はその人間にはツケは利かなくなる全ては、その生きる糧となる銭だけで生活を立て直さなければならないことが公知のものになるのだそうだ。なかなか良い制度だ。自分の分を越えた贅沢は嘲笑と、仲間の恥になるわけだから、広場の嘲笑とすすり泣きの中に正義がなされるというわだ。

 どちらも同じ事実を見て、ちょっと意図的に補ったり省略して書いたつもり・・・

 封建制社会=前貨幣社会が崩壊するためには?それは簡単ですね。貨幣の流通が盛んになればツケが現金払いに変化、貨幣は貯金することが可能、もちろん現物での保存も可能でしょうが、見るべき商品のない地域が商業化によって、珍しいものを買い込めば、その地域の商品は買いたたかれ、富は著しく減少・・・まあ、発達した道具などは生産の向上につながるので良いのですが・・・贅沢品がね。

 したがって、鎖国したり、貨幣の流通を押さえたりすることによって、封建的経済体制を維持していくが、周辺の貨幣経済化に伴って・・・門戸開放、資本主義経済への移行・・・となるのでしょう。

 日本も国内での貨幣経済の伸長に伴って封建制の限界が出てきて、明治維新・・・日本は莫大な金・銀があり、その他輸出産品もあったので、現金決済にそれほど困らなかったので、比較的簡単に国際社会の一員になれた・・・李朝朝鮮も同じように門戸を開放したものの・・・鉱業が立ち遅れていたのが仇になり、そこに介入したのは、早くに封建制を捨てた日本ということなんでしょう。中華帝国の冊封から日本帝国の冊封に変わったら、中華帝国の封建制から日本帝国の資本主義への転換ですから、経済が混乱したのでしょう・・・外圧は強いし・・・何百年の慣れ親しんだ下水道も臭いと言われるし・・・通貨の流通は人の動き、商品の動きを活発にし、人々の生活を複雑にするということなんでしょう。

(2012.10.10)

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