香取神宮をうろうろ(117)
 香取志 (51) 神事に関して、二日夜祭祀・・・

 さて、何か面白い事は無いかと毎日考えていますが・・・無いものですね。結局、食べ物ぐらいしか面白いものがないような感じです。相変わらず映画を流していますが、それほどワクワクするものも無いし・・・所詮は作り物であるわけですから。食べ物は、その実在性は素晴らしいものです。玄米を買い込んできましたから、この玄米を使って食べ方について、美味しい実験をしようというわけです。

 先ずは、原始的な食べ方・・・香取神宮の神饌にも使われる煎花です。玄米を煎っただけのものです。まあ、煎り方が悪いのか、綺麗な花はなかなか開いてくれませんでした・・・火加減かね?香ばしくて美味しいものです。玄米茶を久々に飲みたくなりましたが・・・これをポリポリしているのではあまり芸が無いですね。

 これでおかゆを作るとどうなるか?と気になって・・・この玄米を煎ったものは水をはじきますね、これは玄米茶で分かっています、どの程度水を吸収するかも、急須の中の変化で分かっています。とりあえず、薄い塩味でおかゆとしてみましょう。豆も米も煎ってから調理すると速く食えますから・・・種皮がややゴワゴワしますが、香ばしくて美味しいものです・・・ネットリ感は無いですが、さらりとした粥ができますね。米の粉でも少し入れてネットリ感を出すのも良いかな?牛乳の粥も良いかも・・・そのうちこのバリエーションでも考えることにしましょう。

 さて香取志 30コマ 続けるとしましょう。

二日夜祭祀
神饌幣帛山海の魚鳥を俸奉り、大宮司、大禰宜、惣神官残らず出る大祭礼である。


ふむ・・・これでは分からんではないか・・・仕方ないな、維新前年中祭典式稿を拾ってみますか・・・

大宮司・大禰宜ならびに神官各自参拝、元日と同じ
神官は各々、大宮司・大禰宜両邸へ年賀へ出るなど、元日と同じ
早朝、田所・両代官元三祭祝宅で、同夜の神饌物を調製する。このとき、田所・両代官祭祝宅に行って、雁・鯉及び、須伊利など神饌品を点検して切盛をつくり、終わると饗膳が出る。大禰宜代官役帳には、二日の朝元三祭当切盛、両代官・田所行生板の上へ須伊利三枚載せ、神酒を献じ、三人の内にて祝詞、神酒の下配は三ッ為出、三人に而頂戴、従夫須伊里改め結方数は三人相談の上結、食事あり、須伊里数八拾四盃。
宮之助より机米納、枡(三升三合入)にて三升ずつ、大宮司・大禰宜両家へ出す。両代官へ神酒一瓶ずつ出す。
同夜神事・・・


 ふむ、同夜の神事の前に色々と準備があるわけですね。神事の準備は、元三祭祝宅で行われ、それを閲するのが田所・両代官となるわけですね。両代官は多分、大宮司・大禰宜なんでしょう・・・表記が不安定な須伊利・須伊里・須衣利か?祭器ならびに神饌名目考では須衣利スエリとしていますね。干し魚のことで、鯖や鯵などを干したもののようです。右のように結う作業の話なんでしょう。

 そして、宮之助から祭祀用の米が納入されます。ここで出てくる枡は、例の金丸枡の大きな方で3杯分という事のようです。金丸舛の二升三合入りと三升三合入りの大という事は・・・借りた米を返す方のような勘定かね?そうなると・・・神宮が下さる物は金丸枡の小で計られ、神宮へ上げるものは神宮に対する恩義や御礼の意味で金丸枡の大で捧げるという風に考えても良さそうな気がしますね。小さい方の金丸枡の図が出てきました。左のような物のようです。この焼印が気になりますが・・・

 しかし、気になるのは香取神宮の神事が基本的に夜だという事なんです・・・なぜ?香取の神々は夜に活動する神?・・・ただ、多くの古い祭祀が夜の祭祀のよな気がして・・・なぜなのか?気になるわけです。月が無い時の夜の祭祀って・・・夜道を帰るのは大変だと思うのですが・・・祭礼とは別に、人間は家まで帰るとか・・・そういったものがありますからね。従って、大禰宜とかどこに住んでいるか?それが気になるわけです・・・ある時期、大禰宜邸は油田の方にあったはずですから、三度も呼びに行くと・・・どうなるんだ?なんってね。時間ですって、定刻の1時間前に出発しておよそ4kmを出かけ・・・5分差ぐらいで3人が出発か?余計な事ばかり考えていますが・・・もういいかい?まだだよ、もういいかい?まだだよ、もういいかい?まだだよ・・・門前で・・・かね?

 儀式というのも、その関連する空間って厄介なものです・・・かくれんぼは夜にはやらないが・・・さて・・・昼間はこんな感じですね。いよいよ夜の様子へと・・・

庭上に案を置き、薦を敷いて燎を置く
当夜は元三祭当受け持ちの祭典である。剋限前、祭祝人夫を率い、神供の箪笥を荷舁せ、、社等に参し、諸般を準備する。これを祭当の荷舁という。薦長神夫が席を設け、人夫は薦を敷いて、燎を焚く。
戌の剋、祭禮奉行祭祝に祭儀の具否を問う。
次に大宮司・大禰宜以下惣神官庭上の坐に着く。
次に、雁・鯉・須伊里などを献す。雁と鯉は真菜板に置き、真菜箸・包丁を添えて、須伊里は長机に置き庭上の中央に荷用人が舁据える。
次に、幣案上に神酒・御鱠・御肴大根等を供す。このとき、御酒は酒司御前樽より組、荷用人銚子提子で持ち出し、大神主これを土器に盛って七献を供す。御鱠・御肴大根は膳部所で調裁し、荷用人がこれを役送して、大神主がこれを供する。
次に奉幣。大宮司・大禰宜以下18員これを執る。元三祭奉幣の儀と同じである。以下皆同じ。
次に、神饌を撤す。
次に直会、差あり。神酒直会七献、その儀元三祭式と同じようなものである。

・・・神饌をそれぞれに分けて・・・
撤したる鯉と雁は調栽し、兼て宿営所の爐に鍋を置き、湯を煮立、塩を入れてこれを煮るなり。これは祭当方にて調理し、煮上けたるを、土器判官に渡す。土器判官職勤庁に云う。正月二日御祭礼、土器450枚余、祭当勤、荷用人出す。配物、御盃5献・御鱠・雁・鯉・子合・羽節、但し子合羽節は図のように並べ十八奉行へ配る。御肴大根、十八奉行へ拍手所にて組む。
次に退手、終わって退下。この時祭禮奉行荷用人に直会の引合るや否やを問ひ、而して一同へ退下すへきよしを申すなど、すべて元三祭の儀のごとし。


会場は、拝殿前の庭上で行われます。調製済みの神饌類は岡持の大型の左の図のような御箪笥で運ばれて来るようです。雁・鯉は真菜板に置いて真菜箸と包丁を添えておくのですから・・・どこかで包丁を入れるのでしょうが、それが抜けていますね。下ごしらえはしたあるような感じですが・・・神前に供える時は包丁は使わないのかね?

 開始時刻は戌の剋ですから・・・夜の長い時期だから19時頃かね?そして、この後に、又見神社神事が亥の剋だから・・・9時過ぎぐらいからですかね?2つの行事をこなすか・・・すると、この行事は亥の剋前に終了ですね。1時間半から2時間程度終わったら、又見神社まで移動・・・この際は提灯とか、松明とかの先導があるのか?ちょっと気になります。総勢100名程度が動くのか?こういった行列に興味ありますね。

 式次第からすると、大禰宜邸は神宮の近くが想定されています。油田に大禰宜邸があった時の様子が気になります。祭に使う神饌の閲も行うのでしょうから、午前中から神宮の近くに来ていて、どこかに詰めている事になるのでしょうか?それから、この祭祀の神饌の材料の出所が気になりますね・・・祭当の持ち出し?祭祀料の机米として宮之助がおよそ2斗の米と酒2瓶を出していますが・・・なんだか分け前の部分がかなり複雑な感じがしますね。こりゃ、祭祀毎のリストでも作らないと、私の頭では覚えきれない・・・そして、末社担当もあるようですから・・・何かが見えてくるかもしれませんが・・・そこまでの気合は入るか・・・

 さて、分けた後の雁と鯉は宿営所の爐で調理されるようです。塩だけか・・・そして土器判官経由で直会に出されるとか?味噌仕立てにしないのかね?七味などを振って・・・この神饌が定められた時代の調味料は・・・塩・酒・味醂・酢などがメインなんですかね?まあ、塩蔵品が古くからありますから、塩漬けでべたべたになってしまったようなものは、どれも味噌系の調味料に化けそうな気がしますが・・・干物・燻製などがメイン、そして鱠の類ですね。子合・羽節は・・・羽節はどうやら雁の羽の肉を細かく叩いて羅匐=大根をおろしたものに和えたもののようです。子合は鯉の胎子(卵?)と大根おろしを和えたものようです。どうやら酢で合えるのではないようです。あれ?塩と酢を少々という記述も見えますね・・・土器判官が関係あるものは、比較的新しいものではないかと・・・従って、この鯉や雁を煮たものというのが、土器判官が現れて土器が大量に使われるようになってからのものではないかと・・・そもそも、煮たものは神饌として上げてないか・・・撤下を調理してますね。多分、槲(=柏)の葉とか蓮の葉に盛れるようなものが旧儀のものであろうと推測するわけです。加熱調理されるものというのがちょっと気になりますね。

 ちょっと気になるのは、縄文時代、高温で調理したアツアツのものはどんな具合に食べていたのか?木の御椀とかいつ頃から使われていたのか?椀の形状を作りだすためには木工轆轤が必要ですね。もちろん、土器に関しても同じですね。手びねりの物は厚みがあって重くあまりぱっとしませんね。従って、古いものは皿のような浅い物になってしまうのでしょう。食器に関してもちょっと知識が必要な感じですね。ちょっと気になるのは、縄文土器で煮物はできるのか?そんな疑問もありますが・・・どうも、焼き締め方が甘いような気がしますから・・・妄想ですが・・・そして、神饌を眺めると、なんとなく煮物はずっと後の文化の物のような感じがして・・・縄文土器などはなんとなく、鼠除けの保存容器のような気がしてきます。干物とか焼き魚などを入れたのでは?なんってね。なんとなく、神饌は米以前のもの、米が入ってきてからのものに分けられて、煎花のような物は米が入ってきた初期の物、米を煮て湯取にするものがそれより後のものではないかと・・・どうも、縄文土器は煮ものではなく、精々蒸し焼きか燻製用の容器のような気がしてね。直火のいぶ臭さを避けるためのものではないかとか・・・余計な事ばかり考えてしまいます。まあ、私なら、先のとがった土器を半分土に埋めて、中に砂や砂利を入れて脇で火を焚いて砂や砂利に串した食べ物を突き刺すとかしたくなりますから・・・遠赤外線調理機として使えるかな?なんってね。まあ、釉薬のかかっていない焼物で油っぽいものを調理するのはなんとなく気が引ける・・・私の感覚ですが・・・古代の日本人は何を食べていたのか?気になるものです。とにかく、今日は玄米を煎ったものと、煎った玄米から作った粥を食べてみましたが・・・現代人の日常食にはもう一工夫しないと・・・なんとなく、シリアル系の食品を食べているみたいで・・・

 縄文時代の塩蔵品がやはり気になります。そう、製塩土器がね・・・多分、私の妄想では・・・香取海とか、霞ヶ浦沿岸は製塩が盛んであったのではないかと思うわけです。根拠は余りなく、単に鹿島の半島部で、製塩はかなり昔から行われていたが、室町時代に製塩が太平洋岸に移っています。霞ヶ浦側の本村から、鹿島灘の分村が・・・やがて、村としての体裁を整えて行きますがね・・・多分、室町時代に霞ケ浦の塩分濃度が下がって効率的な塩作りができなくなったのではないかと・・・勝手に妄想していますけどね・・・塩があれば塩蔵品がね・・・香取神宮の神饌の塩蔵品は鮫と鮭のようですね。そして、塩をして燻製にする筋子とか・・・雁は飼育してたんですかね?ちょっと気になります。鮭や鮫はちょっと飼えませんから塩蔵品なのでしょう。シーズンのもの、そうでないもの・・・貯蔵のための技術など・・・神饌には色々な工夫があるような感じですね。鮫は近くで獲れたのか?とかも・・・鮫の肉の塩干しは食べたことが無いので、ちょっと食べたい気がするのです・・・楽天で鮫肉をチェックすると・・・なに?なんで犬用?人間様用は無いのか・・・仕方ない・・・漁師に声を掛けておくかね・・・犬用の干物はあるようですから・・・それでも試しに良いかもしれないが・・・味見する時、わんわんと吠えながらなら・・・犬だからって味見も良いかも・・・フカヒレと鮫肉の価格差が気になりますね。タンパク質としては大差はないように思えるのですが?ちょっと不思議・・・そうか、塩か・・・香取神宮のあたりでは製塩土器は出てるのか?これですかね・・・

 製塩土器か・・・古代の製塩はどんな具合にやっていたのか?ちょっと気になります。藻塩焼・・・定説とは私は対立する立場にあるんです・・・藻に付いた塩を焼いたと、藻を焼いて塩を作ったなんってありえないと勝手に思うわけです。確かに海の藻は成長が早くて焼いても良いかもしれませんが、あまり美味しそうな感じの塩にならないような気がします。アルカリが強くなるから・・・なんとなくね。それから、海水を煮詰めるには大量の薪が必要になります。薪は貴重品だと思うんでね。江戸の町なんか、燃せる物には値がつくようで、古葛籠とか破れ葛籠などの木工の廃棄品でも、最終的には薪の価値で売買されていたようです。古畳なども焚き付けなどに利用されたとか・・・ただ、ネズミの小便とかしみついていると煙が・・・とか色々とあったようです。燃料を使わない製塩となると・・・現代のイオン交換膜でも使ったものですが・・・その前は枝条架式とか流下式製塩法が最終的には使われていました。これは濃い食塩水を作る方法で、食塩の飽和水溶液に近いものを作り出すためのもので、燃料の使用量を減らす事ができます。しかし・・・多分、もしかしたら古代人は飽和食塩水から始めたのではないかと妄想するわけです。食塩=塩化ナトリウムは20℃の水100gにおよそ26g溶けます。美味しくない成分の苦汁;にがりは塩化マグネシウムで135gほど溶けます・・・さて、塩化マグネシウムは圧倒的に良く水に溶けるので、海水をただ煮詰めて作った塩にはかなりの量の塩化マグネシウムが含まれ、潮解というやつを起こします・・・塩俵を雨のかからない所につるしておくと、空気中の水蒸気を塩化マグネシウムが吸って、溶けてやがて塩俵から滴り落ちて行きます。すると、塩俵の一番上には、にがりのほとんど無い塩化ナトリウムが残ります。この塩を利用していたようです。ただ、にがりの成分の塩化マグネシウムは溶解度が高い・・・大きな浸透圧を生み出せるので、漬物にする場合は塩の利きが良かったために、にがりの多い荒塩が使われ、製塩の度合いの高い焼塩は値段が高い上に、塩の利きが弱いので塩も使い分けられていたようです。

 さて、藻に着いた塩って、これは塩の結晶です。こいつを藻から取って集める・・・一応、海岸に打ち上げられた藻を手にとって手で揉むか手のひらに叩きつけると、手のひらに食塩の結晶が得られます。砂なども付いていたりしますけどね・・・つまり、海岸に打ち上げられた藻には塩の結晶がついている、これを効率よく回収するには・・・藻を飽和食塩水の中で揺する・・・これで塩の結晶が飽和食塩水の中に落ちる・・・藻は海水を掛けられ天日に干され再び、飽和食塩水の中でゆすられて食塩の結晶を落とす・・・これが最も効率が良いのではないかと・・・あとは容器の底に溜まった食塩の結晶をすくい出して、製塩土器に詰めて、焚火のまわりに置いておくと、塩の塊になって・・・円錐か円錐台の形の製品が完成したのではないかと・・・たぶん製塩土器は使い捨てでは無かったのではないかと・・・理屈からすると、この方法で作られる塩の純度は高いのではないかと・・・そして、にがりの成分の多い上澄みの部分は干物などを作るのに利用されたのではないかと・・・タンパク質の凝固作用とかあるはずですから・・・魚の干物などでは身を固め、水分が抜け過ぎないようにして柔らかくする作用があったのではないかと・・・実験した事が無いので分かりませんが・・・多分、上澄みは時々汲みだされて、魚の加工に使われ・・・くさや液などになって行ったのではないかと・・・このあたりは化学の知識による推測ですから、実地の検証はしていませんが可能性としては十分あると思いますね。ただ、作業手順からすると、大規模に行うのには手間の問題がありますから、大規模製塩になると廃れてしまう方法ではないかと思います。実験室的手法と大規模生産の手法とは違いますから・・・

 でも・・・なんとなく、伊勢神宮では製塩法が更新されていて古代の様子は、直接は伺う事はできませんが・・・三角錐の土器の型に荒塩を入れて焼き固めて堅塩を作っています。飽和水溶液中の食塩の結晶を笊か何かで取りだして水を切って、成形することを彷彿とさせます・・・多分、この荒塩を作る工程が更新されたのではないかと・・・塩や酒は利益を生み出す製品ですから効率が要求されます・・・最終的な製品化工程は古式のままではないかと思うわけで・・・製塩土器は、荒塩を製品単位に加工するのに使われたものだと妄想するわけです。なんとなく、伊勢では製塩が行われてなくて、荒塩を購入して加工していたとか?このあたりも気になるんです・・・

 堅塩は焼塩だね・・・焼塩はにがりの成分の塩化マグネシウムを熱すると、無水物にはならず、100℃をちょっと越えると、加水分解が起こって塩化水素を発生し始めます。そして、オキシ塩化物になり・・・最終的には水に溶けにくい酸化マグネシウムになる・・・はずで・・・こんな具合に、にがりの成分を変化させることで、塩化ナトリウムだけの味になるのでしょう。良く焼いた塩はさっぱりとして美味い・・・しかし、近頃は純粋な塩化ナトリウムの味は好まれない・・・不思議な世界・・・

 香取神宮のあたりの製塩はどうだったんだろう?多分・・・かなり盛んにやっていたのではないかと思います。理由は・・・香取神宮の山がかつては竹藪だったということからです。原始の森林は伐採され、芝も燃され・・・製塩による森林破壊の跡に竹藪ができていたのではないかと・・・なんとなく・・・戦後の鹿島神宮の森も結構盗伐があったようです・・・社務日記では、昭和21年1月、職員製炭作業に従事。山のモミの大木に上り、枝下し運搬。炭ガマを作り製炭す。この状態これより数年続く。食料を始め諸物資欠乏。境内外盗伐も頻々、特に高天原の松は製塩用に盗伐さる。とありますからね。塩は高価に取引されたのではないかと・・・国立国会図書館デジタルコレクション - 検索結果 文正草子 文正草子の塩焼きの話などは鹿島神宮が塩の製造販売をやって資金を作っていたのではないかと思わせる話に見えますが・・・達筆過ぎて読みにくいな・・・近代デジタルライブラリー - 御伽草子. 前 これが読みやすいや!

 とにかく、製塩に関してはずいぶんと考えられているはずなんです。たとえば・・・近代デジタルライブラリー - 業務概要. 水産部 昭和4〜8年度 52コマ 冷温を利用する製塩法に関する試験 これなんかも興味深い・・・近代デジタルライブラリー - 施福多先生文献聚影. [11] 94コマ 製塩法に就いて シーボルトが見た日比の塩田の様子ですね。外国語は読めん・・・気合を入れればドイツ語系なら推測できるが・・・よかった訳や解説が後についている・・・興味深いね。

 あれ?なんで塩の話になった?・・・塩蔵品か・・・そう、元旦には塩蔵品が出て、2日の夜の神事では塩蔵品は出ずに雁・鯉という飼育可能なものが出てくる・・・このあたりの差を気にしていて・・・塩が貴重品であろうという辺りへもって行こうとしたのが・・・ああ、ネズミの時と同じで、直ぐに逸れて行く・・・しかし、何故大根が毎回つくのか気になります。大根って・・・多分、弥生時代に日本に入ってきているみたいですから・・・ちょっと気になるのは、大根が蘿蔔と表記されているものがある・・・まあ、標準的な表記だったようですが・・・蘿蔔って言うと・・・なんとなく歓喜天の供物で現れる気がしてね・・・しかし、大根はどうやって食べてたのかね?

 延喜式に蘿蔔は・・・園韓神社祭の雑給料に50把がありますね。それから春日祭の雑給料に70把・・・それから、正月三節だから・・・宮中の正月行事の元旦の節会・7日の白馬節会・16日の踏歌節会で蘿蔔味噌漬瓜というやつがあるみたいですね。この味噌はどんな味噌だろう?あとは蘿蔔料ってのがあるが・・・そう言えば、鹿島郡にはゴサイ漬というものがありますね・・・大根とイワシやサンマを塩漬けしたもの・・・初めて食べたときは、生魚の漬物ですからかなり不思議な食べ物に感じましたっけ。こういった物もありなんだって・・・ただ、塩が高級品なら、塩漬ってそれなりの価値ある食べ方をしているのでは?やはり、大根おろし、煮大根、切干かね?そして、塩や酢で味付け・・・現在の醤油に近い物は多分1600年頃から現れたのではないかと・・・香取神宮で儀式の形が固まるのが、国家が奉幣で関与する時期ではないかと勝手に妄想してしまいますから、味噌は多分、平安末ではないかと・・・従って、日本を代表する調味料の出現する前の食文化を伝えていると妄想しているわけなんです。どうも、食いものだと気合が入る・・・困ったものだ。さて、玄米の食い方でも考えますかね?なんだか急に浜納豆が食べたくなった・・・塩豆でも良いし・・・山芋のムカゴを茹でて塩したのでも・・・醤油や味噌は茹でた豆に塩でも振って鼠除けの壺に入れて忘れられて、再発見されて見出されたのかね?技術的な飛躍ってのは結構こういったものがありますからね。忘却の果ての再発見は理屈じゃないから・・・

 戦前の料理の本などを眺めても、なんだか日本の料理というのは、素材を大切にするというより、素材に近い所で如何に食べるか?それに主眼があるような感じです。明治になって海外の料理法が紹介されて豊かな食生活というのを気にするようないなったような?それまでは餅と白い飯と魚・鳥の塩茹、酒の飲めるなんってのが至高の食生活というような感じ・・・塩茹を、味噌・酢・醤油・大根おろし程度のたれで食す・・・ああ満足って感じですからね。長時間の煮込み料理は無いような感じ・・・漬物類は色々とあるようですが・・・どうも乳酸発酵系のものが多いような?・・・

 そう言えば、「和食」ってユネスコの無形文化遺産に登録されたとか・・・特徴は、多様で新鮮な食材と素材の味わいを活用、バランスが良く健康的な食生活=一汁三菜を基本とし、動物性油脂の少ない食生活を実現、自然の美しさの表現=季節にあった調度品や器の利用による季節感の演出・・・こんな感じかね?そして・・・正月を始めとして、年中行事と密接に関わった食事の時間を共にすることで、家族や地域の絆を強化・・・「自然の尊重」という日本人の精神を体現した食に関する「社会的慣習」として提案。

 ふ〜ん・・・日本食ってものをこんな風に理解できるんだ・・・南北に長い国土なので、地域の産物は多岐にわたる事を巧く書くと多様で新鮮な食材と素材の味わいを活用となるんだ・・・食べるものが無いから、手近なものを色々と集めて、その季節でしか食べていない、塩が貴重だった時代には乾物系の保存か、乳酸発酵に依存するし、そもそも余るほどの産物が無いのでその日暮らしに近い食生活になっていた・・・そのため、一汁三菜でも豊かな食生活と言わざるを得なかった・・・ある意味、一汁三菜が限界であり理想・・・今でこそ白い飯を食えるが、白い飯など日本人の主食であった事はなかったと思うが・・・汁物は味噌だけの汁物だし、惣菜はそこらの菜っ葉、漬物なんって塩の流通以前は貴重品、塩の量産は多分江戸中期でしょう・・・平安時代は塩生産設備を持てば長者になれますから・・・動物性油脂か・・・香取神宮の祭祀ですら祠員100名ほどで、鴨は2羽ですから・・・これを分け合う・・・弓矢で獲るのは結構大変だと思いますね。そもそも矢が高価ですから・・・回収できないような場所に射込むことは無いだろうし・・・網を使うなんって大資本がバックになければできない・・・そして、腹いっぱい理想の一汁三菜の食生活などは・・・正月などの、節目の時にしかお目にかかれない・・・酒などはそう言った時でなければ現れない・・・食器は高価で、そこいらの葉っぱとかに乗せて食べるしかない・・・従って季節感は豊か・・・食事の席での見苦しい事は起こせないので、食べる時のルールは詳細に決まっていて・・・誰が何を食べるかまでの細かな取り決めが存在する・・・普段の食事は、基本的に量が少ないので、黙って食べる、中座して食べ物が無くなると大ごとになるから中座は基本的に許されない・・・場合によっては下げられてしまう・・・食物が有り余るほどなら、こんなルールは無いでしょう。休み休み詰め込む・・・シンポジオン;饗宴・・・これでは適当に参加して飲んで食って騒いで・・・喋りながらなら底抜けに食える、だから喋らず黙々と少ない食べ物に集中して食べる事になるのですから・・・日本の伝統的な食生活は基本的には貧困と飢えの上に成り立っていると思うのですが・・・証拠は、このごろの日本人の体位の向上・・・日本人は小さいのではなく、食生活が貧困だったから大きくなれなかった・・・

 そして・・・寿司・刺身・天ぷら・蕎麦って・・・寿司は早寿司でしょうから江戸になってからかね?古来の寿司は・・・食べ物と反吐の中間、今昔物語だかに書かれていますね。刺身は、醤油の普及によるものかね?山葵はどうなんだろう?ワサビ栽培は江戸時代でしたね。そして、独占が許されたから・・・普及はずいぶんと遅いのでは?天ぷらは油脂が問題だね。油は高価ですから・・・そして、蕎麦・・・貧乏人の食べ物・・・地域によっては近頃まで本気でそう言われていたようです・・・調理に不可欠な鍋釜・・・一つの家でどのくらい所有していたのか?日本の明治期の厨房でもかなり貧弱ですから・・・飯釜と味噌汁鍋があれば上等だったのでは?

 右の図が、明治の改良された理想的な厨房・・・大隈伯爵家の大厨房です。電気やガスが使われ、既に薪の利用は止めています。明るく大きなテーブルでの盛りつけが行われている事が見て取れますが・・・近代デジタルライブラリー - 食道楽. 春の巻 私の好きな本ですね。古い日本の食文化が所々に現れてきます。日本食が充実したのはなんとなく、明治以降のような?そんな気がします。それ以前は基本的に悲惨なのでは?味ではなく、腹いっぱい食えれば満足・・・なんとなくね。ただ、様々な調理法ってのに対しては敬服します・・・それでも、多くの調理法のルーツは江戸中期以降ではないかと・・・食いもの系の研究は面白いですね・・・4月からは伝統的な日本の食生活に移行しますかね?野菜は高いし、消費税は上がるし・・・高価な山菜を集めて天ぷらも良いですね。アケビの新芽もいいかな・・・まあ、田舎ですから色々とありますね。朝の散歩を日課に入れるか・・・タンポポも美味いし・・・ヨモギ、利根川の菜種・・・塩は安いから漬物にするか?小麦粉でおやきとか・・・粉食は基本的に安価なので・・・おからで味噌でも久々に作ってみるか・・・ふむ、味噌や醤油を考えてしまうから、私の中の日本食は平安末期より遡る食べ方にはならないのか?

 一夜酒、どぶろくなども良いかも?もう少し海水温が上がったら、何か海で獲ってこよう!海へは歩いて行ける、山菜もあるし・・・塩は安い、腹いっぱい食べるのはそれほど難しくないから・・・これって、豊かと言ってよいのか?ヒヨコでも飼うか・・・卵、時々鶏肉・・・やはり、このあたりまでが日本食の限界なのかもしれません。江戸は元禄期以降、日本の物流が盛んになって遠隔地の作物の移入により日本の食生活は飛躍的に豊かになったのでしょう・・・多分・・・本気で芋でも作るか・・・日本経済はどうなるか?さて、グリンカレーペーストとか、エスニック系の香辛料をポイントを使って買うとしましょう・・・これが最後の贅沢だな・・・まあ、玄米も2kgあるし・・・しばらくは毛色の違った食べ物が楽しめそうです。

2014.03.20

  

関係ないが、興味深いもの
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