香取神宮をうろうろ(76)
 香取志 (10) 香取神宮と返田神社

 石も底をついて来た感じ・・・何か良い石はないかと・・・二酸化ケイ素はまだあるかな・・・というわけで、ちょっと大きな水晶の仲間を・・・

 カットの細かなグリーンゴールドの12カラットちょっとある石・・・これも多分、ロッククリスタルの処理石ですね。まあ、見かけはシトリンの仲間ですかね・・・この手の石の多くは紫水晶を加熱処理して黄色系統の色へ変えてしまうというものが多いですから・・・これも、直射日光に弱い石なんでしょう。そういえば、私の所にはアメジストはないような・・・なぜか紫色の石に食指が伸びない・・・どうも、高貴な色にそぐわない人間なのかもしれません。

 アメジストドームは時々欲しくなるんですが・・・埃が溜まった時の事を考えると手控えてしまいますね。尖った六角柱の3cmぐらいのインクルージョンの少ない美しいアメジストは欲しいと思うのですが、安いものが無くてね・・・アメジストの他に原石で時々欲しくなるのは、カルサイト=方解石ですかね。こういった事を書いていると・・・また、何か欲しくなってくる・・・知れば欲しくなる・・・こう寒くなると・・・ガーネットなども良いかも・・・

 ちょっと、ネット上で香取神宮をチェックしたら・・・何と、修復が終了していて、足場などが既に撤去されているとのこと・・・こりゃ見に行かなければというわけです。

 朝、7時前に出て8時ちょっと前についてぶらぶらしてきました。

 なんとなく、拝殿は一団と色鮮やかになったような感じです。金物は光り輝き、黒漆は深い黒さとその表面のつやを誇っています。

 私には、この立派な拝殿には、あまり興味はないのです。昭和15年あたりの設計になるものですから・・・本殿はどうなってるんだろうと、そちらの方が気になります。

 本殿は元禄13年の造替以降、数度の修理を受けているはずで・・・明治時代の修復は解体修理をやったようです。昭和15年にはどんな修復なのかも不明・・・参考となる文献は高くて手が出ない・・・従って、外から見える範囲で検討するだけなんです。図書館へ行くか・・・

 さて、気になっていたのは、本殿の背面の庇の部分、つまり背面庇の神座の部分なんです。何しろ、この神社をうろうろのシリーズを開始したときは、この部分は仮屋根などで良く見えませんでしたからね。

 さて、元禄13年の造替に際しては、この背面庇の神座の部分は解体して彫刻などを江戸へ運んで修復を行い、それを戻しているようなんです。

 そして、いくつかの文献では、この背面庇の部分の柱が身舎を構成している柱より細いと指摘されていました・・・見た感じ、柱の太さは同じように見えますね。確かに、背面庇の部分であることは構造から知ることができますから、これはOKです。背面庇の柱は、江戸時代・明治時代・昭和に入ってからの修復で取り換えられたのか?なんって、ちょっと気になります。

 もっと気になるのは、本殿内部の彫刻ですかね。これって、廃仏毀釈の影響を受けたのか?それが気になります。何しろ、本殿内部へ入ることができる人が限られていますからね。軽々しく入り込んで引っ剥がすわけにはいかないでしょから・・・

 見えないところを考えても仕方ないですから、見える部分をチェックしてみると、背面庇の部分の柱の太さは、身舎の柱と同じ太さのようです。写真の上で切り取って比較しても、太さは同じようです。

 左の写真が、背面庇の神座の部分を後ろから撮影したものです。この、写真からすると、背面庇の4本の柱の太さはすべて同じですね。

 これらの写真を比較すると、横から見たときに、身舎の柱の間隔に比べて、背面庇の柱の間隔が狭いことは確認できます。上の背面からの写真では、身舎と背面庇の境に脇障子があって、背面庇は身舎の部分とは異なることがわかります。

 左の図は神幸祭の絵図の大禰宜本に示されている本殿です。これだと、現在のような背面庇は存在しない・・・普通の倉庫のように開口部は正面の扉だけですね。現在の本殿の構造とはずいぶんと違いますね。前面の庇には板戸が入っていて、身舎の前半分には格子が入っていますね。

 あまり明瞭ではないですが右の写真のようなものです。望遠レンズを持って行かなかったんで・・・遠くから撮った写真をいじってもあまり良くわからん・・・

 背面庇のあたりまで写っていないけど右の写真で明瞭ですね。

 右端の緑色の格子が、昭和15年に拝殿と幣殿が更新されたときの幣殿ですかね。幣殿と本殿の間の部分にガラス障子が入っていて階段はすべて囲まれてしまって一体化しているが、脇の廊下は利用できる形になっている。そして、赤い縁取りのしゃれた板戸が前面庇の部分ですね。

 比較する図が・・・明治時代の修理の後の様子は左のようなものですね。

 結局のところは、私には何もわからないということですね。まあ、凄く立派な建物であることは分かっていますしね。多くの人の努力によって、磨きがかかり崇高なものであり続けるわけです。

 あとは、御神木を眺めてきました。元禄13年に大工の八兵衛さんが切った枝はどこに在ったのかと探してみたんです。残念ながらよくわかりませんでした・・・

 実は返田神社も行くかどうか検討したんです。・・・この神社は行ったことがありませんね。なんとなく道の系統性の問題で、出かける気力に欠けるのが問題なんですけどね。こんな気まぐれでは研究者にはなれない・・・熱意が足りないんですね。そこで、文献あさりをと思っていたんですが・・・行ってしまいました。航空写真と地図でチェックして、行くまいと思ったのですが・・・

 返田神社・・・香取小学校の脇の道を南に新市場を抜けて・・・途中で道が良くわからなくなって台地の縁の細い道をたどり、返田神社を南の方から探して行きました。幸い、返田神社の案内板があって辿り着く事が出来ましたが・・・ああいった細い道を辿る気力が近頃ケシ飛んでいることを実感しました。

 まあ、山道など慣れていますから、対向車をやり過ごせる場所をチェックしながら進む癖は残っていてOKでしたが・・・今回は、坂道をバックで上がってやり過ごす羽目になって・・・もう嫌です!上り優先とはいうものの・・・マニュアル車でバックで登って・・・俺、バックで登ってる・・・優先関係は?そりゃ登っている先頭だから・・・なんって悩んでしまいました。まあ、無事遣り過ごせましたから問題無しですけどね・・・

とにかく、右のような入口を持つ神社でした。境内の様子は・・・この地域の標準的な神社のサイズですかね。大戸神社や側高神社と同じような感じです。

 天神地祇という碑がありますが、これは何?鳥居の左奥にあるものです。そして、参道の左右には、日本中の一の宮の祠があって、順に参拝すると日本中を巡ったのと同じことになるような・・・さすがに、全部を祈るわけにはいきませんから、端から敬意をいだいて眺めてきました。確かに、ここには天津神・地祇の全ての神が祀られていることになるのでしょうが・・・このあたりの考え方が気になりますね。なぜ、こうもコンパクトにまとめるか?欲張りなのかね?確かに、日本全国を回って祈るのは大変なことで・・・まとめて祈れればそれに越したことはない・・・そういえば、こういった石の祠群って結構いろいろな所にあるような?こういったものが流行した時期ってのがあるんですかね?

 霊場巡りなどが流行った時期と重なるとか?まあ、経済的な意味において巡礼者が存在できる世になったのが江戸時代なんですかね?坂東三十三箇所とか相馬八十八箇所とか・・・相馬八十八箇所は1700年代の終わりごろの成立でしょうね。そういったブームがあったのかね?

 農村の経済力が向上した時期なのか?そんな事を考えてしまいます。近代デジタルライブラリー - 検索結果 農業全書 宮崎安貞 この本が出て100年・・・諸藩はこういったものを利用して農政を行い、その効果が顕れて来た時代なんですかね?鉄製農具などの普及とか・・・

 とにかく、この天神地祇は文化3年;1806年10月に返田村の黒田三右衛門豊昌が発願人であるとのこと・・・この地域の大地主なんですかね?明治時代に地租を百円あまり支払っている黒田さんがいますが・・・所得税未詳となっていますから、地主の他に何か事業を行っていたか?この地域を活性化させようとしたのでしょうか?黒田姓で豊昌という人が大正時代に現れていますね商業を営んでいる・・・神社も中核となって金を出し、金を集める人物がいないと発展させることは難しいですからね。

 神社の掲示しているものによれば祭祀は1月1日の歳旦祭、1月3日の元始祭、3月の一万燈祭、11月13日例祭、12月30日の古神札焼納祭となっています。年内に古神札を燃すのか・・・

 参道の左右には30あまりの石の祠が並んでいて、その先に拝殿が見えます。

 参道をぬけ拝殿前の広場の左側には、左の写真のような三島神社が置かれています。

 又見神社の境内にも香取神宮の境外末社の三島神社がありますが・・・又見神社の所の三島神社の祭神は香取連三島命でしたね。何か関連があるのか?ちょっと気になります。

 右の写真が返田神社の拝殿前の空間です。右には社務所があります。拝殿には返田大明神と掲げられていました。

 元禄13年の香取神宮の造替の際は返田明神社 修覆 一か所 附けたり 拝殿・瑞籬・鳥居共に新造ですから、本殿は修理の手が入っただけですかね。

 本殿は見た感じでは・・・又見神社や側高神社より、凝った彫刻で飾られていますね。摂社の経営ってどうなってるの?ちょっと気になります。経済基盤は香取神宮にぶら下がっている?香取神宮に相談なしの普請はOKなのか?

 享保11年;1726年の大禰宜日記に寺社奉行に対して出した書状の覚えがあります。末社の王子社に関してとらぶっていることが示されています。左のやつです。王子社が元禄13年の修復から四半世紀の時を経て建物が無くなってしまったようです。ところが、大宮司の領分の者たちが寄進と称して、社を建ててしまった・・・神宮の方も造替の時期を迎えているにもかかわらず、末社の方を勝手に建て直していて、大禰宜の方へは知らせも無しだと・・・文句をつけているようです。

 どうも、こういった摂末社の建て替えなどに関しては何かルールが存在しているような?こりゃ、大禰宜日記をきちんと読んで、そのあたりのルールを拾い出してみないといけないのか・・・こういったものを見ていると、江戸時代の幕府も色々と行政を行っていることがわかります。なんだか、後漢以降日本が中華帝国から律令体制を継受して、近代国家となんら遜色ないシステムで運営されてきたような感じを持ちますね。

 どうも、日本の歴史教育は間違っているのではないかと・・・律令のシステムを継受したときから、日本は法治国家であったような感じですからね。日本が絶対王制を敷いていたのは、国造時代で、連合王国を形成するにあたって、中華帝国の律令を導入したことで、強力な王権が形成される前に、律令を元にした地方自治を担う貴族による合議制の国家が作られた・・・強力な王権は生まれなかったが、形式的な盟主体制とでも名付けるかね?天皇制を・・・

 なんとなく・・・中華帝国の律令体制と日本の律令体制って似ているけど性格は正反対のような気がしてきた・・・中華帝国は強力な王権が下々に対して命じる形の律令体制、日本の場合は弱い王権の元で下々が纏まるための律令体制かね?なんとなく・・・江戸時代の人間の考え方・・・何と言えば良いかな・・・日本的な律義さっていうか・・・挙証可能な正義というか、行為・・・上の覚で新法にて御座候と括られているものですね。

 あれ?また重たい話になってるな・・・気にしているのは、返田・側高・又見の摂社の本殿の様子なんですが・・・まあ、比較するなら又見神社は拝殿を持たない神社ですから簡単には比較できないですが・・・香取神宮に近いし・・・距離と拝殿を持つ摂社の比較なら、大戸神社の方が良いのですが、元禄13年の造替に預からず、実質的に独立の道を歩んでしまいましたから・・・

 ふむ・・・旧摂社は神崎神社・高房神社・切手神社・東大社・木内神社で、拝殿を持つ摂社が側高神社・返田神社・大戸神社で、拝殿を持たない摂社が忍男神社・膽男神社・又見神社ですね。そして境内に鹿島新宮・奥宮・匝瑳神社があるか・・・香取神宮を古い国造の伝統を持つものと仮定すると・・・地域的な支配を考えると・・・神宮を中心として直衛となる拝殿を持たない摂社の忍男神社・膽男神社・又見神社・・・大坂を固めている。ああ、そうだ親衛があった・・・佐山神社・狐坐山神社・姥山神社、この三社が御神井坂と氷室坂を固めている。奥宮・護国神社あたりが要害城で中心となるか?神宮は象徴的な場もしくは高乾な場所で倉庫か?そして、その外側の直轄防衛拠点が、拝殿を持つ摂社の側高神社・返田神社・大戸神社、そして独立した外郭防衛拠点が神崎神社・高房神社・切手神社・東大社・木内神社で、同盟関係にある場所の象徴としての境内摂社の鹿島新宮・匝瑳神社か?

 あと、気になるのは側高神社・返田神社の本殿構造の違いですかね。又見神社も拝殿は持ちませんが規模的には同様なものですから・・・比較の対象にしたいが・・・ちょっと、側高神社と返田神社の現地調査の結果を考察してみますか・・・このあたりで切って次回としましょう。

2013.11.24

関係ないが、興味深いもの
近代デジタルライブラリー - 神宮綜覧 伊勢神宮に関する知識も不足してる・・・お勉強しなきゃ!
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参考になるもの。
東京大学史料編纂所 Historiographical Institute The University of Tokyo
電子資料館 | 国文学研究資料館 
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 近代デジタルライブラリー - 明治神社誌料 府県郷社. 上 茨城県 592コマ
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大日本海志編纂資料 資料分類
近代デジタルライブラリー - 大日本神名辞書
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