人間の行動と妄言虚言?

 どうも、人間と言う生き物は複雑でイヌのような動物とはずいぶんと違うようです。良い大人が、殴り合いの喧嘩をやらかして、どうも決着はつかなかったようですが、やや多めに殴られてしまった連中の仲間が集まって、あんな奴、ぶっ殺してやるとかやっていました。

 まあ、仲間内での、負けてはいないという意思統一の過程の中でぶっ殺してやる!あんなやつ、海岸に埋めちまうとかやっているわけです。実際に殺しちゃうと大変ですが、話の根底にあるものが見えていますから、別段大したことは無い・・・2・3日すれば、仲間内での話の合意ができて、静かに終息していくわけなんです。しかし、こういった人間の機微のわからない人にとっては、こういった話は恐ろしい話に聞こえてしまい・・・びっくりすると言うことのようです。私としては・・・裏がわかっていますから、またやっている・・・そんなものですがね。

 しかし、田舎だとこんな話はざらにある話のようで・・・なかなか、興味深いものです。法社会学や法哲学などを学んだ人間としては、こういったものは面白くて仕方ないのですがね。

 なあ?先生どう思う・・・こう聞かれると、ちょっと困りますが、お前さんにはやるだけの度胸がある!でも、仲間が刑務所に入るのはちょっとな・・・そのときになったら差し入れに行くから・・・こういう風なことを言えば、自尊心は満足し、別に殺すという行為に及ぶ必要はなくなります。

 結局のところ、仲間内での話と言うのは、仲間内での虚勢の張り合いに近く、みんなが納得すればよいわけです。しかし、こういった気合の入った話を聞く機会って少なくなった気がします。映画の中でも少なくなったし・・・しかし、社会の底辺の目に入りにくい部分にはこういったものが存在するというわけです。良い悪いは別ですがね。内容としては、殺人予備か?刑法201条の構成要件にはあたらないと思うが・・・それに近いな?何しろ、海岸の作業現場のユンボの話とか・・・事故に見えるように・・・とか、具体性が出てくると・・・

 こんな話は、話をしても良いと思われる人間たちの前でしかそう簡単にはできませんね。まさか、交番の前でとか・・・、そう大丈夫な人間と目されるところで会話されるものです。大丈夫な場所・・・まあ、私も、大丈夫な人間のようで・・・

 あとは、カラミティ・ジェーンこと、マーサ・ジェーン・カナリーのような人間の前ならOKなんですがね。

 人間と言うのは、どうも、自分の都合のよい人物像を、色々な形で作り上げようとするようです。私の場合は、そういったものはあまり関心がなく、とりあえず、嘘や大げさは好まないので、素の人間で生きようと努力しています。虚勢は疲れるし、大げさや虚構は、それ自体を維持するためにすばらしい記憶力が要求されます。私の場合は、呑む習慣は無いのですが、人が集まれば際限もなく呑むほうなんで・・・すばらしい記憶力は持たない上に、忘れてしまう可能性の方が高いので、嘘、大げさは無理なんです。正直な酔っ払い万歳!なんって感じかな?

 さて、ふと昔々の映画を思い起こしてしまいました。1953年の映画CALAMITY JANE デヴィッド・バトラー監督、ドリス・デイ主演のやつね。そこそこな実行力を持ちつつも、大げさに・・・まあ、時代背景を考えると・・・この時代のアメリカのお話は大げさで虚飾に満ちたものが当たり前ですからね。別に大したことではありません。

 それでも、最後まで信頼され、修羅場を間違いなく切り抜けてきた人間たちですから。飛び交う銃弾、罵声など軽いもののと言う世界なんですから。野蛮と言えば野蛮・・・アメリカの伝統的なほら話と言うやつがね。これは19世紀の南西部の開拓民や猟師、河川の船乗りたちの間で生まれて広がっていきます。何しろ辺境で孤独な生活を送っていた人たちは・・・人に合えば、自分たちの強さや勇敢さであるとか、頭の切れのよさをめぐって壮大なほら話をするわけです。孤独は、人を引き止めておくためには手段は選びませんからね。

 ふと、都市も辺境も孤独と言う意味合いでは同じかも?普通、個人の過去の武勇伝や頭の切れるお話と言うのは、検証不能だし、利害関係がなければ、単なるお話で済むわけです。年収2000万のプチセレブといわれても別に大したことではないわけです。現在は違うでしょ!なんって言う必要もありません。たとえば、親の遺産1億円を5年で使い果たしても、そういう言い方もできて・・・嘘ではないが、微妙に事実とは外れる・・・

 お嬢様がいました。普通に就職したら、親から勘当されつつも勤めました。やがて結婚しました。子供もできました・・・家事労働があまり上手くなく。姑ともあまり上手くいきませんでした・・・やがて、酒乱を口実に離婚しました。実家に戻ることもできず、貧乏生活をすることになりました。生活保護を受けつつ・・・不動産業界へ・・・そこでも、お嬢様はあまり良い仕事はできませんでした。しかし、夢の話を聞いた人は、機会があったら支援しましょう!ってね。仕事は、ぼろぼろでした。マンションの一室の清掃を行うように命じられますが・・・あまり、洗剤やワックスに関する知識がなかったので、埃をワックスで塗り固め、以前にも増して悪い印象を生み出すことしかできませんでした。

 首になる瀬戸際で、莫大な遺産が入りました。予てより夢を語って、その実現の画策を考えていた税理士は・・・遺産の不動産を担保に、ビルを建てることを薦めます。別段、考えもなかったお嬢様は、それに乗ることにしました。バブル全盛期の話です。どのような投資であれ、担保となるものがあり。その担保をもとに、新たな担保となりうる物件が生み出されるわけですから、銀行だって大乗り気です。

 ビルを何棟か建て、借金も大きく育ったところで、バブル崩壊がやってきます。家賃収入などを、ある程度プールしてあれば、バブル崩壊の余波をしのげたかもしれませんが、家賃収入を、全て旅行や服、貴金属などにつぎ込んでいました。貴金属などは換金性が高いと思われていましたが・・・残念ながら、わが国には宝石の市場が未成熟、美術工芸品としてのプレミアが付きそうな貴金属でも、時価の重さでの 買取しかありませんから、換金性が高く大きな財産と思われたものも、ビンテージものとして購入した数万円のジーンズも300円程度の古着の値段にしかならないことになります。

 担保割れし、入居者の欠けたビルでは・・・当然のように、借金の返済は続きますが、家賃収入は減る一方で、ある日、債務不履行がやってきます・・・ビルや遺産の不動産は任意売却とか民事売却とかで言われる手法で処分され、債権者の手に現金が回ります。しかし、この処理では債権自体がなくなるわけではないので、残金の返済義務が生じます・・・

 結局のところ、夢を語り、夢を実現すべく多くの人間がかかわりあってくるのですが、自身は何をすればよいかがわからないため、ある範囲を超えた瞬間、自分自身を見失い、妙な行動をし・・・挙句の果てに、忘れられていくのかもしれません。

 カラミティ・ジェーンは?この人は、多くの人助けを行いました。とりあえず、味方に関しては・・・インディアンは別ですね。とにかく、原住民以外の人間に対しては分け隔てなく、労を惜しまなかったので後世に語り継がれることになるわけです。

 多くのことが、大げさ嘘であっても、その人間性に関してはブレは無いと認められるからですね。実力のある人間は強く、実力ゆえに、さらに大きな話へと作られていきます。実力なき人間が、虚言と妄語で自らを飾り立てても、果たしてどうなるのか?

 人間と言うものは、不可解なもので・・・犬は忠実・・・そう簡単には飼い主の手を噛むようなことはありませんね。だから、実力なき人間は、人間よりイヌを大切な友とし、虚言や妄語を検証する必要の無い、稀人または客人を大切にし、必要以上の歓待を行ってしまうものなのかもしれません。歓待のためなら、他人の財物や、冷蔵庫の他人のデザートですら利用することになるのかもしれません。

 また、法社会学や法哲学、それから民俗学の研究でもしたくなって来ました。何しろ、生きた実例のようなものが身の回りにたくさんあるのですから・・・民俗学・・・折口氏の研究など、案外こういった人間の根源的な行動パターンから新たに読み解くことが可能かも?

 民俗学の中には、案外、日本民族の思考パターンの本質が隠されているかもしれません。そういえば、石原慎太郎氏の著作が、たまたま店の本棚にあったので・・・たぶん「国家なる幻影 わが政治への反回想」だと思うのでが・・・今読んでいる本なのだが、なぜか書名に自信が無いのが問題ですけど・・・こいつの中には虚勢で生きる政治家の生態が記されていますから、こういったものも研究すると面白そう・・・

 ああ、古典もそうですが、なぜ人間という生き物は、この数千年来あまり変わったことをしないのでしょうか?まあ、私としては、本を読む時間も、何かを考える時間も、そして、面白くもまた、不思議な仲間たちが周りにいますから、ちょっと気合を入れて研究するのも良いでしょう・・・しかし・・・時には土建屋の重役風の役回りはパスしたいものだが・・・近頃は、色々な役回りがあって・・・極悪非道な先生と言う新たな肩書きも成立しつつありますからね。困ったものだ・・・誠実に生きると問題が多いようです。

 しかし、わかった上で、投資したりもするんで・・・別に大したことは無いのですが・・・アリとキリギリスの話のようにならないことを祈るとしましょう。(わかる人にはわかるでしょう)あまり、多くの人に迷惑をかけずに生きられればよく生きることになると思えるのであります。

 そう、もうひとつ・・・3ヶ月の試用期間という奴は、合理的でありますね。そして、近頃よくわかったのは、定年制と言う制度・・・今、わが国は年金財源の不足から、定年を延長していますが・・・こいつはなんとなく亡国の元になるのではないのか?かつての50歳定年・・・これに戻すか、50歳を給料の最高額の取れる歳とし、その後は減少と地位の低下を行わないといけないと強く思うわけです。

 定年制は、組織の硬直化を避けるための良い手法であり、特例は設けても良いとすればOK、さもないと、老害によって社会が硬直して、エネルギーあふれる若者の存在意義が失われるのではないかと思うわけです。若者の創意工夫と、その創意工夫を認められる年代は?やはり50歳前後までではないかと思われるからです。

 これを超えると、やり方を変えないために、言い訳や、権威を傘に・・・奴には商才が無いなどのご託宣を下して回避を図ろうとしつつも・・・プレッシャーに対抗する術を持たず、別な権威に調停を望むようになるようです。

 まあ、権威や、暴力的なものにも、簡単には屈しない人間に自分を鍛えてきたつもりですから・・・それほど、周りには気にしませんが・・・歳はとりたくないものです。

(2012.06.03)

inserted by FC2 system