災害と災害を超えるには?

電気のない生活というのはなかなか厄介です。海岸の小屋には電気などのライフラインは一切引き込んでないので、太陽光発電をメインの動力システムとし、暖房は原則なし・・・寒くてもたくさん着込むとかで対処・・・なければ、ないで過ごすことができることもわかっていますがね。

しかし、暗黒というのは問題です。数ワットのLED照明だってそれなりに明るく感じられるものです。周りが明るくなると、人の目は暗くなるということのようです。

さて、防災か・・・災害は必ず起こるから、災害が起こったら?どうするか?それが問題になるわけです。いや・・・災害を生き残った人が何をするか?災害の初期を生き延びた人をどのように救うかが問題なんですね。

じゃあ災害とは?人の命を急激に脅かすものでも、とりあえず定義するとすれば・・・脅かされ方もあるでしょうが・・・一過性のもの、発生後長い時間人命を脅かすものに分けられそうな・・・

いずれにせよ、災害の初期段階に生き残ることが重要です。そして、引き金となった災害から派生して起こる二次災害に対応して、生き残るには?そして、災害の復興期に死なないためには何をすればよいのか?どのような支援が行えるのか?となるのでしょう。

過去の災害と、その対応を見れば何かわかるかも?となると、関東大震災でもチェックしてみるかな?何しろ、今より福祉が発達していなかったと思われますから・・・そして、人のニーズもまた今より単純であったと思われますからね。例によって、色々調べ始めると手ごろな本が・・・関東地方震災救援ニ関スル福井県施設概要・・・ってのを眺めると・・・

義捐金として、一戸当たり60銭以上を集めることにしています。郡・市長や警察署長に対して、郡市の割り当て金額を示し募集を命じています。結果は、目標額の2倍程度がそれぞれの郡市からあつまっています。

義捐物資は・・・慰問袋を準備したとあります。慰問袋の概要は一袋の価格は50銭以内とし、食料品を除き、団体に対しても個人に対しても配布して問題ない内容で、慰問袋には寄贈者の住所氏名を記すことが許されており、慰問袋が相当数集まったら取りまとめて県へ納入させています。この慰問袋作成の基盤となる団体としては、在郷軍人会・青年会・婦人会・処女会等に委嘱して募集しています。

ふむ、今は失われてしまった民間の・・・組織が活躍しているようです。私の自宅あたりだと民間組織というと、町会がありますが・・・3.11の震災の時には格段の活動はなかったようです。基本的には町会は、定年退職者を中心とした老人会的な組織のようです。かつてのように行政の端末という位置づけは失われているのかもしれません。都市型の住人というのは、地域社会とはかなり無縁の存在になっているのかもしれません。

義捐物資は・・・慰問袋を準備したとあります。慰問袋の概要は一袋の価格は50銭以内とし、食料品を除き、団体に対しても個人に対しても配布して問題ない内容で、慰問袋には寄贈者の住所氏名を記すことが許されており、慰問袋が相当数集まったら取りまとめて県へ納入させています。この慰問袋作成の基盤となる団体としては、在郷軍人会・青年会・婦人会・処女会等に委嘱して募集しています。民間からの義捐物資としては米1711俵、薤、衣類81481点、慰問袋63842点、学用品150952点、味噌152樽、醤油204樽、包丁・鍋などもかなりの数が義捐物資として上げられています。

このほか福井県が調達し福井駅から積み出された物資は、白米、薤、包丁、夜間、木炭、梅干、鍋、ペン先、ペン軸、塩干魚、鰹節、石田縞及び裏地、肴、衣服、雑記帳、鉛筆、包帯材料が上げられています。

炊き出しと、事務処理及び、学業に関するものでしょうか?義捐物資の調達開始は9月3日に内務次官より電報で食料・日用品などの義捐物資調達の電報があり、午前10時から、白米500俵、梅干30樽、韮漬20樽を自転車や電話などで集荷を依頼し、翌4日午前7時40分第1回の輸送が行われたということです。送り出した先は被災地の福井県救済事務所へ送られたとされています。この物資は、名古屋港から神戸市の義捐物資を積んだ船に便乗する形で6日に名古屋港から送り出されています。この荷物と共に係員が被災地の福井県事務所へ行き、16日に福井県へ戻っています。

福井県は被災地から遠く離れており、義捐物資は速やかに到達させなければならないので、海運では間に合わないため、鉄道輸送を考えたわけですが、関東大震災で関東地方の鉄道網は破壊されているため、名古屋、神戸等に物資を鉄道輸送し、ここから船舶を利用して輸送することとします。時を同じくして、京都・奈良・兵庫・高知・和歌山・愛媛・徳島・滋賀・香川の知事が協議会を開いて関西府県連合事務局を設置し、協定して物資を大阪港、神戸港に改装して、被災地へ送ることを福井県に連絡してきたので、9月7日に人を送って事務局との連絡に当たらせています。

さて、同時に救護班も派遣しています、第1回の派遣は9月3日午後4時57分に12名が出発し、4日の午後に川口駅に到着し、荷車などを準備し、停電のため暗黒の中を本郷で戒厳司令部の検閲を受けて、そこにつめていた医海時報社の記者の仲介で、府立第五中学校で救護所を開設していた警視庁と海軍の救護所に合流し、直ちに警視庁の廻した自動車で本所横綱町に福井県救護本部を設置し、本所被服廠附近の傷病者の治療に当たります。そして9月13日に福井県に戻ります。続いて第2班が9月6日に19名が出発し、15日に警視庁の救護班と交代して福井に戻ります。第3班は神戸港から7日の朝に出発し、8日の朝に横浜に到着ますが、横浜市に各地の救護班が集まっており、適当な救護所の開設が横浜市の手ではできない状態にあったようです。市との交渉をあきらめ、宮崎町青年団長との話で、その町の大神宮神社にバラックを設けての救護所開設となり、一応の救護活動を終えて、9月18日に帰県したとのことです。

どうやら、けが人の救護活動は震災からおよそ2週間程度で一応の成果が上がったのでしょう。

この救護所と並んで、福井県救護事務所を17日に開設し、19日から「福井県人罹災者は来たれ」の宣伝ビラを各地に掲示し、小石川区で県人の救護活動が行われます。ここだけでは横浜市の罹災者の救護活動が十分できないため、9月29日に横浜市での救護活動を開始します。そして、これらの活動は一応の成果をあげて、10月8日に担当者は帰県しています。

被災者で帰郷したものの職の斡旋のために、福井市職業紹介所は県当局と協議して、求職について、銀行、会社、商店等の事業者を訪問懇談して、失業者64名を採用を決めています。

大正時代もなかなかやるものです。救護所の開設のようすなどを見ると、どうやら、全権を与えて自由に活動させているようです。たぶん、通信の途絶もしくは、通信が不安定?とにかく、通信が不十分な時代であったためのものなのでしょう。とにかく必要そうなものを携えさせ、機転の利く人間をまとめて送り出している感じです。交渉や調達能力、物資の分配能力などが高い人間に任せ、託して・・・

社会システムのインフラが、今以上に整備されていた?なんって思えそうなものです。まあ、一人の人間がいくつかの団体に属し、その中で生きているわけですから、潜在的な人的なネットワークが成立しているわけですし。同時に、いくつかの団体に属していることから、団体間での交渉の手法なども身についているということなんでしょう。案外、このある組織を代表して行動することができるか?このあたりが重要なのかなな?なんって思えるわけです。

そして、こういったものを見ると、国より地域社会の連携が重要・・・残念ながら、近頃は隣人というのが・・・あまりいないというだけ・・・かといって、いまさら5人組というわけにはいかないと思いますが・・・そう、5人組って納税や民衆管理のためより、今と同じように、人のつながりが希薄になった中で、血以外のつながりというものを促進するための手法であったような気がします。

結局のところ、ある程度の豊かさが保たれると、プライバシーというものが強くなり、他者との関係が希薄になるが、その状態が続くと、他者との関係を濃くする方向に振れて来るのでしょう。組織と個人・・・どちらを重視するかの問題ですが・・・

さて、今のご時勢どのような末端組織を上から作るのやら?
(2012.02.15)

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