鹿島郡家ってのがあるが・・・

このところ、サーフィンの写真を撮っていなかったんです。理由は、基本的に悪天候なんでね。水温も低く、サーファーの活性度が低いし・・・風邪ひきだし・・・というわけで、色々と調べものばかりしていました。

ちょっと気になることがあるんです。それは、常陸国風土記の、郡家の位置なんです。常陸国風土記では、「天つ大神の社と、坂戸の社と、沼尾の社の三つをあわせて、香島の天の大神という・・・神の社の付近には、卜氏が住んでいる。東西に海がある・・・社の南に郡家があり、反対側の北側には沼尾の池がある。」まあこんな具合です。

気になるのは、この記述を参考にして・・・例のシュリーマンがトロイを見出したように、鹿島神宮の南に郡衙があるだろうと探したところたまたま出てきたのが、正倉などの遺構であったとされています。

この話は、話としては面白いのですが、どうも風土記に書かれている郡衙は、未だ発掘されていない、坂戸神社の南のあたりではないかと思うのです。理由は、社の南に郡家があり、北には沼尾の池があるからですね。現在の鹿島神宮との位置関係ではこうはならないのでは?という単純なものです。

もうひとつ気になるのは、風土記に書かれている鹿島は香島です。風土記は713年=和銅6年に撰集が発せられ、たぶん720年ごろまでには成立したはずです。このときの郡家であれば・・・出土する墨書土器は「鹿」の字が入ったものが発掘されているようです。「香」の字は無さそうな?そりゃ、混在して出てくるなら、香島から鹿島へと変わっていったのだと思えるわけですが、鹿島へ表記が変わるのが723年=養老7年ごろとされています。今の町村合併で市へ化けると、たちまちのうちに、掲示物が変更されます。まあ、予算の都合で見なかったことにしているものもあるようですが・・・

こんなことを考えると、あまり根拠はないのですが、何となく鹿島と変更した際に、坂戸神社の南から、現在の鹿島神宮の南へ郡家を移すとともに名称を変更したのではないかと思うわけです。

郡家が最初に沼尾の社の近くに置かれ、それが坂戸神社の南に置かれ、さらに現在の神宮の位置へと変更されて行った理由としては、やはり津の問題ではなかったかと思われます。沼尾の入江もすでに当時塩水であった霞ヶ浦と切り離され、淡水の池になっていて、たぶん、風土記の時代には坂戸神社の入江も、船の出入りが困難になりつつあったのではないかと思われます。そのため、さらに南の鹿島神宮の入江や神野や神野向かいのあたりの入江が中心になって行ったのではないかと勝手に思うわけです。

まあ、そのうち、坂戸神社の南の台地も発掘するようになったら、「香」の字の墨書土器が出てくるかもしれないし・・・と考えるわけです。そして、ついでに、椿神社も気になるわけです。噂では鹿島の三社より古いとのうわさがあります。郡家が置かれる以前、椿神社のあたりが栄えていたのでは?などと思うのです。

墨書土器を眺めていて、もう一つ気になったのは、地名が入ったものが結構あるのです。なぜ地名が?それと、申田の銅印とか・・・紡錘車の申田・左右の文字などを眺めていると・・・ふと、この郡家が何となく、殖産興業の拠点であったのでは?なんって思えてなりません。そして、申田です。これって、もしや猿田では?寒田・佐田・三田かも・・・とにかく神宮の宝物館にある申田宅印って、猿田の出張所の印ではとか勝手に思えるわけです。とはいうものの猿田の表記がいつからの事やら?それまたいい加減な仮説ですけどね。坂戸神社の近くの郡家跡にも近いところですから、古の郡家の印かもとか・・・

古代というのは、大した根拠を述べずとも、ある程度語れるので、なかなか面白いというわけです。

(2010.03.20)

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