香取神宮をうろうろ(123)
 香取志 (57) 神事に関しては・・・ちょっと寄り道・・・

 さて、生活防衛を本気で考える週がやってきましたね。消費支出は大きくなり、それに伴って払う税を増やすなんってできません・・・多分、価格改定のどさくさで、為替によって高価になった輸入品の値段も改定されるでしょう。100円ショップの品揃えが気になりますね。どうなるか・・・業務スーパーの冷凍食品の産地がずいぶんと変化しているような?輸入品はなかなか厄介な感じです。海外の経済関連のニュースを眺めても、どうもこの消費税の増税は、ネガティブな反応が多そうな感じです。ドル換算すると、私の資産はかなりへこんだし・・・と言っても貧乏なので、公共料金を支払うための預金口座と、緊急時の現金が3割引きになり、アベノミクスの反動で・・・2割引きぐらいになってるかな・・・困ったものです。さらに貧乏になったら・・・出稼ぎに行かなければならなくなりますね。それでなくても生活費を切り詰めているというのに・・・さて、消費税が10%になるようならば・・・どうやって飯を食うか考えなければ・・・米の飯を諦めて麦にするか・・・それも手ですね。菜っ葉の栽培と小麦粉で食いつなぐ生活・・・鶏でも飼うか・・・年に数度の肉・・・貧乏は嫌だねえ・・・

 先日、相馬郡衙址から成田経由で香取へ行く道を実際に車で走ってみました・・・ずいぶんと昔に走った道・・・以前はもっと広く感じた道が、狭く感じられ・・・近頃は広い道しか走っていないような気がしてきました。成田山西参道三の宮通でしたっけ・・・それにつながる道を・・・印旛沼を越えるコースが古代にはどうなっていたのか不明ですが・・・意外と、相馬郡の郡衙と香取郡の郡衙を結ぶ道は・・・相馬郡衙から、布佐・布川・・・河内町を抜けて、金江津・下総町・・・大戸・・・山之辺・・・観福寺・・・香取という道なのかもしれませんが・・・なんとなく、河内町の南の方は下総国のような気がして・・・古鬼怒川の南岸沿いを滑河の方へと・・・常陸川は・・・とか気になりますが、なんとなくね。多分・・・常陸と下総は常陸川のコウモウ神社の北を流れる川筋+古鬼怒川・・・多分、コウモウ神社の東から先の新利根川が堺を為していたのでは?と妄想すれば辻褄があうような気がします。相馬郡郡衙から河内町の中心まで16km、河内町から神崎まで12kmで、途中に根木名川を越えるので、そのロスタイムを入れれば当たりではないかと・・・殆ど根拠は無いのですが、なんとなく・・・

 今回は、このルートなどはどうでも良くて、成田から香取方面の道をチェックしたくなっただけなんでね。地図の上ではある程度チェックしたありますから・・・成田・油田・香取が気になってね。とにかく成田へ行くのに、安食から、大竹・松崎・山口・新勝寺という感じに進みたかったんです。一応、成田の目標地点は・・・印旛国造の墓のあたりを考えていたんですが・・・イオンにも寄ろうかと・・・というわけで・・・相馬郡の郡衙跡近くから、用事があってちょっと寄り道しましたが・・・印西から小林へ行って将藍川の南岸を進み、安食へ安食から県道18号で成田へ・・・でも、古代は相馬の郡衙から河内へ行って、そこから南下、将藍川を渡って安食に入り、というルートだったと妄想しています。近頃は、県道18号バイパスがありますが、私の妄想では、このバイパスは大昔の街道に再び道をつけたのでは?なんって妄想しています。

 妄想を地図上で示すと、右のようになります。緑の星が相馬郡郡衙です。古い常陸川は布川の北側を流れコウモウ神社の東で、現在の新利根川に注ぎ、金江津あたりで現在の流路になると・・・それからもう一つの流れとして、手賀沼から将藍川、印旛沼から長門川で、2つの川が合流した先に安食と考えるわけです。緑の星から水色の星の河内町の役場まで16km、この間には大きな川がありませんから、県道11号線が古代の街道で良いでしょう。そして河内町の水色の星から成田の赤い星まで14kmほど、2kmは長門川を越えるためのロスタイムでOKではないかと・・・河内町の水色の星から東へ進む矢印へ12kmほどで神崎の郡になりますから・・・多分、律令官人の納得する里程を持った道ではないかと妄想したわけです。ただ・・・江戸の初めには手賀沼から現在の利根川とは六軒掘でつながっていたようで・・・

 先ずは、古い航空写真からチェックすると、布佐・布川のAの部分は1630年ごろに開削されます。それ以前は台地がつながっていたわけです。しかし、ここは塞がれ新利根川が利根本流になります。Aの部分、緑に着色した部分は布佐・布川とほぼ等高であると思われます。浸食の跡がつながりますからね。地質は分かりませんが・・・妄想的には、ここは人為的に開削されるまでは利根の流路となった事は無いと思われます。すると、この部分で利根川の本流と手賀沼は別の水系を為していたと推測して・・・Bの部分には砂洲が伸びていたのではないかと・・・すると・・・コウモウ神社の台地へとつながり、県道11号線が美しくつながるから・・・説得力に欠けるが・・・

 標高データと、私の都合を組み合わせると、右の図のような地形をでっちあげることができます。将藍川の北岸はこの図のような感じに自然堤防が存在して、南側は重湿地が広がっていて、この自然堤防が決壊しないで存続していたのでは・・・小林と安食の間の低地部分の広さが、印旛沼からの流速をほぼゼロにしていた。手賀沼や鬼怒川+小貝川の流速の方が優勢・・・

 現在車で走った時・・・竜ヶ崎あたりから河内町役場のあたりを抜けて成田へ行くには国道408号線の方が良いのですが・・・走り回った感じでは県道11号線から県道48号線で南下、現在の利根川本流を越えた所=現若草大橋のちょっと下流から県道68号線で良さそうな気がします。歴史は繰り返され、若草の有料橋が作られたのでは?・・・この道はやがて、県道121号線の方がメインになり河内町町役場の方を通るようになり、矢向(やこう)へ抜けるようになったのでは?なんってね。

 とにかく、江戸時代に、利根川などをかなりいじっているので、古代の様子とはずいぶんと変わっているようですが・・・こんなのが古代の交通路として納得のできるものではないかと・・・航空写真から、古い自然堤防の跡などを拾えばかなり精密な作業ができると思われますが・・・妄想遊びですから・・・こんなもので良いでしょう。・・・というわけで、安食から下総松崎の鉄道沿いの街道を走ってきました。

 この道を走るのは何年振りだろう・・・多分現在の県道18号バイパスがどちらかというと古代の道の跡では?なんって・・・多分途中で松崎へ抜けるようになっていたと思いますが・・・この道は成田イオンへ行くときに良く使っていますので、今回は旧道の方を辿ります。この道は多分、印旛沼の治水とともに整備された道ではないかと思うわけです・・・理由は、街道沿いに一列に並ぶ家々・・・でも、現在のバイパスも微妙に違うな・・・台地の縁に近い所に道があるのか?・・・航空写真で自然堤防の跡にできている集落をたどろうとし始めましたが・・・流路の変更順などの資料が必要ですね・・・以前、ざっと集めましたが見直すのが面倒なんで・・・近代デジタルライブラリーに印旛沼沿いの土地宝典がありますね。一部しか見えませんが・・・これによると、街道沿いの宅地から短冊状に沼の方へ農地が伸びています。という事は・・・堤防を兼ねた道を作り、その沼側を開墾させたのではないかと・・・従って、印旛沼開発が始まる江戸の道であろうと推測するわけです。1丈ほどの道幅があるので、自動車の現れた時代まで大道で通っていたのでしょうが・・・今では狭い道になってしまったという感じですね。

 松崎の町内へ入って、県道18号バイパスへ抜けるのはやめて、素直に玉造、そして山口へと・・・山口の跨線橋を右に見て・・・ああ、この橋かと、古い記憶がよみがえってきます。大正時代のコンクリート橋ですかね。道なりに進むと幸町、そこを左折して・・・本当は成田イオンの東側の交差点に出たいのですが・・・道が狭いので、おとなしく、イオンの西側の、成田山裏門入口交差点へ出て左折・・・あとは、この国道408号線を直進、国道51号線を越えて、国道295号線空港通りに入ります。これをそのまま直進、本当は・・・成田駅前辺りから県道44号線につながる古い道があると思っていたので、その道を辿りたいと思ったのですが・・・鉄道や新しい道、ゴルフ場などなどが道をずたずたに切っていると妄想しているので、諦めています・・・距離からすると、栗源の役場のあたりが、成田から16km程度の距離になると思われます。このあたりは台地の上で、谷津が入り込んでいなければ概ね平らですから、現在の道は余り気にしなくても良いのですが・・・油田が気になります。大禰宜邸があった場所です・・・油田牧の広がりを確認してないので良くわかりませんが・・・そのあたりも気になるわけです。そして・・・油田から馬つながりの側高神社への道、香取神宮への道は確認済み、そして小見川への道も確認していますが・・・今郡への道のチェックをしていないので・・・近いうちに・・・

 ただ、油田を中心に香取神領を支配すると考えると・・・県道44号線と県道55号線、55号線は佐原へ途中から曲がりますが、大戸へ直進する道があっても良さそうな気がします。そして、その先には神崎が・・・この道ですね。それから、欲しいのは、油田から久保神社のあたりを通って今郡へつながる道・・・問題は、大禰宜邸が油田のどこにあったのか知らないのが難点ですが・・・そのうち時間を作って調べますよ・・・小字図があればOKですから・・・時間を作るのが困難・・・

 ありゃ?なに?・・・油田に関して別情報がある?近代デジタルライブラリー - 香取郡誌 138コマ 油田氏宅址 これだと、神里村清里区油田字殿城台に香取神宮への奉幣使の旅館になっていた・・・ここは城跡なので場所はチェックできますが・・・情報が交錯している・・・近代デジタルライブラリー - 香取郡誌 284コマ 大禰宜宅址 油田字惣前なんだな・・・こちらの本には油田氏砦址も前ページに掲載されていますから・・・油田牧ってのも気になりますね。野馬込跡なども残っているようで・・・そうだ、馬で思い出した・・・香取神宮の江戸時代の駐車場は?白馬節会の馬は夜の神事の終着が大宮司邸であるのなら、ここに厩があるはず・・・というより、馬が常駐する場所があっても良さそう・・・油田牧の野馬込跡は1丈ほどの土手ですね・・・旧大宮司邸の神徳館の北東側の入口って土手が切られている・・・まさか、駒繋ぎの裏手の土手ということか?同じように旧参道の石段の南側の白馬節会の馬揃の場所もまた同じような使われ方をしたのか?ちょっと気になります。

 しかし、馬の一時預かり所ってのはどんな設備が必要になるんだ?O.K. Corral ぐらいしか思いつかないが・・・Gunfight at the O.K. Corral - Wikipedia, the free encyclopedia ふむ・・・ちょっとした広場と連房式のガレージ・・・馬房って言ったっけ・・・兄貴が以前借りていた木造の駐車場がどうもそうだったみたいだったね。なんとなくイメージは湧いてきたが・・・

 さて、成田から国道295経由県道44号を小見川へ抜けてみましたが・・・よくわからない・・・雰囲気としては、油田のあたりの牧と・・・この地がやがて神生村、そして、八都村へ包摂されていきます。大禰宜の館があったという事は、それなりに中心であったと考えられますが・・・小見川の低地の開発が進んで、中心地が台地の上から、低地へ降りて行ったのだということなのでしょうが・・・

 で・・・成田から油田への道を確認しましたが、もうひとつ気になるのは油田から、東庄町の今郡までの道・・・今郡は平安時代に大きな集落であったようですから、郡衙があってもおかしくはないのですが・・・交通路がどうしても気になるわけです。分からないのは・・・古代の地形、特に砂嘴や砂洲なんですが・・・雰囲気は分からなくもないのですが・・・その後背湿地がどんな具合になっていたのかとか・・・塩分濃度とか・・・人口を支えるための食料が何なのか?

 多分、現在の北浦で製塩が不可能になるのが、室町時代でしょうから、これ以前は香取海や椿海は右の図が示すように、本気の海でしょうから・・・そして、海上郡は本当に海上という感じだった事は間違いないようです。平安時代には、今郡のあたりは砂嘴が伸びて、淡水化した湿地が広がっていたのではないかと妄想するわけです。広大な水田開発が可能になった・・・この時点では、まだ小見川の平野は海水が入る入江であったと妄想しますね。そして、大塚山古墳の位置からすると・・・左の図が5世紀頃の様子になるのではないかと・・・さて、香取郡・海上郡・匝瑳郡の境界の巨大な椿の大木が倒れて上総と下総に分けたとか・・・この伝承の地とはどこになるのか?

 総の国を上と下に分けたのは帝王編年記によると、安閑天皇元年;534年に上総国を置いたようです・・・で、伝承を妄想的にいじると・・・総の国を上と下に分けた534年に3郡の接するこの場所にあった大きな椿を境界木と定めたのではないかと・・・さすがに1500年も経てば境界木の痕跡など無いと思いますが・・・私にとってはちょっと気になる場所なんです・・・

 上総の国を置いた・・・境界を定めることになって大騒ぎをしたのではないかと・・・そう言えば・・・椿海祭ってのがあったようです。大宮司家で毎年二月初子丑の日に祭るという。この湖は古は神宮の神池であったという・・・こいつが不明なんです。あちゃ・・・右の地点って、台地の上じゃん・・・香取神宮の大宮司の椿海祭の内容は不明ですが・・・この湖は古は神宮の神池であったという・・・という話からすると海上郡と匝瑳郡と郡境を定める際に、椿海に対する利権が失われたことを確認した事になるのでは?それから気になるのは、このあたりの匝瑳郡と香取郡の郡境です。3郡が接する部分の近くでは、台地の中央付近に郡境が設定されていますが、ここから匝瑳郡との郡境を眺めて行くと・・・谷津の中央に郡境が無く、台地の縁の下に設定されています。これって・・・かつて谷津に水があった時の水面の支配権を意味するのでは?香取神領には椿海の水面に対する権利が無く、栗山川の流域に相当する水面に対する権利を持っていたということになるようです。・・・・そうなると、香取郡の郡境が定まった時の水面の位置が確定できるな?そうなると・・・栗山川の流域の水浸しの図と郡境とをチェックすれば良いのか・・・

 ふむ・・・大昔の匝瑳郡の領域は海浜部の平野が無かった時代に定められたとすると、非常に狭い領域を支配していることになるのか・・・強力な国造が支配していたのかね?近代デジタルライブラリー - 匝瑳郡誌 古代に於いて傑出した人物は見当たらず、老尾神社の氏子は匝瑳郡全体であるとしていますね。祭神は經津主の神の御子、阿佐比古命で・・・一説では物部小事大連が祭られていると・・・建郡の話からすると・・・「物部小事大連、節ヲ天朝ニ錫シ、出デテ坂東ヲ征ス。凱歌帰報。此ノ功勳ニ籍リテ下總國ニ始メテ匝瑳郡ヲ建テ、仍テ以テ氏トナスコトヲ得シム。是レ即チ熊猪等ノ祖也。」と続日本後紀の承和2年3月16日条で物部匝瑳熊猪の改姓の記事にあるようです。・・・ってことは、物部小事大連が氏の長者として、老尾神社を氏神としたのかね?老尾神社か・・・県道16号線の近く・・・県道44号線と県道16号線の交差するのは栗源か・・・

 栗山川を忘れてた・・・油田は栗山川の流域ですね。県道44号線は現在の栗山川の部分に入り込んだ入江の津を結ぶ道と考えることは可能なのか?それなら、油田の地は油田の牧だけでなく、交通の要衝という地の利も出てくることになりますね・・・縄文海進の時期の精度の高い地形図が欲しくなりますね。

 ふむ・・・左の図が県道44号線を(仮称)栗山入江の津を結ぶ道と仮定して水浸ししたものになります。こんなところまで入江が入り込んでいたのか・・・って感じです。ただ、こうなると、県道44号線の意味が出てきますね。海上郡と匝瑳郡は椿海を香取神郡の勢力範囲から外すために努力した気配が感じられます。栗山入江の支配権はどのようになっていたのやら?入江の入口は武社国造のって事かね?

 こりゃ・・・現在の地形とずいぶんと違って、海浜部の支配権についてどのように考えたら良いのか?九十九里浜の成立期が問題だね。海退と九十九里浜が、入江を埋め良港を失くしてしまったために九十九里浜を越えての航行が不能になった・・・同時に百里浜も・・・東北と結ぶ航路は那珂湊が起点になる・・・鹿島神宮と大洗磯前神社の関係が気になるわけです。

 すると・・・神崎の郡にあった香取神郡の郡衙が荒海駅の廃止の・・・805年あたりで、東庄の今郡に移った?・・・油田のあたりは栗山川入江を考えると古くからの香取神領の中心か?神崎・滑河の水田開発で神崎に代官所のような香取神領郡衙を置いたのか?そして、東庄の開拓が本格化して、ここの水田開発の本拠として香取神領郡衙を今郡に移転させた?東庄の水田地帯になっている平野の中央の沼はいつ頃消えたのか?桁沼川が黒部川につながる水路の様子は2番目の図に示され、今郡の前の低地部分が広がりつつある様子を示していますから・・・2番目の水浸し図が800年ごろの様子を示していることになるのか?油田の香取神宮の大禰宜宅址関連の情報が欲しいが・・・そうだ・・・忘れてた、香取神宮の連絡網があった・・・棟上の餅の廻状の4つの経路・・・

系統1・・・津宮村 磯山村 加藤洲村 扇島村 中須村 長嶋村
系統2・・・山崎村 丁子村 吉原村 大倉村 多田村 小野村 織幡村 幡鋒村 油田村
系統3・・・篠原村 佐原村 岩ヶア村 森戸村 大戸川村
系統4・・・新市場村 返田村 牧野村 大根村 大崎村 与倉村 神生村 鳥羽村 福田村 伊地山村 本矢作村 長山村

 この系統に流す4枚の廻状がありました。これからすると油田へは系統2の終点という事になるわけですね。系統4が良くわからない・・・神生村って油田の先だよね・・・青字にしたものは同じような場所ですね・・・この並び順には意味があるのか無いのか不明・・・新市場から返田は普通に行ける。ここから牧野は佐原の南で、そこから大根へ行くのは問題ない、大崎は大根の西で問題ない、与倉は大崎の北西でOK・・・神生は油田の先で大崎の正反対・・・返田から県道16号線へ出て南下、県道56号線で神生・・・与倉から鳥羽なら西につながるから分かる・・・で鳥羽から福田は・・・間に本矢作があるから・・・何?これ?・・・福田へは返田から県道16号線へ出て南下、九美上から福田への道がある・・・伊地山は福田の南で本矢作は福田の北・・・長山は本矢作の北・・・

 系統4は返田で廻状のコピーを作って回せばOKなようです。なんとなく、現在の佐原の市街が海の底だった時代の廻状のルートと考えれば・・・新市場村 返田村 牧野村 大根村 大崎村 与倉村で終末点は鳥羽という基本的に水上ルート、神生へは返田からのコピー、福田村 伊地山村 本矢作村 長山村も返田からのコピーを回せば、すべてのルートで同じころに終末点まで辿り着きそうな感じです。でも・・・神生へは油田からの方が合理的に見えるが・・・こりゃ、県道56号線を走ってみないといけないかな?でも、この廻状経路を眺めるとなんとなく、香取神領の通信系が見えてきた気がします・・・また、妄想ネタが膨らみましたね。

 こんなことをしている間も、現在の経済研究も行っているんです・・・ちょっと、我が国に・・・まずい兆候が・・・

 なんと・・・北海道電力は、倒産の一歩手前という感じですね。さすがに、火力発電での燃料費の支出が利いて来たみたいです。このままの状態では・・・経営を引き受ける企業は無いから・・・国有化になるのかね?しばらくは銀行が無理にでも金を貸すだろうけれども・・・国有化になってとしても、この調子なら大きな赤字を出し続けることになりそうだし・・・それを回避するには・・・大幅な電力料金の値上げしかないだろうから・・・で、どのくらいを引き上げれば採算ベースに乗るのか?気になりますね。原発が止まっていて、総出力の27%ほどが失われていて残りを火力などで補っている・・・でんき予報からすると、発電施設は、どうやら全力運転に近い状態という事か・・・3年間良く持たせている・・・発電所の定期点検による休止はどうなっているのか?最大の発電機は60万kWか・・・石狩新港の発電所が稼働するようになれば、少しは余力が出てくるみたいですね。それまで、発電所は持つか?石狩新港の発電所の稼働は1号機が2015年9月を予定しているか・・・ふむ・・・50万kW・・・

 こりゃ原発の廃止決定の方が楽だね・・・それならば代替発電所の建設ができるが、再稼働の可能性があれば、設備投資は控える・・・さて、持つかどうか?2011年3月ごろは1ドル90円でこれで、1バレル90ドル程度、その後113ドル程度まで上昇、現在100ドル程度か・・・2010年のあたりだと80ドル程度・・・、燃料調整の基準は・・・平成24年12月1日から平成25年2月28日までにおける為替レート(87円/$)、原油価格(61,612円/kl)、海外炭価格(10,439円/t)により算定しておりますか・・・ふむ、、為替レートは87円か・・・これじゃ儲からないのでは?でなくて・・・為替レートが100円程度になったら・・・燃料調整費がずいぶん高くなるのでは?名目的な電気料金の値上げ以上に利く可能性が高いような?ふむ・・・北海道電力はこれ以後のデータが無い・・・東京電力の最新のデータは・・・為替レート(102円/$)、原油価格(72,768円/kl)、海外炭価格(10,851円/t)ふむ・・・

 北海道電力は水力124万kW、火力446万kW(石炭250kW、油焚196kW)、原子力207万kW・・・石炭と原子力を主力として、油焚と水力が補助という感じで450万kWを保障できるようにしているのか・・・油焚が全力運転だから、燃料コストは・・・原油価格が、海外炭に比べて・・・熱量ベースで計算しないといけないから・・・石炭はkg当たり26MJ、C重油で41MJ・・・重油の比重は0.9ぐらいか?1kLは1000×0.9=900kg 0.9トン 石炭は26000MJ当たり10851円、原油価格=重油とはならないが・・・C重油価格で日鉱日石エネルギーと王子製紙の契約では平成25年4期は75900円/kLか・・・41000MJ当たり、75900÷0.9=84333円、C重油で26000MJを発生させるには84333×26/41=53479円位・・・燃料費は5倍のコストか・・・これじゃ、凄い金がかかるじゃないか・・・しかも、原発の遊んでいる燃料棒だって、毎年かなりの額の税金が発生するし・・・インフレ率を2%に置かれたら・・・数年ごとに電力料金を改定しないと追いつかなくなる・・・こりゃ、電力業界は構造不況業種になることを意味するのでは?そうなると、電力会社などの公共系の料金体系を持つ業種は・・・投資不適格となるのか・・・すると、やがては国有民業と経営形態が変わる・・・

 ん?東京電力は600万kW規模の火力電源を確保つもりのようですね。発電所の建設・運営を担う企業の入札を2014年度に実施するか・・・九州電力も中断していた石炭火力発電所の増設計画を再開、関西電力も中部電力も大型石炭火力発電所を建設するって・・・こりゃ、電力各社は原発の再開を諦めつつあるような感じですね・・・どうやら判断ができない政治家を見限って・・・原発の凍結へ方針転換のような感じです・・・これって、明らかな政治不信の表明でしょうね。なんとなく、政治と経済の乖離が始まったような感じです。政治家は企業からの献金は期待できなくなるのではないかと・・・なんだか、国が引き裂かれていく音のような気がします。日本でのオリンピックの開催はできるのか?そこまでは日本経済が持ってくれると思っていたが・・・経団連は道州制の推進を表明していましたね。中央政府の力を弱めることに賛成している・・・エネルギー政策に関しては・・・原子力発電所の停止に伴う火力発電の焚き増しコストは今年度3.6兆円に及ぶと試算され、これが、国富を海外に流出させるとともに電力料金の上昇をもたらし、産業競争力や経済成長の足かせとなっている。加えて、こうした状況が続けば、わが国の金融や財政に深刻な影響を及ぼすことも強く懸念される・・・3.6兆円か、さらに無駄になるかどうか分からない大型の火力発電所を各電力会社は模索し始めた・・・こりゃ、コスト的な意味でのエネルギー危機がやってきそうな感じですね。さらに・・・基本計画の前提となる将来の具体的なエネルギー需要を見通すにあたっては、成長戦略との整合性を確保する必要がある・・・なんて示している・・・あからさまな非難じゃないかね?成長戦略なんって言ってるが絵に書いた餅で、整合性が無いってか・・・日本はどうなるんだろう?なんって・・・現在の経済に対しても妄想的な考えを持っているんでね・・・過去でも、現在でも・・・同じように妄想できるので良いのです・・・さて、続きは次回としましょう・・・

2014.04.02

  

関係ないが、興味深いもの


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