香取神宮をうろうろ(60)
 香取新誌 (20)

 遊んでいるとお金の心配をしなければならなくなりますね。これが困りもの・・・何と、サボテンを買い込んでしまいました。仲間が近頃サボテンが・・・と騒いで、茨城で大きなサボテン屋はないかと・・・ネットで探すと2つ見つかって、ひたちなか市にあるカクタス・ブライトって店に行ってきました。問い合わせ等をしないで行ったので、休みだったらジョイフル本田常陸那珂でもという軽い気持ちでね。場所は・・・カクタスブライト - Google マップ ここだね。昼前に着いて、車から降りたら・・・お店の人の車が出る所で・・・悪いことしたかな?なんってね。見せてください〜って・・・見せてもらいました。15〜20mのビニールハウスが4+3・・あと数棟あって、中にはサボテン・多肉植物がいっぱいありました。見応えのある高価なサボテン・多肉植物が・・・私はとげのあるやつより多肉植物が好きで・・・

 買うまいぞという、紙の様に薄弱な意思は・・・吹き飛び・・・結局は5鉢の多肉君と借金魔の野口君の肖像入りの紙と交換に・・・寄せ植えにすると良いとの話で・・・お値段の安いものから選んできました。

 良いお店ですね。難点は・・・寄せ植えにするためには3〜5鉢程度必要ですが、手は2本なんで・・・買い物かご代わりにプラの四角い鉢があったので、それに入れて、ぶらぶら買い物です。そうしたら・・・この鉢がついてきてしまったというわけです。すみません、ありがとうございます・・・でも、近いうちに笠間か益子へ行って何か素敵な鉢になる入れ物を探してきます・・・

 多肉植物は・・・眺めるだけで買った事はほとんど無くて・・・背の高さが違って、葉の形が違うものを適当に・・・名前も知らない植物です。この背の高いのは何かね?ベンケイソウの仲間を研究していた人がいたけど・・・どこへ行ったか?CAM型光合成とかC4型光合成・・・なんとなく美味しそうな植物に見えてね・・・なんとなく、気分はテキーラ・・・久々にトマトジュース+オレンジジュース+タバスコ+ウスターソース・・・etcでサングリータを作って・・・ライムを切って・・・気分は酔っ払い・・・お金が化けた多肉植物のお話でした。

 さて、続けるとしましょう。近代デジタルライブラリー - 香取新誌 38コマ このあたりを読んでるのでした・・・結城郡2座の続きからです。


健田の神社 今は結城小塙の乗国寺の傍らにある。旧址もまた同所の隴圃…穀物や野菜の畑の中に残っている。一片の石を建てて健田の神社旧址と示されている。下総の式社の内で最も衰微している。本居氏の謂うには河内の国の大島社の事を思い合わせている。


 健田神社・・・現在は健田神社は須賀神社と合祀・・・そして、旧健田神社跡はそこから2km南東にあるとのこと・・・健田須賀神社 健田須賀神社について・・・了解・・・健田神社は、宝暦14年;1764年小塙の乗国寺に習合、境内に遷座、そして神仏分離で明治3年には乗国寺から分離、須賀神社に合祀・・・名前が残っているが・・・ということですね。残念ながら、まとまった史料は見当たりません・・・どんな風になっているかというと・・・ラッキーなことにGoogleの地図で画像を捉える事が出来ました。右のような場所ですね。東結城駅から南南東に700mあまりの所にあります。結城バイパス沿いですから、ここは通ったことが何度かあるはずですね・・・記憶にないですが・・・

 小塙乗国寺も同じく映像が取れますね。ラッキーちょっと素敵なお寺じゃないですか・・・左の写真です。

 ここに習合されていたんですね。・・・神様も安住の地がないと・・・なかなか、大変です。

 あれ?ちょっと、前回の内容に逆戻り・・・近代デジタルライブラリー - 古風土記逸文 66コマ ここに覚賀鳥の話が出てる・・・栗田君の著作という事は、清宮君はこの話を知っていたはず・・・何かに使っても良さそうな話だが・・・あれ?訳し間違えたか・・・あいしつべし・・・愛し・・・鳴き終えてしまったあのさえずりは愛らしかったじゃん!じゃないのか?生け捕りにして供したから悦感・・・みさごは、愛すべき声なきにや。・・・愛し?怪し?・・・我が国語力の限界か・・・情けない・・・完了推量・・・ぶつぶつ・・・本気の研究者じゃないから良いけど・・・納得いかない・・・さて、続きは・・・


岡田の郡一座
桑原の神社 いまは国生村にある。香取明神と称すのがこれであるに違いない。旧址は鬼怒川に削られてしまったのでそのあとを明らかにすることはできない。国生は読んで国廳の様である。故あることであろう。また飯沼と称する地に、天神の祠があって、官公のの影祀としているが、この祠はもと天つ神といったのを天神と称し、天神であるなら官公と思い訛ってしまったものに違いない。また雷が鳴るときには桑原と念ずる俗伝がある。桑原という地は越前にあって、官公の旧荘園である。これで間違ってちまったものであるに違いない。これは二所とも桑原の神社で、荒魂祠・和魂祠であるに違いな。飯沼の祠下に石槨があると云う。猶調べる必要がある。



 岡田郡は知らなかった・・・現茨城県で鬼怒川西岸の地域か・・・ああ、長塚節が生まれたところか・・・これならなんとなく・・・豊田かと思ってた・・・鬼怒川の左岸沿いに国道294号線があるので・・・右岸はほとんど通らないので、岡田郡は気にしたことがなかったです。千葉県側から目吹橋を越えて、国道354号を右折か左折して・・・古河の方へ行くぐらいだから、このあたりは行ったことすらないかも?このあたりは、豊田城が目立って・・・294沿いのディスカウントショップは時々寄った記憶が・・・ジェーソンだったね。

 国生の桑原神社・・・江戸時代に香取明神と知られていて、享保年間に棟札から桑原神社とわかった神社・・・このあたりは国府田姓が多いのでは?気のせいか・・・天神社は大生郷天満宮でしょう。このあたりは、幹線道路以外は走ったことがないですね。下手に入ると大変・・・今はカーナビがあるからいいけど・・・河川が多い所は橋を探すのが大変ですから・・・この天神様は有名ですから名前は知っていました。荘園か・・・越前の桑原荘は東大寺の荘園では?道真君は関係あったのか?福岡の桑原か?雷の落ちないのは・・・福井と福岡のコンタミネーション?和泉の桑原・・・秉穂録 A 秉穂録 Bかな・・・2種類ある・・・どうも使い勝手が悪い!というより・・・私の目が悪くて・・・800×600じゃ見にくい!画面解像度を変えて、さらにエクスプローラーのバーを消さないと見にくい、別の作業をするには不都合・・・こりゃ、昔ながらの4:3のモニターを探してこないといけないのかな・・・仮符号で区別したけど、Aは2巻まで、Bは4巻まであるようです。Aの方を読んでなかったので・・・秉穂録 B 117コマ やっと出てきました・・・無いかと思うほど・・・乗穂録か、これは読んだことがなかった・・・でも、この話は有名で、何かで読んだことがありましたが・・・桑原町西福寺の雷井戸の話ですが・・・アニメだったかもしれない・・・記憶があやふやで・・・まあ、良しとしましょう。


葛飾の郡二座
茂呂の神社 三輪山村の三輪明神がこれであるに違いない。さて、室といえば三輪のこと、祭りと云えば、祇園であることは古事記伝で言及された通りである。この茂呂も室と同じであって、また三輪とも云ったに違いない。祠頭に老杉2株あり、且つ神宮寺もあるので、古社であることは感じられるに違いない。
この茂呂神社のはっきりと分からないことから、あるいは栗ヶ沢村であるとも、意富比の神社の末社であるが、長島村であるとも、種々の説があると云うものの、みなあっていない、栗ヶ沢は水戸家によって定められたと云うが、間に合わせであって確たる証拠はない。その上、敷地もちょっとだけで大社の名残がない。



 また強引だな・・・御諸山で室は三輪の事か・・・祭りと云えば祇園ね・・・どういう関連だか、分かったようで分からないなぁ〜。酒と云えばXX・・・CMで刷り込まれるようなものだね。さらに社殿の前に老杉があると、神社が古い事を示すのか?残念ながら、この神社も行ったことがありません・・・前は通ったことがあるはずですね。流山街道沿いですから・・・気になるのが祠頭に2本の老杉というやつですね。大戸神社の社頭には杉の木が1本あり、それが御神木でしたから・・・私の妄想の中での古の香取神宮の社殿のイメージ・・・御神木というのが、本殿裏にあるものと思っている人間にとっては、ちょっと意外に思えますからね。神宮寺か・・・近代デジタルライブラリー - 流山町誌 68コマ 三輪野山 ここにありますが・・・旧記古文書は無し・・・ちょっと気になるのは、御神木はもともと8本あったが、寛永中に2本、後に1本で今は枯れて無い・・・この本の書かれた明治の末頃には無かった・・・ということは、清宮君は文献資料から引いたわけだが何からかが気になります。それとも、明治の初めごろまでは2本あったか?あとは8が好きな神社であることかな・・・近代デジタルライブラリー - 東葛飾郡案内 これを読んでみるか・・・ふむ、県道船橋・取手線は悪路か・・・これも長い直線道路ですね。残念・・・この本は過去には興味が無いようだ・・・湖北村の小学校の校長は茂呂というのか・・・近代デジタルライブラリー - 郡治要覧 郡制告別記念 この本は何?地方自治制度の変遷なんか気にしたことが無かった・・・これは、新しい発見・・・現近代も面白いかも・・・

 敷地の広い狭いはあまり関係ないと思うが・・・でも、見てくれが大切なのはわかりますが・・・都心部の神社なんて、土地代で考えると凄い資産では?そういった問題ではないのはないでしょうが・・・中央区銀座にも神社があるし・・・坪7000万円ぐらいでしたっけ?

 ・・・関係無いけど、日本の原発行政は何をやってるやら?原子力全廃じゃなかったのかね?国民世論だと言って騒いでいたのに・・・東電は新潟県の柏崎刈羽原子力発電所6、7号機の再稼働に向けた安全審査を、原子力規制委員会に申請すると発表だって・・・これで、原発稼働は確実じゃん・・・原子力規制委員会を廃止して、許認可機関をなくせば、再稼働は不可で全廃ができるのに何をやってるやら?政治家は言っていることとやってることが全然違うから困るね・・・奈良時代の政治家の方が優秀だったのかね?なんだか気になる・・・さらに遡って、景行天皇なんかの行動力は凄いのではないかと・・・まあ、新規の国造の勧誘のために食事会を主宰しているわけだが・・・草深き上総・常陸まで海を越えて来るわけですから・・・まあ、核汚染を広げるためにヘリで原発に陣頭指揮に行った総理大臣もいましたが・・・不思議な世の中?ベントで貴重な水蒸気を放出して空焚きしたのではないかと私は思うのですが・・・餅は餅屋というのがわからん人間が多くて・・・困ったものだ。料理ですら素人の出番はないのに・・・素人のできることは・・・過去の歴史や文学で遊ぶことぐらいだね。間違えていても実害はないから・・・ただ、時々気になるのは、素人以下の仕事しかできないプロがいる事・・・名ばかりのプロが多くなりつつある時代かね?

 まあ、世の中は難しい・・・私の職業は悪しきソフィストなんで・・・いま遊び研究の駄文を書きながら、商売で模試の問題を作っていますが・・・中学入試の標準問題が、高校入試の難問に化けたり・・・私にはよくわからないことが沢山あります・・・さて・・・続きは・・・


意富比の神社 舟橋村明神の祠に合祀す。これに違いない。或云う。古文書に覆の宮と称すのがある。覆の宮も意富比の宮であって、同一のものであると云う。


 意富比神社・・・おおひ神社か、こんなの読めないね・・・覆の宮ねえ・・・近代デジタルライブラリー - 房総静養地案内 63コマ 観光案内書ですが、これによると、町の中央にあり、境域甚だ広く老木鬱として昼尚暗し社域に常盤社など末社摂社数宇あり。ふむ、近頃では小さな大神宮と言われているが違う神社の話か?・・・県社だよね・・・神宮じゃないので小さな大神宮の言い方は私は嫌だな・・・神宮の位は高くて・・・どうやら船橋〔天照〕大神宮なのでしょう。・・・船橋〔天照大神〕宮・・・略称の問題なのでしょう。・・・それより、この大神宮で気になるのは江戸時代に境内には常夜の鐘があって、夜間航行の目印として鳴らされたらしい事で、戊辰戦争で焼失、明治13年政府公認の私設灯台として15年ほど運用されたと・・・まあ、漁村だと私設灯台って結構ありますね。常夜灯のでかいのがね。つまり、江戸時代も夜間航行を行っていたという事です。写真からすると、この神社のも大砲があったか・・・野砲みたいですね・・・近代デジタルライブラリー - 房総叢書 紀元二千六百年記念. 第1卷 縁起古文書 170コマ 船橋大神宮文書 ふむ、解説に意富比神社を合せ祭っていると・・・さて、この房総叢書第1巻、最初の方をきちんと読まないといけないかね?困ったことに下総式社考があって、いま読んでいる香取新誌の式社の項目は、下総式社考のサブセットですから・・・まあ、そのうちにしっかりと・・・この神社・・・他に史料は・・・近代デジタルライブラリー - 江戸名所図会. 第4 184コマ 意富比神社初めの鎮座の地 船橋駅舎の入口、海神村御代川氏某にあるか・・・

 左の図が、そうらしい・・・旧地とあるから・・船橋大神宮とは別にあって、後に合祀か・・・所在地は船橋駅舎・・・江戸の宿駅の話で、その駅舎の入口で・・・海神という地名はありますね。左の図は、その意富比神社の元宮である入日神社を示したもののようです。そして、読み進むと、船橋とは海神村・九日市場村・五日市場村の総称としての駅舎か・・・日本武尊が東征の際に、海上で神鏡を手に入れそれを祀った場所から始まるようで・・・関東一の宮の船橋大神宮は近代デジタルライブラリー - 江戸名所図会. 第4 187コマ から出てきます。そして、その後に、船橋大神宮の摂社の茂呂神社が式内社として紹介されていて・・・栗ヶ沢の茂呂神社が式内社ではないかという説が紹介されています。

 なんとなく、茂呂神社は船橋・小金原・流山と等間隔で並んでいますから船橋と流山を結ぶ古代からの街道沿いに置かれたチェーン社なのでは?そんな気がします。どうも房総の地には交通路として対になったものが多いような気がして・・・安房-阿波、上海上-下海上、上埴生-下埴生・・・なんとなくね。確証となるものはないですが、気分ですけどね。どうも、交通路というのは支配するに足るものであり、支配のための必須アイテムだと思うのですが・・・歴史家はあまり重視しないような感じです。支配の根源は財力と運輸通信だと思うのですが・・・そして、この2つの基本原資を運用するのが政治で、政治などは看板に過ぎないと思うのですが・・・でも、多くの人はその看板を好んでいるような気がします。

 ああ、そうだ・・・素人のできることは・・・過去の歴史や文学で遊ぶことぐらいだね。間違えていても実害はないから・・・と述べましたが、政治もそうですね。ただし、財力と運輸通信がうまくいっていれば・・・政治には素人も口が出せて、さらに、素人が口を出さなければならないから・・・政治の新しい定義を思いつきました・・・他人の財産と交流をベースに、この2つの資源を集めることで、より多くの人の欲望を実現すると称するが、かなり無責任に、大衆に夢を見させる活動。どうだろう?上手に夢を見させて、金を集め人を動かし、うまくいけば大政治家、うまくいかなければ詐欺師だね。政治家という和魂に、詐欺師という荒魂が対で実は一体・・・まさかね。・・・続きは・・・


蛟もう神社 立木村にある。文間明神あと称するのがこれであるに違いない。この祠は角の宮と奥の宮の2か所に分かれて祀られている。またこれも、荒魂祠・和魂祠であるに違いない。


 残念モウの字は表示困難です。さて、コウモウ神社・・・龍の眷族のミツチの形に神社の地が似ていたからと言われていますね。このあたりの台地は水没させると龍の頭の様に見えますから・・・右の図でAが蛟モウ神社でBは江戸時代に付け替えられた小貝川です。Cはやはり江戸時代に開削された布川-布佐の利根川の狭隘部、Dは手賀沼です。

 コウモウ神社・・・見晴らしの良い場所です・・・なんとなく、神崎から20km烽火つながりにしたくなる場所ですが・・・まさかね・・・私が律令官人で、烽火・道路の担当だったら、律令で定められた事を実施するなら、ここまで繋ぎますね。ここから先はどこへつなぐか?やはり、常総の中海での緊急招集用と考えるのが無難ではないかと・・・神崎から国府へは・・・行方市の玉造の素鵞神社が20kmで国府の中継点ですかね。国府から1km以上離れていて、
玉造の素鵞神社から直視できるのは高岡の知恩院の上あたり・・・県道118号線の先ですね。この118号線が非常に古い道なら納得できるんですが・・・それがわからない。

 律令というのは、論理的な法律ですから、原則論が通じるものですから・・・史料があれば・・・ふむ・・・高浜は国府の外港で国司は都から着任して、鹿島神社に参拝するには、高浜から船で行くのが順路で、荒天で出航不能のときは、高浜のなぎさにススキ・マコモ・ヨシなどの青草で仮屋(青屋)をつくり、遥拝したらしい・・・ということは県道118号線の石岡から高浜への直線道路は古代からのものかね?

A国府-C玉造の素鵞神社-神崎ラインの可能性は左の図のようになりますね。地図上ではOKです。Bの岬の先より、石岡舟塚山古墳のあたりの方が良さそうですが・・・それと、高浜が国府の外港である可能性は極めて低いということです。国府下の津はかなり後代まで利用可能だったのでは?私だと、石岡小学校の位置にでも正倉を置きますかね。

 もう一か所気になるのは、かすみがうら市牛渡-美浦村牛込かな、牛渡の鹿島神社は大同元年の創立で、鹿島神宮へ勅使が下るときに、必ずここにも勅使が下るという話ですから・・・近代デジタルライブラリー - 茨城大観 184コマ気になるわけです。理由が良くわからない・・・そして、この牛渡-牛込ラインってのが、竿を差して舟が渡れるのでは?なんってね。古い航空写真だと、霞ヶ浦の透明度が結構あって、湖底の様子がある程度わかる時があります。1/25000地形図では5mを越えるんですが、なんとなく1947年頃の航空写真には何か写っているような?現像むらかな?一の瀬川を牛が渡るのか?分かりませんね。勅使の牛にかかわる伝承があるようですが・・・近代デジタルライブラリー - 日本民俗学. 〔第1−4〕 隨筆篇 134コマ 例幣使と例幣使街道 江戸時代は例幣使というと、毎年同じ日に同じ場所を通過していたようですね。牛渡の伝説がありました。近代デジタルライブラリー - 利根川勝地案内 130コマ牛渡寄航場・・・大同年間、霞ヶ浦の向岸にある今の牛来から、米を背負った一頭の牛が水中を潜ってこの地に上がって来て、ここで死んでしまったので、塚を築いて、村名もこの牛に因んで牛渡村と称した。塚の上には「牛司大権現、大同二年辰二月」と記した小さな碑が立てられた。勅使塚が、村の北方の小さな丘にあって、昔京師よりの勅使がこの地を通り、病で死んでしまったので、ここに埋めたもので、中央の大きな塚が勅使で、左右の塚はその供のものであると・・・ふむ・・・色々とあるものだ・・・まさか、牛の皮を使った潜水艦の試運転の記録かね?1620年にコルネリウス・ドレベルが木製の骨組みに革を張った、水中航行可能な潜水艇を製作し、その後16人乗りの潜水艇でジェームズ1世が搭乗し・・・というのがありますね。技術的には日本の古代でも可能なような?5m程度の深度を3時間ほど航行可能なら渡れるね・・・牛渡から木原の定期航路があったか・・・近くに楯縫神社・・・武器製造業者だから・・・潜水艇も縫ったか?皮と漆で・・・楯の製造技術と同じじゃないか?湖底を発掘したら・・・出るとか?さすがに、妄想がひどいな・・・さて、最後ですね!


小松神社 式外なり 三代実録贈位、香取の郡神崎村にある神崎明神と称するのがこれであるに違いない。神崎は、もと小松郷内の地にあった。子も小も那訓同じで、小松村にも小詞があるが、これは篠崎明神と称して別の神である。


 どうも、私は神崎の地に思い入れがあるようです。清宮君もあるようですが・・・なんとなく、気にしつつ避けているような?神崎神社が古の摂社で、かなり早い時期に香取神宮から離脱しているためなのではないかと思われます。そして、この地に郡衙が置かれて事実上、香取神宮の権益を狭める方向に働いていたのではないかと・・・神領支配と中央集権国家の出先機関ですから・・・そして、この場所が経済的に自立して、律令体制下で駅を維持しなくても、社会インフラとして持続可能の運輸通信システムが民間で成立したために、駅が廃止されたのが805年・・・そして、郡衙は今郡へと移転して、今度は東から香取神領を犯す事になったのでは?そして、弘仁3年;812年6月に造替を政府直轄事業にして香取神宮のコントロール体制を敷き、さらに元慶6年;882年下総国神税で雑舎の造営・・・

 このあたりの重要性が失われていくのは・・・多分、延暦21年;802年の坂上田村麻呂による蝦夷討伐で多賀城が前線基地ではなく兵站基地に変わった時ではないかと・・・そして、大同2年;807年の兵制改革・・・鹿島・香取の戦時動員体制の終了・・・812年・・・中央資本の香取神宮への注入開始・・・香取神宮無力化10カ年計画・・・海夫注文の存在からすると、香取神宮の動員力は大きかったのでは?鹿島経由280kmの渡洋作戦・・・実績としては、663年の白村江の戦いに向けての陸奥からの軍船の回航・・・鹿島で座礁船1隻・・・常陸風土記の記載の船。残骸は、養老5年;721年頃には存在・・・50年以上持つかね?ちょっと心配・・・ああ、海岸に昭和40年代に廃棄されたと思われる木造の廃棄船がバラけながらも砂の中に形をとどめているから残っていてもそれほどおかしくないか・・・

 さて、清宮君の著作で、ずいぶんと本を読んだ気がします。8月17日〜9月29日だから・・・長かった・・・知らなかった本をずいぶんと紹介された気がしますね。しかし、ネット上にこれほど古書があるとは・・・驚きでした。でも、なんとなく、そのうち公開が停止されるものが出るのではないかと思います。理由は・・・歴史への素人の参入を面白くないと思う勢力の台頭です。論文の多くは有料化され、自由に読むことができなくなっています。学者もある意味特権階級ですからね。

 データベースってのは、固定概念では利用できない・・・真に利用できるのは自由な精神であることを知っていますから・・・下の参考になるものの内、データベースはそのうち有料化され、資格を持った研究者のみに公開されるようになると思います。しかし・・・自由な精神がWikiのような無料のデータベースを構築することになって、有料のものを駆逐することになるのでは?気がついた時に、特権的な研究者は過去のものになるような?そんな気がします。

 理由は・・・原書に近いものを読んで・・・研究者って意外と原書を読めと言うが、読んでない可能性が高いから・・・引用の前後を読んでいないような研究論文を見かけるというのが、その理由です・・・私は、素人なので、先人の研究を知りませんから、清宮君の示す原書に近いものを探して読んだからです・・・ある意味、読書案内だったような気もしますね。興味深いものとして下に掲げた本のほとんどを、なんとなくですが、読了していますからね。あ、ジゴマを読まなきゃ!稲妻強盗も・・・こういったのは読んでないですが・・・

 素晴らしい著作をこの世に贈ってくれた清宮君に感謝、そして乾杯・・・ずいぶん飲ませて頂きました。だって・・・意味が取れないものが多くて・・・思考強化が必要だったんでね!さて、次は何をするか・・・ちょっと、茂呂が気になって・・・

2013.09.29

関係ないが、興味深いもの
近代デジタルライブラリー - 古風土記逸文 栗田君の著書にあったのを忘れてた・・・
近代デジタルライブラリー - 検索結果 高橋氏文 研究書が結構ありますね。料理の本が面白かった・・・
近代デジタルライブラリー - 流山町誌 罹災救助資金の積み立てとかしてたんだ・・・明治時代の町の条例など見たことがなかったけど、結構な書類仕事を8人でこなしたのか・・・よく働くものだ。5931人の町民事務を8人・・・750人の税金で1人の職員を養うのか・・・それから区長及び代理人も公務員で有給職だが、どのくらいの給与水準やら?教員・医師・町会議員か・・・兼業職員かね?
近代デジタルライブラリー - 検索結果 ジゴマ 怪盗ものだね。ずいぶんと流行ったようです。流山で模倣犯が出たと町史にありますね。あとで読まなきゃ!
近代デジタルライブラリー - 検索結果 稲妻強盗 私は俗物なもので・・・面白いね!
近代デジタルライブラリー - 大日本不動産法沿革史 興味深い・・・公地公民はどうなった?気になるわけです。
近代デジタルライブラリー - 三輪叢書 三輪山も興味がありますが・・・入れない所へは出向きにくい・・・
近代デジタルライブラリー - 英国突破記 脱走独逸軍人の逃避行・・・書き出しは良いのだが・・・
近代デジタルライブラリー - 茨城県会決議録. 明治26年臨時会 道路に関するものです。かなり長い街道が設定されています。興味深い・・・
 
 
参考になるもの。
東京大学史料編纂所 Historiographical Institute The University of Tokyo
電子資料館 | 国文学研究資料館 
近代デジタルライブラリー - 検索結果 明治神社誌料
 近代デジタルライブラリー - 明治神社誌料 府県郷社. 上 千葉県 534コマ
 近代デジタルライブラリー - 明治神社誌料 府県郷社. 上 茨城県 592コマ
近代デジタルライブラリー - 検索結果 日本地理志料 
国立国会図書館デジタル化資料 - 和名類聚抄 20巻 
大日本海志編纂資料 資料分類
近代デジタルライブラリー - 大日本神名辞書
茨城県遺跡リポジトリ
近代デジタルライブラリー - 仮名日本書紀. 上巻 204コマ 景行天皇
国際日本文化研究センター 怪異・妖怪伝承データベース

近いうちにやりたいもの
香取志 
古文書(冊子・一紙・巻子・絵図) 日本銀行貨幣博物館 これって面白そう・・・特に、社会関係史料が・・・
近代デジタルライブラリー - 検索結果 徳川時代商業叢書
近代デジタルライブラリー - 検索結果 日本財政経済史料



  










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