鹿島神宮の社殿の配置

鹿島神宮の写真を撮りながら、色々なことが疑問として浮かび上がってきます。その中でも、仮殿が不思議な場所にあるので、非常に気になっていました。そこで、図書館で文献資料を当たると・・・

なんと、仮殿の場所は何回も変わっているとのこと、なんと、現在の仮殿が作られたとき、それは楼門正面にあったとのこと・・・

ちょっと、いいかげんに合成写真を作ると、右のような感じになっていたのでしょう。現在の本殿と楼門の位置関係は変わっていませんから、当時の図面からすると、たぶん右の写真のように、楼門の正面に白木の仮殿があったということのようです。

仮殿を参拝し、左へまわり、高房社へと進み、高房社から右に向くと、本殿拝殿ということのようです。

本殿の右には奥に宝蔵があり、手前には大般若経蔵があったとされています。

現在は、大般若経蔵がなく、本殿左側に建物があります。東の神庫だか何だかわかりませんが、これは甲神社・三笠社を隠しています。古い図面では、高房社のすぐ後ろあたりに竹木の囲いがあって、ここまでが神宮のようです。

かつては、高房社の裏手に道があったようです。そして、それは三笠社の脇を抜けていたらしいのですが、現在は、その道はふさがれて、道は30mほど動かされているようです。

仮殿に関しては、右の写真の位置に造営され、明治14年に後ろへ下げられ、高房社の横、現在の東神門跡の近くまで下げれらます。そして、昭和11年には、拝殿右の御神籤売場の隣の、神宮内で2番目に大きな杉の木のあたりへと移されます。このときも、仮殿は西を向いています。

このあと、昭和26年に、現在の位置へと移され、向きは南向きになったということのようです。

さて、現在の本殿は、神宮寺の塔が大風で大破したことに端を発するとのこと、元和四年(1618年)2月に塔が壊れ、それを修理するのに幕府からの援助を引き出そうとし、ついでに造営のお願いもしたということのようです。

それより前に、現在の奥宮の社殿が、鹿島神宮本殿として、家康より寄進されていますが、そろそろ新しくする時期だったようです。

どうやら、その古い本殿は楼門正面の現在の本殿の正面の位置に建っていたようです。そして、古い本殿がある状態で、仮殿と新しい本殿が建設されていきます。そして、家康の本殿はここから奥宮まで解体されることなく、引き移されます。

奥参道がこのとき整備されたのかもしれません?馬場として使われていたかもしれませんが・・・神宮寺の前の通路として使われていたとか?しかし、奥参道の幅からすると、奥宮を引き移す際に切り開かれたのかも?

古い図面では、奥参道の入り口がありませんからね。現在の仮殿の裏手に伸びる谷津からあがる道や、御厨社からの道などが合わさって、本殿脇、三笠社を通り・・・などの道は細いものですから・・・

まあ、少しずつ資料を集めてみるのも面白いでしょう。

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