香取神宮をうろうろ(61)
 茂呂の探索 (1)

 ちょっと、気になることが出てきました。それは茂呂神社なんです。まるで計画的に配置されたような3つの神社、そしてどれが式内社なのか不明・・・で、いいかげんに茂呂チェーン社でいいや!古代の道沿いだろうと・・・そして、楯縫神社のあたりを1/25000の地形図で眺めていると・・・茂呂が出てきて・・・Googleマップで何気なく検索・・・・小山あたりを眺めていた画面で、すると・・・茂呂が伊勢崎・佐野・鹿沼に集中してるんです。人口の多い所に集中するのは当たり前で・・・そこから、楯縫を探すために広域を眺めると・・・日本全国でこのあたりから南の関東平野に点在するのと、甲府と別府にあるだけ・・・これって、何かありそうな気がして・・・右の集中する3地点をチェックすることにしたわけなんです。だって、このあたりに東山道が通っていたようですから・・・鹿沼には茂呂山がありますね。「がっからさま」という岩があるとのこと・・・佐野は茂呂町だね、伊勢崎は茂呂村があったようです。地名をたどるために・・・郵便番号をチェック
茨城県
〒300-0423 稲敷郡美浦村茂呂 〒307-0036 結城市北南茂呂
群馬県
〒372-0037 伊勢崎市美茂呂町 〒372-0034 伊勢崎市茂呂町 〒372-0036 伊勢崎市茂呂南町
栃木県
〒322-0026 鹿沼市茂呂 〒327-0827 佐野市北茂呂町 〒327-0826 佐野市茂呂山町
群馬から栃木かけて、およそ35kmずつ隔てて茂呂があります。伊勢崎と佐野の真ん中には太田が、佐野と鹿沼の間には栃木がありますから・・・東山道について言及した本は無いかね?近代デジタルライブラリー - 駅路通. 上巻 24コマ これでも拾ってみますか・・・筑波大学附属図書館 平成17年度電子化資料だって・・・江戸時代だね・・・色々あって面白そう。

 適当に京都から、北の外れまで並べると・・・京都-山科<逢坂関>勢多-近江国府-篠原-清水-鳥籠-横川<不破関>美濃国府-不破-墨俣-大野-方縣-各務-可児-土岐-大井-坂本-阿智<會地関>育良-賢錐-宮田-深澤-信濃国府-筑摩-錦織-浦野-曰理-清水-長倉<碓氷関>(ここから上野)坂本-野後-上野国府-群馬-佐位-新田-足利-三鴨-下野国府-都賀-田郡-衣川-新田-磐上-黒川<白河関>(ここから陸奥)雄野-松田-磐瀬-葦屋-安達-岑越-湯日-伊達<伊達関>篤借-柴田-小野-名取-陸奥国府-栖屋-黒川-色麻-玉造-長岡-栗原-磐井-白鳥-胆沢-鎮守府-花巻-徳丹・・・こんな感じ、ちょっと文字に問題があって、最後の方はいいかげん・・・必要なのは、碓氷の関から白河の関ですから・・・言い訳だな。胆沢や花巻は厄介なんで・・・面倒なんで・・・

 とにかく 国道18号線で坂本(横川)-野後(安中)県道10号線で-上野国府(前橋市元総社町)県道2号線で-群馬(前橋)-佐位(伊勢崎)-新田(太田)-足利(足利)-三鴨(佐野)-下野国府(栃木市田村町・宮ノ辺)-都賀-田郡(石橋駅前)-衣川(宇都宮の東の石井)-新田-磐上-黒川 こんなあたりなんです。

 ちょっと気に入らないのは、下野国庁跡です。この場所は最末期の国府の跡か、国府の分庁舎では?なんとなく・・・こんな氾濫原に建てるかね?少なくとも正倉は置けそうもないですから・・・高くて乾いた場所・・・そして、区画整理が行われたにしても・・・道が無い・・・孤立した場所だし・・・本庁舎は大宮神社のあたり・・・この近くが西国府とか国府の地名がありますから・・・右の写真でいうと、黄色い線の右端に、国庁跡、左端の森があるあたりが国府の集落です。川沿いに分庁舎が・・・あったとすれば右の写真の様な直線道路かね?この航空写真は区画整理前ですが、それなりに条里制の雰囲気があるような?

 多分、下野の国府は東山道と、川を押さえるための分庁舎の2本立てではないかと勝手に考えて・・・でも・・・近代デジタルライブラリー - 下野神社沿革誌. 巻之3 4コマには・・・当時下野を統治しける府庁は今の鹿沼町大字下府所にありしと覚しく、その後に至り今の下都賀郡小宅に写されて尋て国府村に転せしものにやと証すへきものあり・・・だと。鹿沼から栃木に移ったと言ってるわけです。思川を押さえるための分庁舎とセットで作られたか?鹿沼の黒川では水運に不十分と考えたか?

 なんとなく国道293号線が気になりますね。東山道は伊勢崎-太田-足利-葛生-金崎-鹿沼-・・・太田-佐野-下野国府は枝ではないかと・・・だって、栃木の町内ってなんとなく魅力が無いので・・・偏見かね?なんとなく地勢が良くないような?そして、佐野から小山・・・国道50号線って気分です

 こんなことを調べ始めたのは・・・東山道から上総国府へどんな道筋をたどったのか知りたくなったというだけで、船橋・小金原・流山と続いた茂呂神社が・・・そして、なぜか東山道の宿駅に茂呂が・・・茂呂の出はどうやら結城の茂呂のようなので・・・運輸通信を担うことになった茂呂氏でもあるのかと・・・欠けているのは、猿島郡境町のあたりなんです。ここに何かが無ければならない・・・だって、繋がらないから・・・近代デジタルライブラリー - 猿島郷土誌 紀元2600年記念. 上巻 65コマ に・・・景行記に彦猿島王を東山道15カ国の都督にした・・・彦狭嶋王とも表記する・・・毛野国造・・・気になるのは猿島郡には香取神社がやたらと多いんです・・・清宮君はあまり言及していませんでしたが・・・そして、楯縫神社の近くの茂呂が気になるわけです。

 もし、香取神宮と茂呂の連合があったら・・・この時代は東京低地は東山道と東山道から船橋までのラインを押さえて、さらに常総の中海を支配したら・・・東山道を支配できる・・・だから、香取神宮は側高の神を使って、陸奥から馬を輸入できた・・・そもそも、猿島郡ってのが良くわからない・・・古河公方とか・・・古くは藤原秀郷とか・・・そういえば、藤原秀郷って実際には下野国史生郷の土豪・鳥取氏で、秀郷自身が藤原姓を勝手に名乗ったとか・・・鳥取氏か・・・景行天皇繋がりか?伊賀理命だね・・・鳥取の姓を賜る・・・とにかく、猿島郡のあたりの経済基盤は何なのか?・・・基本は下河辺荘ですが・・・あと馬か・・・経済力ってのに尽きるわけです。

 平将門だって、猿島・相馬郡あたりで旗挙げですから・・・下河辺荘とか・・・それから下総の鳥取はどこなのかね?それより、もうひとつ気になる直線路・・・国道354号線・・・多分・・・茨城県道50号線を越えた先で鉾田に向かう道へ入って直進すると、大竹海岸・・・土浦から国道125号線なら神崎へ・・・

 猿島郡の江戸時代の交通路の地図がありました。近代デジタルライブラリー - 猿島郷土誌 紀元2600年記念. 上巻 205コマ 基本的には、どの道も知っていますね。目吹橋の江戸街道は良く利用しました・・・野田へ・・・野田橋が混むと玉葉橋だったっけ・・・古河が交通の要衝であることが見てとれますね。そして古河から小山へ・・・県道17号線を北上すると・・・国道125号線を過ぎ、県道124号線の交差の辺りが茂呂で七五三場、さらに北上すると県道51号線大戦防って交差点・・・なんとなく記憶が・・・境から16km・・・どうやら、茂呂君ところで東山道を押さえていた雰囲気ですが・・・この茂呂君たちはどうなった?気になります。とにかく、およそ35kmを単位として拠点を置いていたみたいですからね。そのうち、何か分かるかもしれませんが・・・取りあえずは保留ですね。

 古い道を眺めていると、ある一定の法則が感じられます・・・それは台地の真ん中を通り抜ける道なんです。多分、これが一番効率の良い道の設置方法ではないかと・・・台地の縁は浸食を受けて谷津が発達します。これを避けるには、ど真ん中を通す。そして、この幹線から枝を出す・・・つまり、魚の骨の様な道になるというやつです。

 しかし、こういった計画道路は計画倒れになる時があります。枝と枝が繋がって新しい道ができ、それが流行る場合です。左の図です。黒が計画道路・・・最大限の効率を求めて長い幹線を1本、まだこの地域がどんな発展をするかわからないので・・・拠点を、台地の中心を通る道で結びます。そして、既存の村に枝道を出します。しかし、村の価値は計画と違って、アンバランスで、財力があれば、道を造ることができます。従って、計画道路とは別の枝ができ、計画倒れになると、計画道路が消える・・・と言う事になるわけです。しかし、長距離を結ぶ道の場合・・・その両端の経済的な価値が高いから結ぶわけで、その最短を結んだ道は隠滅することはない・・・台地の中央を通る直線的な道は・・・古代の計画道路の可能性が高いという・・・私の妄想なんです。

 古代から海岸線がうねうねとしているので有名な行方や鹿島半島などで鍛えていますから・・・道の雰囲気をつかむのは上手くなっているはずなんですがね。何しろ行方や鹿島で台地の縁の道は袋になっている可能性が高いので・・・理由は簡単で、湖岸・海岸の砂浜を進むか、台地の中央の幹線道路を進むかの2種類しかないだけなんです。今は、砂浜を走るなんってしませんが・・・だから、台地の真ん中を走ることになるわけです。下手に進むと台地の縁から凄い傾斜の細い道を下りることになる・・・もし、通行不能だと・・・長い距離をバックで戻るしかなくなる・・・バックでS字やクランクを進む気力が無いので・・・考え込んだら諦めることにしてますね。鹿島半島の場合は・・・飯沼街道が中心を貫き、枝があります・・・まあ、飯沼街道以外に国道51号線がありますがこの間はOK・・・51号線の東、飯沼街道の西はかなり危ない・・・と言う事なんです。近頃の道は架橋してあるので、谷津など気にせずに走れますが・・・結構大変な道があるという事なんです。暇な人は茨城県道50号線潮来-玉造とか、茨城県道242号線鹿島神宮-二重作などを眺めると、その雰囲気がわかると思います。ただ、242号は途中から旧道への分岐がわかりにくいので・・・知っていれば、飯島を抜けて、鹿島臨海鉄道を越えて、素直に国道51号線に行けるんですが・・・鉄道によって分断され、鉾田の陸軍飛行学校への軍用道路への接続を考えての付け替えなのか?色々とやっている跡があるわけです。

 茨城県道50号線も、百里基地で切られているような感じですね・・・古代の道の探索が、無粋なもので迂回を余儀なくされることもあるとういう話でした。あとは・・・大きな道のついていない計画性の無い集落に計画道路がつく場合が困りますね。大抵の場合、右の図のようになるようです。集落が先にあるから、その両端に接するように道をつけると、いつの間には、中央に道ができる・・・場合によっては迂回路ができますが、それを包摂するように集落が広がるから同じですね。この道のつけ方は効率的なのは分かります。縦貫するより集落の広がりが大きくなりますから・・・色の濃い部分が旧の集落で、そのうち集落が広がって、道幅が足りなくなった時には拡張できそうにない状況になるとかね。そしてバイパスができて、旧市街が死んでいく・・・

 長い直線道路が切られるパターンって・・・軍事が優先したのか百里基地・・・経済が優先して鹿島港・・・こんな具合に切られていますね。そういったものがなければ、地形が許す限り、道は直線になるわけですから・・・道の価値って難しい・・・上の図は道の価値を最大限に利用しているのかね?道は、人や物資をもたらす・・・人や物資の滞留時間が長くなれば、それだけ富が増す・・・集落の中を直線で通り抜ける道は、人や物資の滞留時間を短くするから富の蓄積は見られない・・・ただ通過するだけ・・・ふと、風水が考える都市と言うのを思い浮かべてしまった・・・

 下総の中心部って・・・こんななのかね?古代の様子は左のようになる・・・茂呂神社はなかなか良い場所にあるのが判明・・・符号では分かりにくいので適当に名前をつけてしまったけど・・・この方がわかりやすい・・・まあ、偉い先生が付ける名前に統一されわけだが・・・系統に属さないので適当に・・・

 この図を作った理由は、栗ヶ沢茂呂神社の存在意義なんです。あとは、古東京湾と手賀沼の西岸で、どのあたりに陸上交通路を設定できるか?思った通りかなり狭い範囲になることが判明。本土寺の位置って興味深い・・・松戸の千葉大が国の字の左側あたりに相当・・・江戸川に最も接近しているあたり・・・東葛飾郡の南部と言うのはこういった地域だったのかと妙に納得・・・

 流山の茂呂神社は、栗ヶ沢の茂呂神社の津が利用できなくなって移転したのか?船橋の茂呂神社の南東の谷津の入江の支配をしていたのか・・・妄想ネタは尽きません。

 こういった地図を作るのに、以前はどんなに苦労をしたものか・・・今なら3分ですからね。

 ああ、私は馬鹿だ・・・何を考えてる・・・茂呂は利根川上流域、渡良瀬川流域・・・下流の江戸川と船橋のネットワークじゃん・・・茂呂は基本的には古東京湾系の水域の支配だね・・・利根川が東遷するのは江戸の半ば以降じゃん・・・関宿から南に落ちて江戸川だよ・・・常陸川沿いから常総の中海の支配が香取神宮じゃん・・・そして、香取神宮はこのあたりの覇権を狙って、猿島郡あたりに香取神社を撒き散らした・・・と考えるべきじゃないかな?ちょっと気になるのは、神崎から関宿あたりまでの支配はどこ?香取の海夫注文の空白の部分ですが・・・それから、楯縫神社の近くの茂呂は?

 あ!また、自分の馬鹿さ加減に気付いた・・・五霞村が猿島郡である理由が・・・関宿よりもっと、上流で江戸川が分かれるのを忘れてた・・・古河辺りもきちんと地形をチェックしなきゃ・・・多分、久喜の辺りまでは古東京湾が入ったいたのでは?

 あれ?千葉県にも千葉市緑区茂呂町がある・・・茂原街道沿い・・・意外とあるものだ・・・でも、郵便番号の全件データをアクセスに取り込んでチェックしても結城・稲敷・佐野・鹿沼・伊勢崎・千葉市緑区だけしか、この地名は無い・・・カタカナでモロを検索しても95件・・・三輪山との関連はあまり感じられないが・・・御諸山ねぇ・・・

 関宿界隈を同じように水浸しにすると、右の様な感じです。江戸川はこの頃どうなっていたのか不明ですね。古河から渡良瀬川・思川、そして利根川も古東京湾に直接流れている可能性が高いですね。

 これだと、猿島郡が下総だと納得できますね。そして、常陸川と言うものもなんとなく理解できるなぁ〜。

 江戸川の洪水時の水量を減らし、水運に必要な水量を確保するのは・・・なかなか大変でしょうね。

 古代の運輸通信・・・気になります。今はインターネットで情報が流れる時代・・・人の足が情報を運ぶ時代・・・でも基本は太古から・・・今でも・・・田舎は飲み屋経由の情報とか・・・色々と流れているのでは・・・人が口伝で運ぶ情報が・・・

 あれ・・・忘れていたことが・・・延喜式の駅をチェックするのを忘れてた・・・下野あたりから安房までをチェックしていない・・・どうも、順序が違っていますね・・・まあ、いつもの事ですが・・・茂呂はまだ続きます・・・
2013.10.02

関係ないが、興味深いもの
 
 
 
参考になるもの。
東京大学史料編纂所 Historiographical Institute The University of Tokyo
電子資料館 | 国文学研究資料館 
近代デジタルライブラリー - 検索結果 明治神社誌料
 近代デジタルライブラリー - 明治神社誌料 府県郷社. 上 千葉県 534コマ
 近代デジタルライブラリー - 明治神社誌料 府県郷社. 上 茨城県 592コマ
近代デジタルライブラリー - 検索結果 日本地理志料 
国立国会図書館デジタル化資料 - 和名類聚抄 20巻 
大日本海志編纂資料 資料分類
近代デジタルライブラリー - 大日本神名辞書
茨城県遺跡リポジトリ
近代デジタルライブラリー - 仮名日本書紀. 上巻 204コマ 景行天皇
国際日本文化研究センター 怪異・妖怪伝承データベース

近いうちにやりたいもの
香取志 
古文書(冊子・一紙・巻子・絵図) 日本銀行貨幣博物館 これって面白そう・・・特に、社会関係史料が・・・
近代デジタルライブラリー - 検索結果 徳川時代商業叢書
近代デジタルライブラリー - 検索結果 日本財政経済史料



  










inserted by FC2 system