文化とはなかなか厄介・・・

近頃のキーワードは、虚構と現実・・・こいつなんです。現実の中の虚構というのは、考えようによっては身近にたくさんあるんです。

家の中で、どう見ても業務用と見える食器が使われるのであれば、それもまた現実の中の虚構・・・コンピュータを置き散らかった業務用の空間のような私の作業スペースの中に、銀食器や超高級カップとかが置かれ、薫り高いコーヒーを置いたりするのもまた、現実の中の虚構のような気がします。

案外、現実と虚構のボーダーというのはあまり存在しないのかもしれません。ネットという仮想空間を利用して、オークションなどに参加、ネットショッピングを楽しむ・・・仮想空間といえども、それは現実の一部であるわけです。

まあ、情報という抽象的な概念は、現実の生み出す虚構・仮想と考えられるのかな?そう、どのように美しく現実味を帯びて計画されたものも、計画段階では仮想・虚構に過ぎませんから・・・そうなると・・・

虚構というものは、現実の胚珠では?なんって思えるわけです。現実の中に、虚構を置く、虚構が育って現実味を帯びていくと虚構だって、現実に変わっていくことになる・・・

そう、近頃は店舗というものをデザインしました・・・だから、強くそう思うのかもしれません。

・・・どうも、私は何か新しいことをはじめると、すぐに業務レベルの考えが頭をもたげるのが良くないような?まあ、悪くないともいえるのですが・・・結局のところ、多くのものは業務へとは変化しませんでした。

趣味が業務へと変わっていったものが・・・画像処理とかCGですかね?こちらはある意味必然何かもしれませんが・・・私の通常業務の中の問題作成に生かされています。

そりゃ、昔はPC上でなく、ロットリングとか丸ペンとかを駆使して描いたりもしましたが・・・いつの間にかCGに・・・そして、版下に使えるレベルになりました。

昔は・・・ロットリングや丸ペンを駆使して描いた図があっさりと、プロがトレースしたものに差し替えられたりしましたがね。あのころはかなり驚きました。ほとんど線に差がないのに、プロの技が光るんですから・・・その差を比べて練習しましたっけ・・・ほぼそのままの絵が載ったのは、鉛筆画でしたっけ・・・しかし、少し手が入っていて良く見える・・・プロの力量って違うんです。

いつの間にか、ワープロ原稿が版下として使われるようになり・・・安価な作成者として定着しているような?何しろ、原案から版下までの作業をこなすようになりましたから・・・良いのか悪いのか?

だって、原稿を書く人、その原稿を見て、タイプピスト、トレーサー、場合によっては絵描き、これらを電子写植機でも使って構成して、データを版下へと出力センターとか介して・・・印刷でしたから・・・

いざとなれば・・・ちょっと古いですが、クオークとかページメーカーもあるから・・・これで、安い中古の簡易オフセット印刷機でもあれば、印刷屋というか、教材屋もできるかな?オフセット印刷機も一応は扱えるから・・・

先日もチラシのデータを四色機用に出してみたりしました。今のデジタル入稿はどうなっているのか?近いうちに調べて、我がコンピュータも近頃のトレンドに合わせるかな?なんって・・・インデザインか・・・アドビの・・・

さすがにアドビ製品は高くて・・・その昔、アルダスのフォトスタイラーなるソフトを使っていましたが、アルダスはいつの間にかアドビに吸収され・・・安い製品が好きな私は、コーレルドローを愛用・・・今に至っています。

仮想と現実・・・なかなか難しい・・・計画は仮想であり、場合によっては妄想であったりします。そこに、資金と人が入ってくると現実味を帯てきます。そうなると、仮想が現実になるのは、単に人が動くだけの夢があって、そこに現実の壁を越える資金が介在するだけとも考えられます。

仮想と現実・・・なかなか厄介な代物です。

仮想と現実なんて、あまり重要ではない・・・それより厄介なことが・・・私の言語能力だな・・・普段から、鍛えているはずなのに・・・近頃の文章がわからん・・・どうやら、教養というやつが変質しつつあるような?ちょっとこんなコラムを見かけたので・・・発信箱:威張るな、経済=伊藤智永 - 毎日jp(毎日新聞)

精神の危機・・・ポール・ヴァレリーか・・・一時代前の教養人ならわかるが、いきなり、生涯日記をつけた人物、様々な分野の話題を振りまき書き散らした、第三共和制を代表する知性・・・ああ、いきなり、こんなものを振り回すなよ・・・

「朝4時、人々が寝静まっているころ、床を抜け出してノートに向かう。20代前半から死ぬまで50年間、それが日課だった。」なんとなく、何かで聞いた話・・・、なんだっけ?まあ、これは良いが・・・なぜ、この後に「 生涯日記をつけた人はいるだろうが、男のノートの中身は、数学の研究から、夢、エロス、時間、言語、哲学、神……。とりとめがない。森羅万象、膨大な観察とアイデアを手記に残したレオナルド・ダ・ヴィンチの方法に倣って、正確かつ厳密な知性の働きを極めようとしたのだという。」とつながるから困る・・・誰の話だっけ?

「政治・経済は門外漢だったが、まれに雑誌で文明批評も論じた。19世紀後半の統一ドイツが、商業から軍隊まで国民総ぐるみで強国を目指す方法に、欧州全体が侵食されつつあると警告した十数年後、大量破壊と殺りくの第一次大戦が起きた。」・・・ふむ・・・確かにそのような時代があって・・・「先見の明を見込まれて、大戦後に「精神の危機」という小論を発表している。」おお、ヴァレリーだな・・・精神の危機か・・・どんな内容だったか?あやふやな思い出・・・少数の好事家の愛玩する知識が、大衆の欲求を満たすための道具を生み出すための装置に成り代わるような話だっけ?それとも、ドイツの勤勉さと統率のとれた社会システムが、目的達成の手段になっていく話だっけ?

「現代文明は、平和な時も経済競争を戦っている。固有の希少価値を持っていた知識は、大衆向けの模倣と大量生産によって、すべて市場の出荷物に化けてしまう。」ほら出てきたぞ・・・私個人は、実用の知識を重んずる人間なんでヴァレリーとはちょっと考えが違うんだな・・・経済は重要・・・経済なくして生きることはできるのか?文化とは何?精神文化か・・・抽象的過ぎる・・・仮想と現実の狭間に・・・落ちていそうなもので、仮想にも現実にもなれないものかな?ただ、こういった引用はわからんのです。その前後の文章が見えないのでね。

文化もまた経済的な威力を伴うと、大きな力を発揮する・・・力なき文化は文化か?人は、たぶん実効的な力を持った文化を愛好するのでは?力なき文化は単なる衒学的な対象に過ぎないかも?

「我々は軽率にも力を数量に比例するものにしてしまった。ヨーロッパはアジア大陸の小さな岬の一つにすぎなくなるのか」なぜこいつが・・・でも、こいつは使えるかも?・・・日本は中国の海を取り巻く島嶼の連なりに過ぎなくなるのか?中国を下にして太平洋を上にした地図が・・・話題になったときがあったかな?確かに、こう見ると・・・まあ、いいか・・・

「このヴァレリーという男、久しくごぶさただったが、近ごろ無性に思い出すのは、「欧州危機」騒ぎに食傷しているせいだ。用語は難しげでも、内容は中学生並みの単調な反復、要はカネ繰りの話である。こんな薄っぺらな危機なんて、あるか。」・・・おい、危機って基本的に金の話じゃないか?命にかかわる危機って・・・大抵は金の話じゃん。

しかし、ここで不文律、文化を金の話として語ってはいけない・・・・理由は?たぶん、文化というやつは、金に困らないことを前提に語られるからだな。食うのにやっとだと、歴史も芸術も文化も・・・それは無意味、食うのに困っていると、歴史は現在に限定される、芸術は・・・ ない食べ物を思いで膨らませる手段に過ぎなくなり、文化は・・・いかに高邁な精神によって空腹が克服できるかという、不思議な精神論に置き換えられてしまうのではないか?まあ、衣食に事欠かなくなると礼節というやつがのさばり始めるというわけです。

「お陰で、今の地球に金融がのさばりすぎていること、経済学に知恵がないこと、神のごく恐れられる市場とはだれのことかだれも知らないこと、は分かった。金利という悪習をやめれば、全部解決です。」・・・市場か・・・どこの誰かは知らないけれど・・・誰もがみんなご厄介になっている・・・どこに、自己完結した生活を送ることができる人間がいる?自分ひとりで生きられないから、自分自身で全てをコントロールできないから、そこに危機が存在する・・・危機とは市場原理そのものである・・・いや、市場はこの危機を克服するための脆弱な装置といえるのかもしれない・・・金利か・・・金利って何?金融って何?たぶん、持てるものにとっての特権を文化という概念に昇華させる装置・・・金のない人間にとっては、今借りられる金は、その金利を上回る価値を感じるわけだから・・・そう、仮想を現実に変える対価が金利かな?いや、現実にすりつぶされないための希望を買うための対価かな?だから、時々・しばしば、この希望の対価によって人生が粉々に砕かれるのではないかと・・・

「欧州は100年前からずっと危機だ。何を今さら。でも今、だれも精神を語らない。本当の危機はそこにある。」・・・ああ、ヨーロッパは特別なところなのかい?・・・しかし、飯が食えない危機がある。ある日、円が紙くずと化したら・・・欧州の辺境の国々は、その不安の中にある・・・日本はある意味、豊穣の国だから・・・今のところ・・・どうやら、危機は人類の発祥の時点から付いて回る原罪のようなものなのかもしれない。未来への希望とそれに連なる小さな絶望・・・

文化など虚構、経済活動は現実、安定した経済の中で平和や文化が築かれる。強国になるための活動とは・・・安定した経済を組み立てることなのかもしれない。スローガンとしては優秀、皆さんに憂いのない生活を約束します!ナチはそれを、形の上では実現しようとした・・・その結果、生存圏という概念を広げた・・・精神や文化という抽象的な概念に肩入れしすぎると、危機が付け込む隙ができるのかもしれない?

Lebensraum、レーベンスラウム その国家が自給自足を行うために必要な領土の拡張へとつながる。欧州は、平和的に経済統合を行い、こいつを広げた・・・結果は、初めは順調・・・しばらくすると、辺境から問題が発生する・・・

なりふり構わず働いているときには、危機は訪れない、しかし、余裕が文化的・精神的活動を求めた瞬間、ある意味、道楽者と言い換えられる文化・精神的な活動が身を滅ぼすことになるのかも?

ちょっと興味深いコラム、同年代の知識階層の書く文書もまた、私の理解の彼方にある・・・欧州の経済危機・・・中学生が述べる危機とは大差がないが、中学生の考える金のレベルを超えている・・・極東のわが国だって、その影響を受けているのだから。虚構というわけにはいかない・・・

文化人が 経済を軽く見るのは・・・いかがなものか?経済活動は未来の希望の予測の学ですから・・・まあ、文化は過去を背負っていく活動だから・・・いや、違うかな?ああ、私はソクラテスの徒なのか・・・

文化は何?言葉を考えるというやつはなかなか難しい・・・日本の伝統文化、外来の文化・・・よく使うけどその実態は?日本のアニメ文化・・・文化もまた市場と同じように・・・神のごとく敬愛される文化とは何のことなのだれも知らないことはわかった。自らの文化と称すものを振り回すのをやめれば万事解決なのかな。

文化か・・・厄介なものだ・・・

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