鹿島神宮関係の備忘録(4)

鹿島神宮の近世以前の様子ってどんなだったのでしょう?文献をあさっても、何も出てこない感じです。案外、意図的に隠されたのかもしれません。公開されているものだと、現在の社殿が完成し、それが変化していく様子だけが表に現れています。

まあ、それでよいのかも知れませんが・・・信仰というのは、目に見えない何かを現実に感じ取られるようにするための装置が必要です。そして、その装置は、完成されたものでなければなりませんから、古い形があったにせよ、それは異なる信仰の産物のようなものであるとも考えられますからね。

古い形を、引っ張り出して、現在の形はけしからん!なんって文句をつける者を排除するためにも、そういった配慮は必要なのかもしれません。

近年のもので、なんとなく記録にあらわれるが、その実態が不明瞭なものもありますね。たとえば、明治40年に、戦利品の15センチカノン砲などが、陸軍省から奉納され、それが据え付けられていますが、そういった軍国時代の代物は見かけませんからね。まあ、鉄の供出や進駐軍対策などで兵器の類は消えたのでしょうが・・・

そういえば、乃木大将の植えた月桂樹はどこなんだろう?とかちょっと気になるものがありますね。信仰の舞台装置は、その時代によって変化していくわけです。

さて、鹿島神宮は非常に古い神社です。したがって、本殿の構造物は初期には存在しなかったのではないかと思われます。奥宮が古い形の鹿島神宮を伝えているのなら・・・案外、要石が神の降り立つ場所・・・磐座であったのかもしれません。奥宮が御旅所で要石のところで祭祀が始まり、そして神を御旅所に迎えてというやつかもしれません。

そして、現在の位置へ社殿が移った際に、祭祀の始まりの場所になる磐座が・・・現在の神木の奥にある鏡石として、今の本殿の位置に置かれていたのでは?鏡石に関しての伝承などはありませんが、祭祀の形が変わったために、きれいに忘れ去られたのでは?そして、本殿が建てられるときに、丁重に現在の位置へ動かされた・・・そう思う理由は、鏡石は要石より見かけが大きいらしいから!祭祀って、だんだん派手になるはずですからね。そして、石から文化の香り高い白木の社殿へと変わったのではないかと思います。

何しろ、多くの人は竪穴式住居で、木の皮もむいていない柱の家に住んでいて、そこへ板でつくられた、今見ても美しい白木造りの社殿へと移り変わっていくのは当然のことのように思えます。

古い祭祀の形は、たぶん・・・神職の祭祀の際の配置図から、船がやってくることを想定しているものとして・・・神木があって、船の到着位置に擬した鏡石、石畳でも鳥居の前にあると格好がよいかな?御旅所に相当する、現在の仮殿は明治14年に移された場所が、本来の位置では?なんってね。

根拠は・・・あまりないですが、元和4年の時点では、徳川家康の本殿はこの明治14年の仮殿の位置あたりにあったようです。向きはわかりませんがね。新旧本殿が併存したらしいですから・・・

どうも、文章だけでは様子が、いま一つ捕まえられませんね。とにかく・・・例によって、てきとーに絵にしてみると・・・次の図のような感じですかね。久々でペン画みたいなやつを書いてみました。紙と鉛筆、ペンって便利ですね。しかし・・・練習不足だな・・・

古い神社の形式を残しているやつには石上神社(近頃は神宮か・・・)がありますね。ここは、本殿を持たない神社です。禁足地ってやつがあって、拝殿があっておしまいですね。鹿島神宮の場合は拝殿前の鳥居が仁慈門なんって言っていますから、何らかの鳥居+αの空間があってもおかしくないと思われます。

拝殿という建物は存在しないが・・・となると、右のような奴が合理的かな?なんってね。

鹿島神宮の祭祀の中には、楼門空間を使うものもありますから、こういった神門ってのが、空間を区切る役割と玄関のようなものを想定して・・・甲社と高房社の位置は古来不変であると考えて・・・

ふと・・・案外、鹿島神宮の文献資料って色々と隠れているんじゃないかと思えてなりません。祭祀って、前例をもとにして組み立てられているわけですから・・・そして、社務日誌も、戦時色の強い時期のものは、必要な部分だけ筆写しなおして、隠滅したらしいですし・・・まあ、資料がないのは良いことです。だって、色々と想像することができますからね。
(2009.06.01)

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