鹿島神宮をうろうろ(1)

 鹿島神宮の元々の位置は・・・?(1)

 久々に神社関連をやる気になりましたね・・・今回のシリーズは、鹿島神宮ですね。まあ、どんな具合になるやら・・・ちょっと、古い事をチェックしてやろうかと・・・まあ、いつもの妄想ですがね・・・考古学的な奴は大いなる妄想を働かせる余地がありますから・・・

 鹿島神宮は現在の位置に至るまでにかなり動いているという感じですね・・・動く理由は海岸線の変化によるものだと思います・・・常陸風土記だと・・・天の大神の社、坂戸の社、沼尾の社をあわせて「香島の天の大神」と言ってますからね・・・多分、これが移転してきた先だと思われますね・・・

 字がちょっと読めないかな・・・左の奴黄色のピンが上から椿神社・沼尾神社・坂戸神社・鹿島神宮となっていますが・・・椿神社は関係ないかもしれないのですが、なんとなく関連を疑いたいので・・・

 一応座標は・・・椿神社は36°01'06.5N 140°36'10.3E - Google マップ、沼尾神社は36°00'03.4N 140°37'25.2E - Google マップ、坂戸神社は35°59'12.8N 140°37'32.7E - Google マップ、鹿島神宮は35°58'07.5N 140°37'53.8E - Google マップ ここですね・・・あれ?鹿島神宮には、何やら立派な建物が立ちましたね・・・

 全然行ってなかったので・・・建設中にちらりと見ましたが・・・まだ、整地の途中だったかな?祈祷殿が2014年10月18日から使われるようになった・・・本殿では手狭になったのかね?境内案内 鹿島神宮
 
 なんと・・・谷津の奥の部分を埋めたわけね・・・近いうちに行って眺めてこないとね・・・この埋められた谷津の現状が気になりますからね・・・神社も時代と共に変化していくものですから仕方ないですね・・・

 鹿島神宮の中心となるものも時代と共に変化がありますからね・・・一応、鹿島神宮は・・・香取神宮や息栖神社などと同様の役割を持っていたのだと思いますね・・・水運を司り・・・北浦、香取の海とか・・・かつて手賀沼・印旛沼なども含まれる広大な中海・・・もちろん入り江のようなものですから、塩水で満たされていた場所の、重要な水場としての機能を持っていたはずです・・・

 鹿島神宮だと、現在も・・・右のようなみたらしの池がありますね・・・香取神宮にも同様な池がありますし・・・坂戸神社のみたらしも・・・沼尾神社にもみたらしがあるはずですが・・・沼尾神社のみたらしはどこだろうか?という話があってね・・・

 私も気になって・・・沼尾神社から下へ降りる道をチェックしようかと思って・・・なんとなく周囲を眺めましたが・・・降りにくそうなので断念した記憶が・・・一応は地形図でチェックはしましたが・・・

 ああ、そうだ・・・水浸しにする奴があったんだ・・・現在の標高14mまで水浸しにして、ちょっとの砂浜を・・・まあ、左のようになりますね・・・

 沼尾神社は左の入り江の赤丸の辺りですから・・・当時の海岸線に近い辺りにみたらしがあったと推測できるのですが・・・残念ながら・・・確認には至らないですね・・・部屋の中の資料が散逸していて・・・なぜか、鹿嶋関連の山が・・・?どこへ行ったんだろう?

 沼尾神社の航空写真だと右のようになりますから・・・この草原の谷津のような所にあったと思われますが・・・石組みなどになっていれば遺構は発掘を待っているかもしれませんけど・・・

 この辺りで岩石は・・・銚子の砂岩か、筑波山界隈の花崗岩などですからね・・・あとは、下総板碑などに使われているのは黒雲母片岩は・・・これも筑波山でしたっけ・・・こういった岩石を使った池は・・・多分、江戸に入ってからでしょう・・・かなり古い時代には筑波山の花崗岩を加工する技術があったようですが・・・真言律宗が持ち込んだのかな・・・?記憶が怪しい・・・その後、銚子石が加工が楽なので使われたのかな・・・

 残念ながら、花崗岩を細工するための鏨の類は・・・鎌倉時代辺りはあるようですが、その後、良い物が入手困難になったのか?立派な作品は減ったような感じですね・・・石組みの遺構は期待できない気がしますね・・・この藪の中を歩き回って探す気力に欠けますから・・・

 北浦の塩分濃度は、どうやら室町時代ごろには製塩に向かないところまで濃度が下がっていたようですね・・・そのために鹿島半島の北浦沿いの集落から、海岸の方へ分村ができて・・・私の海岸の小屋辺りも志崎からの大志崎・・という事のようですね・・・製塩のための小屋が徐々に集落を形成していった・・・という事ですかね。

 とにかく、かつての海面を考えると、鹿島神宮は上の図の・・・沼尾神社や坂戸神社のあった入り江が拠点であったという事になるかと思われますね。

 ふむ・・・この時代の鹿島半島は・・・波崎の辺りが海没しているわけですから・・・概ね左のような感じですかね?ちょっと、海没させすぎか?まあ、縄文海進の頃はこんなものでしょうかね?

 律令制・・・そう、条里制の遺構を考えると・・・鹿島神郡が置かれる・・・香島郡は649年頃には成立・・・名前が鹿島になるのが・・・723年でしたか・・・この時期に香取神宮から分かれたのでは?香取神宮は・・・本殿の外に鹿島新宮がありますから・・・

 なんとなく、追い出された形跡が・・・気のせいかね?まあ、経済的に自立していく神社ってのもありますからね・・・香取神宮から江戸時代に経済的に独立したのが、大戸神社とかありますからね・・・香取神宮の社領1000石の内100石を分けられて・・・

 元禄13年の香取神宮の造営を機に・・・経済的に独立していく神社ですね・・・

 ああ、忘れていた・・・最初にあげた椿神社・・・ここは、なぜかこの地区は鹿島神宮の祭頭祭の奉仕が無いようで・・・?そんな噂を耳にしましたが・・・あとで資料をチェックしないと・・・意外と、ここが本宮だったりしてね・・・

 縄文の遺跡地図とかチェックしないと・・・上の図がどの程度縄文の遺跡とのマッチングがあるかですがね・・・まあ、妄想研究ですから・・・そのうち・・・鹿島神宮の谷津もチェックしないとね・・・

  













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