鹿島神宮をうろうろ(3)

 鹿島神宮の元々の位置は・・・?(3)

 さて、前回の続きというか・・・沼尾の池 国立国会図書館デジタルコレクション - 風土記 37コマ この記述ですね・・・ちょっと興味深い・・・

 昭和22年の航空写真ですが・・・右の赤線が参道で、丸の辺りが沼尾社・・・その南に蓮池があり、この池のさらに南に郡家ですね。その社の南、郡家の北に沼尾の池・・・この池は・・・国立国会図書館デジタルコレクション - 風土記 194コマ 康元元年(1256年)11月5日には既に枯れていて・・・ただ興味深いのは・・・この場所の地形ですね。

 右の図・・・地形改変があって・・・でも谷津の中の池の跡のような物が確認できますからね・・・まあ、こんな感じだったのかと・・・丸い池は、霊園の造成の際に作られた池なのでしょうがね・・・そして、池の南に郡家があった・・・浜辺に近い所に・・・郡衙が船着き場として機能していたのかね?なんって・・・この周辺がどうやら古沼尾という場所のような感じですかね・・・この場所は人口の中枢から外れ・・・周辺へ人が流れちゃったようですからね・・・まあ、この池の水が枯れたのと、物流の拠点が移転したから、仕事は無いし水も無い・・・従って移転という事になるのでしょうね・・・

 左のような田谷沼って沼が残っていたようですね・・・埋め立てが終わったのがいつだっけ?この入り江が、かつては塩水で満たされていたわけですから・・・水が無いというのは致命的・・・ですね。

 古い航空写真だと現在の水田の地割と違いますね・・・どうやら・・・左のように水面が田谷沼として残っていたような感じですね・・・そうなると、この入り江が交通の要衝から外れたのは・・・入り江の入り口が閉じたからと考えればよさそうですね・・・

 古い田のあぜは面白いね・・・まあ、等高線のようなものですからね・・・開発の跡も見える・・・水神社の脇に水路が残ったわけでしょうが、谷津の奥まで船が入らなくなったという事なのでしょうね・・・

 まあ、なんとなく雰囲気は分かりますね。

 坂戸神社の方は集落が維持されていますから水には困らない場所なのでしょうね・・・右の赤丸が坂戸神社ですね・・・水運の要衝になり得なくて、郡衙は移転していくことになるという事なのでしょう・・・

 水運の要衝であった理由は多分・・・左のように沼尾神社から香取神宮が見えたという事ではないかと・・・沼尾神社は標高40m位ですかね。香取神宮もそれくらいあるでしょうから・・・光達距離は25kmはありますから・・・見えますね・・・鏡でピカピカやれば・・・光通信ができる距離・・・

 案外、神社の鏡ってのは光通信用のアイテムかもね?お日様が出ていれば、狼煙よりも簡便ですからね、安上がり・・・なかなか興味深いね・・・

 しかし・・・左の黄色い線で15km程ありますからね・・・竿をさして歩かせる船で、ここを航行することは結構大変だったと思われますね・・・昭和の初めごろまでの小舟は基本的には竿で操っていたようで・・・竿がさせないような深い所へは行かなかった・・・それなりの大きさの船を航行させる能力を有していたという事でしょうね・・・まあ・・・瀬戸内からここまで航行してきて、さらに東北へ航海していたわけですから・・・香取神宮は・・・

 私の妄想では・・・古代においては左の赤い線の辺りの水路+陸路を押さえていたのではないかと・・・まあ、半ば妄想で・・・根拠はないですがね・・・あまりまじめに標高などをチェックしていないですが・・・江戸時代の香取神宮からの回状の経路もこれのような奴があった記憶が・・・あまり厳密にチェックしたいないので当てになりませんがね・・・

 まあ、そのうちチェックしないとね・・・神社ってのは、だいたいが交通の要衝にあって・・・どうも、宿屋でも兼ねていたような?一種のアジールとか・・・まあ、神社のネットワークで旅行が可能だったのでは?講の組織などを考えるとね・・・

 香取神宮ももう少し気合を入れてチェックしないと・・・このあたりの通商がらみの支配権に関してですね・・・神崎あたりでも関所みたいな事をやっていた気配もあるしね・・・まあ、暇つぶしの妄想研究ですから・・・あまり当てにはなりませんね・・・まあ、それでも、資料は色々と集めてあるから・・・色々と遊べますね・・・

 一応・・・香取神宮のみたらしの池は・・・黄色のピンが香取神宮の本殿・・・赤丸の部分にありますから・・・ここか、氷室坂の下あたりが本来の香取神宮の津になるのではないかと・・・海退とともに移動ですかね?

 上の写真の九十九里浜の形成によって・・・津が消滅・・・百里浜、九十九里浜には津が消滅して、東北と瀬戸内を結ぶ航路が消滅という事のようですね。

 常陸国風土記の時代には・・・東北から瀬戸内へ廻航される大型船も減少中のような感じですからね・・・天智天皇の時代に座礁した15丈の大型船の残骸が見られたようですからね・・・670年頃ですかね?720年ごろにはまだ見られたようですからね?国立国会図書館デジタルコレクション - 風土記 38コマ ここの記述ですね・・・


2017.04.13

  













inserted by FC2 system