香取神宮をうろうろ(119)
 香取志 (53) 神事に関して、大御戸閉・・・

 さて、買っちまったので玄米を主食として・・・腹持ちは非常に良いので玄米が安いのならば良いのですが、ちょっと高価な感じです。研がなくても良いので楽かもしれないなとか思うのですが、水に浸している時間が長いのが問題ですね。

 とにかく、食べてみないことには・・・前回はタイ米などと同じ、香取神宮で行われている湯取による飯でしたが、今回は私の通常の日本米の炊き方の炊き干しによる飯です。白米より多くの水を入れて炊いてみました。右の写真のように美味く炊けたのでOKですね。

 湯取で炊いたのよりべちゃべちゃした感じですね。確かに玄米は炊きあがったあとの様子が白米とは違って、表面が濡れているような感じになりますね。ざっとかき混ぜて表面の水分を飛ばして炊き上がりというわけです。

 丼によそって・・・やはり、表面の水分が多いようです。水加減は悪くないはずですが・・・炊き上がるちょっと前に蓋を取ってちょっとかき混ぜてやれば良いのかな?蒸らしは要らないのか?とか考えてしまいます。食感は、湯取の方が私の好みですね。玄米・・・タイ米と日本米の違いより、その違いは大きいような気がします。普通のご飯の炊き方はもう少し工夫してみないといけないかな?なんって・・・食べてみて・・・こりゃタイ米と同じじゃんなんって・・・食感は似ていますね。ぽろぽろで、歯ごたえがありますから・・・私は安価な人間で、近頃の高級米とされる硬質米より、安価な柔らかい米が好きで・・・ただ、酢飯にするときは、湯取と炊き干しの合いの子のような湯立てで炊きますから・・・かなり堅く炊きあげたりもしますね・・・特に何が標準の食べ方というのが無くて・・・何にして食べるかの問題ですね。伝統とか流行なんかではなく・・・如何に安く美味しく頂くかですから・・・「安い」というのが命をつなぐ絶対条件ですから・・・実は、安いものは旬なんで美味いんでね・・・走りは不味い上に高い・・・

 さて香取志 31コマ 続きと行きましょう・・・

大御扉閉
四日の夜にある。現実の夜に開いた御扉を、今夜閉じ奉る。元旦の夜に璽社より正殿の内陣、内々陣の御鑰を出し、御扉を開き、今夜閉じ奉るので、大御扉閉という。この鑰に封をして、再び璽神社に納め奉る。この時御帰休という祭がある。


 4日の矢的神事の前に、大御扉しずめがあるのを忘れていました。さらにその前には山口祭・年葉祭之式があります。そして・・・矢的神事・・・
 4日の夜には本殿の扉を閉めて封印し、その鑰も封印して璽神社にしまうというというのが、大御扉閉(しずめ)です。これも、開始時刻は戌の上剋で、庭上に薦を敷いて坐を設けて燎を焚いて行うものです。祭禮奉行が祭祝に神饌の準備が整っているかを問うことから始まり、分飯司が大宮司邸に行き、突鎖の鑰箱を受け取って、大宮司の行列を先導して社頭にやって来て、昇殿して大床の坐につき、先に大床に着座している次郎神主とともに鑰を護持します。次に、大宮司・大禰宜以下惣神官が庭上の坐につきます。次に、大禰宜以下内院神主等が進んで大床の坐につき、分飯司が御扉を開き、この間、小長手大御斎を連呼、楽人が板を打つ、大禰宜以下内院神主が内陣にへ行って坐に着く、内々陣の案上に神饌を供し、大禰宜は庭上の坐につき、内院神主等は大床の坐にもどる。この間小長手大御斎を連呼、楽人が板を打つ、次に、庭上幣案に御穂垂餅を献ず。元日の夜の宮積奉幣と同じ。次に大禰宜以下内院神主が内陣に入り、元日の夜に上げた神饌類を撤す。庭上ではこれに続いて、御穂垂餅を撤す。大禰宜内々陣の御扉を閉じる。大禰宜内陣で幣を奉る。大禰宜以下大床の坐に戻る。分飯司が前へ出て御扉を閉じる。次に御鑰に封をする。大小の御鑰を合せ大禰宜封紙を出し、分飯司が封緘する。大禰宜が庭上の坐に復す。・・・直会がちょっとあって・・・この後に、大禰宜・四郎神主・堀口神主・検杖4員、匝瑳神社社前に出向いて、予め準備された燎の明かりの入った、案を前にした坐に着く、四郎神主が前に出て案上に穂垂餅を供す、次に大禰宜が幣を奉る。次に餅を撤す。その後、大禰宜以下庭上の坐に復す。次に、大宮司・大禰宜以下一同退手、そのあと元三祭と同じように退下。ここで、大宮司・分飯司・次郎神主が天降神社に行き、御鑰を社殿に安置して列立して、順次進み出て再拝、そして退下、次に西代官が着座している璽神社社前に行き、準備された坐に着く、そして、御鑰を納める。次に神酒を供す。一同再拝拍手、神酒を撤す。そして直会、退下・・・これが御帰休めの神事という、雨天の祭は大宮司館の広間で行う。分飯司と次郎神主の二人は元旦の鶏鳴から四日夜まで拝殿に詰める。これを鑰の御番という。

 ふむ、分飯司と次郎神主が鑰の番で4日の連続勤務なんですね。なかなか大変・・・しかし、鑰は大宮司邸で管理ではないかと・・・そうなると、鑰の代わりに生きた人間が本殿の番をしているという事ですかね?決して鑰の番をしているわけでは無いわけですから・・・香取志では正月四日の山口祭または年葉神事と呼ばれる祭式が抜けています。これは何故ですかね?ちょっと気になります。毎年行われる神事ではないのか?気になるので、ちょっと維新前年中祭典式稿から引いてみましょう・・・

山口祭または年葉神事とも云う、六郎祝が主催する
辰の剋、大山祇神社社前に坐を設ける。一方、参籠所に衆参した副祝・六郎祝・木守判官・薦長神夫・三ノ神夫が、神饌の具否を問い、長部山に向かい、大山祇神社に参向し坐に着く。三ノ神夫が荷物を持つ。まず、神饌を供す、神饌は御酒・鏡餅一重、副祝が幣を奉る。次に三ノ神夫は斧を執って、年葉を伐る。次に副祝以下拍手、その後本宮へ向かい、拝殿の坐に着く。次に、木守判官が年葉を献ず。次に各々退手を拍ち、終わったら退下、それから六郎祝の宅へ行き、直会を行う。餅・吸い物で、神酒は三獻

 ああ、分かった、香取志に書かれていないのは境内での祭式が中心だからだ・・・大山祇神社はこの時代には長部山って、神宮の南東にあった丘陵にあって、この丘陵が削られて、現神徳館の璽神社のならびに移転してきた神社だからという事のようです。この大山祇神社の担当が、六郎祝という事になるのでしょうか?担当の六郎祝が大山祇神社の準備の手配をし、祭の執行者の副祝・六郎祝・木守判官・薦長神夫・三ノ神夫は朝8時ごろには本社の参籠所で神饌の手配を行い三ノ神夫が担いで出発・・・道順は多分・・・神徳館前を過ぎ左の道を下り、長部山の大山祇神社へかな?これが最短でしょうから・・・そこで、年葉が伐られる・・・常盤木を伐る・・・神前に奉ずる榊を取り始める儀式ですかね?山口祭っていうと、造替に使う用材の切り出しを行うのに先立って行われる祭のような感じです。従って、山口祭と言うけれども、年葉神事という言い方の方が適しているような気がしますが・・・これが山口祭で、造替の際の物は臨時の山口祭なのかも知れませんがね・・・右のような図で山口祭は香取年中行事絵巻で示されています。ところで、この年葉は何に使うのやら?目的があって採りに行っているような気がしますが・・・この年葉神事と他の神事との関連がありそうな気がしたので引いてみたんですが・・・香取宮年中祭典記では年葉の小枝を、大宮司家に宿衛惣使が、大禰宜家に薦長神夫が、宮之助・権禰宜・物申祝・大祝へ三ノ神夫が届けるとしていますね。この六家は何かね?両社務と国行事・副祝を除く六官ですね。ふむ、国行事は職掌が違う、副祝は大祝の補佐だから無しなのかね?そして、直接本社とは関係ない行事であるという事ですかね?神宮の行事というより、この六家に対する儀礼なのでしょう。

 なんだか、各神職の役割が・・・かなり複雑、私のひ弱な笊のように漏る頭脳では覚えきれなくなっています・・・要領良くやるなら、整理しながらやらないと分からなくなる・・・あとで必要になりそうな・・・まあ、良いか・・・カード型の職掌リストでも作る必要があるような気がしますが・・・遊びだからよいか・・・香取神宮関連文書に目を通したら、本気のデータベースでも構築しますかね。まずは、文献資料と神宮の全体像をつかんでから・・・面倒な事は後回しですね。どうせ、いま構築し始めても、正規化の作業に手間取るのが見えていますから・・・予定として考えておきましょう。

 そして、戌の剋になると大御扉閉が行われます。大御扉を閉めてからの神事が御帰休みということで・・・大宮司・分飯司・次郎神主が天降神社に行き、御鑰を社殿に安置して列立して、順次進み出て再拝、そして退下、次に西代官が着座している璽神社社前に行き、準備された坐に着く、そして、御鑰を納める。次に神酒を供す。一同再拝拍手、神酒を撤す。そして直会、退下・・・鑰も直ぐには大宮司邸の璽神社に戻れないようです。天降神社か・・・あまくだりじんじゃ・・・現在は単独の社殿は持たず市神社に合祀されています。元の所在は・・・香取志では降下社として、神宮の艮の方30間ばかりの所にある。伊岐志邇保命を祭っている。山城国造の祖、皇孫尊降臨供奉の32人の神の一人である。旧事紀にある。或は瓊々杵尊が祭られているともいう。また鑰守の神であるとも。毎年五箇度の御扉開きの神事が終わって御扉を閉めるごとに、大宮司がこの社を祭っている。これが鑰守の神を祭るという理由である。正殿の御鑰は大宮司の司掌であるからである。この神を祭った後で、御鑰を璽社内陣に納め奉るのを例としているってやつですね。

 本殿から一度桜の馬場の方へ行くのかね?鹿島新宮の裏手にあるように、元禄の造替以降の図では示されています。場所的には・・・境内の一段高くなっている内側に描かれていますから・・・どこだ?

 明治の改修以降の図にも天降神社があります。諏訪神社と並んであります。どうやら、現在の社務所の裏手の道で、現在は廃道になっている道の両側に天降神社と諏訪神社があるような感じですね。という事は・・・かつての斥候杉のあった所の少し北側か?

 分からん・・・現在の地図と昭和13年の香取神宮志に掲載されている地図を重ね合わせて位置の推定を行うと・・・本殿、宝庫・楼門などの位置関係などは一致・・・斥候杉の位置は確定・・・香取文庫裏の道沿い・・・明治時代の図には斥候杉は既に倒れているので記載はないようで・・・江戸時代の図には、樹木への関心が無かったのか記載なし・・・ふむ、香取文庫と社務所の間の木造瓦葺の建物が現在の地図には入っていない?この木造の建物と香取文庫の間に渡り廊下がある・・・

 右の写真のような感じですね。

 この木造の建物は何なのか、ちょっと気になります。軒が・・・かなり張り出しているからそんな気がするのか?とにかく、右の写真の瓦葺の木造家屋は現在の地図には存在しないが、位置は合っていますね。すると、上の図で、この木造家屋の東にある四角で示された建物が気になります・・・明治時代の絵図の天降神社の位置にほぼ相当するような気がします。でも、なんとなく斥候杉の位置が・・・?いや・・・道の曲がっている場所が違うのか?・・・・この地図の道の付き方は違ってるよな・・・私のいい加減な記憶では・・・香取文庫は道の曲がりの先の左にあるんです・・・私の頭が・・・信頼できない・・・ん?国土地理院の地図ではこの道は点線で示されているから・・・実測ではないようですね。

 ち!基盤地図情報の最新の情報から地図を作成して、その上に昭和13年の本に掲載されている地図をかぶせてみました・・・私の、最新の記憶と一致・・・大昔の記憶とも一致しました・・・木母杉の位置も一致する市六所神社の位置もOKのようですから・・・昭和13年の地図はかなりの精度のようです。社務所から東に増築された部分の扱いで地図に誤差が生じている事になりますかね。現在の道の曲がりは、斥候杉の南の道の折れの部分からおよそ緑の線のように付いているようです。これで記憶と一致です!ただ、記憶と一致するからと言って、記憶が正しい保証はないし・・・でも・・・もしかしたらこの点線の道は大昔の道かね?神徳館の裏の道のつながりと、この点線の道が繋がりそうな気がして・・・紀元2600年記念事業で道の付け替えが行われる前の様子か?さらにその後で、現社務所の増築の際に道が付け替えられた?確かに、この点線の道は現在のとは違います・・・このコースなら大宮司邸の璽神社へ斥候杉のあたりからスムーズに行くことができますね・・・問題は高低差・・・香取大神宮参詣略記の図は右のようなものです。赤丸が斥候杉黄色の丸が天降神社です。天降神社は境内側の一段高い所で諏訪神社は低い側のはずですから・・・弓道場のあたりはそれほど変化はないのでしょうが・・・多分、古い地図を現状に合わせて作った地図なのかね?どうも、斥候杉は神宮境内と北の内の境界の木のような感じです。

 多分、斥候杉は香取文庫の建物の東側にあった事になりますね。この道の西側の段になって高くなった部分に天降神社があった事になるようです。

 そうなると、天降神社は・・・例の高御坐ということになるのかね?香取文庫の建物の裏手、斥候杉のあったあたりに塚のように高くなった場所がありますね。もしかしたら?・・・妄想的解釈では、天降神社は經津主が降り立った場所と考えればよいのか?それで・・・香取神宮の管理権の象徴である鑰を一度この天降神社に供えて祭ったあとで、現在の管理者の大宮司の所管する璽神社に遷すという儀式を行っているとか?従って・・・本殿を出発した鑰は、先ず本来の鑰の管理者である香取神宮の創建者の降り立った地へ帰り、そして、現在の管理者である大宮司の許で休むという意味での、御帰休み神事ということになるか・・・美しい言葉の連鎖遊び・・・美しい妄想であるが、根拠がなければ妄想のままになってしまう・・・読み進めば何か出てくるかもしれませんがね・・・残念ながら、この手のものは伝承に頼るしかないから・・・証明は困難です。しかし、この区画はなんとなく気になる場所なんでね。

 そうそう、穂垂餅・・・右の図のようなものです長さが尺2寸、幅は6寸6・7分、厚さ5・6分・・・結構大きな餅ですね。

 ああ、やはり職掌がある程度分からないと読み解けない部分が出てきますね・・・東代官は、どうやら大禰宜の代官で分飯司である事が分かりますが、西代官は何だろう?とかあるわけです。先ほど近代デジタルライブラリー - 香取神宮志 これを眺めていて、確かこれに結構きちんとまとめられていたんだっけって、職制を眺めていたんです・・・ちょっと書き出しておきますかね。まだ、祭祀が続きますから・・・頭の中を整理しておかないと・・・

両社務は、大宮司・大禰宜で、神宮一切の庶務および神領一般の政治を主宰する・・・ふむOK最高責任者ですね。共同統治体制?ここまでの祭祀を見ると、大宮司の動きはほとんどなく、居ることが重要な感じです。大禰宜は内々陣に入って、そこでの祭祀を行うようですね。

六官、番頭(ばんがしら)宮之助・権禰宜・物申祝・国行事・大祝・副祝(そえのいわい)これが六官で、両社務欠勤の時は代勤する。この6人に行事禰宜・録司代の2人を加えて番頭という、神宮宿衛の番頭で、社殿修理・臨時の社務等の議事に参与する・・・ふむ、
一番・・・大宮司・大神主・総検校・文三郎祝・塙祝・吉原検杖・禰宜祝
二番・・・大禰宜・四郎神主・田所・六郎祝・修理検校
二番・・・宮介・次郎神主・高倉目代・角案主・秀野長
四番・・・権禰宜・六郎神主・権判官代・酒司・土器判官代
五番・・・物申祝・中平(幣?)神主・田冷判官代・権検校・銀冶屋検校・擬祝・油井検杖
六番・・・国行事・堀口神主・中祝・三郎祝・正検非違使・大細工
七番・・・副祝・小井土神主・権介・権祝・佐原禰宜
八番・・・大祝・大長手・正判官代・五郎祝・源太祝・木守判官代
九番・・・録司代・小長手・権検非違使・佐原案主・分飯司・権次郎祝
十番・・・行事禰宜・幣所祝・雉判官代・鳥検杖・神子別当
 了解・・・でも、どんな勤務体系か不明・・・夕方から夕方までは確認しましたっけ・・・酉の剋が交替時刻ですね。

奉行 総検校・権之介・行事禰宜録司代・田所・案主(あんじ)・高倉目代・正検非違使・権検非違使・分飯司(ぶんがいじ)の10人が奉行で録司代と行事禰宜が番頭に入っている・・・奉行は、大小祭祀の事務を分掌する。

内院神主 大神主(おほごう)・四郎神主・次郎神主・六郎神主・小井戸神主・中幣神主・堀口神主・大長手の8人を内院神主といい、内院供饌などの事を勤仕する、・・・神主って書いて「ごう」と読むのだそうだ・・・知らなかった・・・

庭上神官 押領使・六郎祝・禰宜祝・三郎祝・塙祝・権祝・源太祝・五郎祝・酒司(さかん)・側高祝・返田祝・鍛冶検杖・権次郎祝・吉原検杖・土器判官・佐原禰宜・秀屋長(ひでやおさ)、神子別当の27人が庭上神官という。外陣一切の祭式に奉仕する。・・・ふむ・・・祝部っぽいですね。祝部は神戸のなかから国司が選んで、太政官に上申すると太政官から任命されるというものでしたね・・・神主・禰宜・祝の三職で構成される神社の場合は、禰宜・祝は国司の推薦で太政官から任命され、神主は・・・国司の支配ではないようです。神戸っぽいのは、地名を冠しているものですかね。近代デジタルライブラリー - 神道史 49コマ 神祇官と祝部 ・・・大宮司の任免権は・・・元禄の造替で幕府との交渉のなかで、大宮司が余計な事をして罷免されますね、寺社奉行の管轄となると、寺社奉行って律令の何と言う役所を引き継いでいる?神祇官?治部省玄蕃寮?・・・室町時代には寺奉行と社家奉行が寺と神社を管掌か・・・それより前は・・・?大宮司職は何かね?・・・香取神宮では大宮司は内院には無関係な感じ・・・近代デジタルライブラリー - 皇大神宮史 215コマ 祭主、宮司、禰宜、内人、物忌等の職掌 ふむ、興味深い・・・なんだか、この本の内容はずいぶんと先駆的な研究じゃないかな?同時代の似たような本を読んでないけど・・・

 香取神宮の職名は伊勢神宮と同じようなものでしょう・・・ちょっと伊勢神宮の体制と比較してみると・・・伊勢神宮は、祭主・宮司・禰宜の体制で、祭主に祭祀権があり、国司郡司の制によって宮司は神領政務の役割が・・・祭主は神宮の総監であるから政治にも手を出すし、神祇伯を兼ねていた・・・なるほど、祭主は神祇官に転出・・・国造相当?で、名目的な伊勢神宮の総監?そして神郡支配は宮司で国造相当、祭祀は禰宜が・・・やがて、祭主は国家機関へ、宮司は国衙の支配権を失って・・・宮司は名目的なものへと・・・もともと、神宮内の祭事、殿舎、末社は宮司の支配下知にはならず、祭主・宮司は正殿の階上に登ることはできない・・・階上へは禰宜だけ・・・

 ふむ・・・神祇官は律令以前に存在していたみたいですから・・・香取神宮の官職名は伊勢神宮のものに対応していると考えても良さそうな?という妄想的前提で・・・香取神宮では大宮司・大禰宜があって、大禰宜は内々陣へ進めるが、大宮司は大床へも上がらない・・・大宮司は基本的に祭祀に顔を出すが一般の参列者に見える。大禰宜の率いる内院神主が神宮に奉仕する。庭上神官は外交ですかね?そうなると、大宮司職が伊勢神宮の祭主?祭主+宮司・・・いや違うな・・・それでは神祇官の下に神社を組み込めない・・・参考になるのは、僧侶の管理が同じパターンと妄想すればOKかな?・・・律令では、太政官の下の治部省の玄蕃寮が僧侶を管理していますね。僧侶たる身分は国家の認証によって度牒が発行されます。後に日本にも戒壇が置かれ、戒牒になるはずでしたが・・・度牒も存続・・・戎牒は僧綱が治部省の玄蕃寮に送り、認証があって・・・確認の後に太政官で押印 C0098890 円珍戒牒 - 東京国立博物館 画像検索 国宝の円珍の戎牒・・・神祇官でも同じタイプの認証作業をやっていたのでは?そうすると・・・香取神領の執政権は国造に相当する者・・・でも・・・国造は名目的には經津主で現世である「うつしよ」には不在で神を祭るものが・・・大禰宜以下の内院神主ということになる・・・でも、經津主の代理人である大禰宜は執政権も握っている・・・さあ、これを監視して支配するには?大宮司を派遣かね?經津主から連なる系図を持たせて・・・大宮司家を名乗らせて・・・大禰宜家に婿養子でもいいや・・・何と乱暴な考え・・・でも、妄想としてはOKでしょう・・・神罰が怖いが・・・とにかく、中央政府との繋がりは神祇官につながる大宮司が交渉役で、奉幣などの手配もこのルートにすれば美しい妄想になりそうです。事によると、この手法は出雲系の連中が始めて、神祇伯=伊勢の祭主へ引き継がれたのでは?神祇伯みたいなのが結構古くからありそうですから・・・ついでに妄想・・・大宮司を西、大禰宜を東とするのは、大宮司家が經津主の系譜を西の地で引いたものだから、そして大禰宜家が東の地で引いたものであることを象徴的に示しているとか?・・・こういった妄想は、古文書の一文で砕かれるから危ないんだよね。でも、妄想だからOK・・・神祇官は・・・人身に関する決裁はできないのだろうから・・・神領支配関連の人事は・・・太政官の公印で決裁かね?そうなると、神祇官は治部省と同じことをしている?下手をすると玄蕃寮と変わらないのか?

 政府公認の經津主の系図を持つ西から来た男が名目の大宮司の肩書で最新の支配システムのコンサルタントとしてやってくる・・・在地権力者の香取神宮を氏神とする氏の長者がこの系図を欲したら?この系図にわが氏族を連ねたいと思ったら?西から来た男がやってくると共に、香取連の姓をもたらし・・・遠い昔に分かれた血縁のものである・・・香取連の称号を共有・・・平安時代の終焉までに両家は独自性を主張しつつ・・・しかし、平安時代の終焉とともに、本来の領主権を有する東の大禰宜家に西は包摂されて行くことになるとか?

 実は・・・こんな事を考えたきっかけは・・・俺俺詐欺(的な領地乗っ取りのビジネスモデル)・・・大和朝廷公認の系図と身分証明書、そして鏡や玉、中華帝国製の最上級の絹織物を携えて来た香取連の称号を持つ男、最新の領地支配システムとそれに熟知した者達・・・最新の土器製造の技術を持つ者が来るし、本当にバックに非常な富が控えている・・・毎年、この男を通じて中央の富が入ってくる・・・実権のない婿養子だ!婿養子になって、在地領主たちより上手なら・・・国造体制へ、在地領主が優秀なら神領として独立を保てる・・・大和朝廷の領地奪取詐欺・・・それなりに価値のあるものが手に入るので詐欺とは言えませんが・・・可能性としては面白い・・・千数百年の時が経て・・・上知令、おとなしく従ったら・・・朱印状は来ずに神領を明治政府に召し上げられてしまう・・・西の祭祀に関わる御竈社や大宮司邸は消え・・・門と璽神社を残すのみ・・・

 こんな風に積み上げると・・・きっと伝承があるはずなんってね・・・妄想は面白い・・・国造体制と律令制の枠から外れる神領というものを理解する方法としては良さそうな気がしますが・・・律令の規定に神祇官が先頭に来ているものの、実質的には太政官につながるシステムのような気がしますね。太政官による伊勢神宮支配のための組織?まさか・・・伊勢神宮が宮中から分離したのは・・・クーデターの温床だったとか?考えすぎだね・・・

 さて、大宮司が導入されたとすると、大宮司がもたらしたものは?多分2つは確定・・・1つは土器判官が持ちこんだ最新の土器の技術では?須恵器の生産技術、轆轤の導入とか、須恵器の生産って香取あたりではどこかね?ちょっと気になります・・・コジヤ遺跡?福田地区?・・・県道44号線?と東総有料道路交差するあたりから陶製瓦当笵が出土・・・福田地区での須恵器生産は7世紀前半ごろか・・・油田あたりに大宮司邸があったのはいつの時代かね?勅使の宿舎として使われたとか?近代デジタルライブラリー - 香取郡誌 284コマ 大禰宜宅址・・・大禰宜家の旧領をチェックしてみるかな?不動産関連の文書は現代のものだって面倒だから・・・土地宝典が必要だよ・・・土器の他には・・・多分、亀卜の技だね。多分、亀卜の詳細は口伝なんでしょう。律令では卜占の技を示した本は禁書ですから・・・だから、口伝が途絶えた・・・形だけの儀式になる前は・・・亀卜の結果をXX十號也!と断定で言っていた・・・形骸になっても西の大宮司側は形を守ったが、形骸を取り入れた東の大禰宜側は・・・XX十合哉!と詠嘆で言うことにしたとか・・・そして、矢的神事は何なのか?

 なんだか、妄想が過ぎるような感じです。でも・・・なんとなく論理の積み重ねの結果のような・・・妄想って面白いものです。古代史の史料は少ないので、香取神宮の儀式はその宝庫なのかもしれません・・・しかし、御竈社の位置はどこなんだろう?「いかづち」って小字は、弓道場の安土の先あたりのようだし・・・窪地の部分か?・・・代山は御城山と考えると、弓道場の場所だし?・・・あれ?神職のチェックを続けなきゃ・・・神職の数が微妙に変化しているような?司召の名簿で補ってみますかね。この香取神宮志に記載のあるものは色をつけておきましょう。

膳部所 角案主(すみのあんじ)・雉子判官・田令判官(たながしはんぐわん)・権判官・正判官・・・木守判官は?

神楽人 兵衛大夫・孫大夫・三郎大夫・四郎大夫・近藤駄雄・民部大夫・笛大夫・・・・神子別当?

女職 物忌八乙女・大命婦・天道命婦・十郎命婦・松山命婦・坂中命婦・和田命婦・堀川命婦・鏡命婦・・・物忌・八乙女と命婦8人と記載されているから・・・神子別当ってのはから神楽人?どっち?・・・元文3年9月に労働争議がありますね、神子別当は国行事が兼務だとか、国行事が独身の時に兼務がきつくて、油井検杖に神子別当職の当番の代わりをやらせていて10年にもなったら、それがサボり始めて・・・大岡越前の裁きですね。労働争議ですが、役職に伴う屋敷や畑などがからんでなかなか厄介・・・神子別当は女官でないことが分かりましたから取りあえずOKか・・・江戸時代の労働争議も興味深い・・・

神夫 薦長神夫・新藤神夫・一ノ神夫・二ノ神夫・宿直惣使・定使・・・10人とある?

御読経所 別当・定額代・又見・圓壽院・神主供僧・讀師・・・この記載は無し。

分からん!司召の人員を香取神宮志の分類に割り振ると神楽人・女職が不明?司召しでは大床ならびに神子座なんですが・・・大床は内院がらみなんでしょうが・・・神子座って?芸能関連の職掌で神楽人のような感じもしますが・・・神楽奏者?・・・そして、もうひとつ分からないことが・・・天正・慶長の間、田所・分飯司・玄蕃(後に西光司という)の三人が専ら神領の庶務に参与し、神領水帳に署名せり、爾後西光司は大宮司の代官として、分飯司は大禰宜の代官として天保の末まで代々神領の庶務に参与せり。さあ西代官が、西光司である事は分かったが、玄蕃;後の西光司は?

 本殿内陣に入ることができるのは、大禰宜・内院神主・大禰宜の代官の分飯司か・・・そのうち、香取神宮の祠職の職掌も見えてくるでしょう・・・ここらで一旦切るとしましょう。

2014.03.24

  

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