香取神宮をうろうろ(120)
 香取志 (54) 神事に関して、矢的の神事・・・

 大坂都構想か・・・細かな内容は知りませんが、再編は正解ではないかと思います。大阪市の歳入って大阪府の3分の1ぐらいですかね?執行できる金の額の問題ですよね・・・大阪市を分割して区のレベル・・・普通の市のサイズまで切り縮めないとうるさくてしょうがないというだけなのだろうと思います。使える金が10倍から100倍違えば、金持ちの意思が通るが、半分や3分の1程度だと、いつかは俺だって・・・桁違いの力には対抗しにくいし、・・・桁違いの成長は困難だというだけですがね。でも、本当は・・・これって国がやるべきことではないかと・・・東京都の23区と、大阪市を政府直轄にして税金を巻き上げる・・・社会インフラは基本的には東京都・大阪府が直轄市の整備を行うって形かね・・・北朝鮮が利益の出そうな地域を直轄地として支配するという分かりやすい手法を取っているのは・・・圧倒的な金持ちが強いのさ!、貧乏人が束になっても桁違いの金を持っていれば、絶対に勝てる!という、我が妄想的経済原則に?忠実なだけのような気がします。貧乏人どもよ、控えよ!で済みますから。金が欲しければやるよ・・・貧乏人が貧乏であり続けるのは・・・貯蓄ができない、または、貯蓄する気が無い・・・借金で縛って貯金ができない状態に貧乏人を置けば・・・貧乏人は貧乏人であり続け、金持ちの権威は維持される・・・国や地方自治体が、金持ちの国王なんかと違って、年月が経つと力を失うのは・・・歳入歳出の均衡で、貯金ができない・・・原則、入ってきた分を吐き出しているため、いざというときの余力が無い・・・社会インフラに投入しているとはいうものの、それを担保に金を借りてしまうからやがて、借金で自滅する事になると思うわけです。先送りにすることはできるんでね。強くなるためには、金儲けしないといけないのさ・・・と単純に思うわけです。たとえば聖武天皇の国分寺の建立あたりから始まる仏教道楽・・・極めつけの大仏建立という国家プロジェクトって・・・750年ごろの原資は、701年の大宝律令の戸令で明確になった納税者リストの計帳の威力ではないかと・・・これで、全国の資金の流れは天皇へ、結果米蔵に米が溢れ、これで地域の財物を、それぞれの地域の中央に集め国分寺を、さらには中央に集めて、大仏建立という偉大な事業を為したのだと思うんでね。地方が強くなると、中央への資金の還流が途絶えて・・・中央は大きな力・・・札束の威力を振えなくなるということなのだと思います。それを綺麗なあたりさわりのない言葉で・・・大阪都構想というものになる・・・大阪市を解体すれば、大阪府の威力がでかくなるって・・・妄想的な我が解釈・・・しかし、御上が強くなりすぎると戦争をしたがるのが困るが・・・

 さて・・・例の香取神宮の境内の道が気になって、GPSロガーを持って歩いてきました。結果は・・・かなり不安定なんですが、一応データは取れました。樹木や御神井道の崖とか・・・受信状況を悪化させるものがありましたが、一応の成果はありましたね。あちこちのポイントとなる点で円を描くように歩くと、それが記録されますから、それぞれのポイント位置が確定できるというわけです。御竈社は特定できませんが、西御占や矢的神事ができる場所というのが限られていますから、古い道が現在の社務所とその裏の建物の間を通っているのなら、社務所の裏手の建物のあたりにあっても良いのではないかと、そんな推測です。そして、大禰宜邸の所にある裂々神社の建物が、旧参道の道路上からも見えたんで、このくらいのスペースがあればできるのかな?なんってね。しかし・・・気になるのは、神徳館と境内の間の道ですね。かなり深く削った道・・・いつの時代の開削なのか?ってね。江戸時代の絵図ではこのあたりの様子が良くわかりません。道は神徳館の方に通っていたとか?道が・・・まさか、現在の楼門前の馬場って、雰囲気が全然違うとか?ちょっと気になります。

 もしかして、楼門前の馬場はもっと広かった?まさか、神徳館と馬場の間の道を整備したために狭くなったのか?なんって・・・古い写真をチェックしていたら気になる写真がありました。右の写真です。大砲があります・・・これは明治40年に奉納されたものですから、それ以降、昭和の始めの改造の前ですかね?楼門前の馬場が整備されるのが・・・昭和15年幣殿・拝殿・神饌殿・手水舎竣工・・・旧拝殿移転で、昭和17年総門竣工となります。黄門桜が石垣の内側にありますから、それ以前の様子・・・多分、この大砲の位置かもう少し奥に星塚があった?そして、大砲の奥に祠が見えます。この位置には昭和13年の地図には便所とある場所なのか?不明です。この場所・・・何か記憶があるんですが・・・壁があったかな?覚えてない・・・なんとなく雰囲気の違う空間があったような気がするんですが?トイレかね?・・・でも社に見えるんだが・・

 さて香取志 31コマ 続きと行きましょう・・・

矢的の神事
同夜御扉閉が終わって後に御竈社の神庭に的を設け、大宮司ならびに惣神官がこれを射る。この時矢の根飯などという神供をささげる。これを西矢的と云う。また大禰宜ならびに神官数多、裂々殿前に射る。これを東矢的と云う。いずれも、弓は賢木の丸木の川を削ったものである。矢は青竹の箆に羽は青木の葉を用いる。偖又諸の祭祀に大宮司・大禰宜が相共に勤める例である。ただ、西御占、東御占、西矢的、東矢的だけは、大宮司・大禰宜が東西に分かれて別々に各々に勤める。これは外の祭祀ではないことである。重規云う。毎年正月二月の間に隣里郷党の人民がその住む所の鎮守産土の神を祭る奉射と云うものがある。これは射を奉る事で、吾が神宮の矢的神事をまねているようだが、そうであっても、ただ主食魚鳥などを神に奉り、奉射をするのではなく、単に飲み食いなどして楽しんでいるだけである。これを奉射と考えているのであれば、その本を失ってとんでもないことをしているのである。


 矢的神事ね・・・これって、占いの神事じゃないですかね?千葉県内には、この手の神事がかなりあるような記憶が・・・的中させるための弓や矢を使うのでなく、とても真っ直ぐには飛ばないだろうというような弓や矢で的を狙う・・・多分、香取神宮で昔から、この矢的神事をやっていたんでしょう。そこへ最新の外来文化で亀卜が入ってきて、その形だけが残ったのではないかと思います。その事を象徴的に示すのが東西の御占の際に矢を集めるという作業が入っているのではないかと妄想しますね。そして、既に最新の方法で占いは行われていますから、象徴的に矢的神事が行われて、古い伝統が継承されていることを確認しているのではないかと・・・私のような俗物だと・・・食事の付く祭礼は廃止したくない!と強く主張しそうです!只飯只酒廃止反対!ってね。多分、矢に占いの力があると信じているのなら・・・亀卜の場にその矢を置く事で矢の力も合わせて良い占いができると信じたのか?しかし、回教では・・・酒と賭矢、偶像と占いの矢は忌み嫌われる悪魔の業とされますから・・・逆に言えば、占いの矢や賭けのために飛ばす矢や酒は楽しいのだと・・・私も、賭けになると弓矢の腕前は上がるんですね。悪い視力も良くなって・・・30m先の3寸の金的なんって楽勝だった・・・なぜか外さなかったね・・・これって角度だと中心からtanθ=45/30000・・・上下左右±0.08度の精度って事かね?賭けだと人間能力はこんなになるんだ・・・

 ちょっと気になるのは、遊びのための弓矢・・・本気の弓矢は禁じられていますからね。百姓町人は・・・楊弓ってやつを引いていましたね。矢場ってところで賭け矢を飛ばすやつ・・・近代デジタルライブラリー - 日本遊戯史 327コマ 楊弓 楊弓も面白いですね。屋内用の弓矢も面白いな・・・ヤフオクで出品があったが高いね・・・小洒落たのを作るか・・・じゃなくて、本気の弓矢は百姓町人は不可ですよね。禁令は例の刀狩令・・・諸国百姓、刀・脇差・弓・やり・てつはう・其外武具のたぐい所持候事を禁止していますね。どちらかというと、武器の登録制度のようなものなのかもしれません。そもそも刀剣類や弓矢、鉄砲などは、非常に高価なものですから、貧乏な百姓町人風情では所有が困難だったのではないかと思いますけどね。

 多分、刀が安くなったのは江戸中期の日本の産業革命期ではないかと妄想します。様々な物資が市中に溢れるようになり、庶民も鉄鍋などの金属製品を手にできる時代・・・物余りになれば、下々まで賭博の余裕が生まれ、博徒も武装できるようになる・・・まあ、なまくらの安い形だけの刀なんでしょうが・・・貨幣経済の浸透により、古くからある河原者以外に、賃金労働者の誕生により、地縁的な保障を持たなくても、金銭による保障によって無宿人が生きられるようになることで生まれるわけですからね。

 江戸時代無宿人が目について、社会問題として表面化して、有効な対策が講じられるのは・・・寛政元年;1789年の 火付盗賊改方の頭であり、かなりやくざっぽかった長谷川平蔵が老中松平定信に加役方人足寄場でも作って、浮浪人対策でもするべえって、付いた予算が少ないから、銭相場に予算を放り込んでの利で始まるわけですから、1700年代の半ばには表面化していたんでしょう・・・利殖で行政を行うなど凄いね・・・大したものだ!

 浮浪人の温床はやはり、貧乏大名の中間部屋・・・渡り中間などがやくざ者の萌芽なのでしょう。そして、水運や陸運の発達や、それに伴う幕府の河川や道路の改修、神社仏閣の造営などの公共事業での人足の動員など、賃仕事が基盤にあるのでしょう・・・そう言えば、元禄の香取神宮の造替の際に、遊女や賭博、物価対策などについて幕府側からの指示がありましたから、公共事業の周りにそういった人間が入り込み、欠落者の温床になっていた事は明らかですから・・・おっと、また外れた・・・

 刀狩令の出た時代の実戦用の弓は既に立派な複合素材を用いたコンポジットボウですから、高度な技術を持った職人の技が必要です。この時代の鉄製品は非常に高価ですから・・・鉄族の付いた矢なんって実戦でなければ使えないと思いますが・・・戦闘用の本気の弓は高価な商品ですからね。しかも、コンポジットボウなんで、いわばハイテク兵器なんで・・・和弓などは現在も素材が進歩して・・・炭素繊維などが使われていますからね・・・

 元禄の造替の際の大宮司一人分の流鏑馬道具の修理代金が、具足・達・むかばき・矢・箙・馬具・矢胡・弓・小手・半弓・綾笠で・・・53両2分と銭733文ですから・・・私の簡易計算では1両10万円ですから・・・535万円余り・・・兵器は高価なのです。だって、元禄の社殿の造替の入札は総工費4500両ですから・・・幕府は安すぎるから調査に入っていますが・・・結果は不明、予定通りの着工でしたから、この価格でやったのではないかと・・・元禄13年2月20日の話です・・・4億5千万円・・・ほとんどすべて建て替えて・・・100人分の修理代金にもならない・・・騎馬武者を維持するのはひどく金がかかるのか・・・

 弓か・・・私が引いてた弓で、矢はおよそ1秒で的まで到達していたみたいですから、平均速度は秒速30m、矢は長いので重くて威力がありましたね。日本の矢は長いので重く、それで威力が大きい・・・調子が悪いとなぜか的枠に当たって的枠の木がボロになる・・・抜くのも面倒だしね。弓が引きたい・・・鉄砲は・・・大宮司の所に元禄の造替の時に3丁ありましたっけ・・・鉄砲は磨いて錆びさせなければ良いから、メンテナンス費用の安い兵器なのかもしれません・・・近代デジタルライブラリー - シーボルト日本交通貿易史 204コマ 日本武器 興味深い・・・矢の根の種類が多いのは、重代の買足しの結果かね?近代デジタルライブラリー - 堺市史. 第6巻 資料編第3 126コマ 鉄砲 なかなか取引が盛んなようです。

 あ・・・何考えてるんだ・・・一応、弓は禁止・・・上級神職は流鏑馬もやりますから、馬にも乗れるし弓も引く・・・おもちゃの弓矢を持ちだしての神事・・・確実に的中させることは考えていないから占いですね。庶民は、基本的に本気の弓矢は禁止ですから・・・神事でもなければ使えないし・・・本気の弓は高価なものですから、遊びの簡易な即製の弓で・・・まじめな占いの神事でも、神事の名を借りた遊びでも行う事は同じパターンになるということだと思うのです。

 矢的の神事で使われる弓は丸木弓で、右の図のようなものだそうです。図の丸いものは穂垂餅ですから、この弓は1m程度なんですかね?詳細は不明です。的に関する記述が無いので・・・詳細は不明な神事です。

 もうちょっと妄想すれば・・・多分、香取神宮では古くから矢的神事を行って、作況などの占いを行い、暦をつくる作業を行っていた。これが東御占神事で、そこへ亀卜の技が導入、ここで亀卜を行う西御占神事が成立、亀卜はシステム化された技なので結果をXX十號也!と断定で発表・・・東御占の神事はシステム化されたものではないので、寿ぎ系でXX十合哉!と詠嘆で発表・・・東御占神事=矢的神事の不完全な弓矢による曖昧さを解消するために、矢揃の神事を西御占神事の亀卜の前に割り込ませて東御占神事と一体一連の神事とした・・・大宮司の主宰する矢揃神事から始まる西御占神事で亀卜が行われてXX十號也!と神事が終わり、翌日に矢揃神事で集めた矢を使って、大禰宜側の主宰する矢的神事が行われXX十合哉!と今年の1年が寿がれて占いの神事が終了する形になり・・・やがて、西坐の亀卜の口伝が途絶えたため亀卜が形骸化し、その結果、同じ神事を東坐と西坐で並行して行うようになった・・・そのため、矢的神事では、占的な要素が無くなってしまった形に落ち着いた。・・・立証困難な妄想ですが、私なりの解釈・・・上手くつながったから満足・・・次は?

献若菜
正月7日の例として若菜を奉る。この日内裏に若菜を奉ることは、宇多天皇寛平年中に始まると、公事根源に書かれている。河海抄に七草 なづな・はこべら・せり・あおな(かぶ)・ごぎょう・すずしろ・ほとけのざとある。世諺問答に、正月は少陽の月である。また、七日は少陽の数である。よって、朝廷を始めとして私家でも宴会を行うようになった。それで羹を食べれば、万病また邪気を除く術であると云う。本文にある。事文類聚には、人日に七草の名を採って羹を作るとか、神宮では古くよりカブだけを用いる。


 正月七日か・・・人日の概念が提示されていますね・・・東方朔の占書らしいが・・・正月1日は鶏、2日犬、3日は猪・豚、4日は羊、5日は牛、6日は馬7日は人、8日は穀が中国の創造神の「じょか」によって創造された日なので、それぞれを祀り、命をとらない日という具合になっているようです。で・・・なぜ若菜?・・・菜の羹を食べれば病や邪気を払えるから・・・なのだけれども・・・神宮では菁か・・・カブだけを使う・・・青菜の代表なのかね?でも気になるのは、香取神宮の祭礼では大根登場しますね、何故カブなの?七草と呼ばずに若菜・・・菁を代表としている・・・七草より古い儀式体系が存在しそうな気がしますね。七草が流行るのはいつの時代?・・・菁か・・・非常に古い作物、古いけど・・・なんとなく地味な野菜、近代デジタルライブラリー - 公事根源新釈. 上 30コマ 供若菜 どうも、良くわからない・・・上子の日の行事、正月7日の行事・・・上子の日の遊び・・・香取神宮では何故蕪なのか?蕪を使った神事って何かあるのかね?・・・羹・・・香取神宮なら蕪の羹・・・蕪のスープということになるのか?粥ではない・・・あれ、亀卜の時の矢根御供をチェックするのを忘れていた、巻行器御供壱膳、矢根飯12器、小上12器・酢蕪・煎花が折敷に、御一夜酒とありますね。ここで酢蕪が現れますね・・・酢か・・・

 なんだか、正月7日の祭祀に関して、維新前年中祭典式稿と香取宮年中祭典記で記述内容に差がある・・・七草は附け足しみたいな感じ・・・年中祭禮大禰宜勤方などは「七日かれいと云いて、菜を供え、御下がり頂きて、神事一切済」で終わり・・・他の物で補うと、大神主が祝詞をあげるようです。申の剋スタート・・・このぐらいですね。大禰宜は参加するだけみたい、ということは、後代になって入ってきた行事ですね。正月7日の行事はなかなか複雑なようです・・・元三祭が無事に終わった御祝いのような行事や白馬の節会があって・・・

 しかし、蕪だけを使うのが気になります・・・香取神宮の吸い物は大根が基本で、餅が入るのかね?この日は餅なしの蕪だけ?蕪の葉と餅の代わりの蕪とか?・・・弓矢を使った占神事で、蕪を茹でたのを食べて弓を引くってのがあったような・・・上野総社神社の射儀式か・・・正月6日に神前に供えた蕪の水煮を桑の枝で作った箸を使い、神官が頂いた後、的に矢を3本放ち、その年の水の多少を占う 水的の式とも言う祭祀ですね。まさか・・・米が入る前の古代の正月の雑煮は、塩味だけの蕪のスープかね?見かけは餅の入った雑煮に似てる・・・長屋の花見って落語みたいだが・・・ちと気になるのは、蕪の古い表記の菘菜ですね・・・なんとなく、小松を引き、若菜を摘むというのの小松は蕪ではないかと普通の松の木と、小さな草の松である蕪・・・栽培種の蕪を引き抜き、野の若菜を摘む・・・食えもしない松を引き抜いて何をするかね?そんな気がするのでね。

白馬
同日にある、神馬七疋、先ず二の鳥居前で午揃えがある。この時に大宮司、大禰宜、惣神官二の鳥居前北方に南面に立ちならび、馬は南方に北面に立たす。それより、神殿を引きまわす。二月上の申日に春日祭りに馬寮の使が御馬を引いて社を巡り、次に長者殿の御馬を引き巡ることが、江家次第記にある。年中行事歌合わせの注によると、正月七日の白馬の節会ということは、馬は陽の獣である。青は春の色である。これにちなんで正月七日に白馬を見れば、年中の弱を去り、年災いを除くと云う。本文侍るとかや。これ十節録皇世記などの趣である。なお、延喜式に委しい。河海抄に光仁天皇宝亀六年正月七日、天皇、楊梅院の安殿に、五位以上に宴席を設ける。そして、厩の宴に青き御馬を進上する。兵部省は、五位以上に装馬を進上する。これが青馬のはじまりである。これは内裏に青馬を見賜る事の始めである。吾が神宮も内裏の節会を移しているのである。この始まりは良くわからない。


 一般的な説明ですね。これでは7日の行事の組み立てがちっとも分かりません。また、維新前年中祭典式稿でも拾ってみますか・・・
 元祭祭祭当賀詞祭献備物切盛という項目から始まりますね。当日早旦、田所・両代官の三名、元三祭祝の宅に行き、雁・鯉および、須伊理などを点検し、切盛りをして、終わったら饗膳がある。その儀は、2日の切盛りと同じである。

 次に、来祭当番新符拝受之用意とあって、来年の正月元三祭当・当年の八月新祭当・十月相撲祭祭当・大饗祭祭当・十一月側高祭当などの神符拝受の支度をする。・・・先ず祭当邸内に清浄な地を選んで、斎殿を一宇建てる。御神酒渡のを兼用するので、オサカグラともいう。その作り様は、桁行2間、梁間1丈で、柱は杉の黒木をつかう。中央に竹の柱を4本建てて竹簀子を2段立てを、冗談を神坐として、下段を神饌置き場とする。神坐の四方に薦を垂れて壁代とする。小枝を持って鈎として、前面の垂を掛けるためのものにする。殿の司法は薦簾二面の中に、薦を入れて、これを縫って竹を宛てて、掻付ける。表面1巻を縄で蝶番として、開戸として、これを出入の所とする。殿内は薦を敷いて席として、また一隅の土間を掘って四方に丸木を宛てて爐として、日々の神饌を炊くところとする。屋根は藁、あるいは茅を使ってこれを葺く、また家の入口には貫の無い鳥居を立てて注連縄を張り、これに門標を立てる。門標には「神事なり、汚穢不浄之者入へからす。祭祝職名」 祭祀に相当する人は、当日早旦側高に行き、御手洗井で、身潔をして、藻を取って幣として神社を廃止、それから本宮を参拝して祭殿に帰って御饌を炊いて、当夜に献ずるの料にする。このように15日までして、毎月々の頭の7日間、15日、28日に、毎朝本条のように、側高神社と本宮に参拝して、祭殿に帰って御饌を供す。

 この日は、元三祭と同じように雁・鯉が調製されるような感じですね。
 祭当の引き継ぎってことですかね?神符拝領の準備と祭当としての務めを果たすための斎殿を用意する・・・祭殿は杉の黒木・・・皮の付いたままの丸太ですかね?・・・ちょっと類推、黒米って又見祭で出てきましたが・・・これって、玄米の事かね?ちょっと気になります。黒って皮という意味で使われる事って多いですからね・・・気になるのは普通の米と黒米の交雑ですが・・・黒米の方が優性なら、普通の米など無くなってしまうのでは?江戸幕府や明治政府が有色米を排斥して行ったとか言われますが・・・果たして?それで、白くなるかね?気になります・・・稲は風媒花ですから、風で花粉が運ばれますから・・・果たして・・・とにかく、杉の黒木は皮つきなんでしょう・・・オサカグラか・・・作られるのは一夜酒?ですかね。造替で作られた酒殿との兼ね合いは?・・・祭祀で用いられる酒は2種類のようですから・・・そう言えば、3月16日に神崎の酒蔵祭へ行ってきました。香取神宮へ御神酒を納めている所へも行きましたが・・・創業は延宝年間ですからね・・・伝統がありますね。神崎の醸造業は非常に気になるんですが・・・

 とにかく、右の図のような斎殿空間が設置されるということのようです。なかなか大きな小屋のようです。

 左の図のように、小屋の中の中央に竹で2段の棚を作り、上は神坐になり、下は供物棚になる・・・ふむ、なんとなく了解・・・こういった祭当の邸宅で、それぞれの行事の準備が為される・・・多分、別火という概念と、神宮の境内に水源が無いから・・・別火か・・・おべっか使いかね?気になります・・・へつらって別火を使う事で、一脈通じる所があるような・・・特別に別火で調進しました・・・

 貫の無い鳥居か・・・貫が無くてもここでは鳥居と明言していますね。図には注連縄が無いが・・・注連縄を張る・・・鳥居の古い形は、貫が無くて、貫ではなく注連縄なのか?ちょっと気になりますね。貫は・・・明らかに強度部材ですが・・・それが無い・・・掘立柱に笠木を載せただけの構造ですよね・・・2本の柱の間に注連縄が張り渡しているようなものも鳥居の仲間と言えなくもないが・・・気になるのは冠木門などは鳥居の仲間に分類できるのか?基本的には、結界に出入りするための特別な場所というのであれば、結界の存在が感じられる場所に、出入りするための所に建てられ、人の通れる高さの所に注連縄とかあれば鳥居なんですかね?象徴的なものですから・・・

 祭当になると忙しいですね・・・月の3分の1ほどを早起きして、側高神社下で禊をするのですから・・・祭当の屋敷って、神宮の近くに構えているとは限らないでしょうから・・・結構大変なのでは?鹿島神宮の祭頭祭の担当も100日くらい毎日神宮へ参拝するとかありますからね。祭祀というのはなかなか大変なものです。さて、次の祭当の準備が正月7日から本気で始まるという事のようです。ここまでを申の剋より前に終わらせて、献若菜に参加することになるようです。

 献若菜の神事は申の剋に開始のようですから・・・基本となる神宮の神事の戌の剋より前なので、香取神宮の古来のものではなさそうですね。流行りの行事を取り入れたという感じなのでしょう。献若菜が酉の剋に始まり、次が白馬となるわけです。先ずは、二の鳥居前に馬が引き出され馬揃祭事が始まります。大禰宜、権禰宜、国行事、大祝、物申祝、宮之助、大宮司の順で7頭の馬が、鳥居前の南側に整列、大細工が出資して、大仏師が描く馬面2枚を大宮司・大禰宜の馬につけます。馬に紙で作った馬の面をかぶせるって何か意味があるのでしょうか?可能性があるのは・・・馬が白くないから・・・白い板に墨で書いた馬の顔で、白馬に化けさせるとか・・・私にはこの程度しか思いつかない・・・それとも、青馬の節会の古式で・・・黒の墨で書いてあるから黒々とした青馬であるとか?この馬の兆吉山の原画が惣持院にあったらしいが何処へ行ったのやら?

 ここで大宮司・大禰宜以下拍手・次に祭礼奉行が神馬を引き立てるように神符に命じて、大宮司・大禰宜以下、燎で照らされる庭上の坐に付く。神馬を7周神庭を引き回す・・・大宮司の神馬は平安を3周させる・・・そして奉幣、大宮司以下18員がこれを執る。次に、牽替えの馬・・・これって何?神庭に出た馬とは別の馬ですかね?・・・これで、大宮司・大禰宜・宮之助・物申祝・権禰宜・国行事・大祝などの7家を回り、大宮司邸に至って終わる。このとき、各家々に着いたら、郷之長が前に建って順次庭前を引く、家ごとに酒肴を出して郷之長以下神夫を饗す。このとき、吸い物の料として、切りもち2枚ずつ出す。これで白馬の神事は終了のようです。この後、元三祭賀詞神事が続きます。近代デジタルライブラリー - 公事根源新釈. 上 39コマ 白馬の節会 ・・・気になるのは馬の色ですが・・・青か・・・単に青々とした馬で、年をとった馬で無いという意味ではないかと・・・なんとなく、青馬が青黒くつややかな馬を言うような気がするので、白い馬であるとか、白と黒では余りにも違いすぎますからね。目も覚めるような若いつやつやした馬・・・これを青馬というとか?そういった言及が何かにあれば良いのですが・・・こんなことをやってると・・・お前は青いとか言われそうなんですが・・・定説などクソ喰らえ、妄想的解釈で楽しんでいますから・・・別に、こんなことは反論されても青くならずに済みますから、所詮言葉の使い方ですから、妙な解釈をしていても実害なしですからね。

 でも・・・「松の葉の色にかわらぬ青馬を引ば是もた子日なるらん」ってあるから、青は松の葉の色に変わらない・・・松の葉の色と変わることの無い青さをもったの馬・・・、水鳥の鴨の羽の色の青さを持った馬・・・鴨の羽色って水をはじくのでつややかで若々しい感じを与えると思うのですが・・・若い肌は水を弾く・・・私にとっては、赤や青や黄色の馬であっても良いので・・・そう言えば、近頃は縁日で赤や黄色や青・・・緑などのヒヨコは売ってるのかね?青いウサギを見たのはいつの事か・・・そう言えばダルタニアンが田舎から乗ってきた馬は黄色の老馬であったような・・・くそ、私は既に外見は青くない・・・それが問題だね。こんなことしてないで嫁さんでも探すか・・・良く言われるし・・・青馬か・・・塩原太助の馬も青でしたっけ・・・一本松で別れた・・・下らない知識・・・でも、日本の文化の一端か・・・日本文化って何?

 色々と、文献資料を眺めていると妙な事に気付きます・・・学者先生の記述と、現場の記述にずいぶんと差があるような気がします。一応、論文や研究書も原典を元に精査しているつもりなんですが・・・原典の現場の記述と明らかに違う図や記述を行っていると思われるものが結構ありますね・・・どうしたらこうなるのって?ものが・・・でも、それで良いのでしょうし、私の読み方が悪いと思ってあまり気にしないようにしていますが・・・しかし、それの積み重ねの先に出来上がっている論文もあるし・・・不思議なものです。まあ、指導教授の論文にケチをつけられる弟子など存在できないわけですから仕方ない部分もありますが・・・学問は徒弟制ではないと思いたいのですが、現実は・・・ぶちぶち・・・学者になりそこねたんでね・・・いいよな、こんな論文書いて飯が食えるんだからなんって思えるものもあるし・・・愚痴になるから、このあたりで切るとしましょう。

2014.03.26

  

関係ないが、興味深いもの
近代デジタルライブラリー - 国史上の社会問題
近代デジタルライブラリー - 日本神代史


参考になるもの。
東京大学史料編纂所 Historiographical Institute The University of Tokyo
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