鹿行をうろうろ 001

例によって面倒なで、簡単に色調補正をかけるぐらいで、トリミングなしとしておきましょう。

今回は、近所の観光地の鹿島神宮です。
鹿島神宮は鹿嶋市に鎮座する、常陸国の一宮です。旧官幣大社で、祭神はたけみかづちの神ですね。常陸国風土記によれば大化5年(649年)に神郡がおかれ、そこにあった天の大神の社・坂戸の社・沼尾の社をあわせて「香島の天の大神」と言ったそうです。まあ、歴史も興味ありますが・・・とにかく写真です。今回は、オリンパスE-520に付属の広角ズームレンズを付けての撮影です。

(2009.02.03)


なぜか、御手洗池(みたらしのいけ)の所から入りました。まあ、ここが正式な入口のような気がしてね。たぶん、縄文海進の頃は、この鳥居の先まで水が来てたのでしょう。そして、完全な淡水ではないでしょうから、ここの湧水が重要だったのでは?なんってね。

道端の石仏?布袋さん?ちょっとユーモラスです。石仏のむっつりとした表情と、布袋さんのふざけた顔が・・・布袋さんは焼き物のような気がしますが・・・誰が置いたのやら?ちょっと良いコンビのような気がします。

御手洗池です。ずっと以前来たときは、木の鳥居だったような気がします。この池で禊して、参拝をしたとのこと、どのような人が入っても、胸までしか水が来ないとか・・・みそぎって、古代の武装解除の儀式では?衣を脱いで胸まで水につかって武装解除だ!って・・・

この鳥居は平成17年5月とのこと、裏側から撮った写真から判明、木の鳥居の方が良い感じです。鹿島鳥居って貫が柱から横にはみ出し、笠木の端を斜めに切るものと思っていましたが、石造りのものは普通の笠木なんですかね?

禊のための池なのに、なぜか魚がいます。金光明経の流水長者子品とか・・・不殺放生の類ですから・・・池に魚を放すなとか掲示があったような・・・

そばの文字が大きな顔をしていますが、ここの名物はみたらし団子とのこと、朝食をしっかり食べてきましたから、誘惑には負けません!ここには2軒の売店があります。看板は写っていませんが「ひとやすみ」というお店です。

こちらがもう一軒の売店です。

みたらしの池を後に、奥宮への坂を登って行きます。武装解除され、細い道を屋敷へと連れて行かれたのでしょうか?妄想が膨らみます。

坂を登り切ると、その先には、木漏れ日の中に浮かぶ奥宮が現れます。その昔、ここが本殿と思っていました。まあ、建物は慶長10年(1605年)に徳川家康によって造営とのこと、1619年(元和5年)に徳川秀忠二代将軍によって本殿が造営されたため、家康のやつを奥宮に移したとのこと、その時ここにあった建物は摂社に払下げとか?

神職が祝詞をあげていました。なかなか趣のあるところです。たまたま、木漏れ陽がしめ縄のあたりを照らしていました。少し、露出オーバーかな・・・気合いを入れて修正を施す気力はちょっとありません。

みたらしの池から坂をのぼったところにある売店、上の写真は中央の石碑の脇からの撮影です。なんだか城のような地形です。

売店の全景はこんな感じです。

奥宮の脇を通って、要石へと向かいます。すると、ナマズを踏みつけている武人のモニュメントがありました。道をたどりながら、奥宮のあたりに事務所があって、さらに偉い人は要石のあたりにいたのかな?そんな気がしてきます。

要石のところの鳥居です。朽ちて笠木の上から新しい木の芽が吹いています。なんとなくこういったものが好きなんです。

これが有名な要石、なぜか、くぼみがあります。雨の後に来ると微妙に水がたまっていて良い感じかもしれません。そういえば、「揺ぐともよもや抜けじの要石鹿島の神のあらん限りは」なんってありましたね。この歌はたぶん、江戸中期以降のものでは?地震の原因は古くは蛇との古来の話がすり替わったとか・・・鹿島には蛇に関する伝承もありますから・・・

要石を後に、奥宮へと戻ります。これは奥宮の脇を後ろの方から撮ったものです。なかなか立派な材を使った建物です。

奥参道と呼ばれている直線の通りが伸びています。奥宮の位置がこの道沿いに平行移動して現在の本宮の位置まで移動したのでしょうか?ちょっと気になります。まあ、みたらしの池の前から水面が消えていったときに、新たな水面が必要になって、現在の本宮の場所へと移転したのでは?向きはそのままで・・・

ここが、奥参道の入り口、本宮のへの入り口というか・・・明らかに、違った神域のような気がします。縄文海進の時代の古い神域と、海が後退した後の神域という感じです。ここから先の写真は後日としましょう。
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