香取神宮をうろうろ(59)
 香取新誌 (19)

 どうも、日々不真面目さが募っていく様な?In God We Trust アメリカの近頃のコインには必ず入っているモットー・・・日ごろの指針か・・・しかし、この意味は・・・神へ我々は信頼する、神へ我々は信頼を寄せる。「我々は神を信じる」と訳されますが・・・なんとなくニュアンスが違うような・・・神の中に 我々は信頼する。神は我々の信頼。神々の信頼・・・In God we trust - Wikipedia, the free encyclopedia よくわからん・・・雰囲気は分かりますが・・・どうも、信無き者には理解しがたいものです。フレーズの中に込められたものを捉えるだけの英語力というか・・・文化についての理解が足りないのだと・・・文化というものは、翻訳可能なのだろうかと時々思うわけです。

 それより、たった百数十年前の日本語の本を読むのに手こずっているのですから・・・困ったものです。

 さて、続けるとしましょう。近代デジタルライブラリー - 香取新誌 37コマ このあたりを読んでるのでした・・・結城郡2座・・・からです。


結城郡二座
高椅神社 高橋村にある。高橋明神と称するのに違いない。村は、今は下野の国都賀郡に属する。この地方六か村は、元高椅郷の区に違いない。椅、橋、邦訓は互いに通用している。高椅は膳臣と云う氏人の住んでいることによる名で、景行天皇の従臣のなごりかも、景行天皇が葛飾野で御狩りをしたこと、高橋氏文に見られる。


 高椅神社か・・・あちゃ、また頭の中でおかしなことを・・・結城郡や猿島郡はかつて下総の国・・・栃木県や茨城県に渡る・・・ふむ。小山市にある神社・・・このあたりは都賀郡ですね都賀郡は上都賀と下都賀に分かれますが・・・ふむ。上総・下総みたいに東山道の京に近い方から上野・下野そして下総に近い側が下都賀か・・・東山道経由で京から上総へ下るのだと上野・下野の上都賀・下都賀となるのかね?そうしたら・・・国道294号線を南下して下総に入るのかね?この国道を使って、よく東北方面に行きますから・・・取手から北上、下妻・結城・真岡から国道408号線、そして4号線を北上。こちらの方が真っ直ぐ白河まで行けますが、真岡市街を抜けて国道294が好きですね。会津若松・喜多方・天童・・・ずっと以前喜多方から北上する道で発破作業をやってた・・・田沢湖近くを抜けて鹿角・弘前・竜飛岬で行き止まり・・・このコースもずいぶんと走ったっけ・・・案外、これって東山道かね?これって、国道4号線を行くより面白かった・・・

 ふと・・・更級日記の場合、常陸の先の上総って何で?原文は「東路の道の果てよりも、なほ奥つ方に生ひ出でたる人」となるか?東路は東山道経由で入ったら、いきなり常陸国が東海道の果てで、そこから南下して下総・上総と進むことになるからか・・・ああ、なんとなく理解・・・この頃の国司の任命のからみは・・・内示が出ると官舎を引き払って先ずは門出で家移り、残務を行って、発令の日までに新しい任地の官舎へ入る・・・前任者は既に門出しているから官舎は空いている。これが、門出の意味ですかね・・・新たな門出、交代のための準備期間としての家移りね。発令の日には任地に着いていなければならないから、原則は陸路を利用することになって、東海道の道が十分整備されていなかった時代に上総が任国となると東山道経由で移動・・・そりゃ公用だから官符が出て駅に廻状が廻って・・・馬を乗り継いでの任国入り?基本的に船は使わないとか?土佐日記は・・・その後の任国がないから、帰りの道の指定はないからのんびり楽な船旅かね?3カ月ぐらいかけていましたっけ・・・それとも、みんなに財物をまき散らす旅かね?貫之君の旅行代金の支払いはどんななのだろうか?まさか、帰りは荷物があるから、チャーター船で・・・最後は自宅まで荷物を運ばせたか?帰ったら家が荒れててびっくり・・・この襤褸屋に立派な荷物を入れるんですか?って言われたかね?

 ああ、東海道・東海道中・・・東海道は行政区画、東海道中だと東海道を通り抜けている官道なのかね?どうも表現がわからん・・・となると・・・京を去って東山道中を栃木市の辺りまでやって来て、そこから南下して東海道の下総-上総へと向かう。なんで常陸が割り込む?下妻は結城郡だけど・・・なぜか、私の気分では常陸・・・なぜ?・・・多分、鬼怒川の東だから・・・なんだか、私の好きな道は古代の官道なのかね?一度、国道294を北上、国道50号線を西進、佐久から松本、そして名古屋は鳴海の辺りを通って・・・昔住んでいたことがあったので・・・とにかく四日市へ出て奈良へ・・・こんなルートを走ったっけ・・・これも、地図はほとんど使わず車のフロントガラスに付けたコンパスで方位だけ気にして走るとたどりつくコースでしたね。こんなコースを使った理由は、東京低地と東海道は混む上に、併走する道が少ないので渋滞から逃げられないからなんで・・・このコースを基本にすると、気が向くと色々な方面に気軽に行ける・・・東京及び東海道が開ける前の日本を旅していたのかと・・・

 東海道中が完成するのが、武蔵国が東山道から東海道へ編入された771年のちょっと前、現在の国道4号線浜通りが福島県あたりまで完成するのが石城国成立する718年のちょっと前、会津のあたりの道が整理されたのが岩背国が成立した718年のちょっと前、天童・寒河江から鶴岡へ抜ける道が整備されたのが出羽国が成立した712年のちょっと前とか?600年代の後半から道路の整備が東北で行われたとか?・・・日本書紀 天智9年;670年の条「朝庭の礼儀と行路の相避ることを宣う」って近江令の話だと・・・朝廷の礼儀は、中央の官制の整備、行路は道を整備して地方支配の確立ですかね。地方にも中央の威を浸透させるために・・・すべての道は都に通ず!と考えるなら近江令は道路工事の仕様書で、整備が始まれば不要のものになるから隠滅してもおかしくない・・・たとえ、政権が交代しようが着手された事業が受け継がれれば、大勢に影響はない・・・

 あ、またやっちゃった・・・高椅神社・・・祭神が、磐鹿六雁命で料理の神様・・・近代デジタルライブラリー - 仮名日本書紀. 上巻 222コマ 日本書紀の景行天皇53年の話ですね。あ・・・ちょっと、この条の記述が面白い・・・この月(秋8月)、乗輿で伊勢に行幸して、東海(うみつみち)に入ます。冬10月かづさの国に至ります。海路より淡水門を渡り給う。・・・

 輿に乗って伊勢まで出て、伊勢から船で上総の国に入っています。そして、海路より淡水門を渡る・・・これじゃあ、安房の国なんか行くわけないじゃん・・・何で上総から安房に入らねばいけない?定説では淡水門は浦賀水道か館山湾ですが・・・上総の国に至っている・・・こりゃ漢文にあたらなければいけないのかね?近代デジタルライブラリー - 国史大系. 第1巻 日本書紀 83コマ 中身は一緒だね・・・上総の国に上陸しているじゃん・・そして、上総から移動・・・上総の国府、右の図で黄色の丸が市原の国分寺などがあるあたり・・・この近くに国府があったのでしょう。右上の湾が佐倉のあたりの後に印旛沼になる中海、そして上左よりの中海と東京湾をつなぐように見える水路が花見川・・・まあ、これは繋がっていないと思いますが・・・加曾利辺りに上陸すれば、国道51号線で佐倉など近いものですから・・・本佐倉か酒々井より再び船で、荒海経由常陸入り・・・その途中でハマグリの鱠を食べた・・・上総に上陸していて、常陸風土記に記述があって・・・何故、安房の水門を渡るかね?確かに、養老2年までは安房国は上総国の一部ですが・・・でも・・・目的地は常陸のはずだが?

 多分、景行天皇の御座船が優秀船で、良い水先案内人を持っていて、満ち潮を狙って浦賀水道を北上して直接千葉港へ入ったのでは?

 確かに、東京湾は非常に広い湾ですが・・・左の写真が、海ほたるからの眺めですが・・・この間の横浜バスツアーで・・・いや・・・東京湾に入ったのか?それとも、房総半島を廻ったか?

 分からんですね。でも、常陸まで足を伸ばして8月出発10月上総12月伊勢に戻っていますから。常陸の滞在期間は短く、霞ヶ浦周航ツアーを行って帰ったような感じです。上総からの距離を考え、浮島あたりで遊んでいることから、千葉界隈の上陸が良さそうです。また、駅考になってしまいますが・・・

 乗浜郷は神崎の向かいの阿波村の様だし・・・そして、その東に浮島があり・・・このあたりの榎の浦の津・・・東海道常陸路の入口で駅がある。ここから常陸に入るとき、東の香島大神の遙拝が必須。榎の文字の入った地名はこのあたりには・・・近代デジタルライブラリー - 稲敷郡郷土史 附・名誉鑑 173コマ には山来榎田という小字がある・・・南山来とい場所があるから、このあたりに榎田があるのでしょう。ということは、甘田の低地が榎の浦ナルベシ!よって、阿波崎が榎田の津ナルベシ!この駅の名は?不明・・・榛谷かね?

 いや、違うな・・・右の図を見て違うと・・・黄色の丸が浮島、そして、神崎の向かいの乗浜もOKでも、この場所は決して常陸の入口にはなりえない・・・陸路で国府の石岡へ行く事は、非常な遠回りをしなければならないのでね。

 神崎は右の赤丸の阿波村への道筋になるが、陸路としては終末点であるというしかない。水上交通の基地にはなるが、陸駅としては終末点。だから、景行天皇は浮島まで行って、ここからの眺めを見て、満足して帰った・・・

 潮来への路は明確で、潮来は国府からの終末点。同様に神崎は荒海駅という水駅として成り立ち、眞敷としての陸駅の終末点になりうるが・・・無理か?何しろこれから先の連絡は官道としては存在しない。終末点に水駅を置く理由が見当たらない・・・

 どうも、船は到着に関して不確実なものだから、期日のある移動には使いにくい・・・よって、水駅は渡し場と考えるべきなのでしょう。でも・・・神崎は渡船場があり、陸軍もここを利用していますから渡船の伝統があったような感じです。考えられるのは・・・烽火のシステムに関して・・・神崎が烽火のシステムの中継ステーションでバックアップシステムとしての船が必要だったからぐらいかね。神崎神社に烽火台があったら?鹿島まで20km、鹿島から大竹の鹿島灘海浜公園まで20km、常陸那珂まで20km、河原子まで20km、鵜ノ崎まで14km、五浦まで20km、勿来が終末点ならどうだろう・・・基本的には砂浜を脚力に走らせることができるから・・・そして、大竹から石岡までおよそ20kmほどだから、走って2時間以内・・・勿来から常陸国府へ報告が入るまで3時間以内では・・・遅くとも12時間程度?勿来から多賀城までの区間は烽火を海岸に置きにくく、海岸を走れないからバックアップシステムの脚力は置けないから馬を飛ばすしかないでしょう。相馬の90kmを馬を走らせて・・・6時間か・・・多賀城で戦闘開始、急使が走り、6時間で勿来、ここから烽火で第一報、6時間の戦闘で多賀城落城、6時間で勿来から第二報、この時点で鹿島では第一報で船と棒で武装した集団は召集済み、第二報で第一波出陣・・・

・・・鹿島・香取連合水軍の演習も軍神祭でやってるから・・・鹿島で軍船を仕立てて、棒を持たせ武装させた一団の召集を掛け出陣?何しろ、毎年演習は祭頭祭とか政道の祭りとか言われるので訓練していますから・・・

 こんなシステムを構築したのは670年ごろで、700年ごろには多賀城あたりは既に平定が終わって律令システムに組み込まれ、750年頃には岩手辺りまで・・・800年には悪路王を平定して終わりですから・・・長くても100年ぐらいしか存続しなかったシステムなのでは?その残滓としての・・・大洗磯崎神社になる場所での爺さんの夜更かし、祭頭祭、軍神祭・・・などに鹿島・香取連合水軍系のものがあるとか・・・それなら、香取神宮脇の高台の上にも烽火を監視するための見張りがいても良さそうです。香取神宮は送信系に入っていないが、烽火を見て応答、船の動員を行う義務を負わせれば・・・神崎の津と関係を持ち、神崎以東の津に対して徴発権を与える・・・海夫注文の法的根拠・・・鹿島神宮の役割は、基本的に宮城までの沿岸航路か?仮想敵国への兵站を既に担っているから・・・香取海からの船の動員は香取神宮か・・・そして、鹿島神宮は、高速連絡艇を・・・常陸国風土記によれば・・・巨狭山の命は、新たに長さ三丈余りの舟を建造、常備・・・神崎と香取への緊急用が・・・2隻+予備1隻の計3隻を・・・

 ふむ、東北侵略・維持軍の緊急通信システムとしては良さそうです。

 景行天皇の話が・・・妄想が膨らみすぎたか・・・そして、高橋氏文書か・・・近代デジタルライブラリー - 日本料理法大成 16コマ 料理の手引書かと思ったら、最初の方は歴史だよ・・・系図があったり・・・16コマから高橋氏文の解説があります。包丁で彫刻をやるんだね・・・高級な料理は食べないので・・・でも、1つぐらい覚えると良いかな・・・

 とにかく、南房総市千倉町の高家神社と阿波村の浮島とはつながりがあるようで・・・景行天皇がらみで色々と・・・ただ、千倉の高家神社は近代デジタルライブラリー - 磐鹿六雁命御事績 料理界之祖神高家神社奉祀 26コマ によれば明治31年に六雁命を奉祀する神社として見出されたとのこと・・・そして、六雁命=高倍神であると・・・高橋氏文にあるらしい・・・というわけで、式内社の高橋神社を明治12年まで生きた清宮君は小山の高椅神社としたが、明治31年には、高家神社が現れたという事のようです。千倉の高家神社・・・この神社は元和6年;1620年に高家峰大宮畑で桜の木を3本を移そうとした時に1体の木像と2面の鏡を発見します。鏡に1面には天照皇大神、もう1面には御食津神・磐鹿六雁命とあり・・・これを祀った神社が出来上がるというわけです。文政2年;1819年に正式に式内社の認定申請をしてということのようですが・・・近代デジタルライブラリー - 磐鹿六雁命御事績 料理界之祖神高家神社奉祀 69コマ ここから、高橋氏文が出てきます。広告が結構はさまって読みにくい・・・ふむ、高橋氏文では日本書紀の冬十月至上総国。従海路渡淡水門。と違って十月至于上総国安房浮島宮とあるわけか。10月に上総国安房浮島宮に至って・・・近代デジタルライブラリー - 紀記論究. 建国篇 日代宮 129コマ 私はこの説に賛成!浮島宮からちょこちょこ葛飾に遊びに行くのは車なら大したことはない・・・私が鹿嶋市と我孫子市を行き来しているようなもの・・・

 しかし、浮島宮からねぇ・・・浮島って現在の浮島+阿波村のあたり全体で、浮島宮が新利根町辺りにあれば、遊びまわるには良いかも?東に魚や貝を求め喰らい、西に鹿を求め喰らい・・・そうはいかないかね?あれ?近代デジタルライブラリー - 塵袋. 上 119コマ 常陸国風土記逸文がありますね。覚賀鳥というのは何鳥であろうか?というやつ・・・おお、凄い常陸国河内の郡の浮島の村に鳥あり、賀久賀鳥という。そのさえずる声は愛らしい。大足日子天皇だから景行天皇がこの村の仮宮留まられた30日の間、天皇はこの鳥の声を聞いて、伊賀理の命を取りに行かせて、網を張って取らせた。喜んだ天皇は鳥取という姓を与え、その子孫いまもこの所に住んでいるという。ふむ・・・・これは、現在の常陸国風土記で欠けている河内郡の記述ですね。

 ちょっと・・・河内郡の浮島の村・・・新利根町から阿波村あたりは浮島にも見える・・・一般名の浮島と捉えて、右の図の赤丸の新利根町に浮島宮を置いて景行天皇が楽しんでいる事にして・・・黄色の丸の浮島へ行って、ヤマトタケルノミコトを偲んだり、葛飾へ鹿狩りに行くのも良さそうです。決して房総半島の南端の安房ではないですね。右図の白丸は荒海あたりです。そして黒丸が阿波村の乗浜でオレンジの丸が神崎で・・・一応、航路として考えますが、水駅で結ばれたものではないでしょう。塵袋は比較的読みやすいね・・・そういえば、尾長鳥の話も常陸国の記として、ちょっと前のあたりに記述がありますね。なかなか面白い・・・こうなると、荒海駅は成田市の荒海で、眞敷は神崎が良いかも・・・どんどん気が変わる・・・

 そして、困ったことに鳥取が出てきたぞ・・・伊賀理命のもらった姓・・・景行天皇は常総の中海を遊び歩いたという事かね?その遊びの基地が浮島宮・・・取手のあたりの鹿は美味いとか・・・近代デジタルライブラリー - 上代文学新選 校註 48コマ 高橋氏文 これの方が読みやすい・・・河曲のクチナシ・・・なんだか、律令の駅の名前のようなやつが出てくる・・・

 景行天皇とかの行幸は、新たな国造の勧誘旅行なのかね?しかし・・・色々と史料が出てきて繋がるね・・・史実は一つで、史料はその史実をいろいろな立場で眺めた記述ですから、それなりに整合性を持たせれば繋がるということかな?なんだか清宮君のやり方が・・・さて、続きは・・・ここで切って次回だな。

2013.09.26

関係ないが、興味深いもの
近代デジタルライブラリー - 結城郡郡是 交通機関が発達すると都会の風に染まり純朴でなくなる・・・純朴とは多様な価値観を否定した上に成り立つのか?In God We Trust・・・国粋的なスローガン・・・粋の部分が日本とは違う・・・スルコト・セントスか・・・清宮君より凄い感じ・・・だから是なのか・・・モットーは是だな・・・国是、こんな言葉がありましたね。忘れかけていた言葉・・・不思議な本?
近代デジタルライブラリー - 現代語訳国文学全集. 第8巻 土佐日記・更級日記・十六夜日記
近代デジタルライブラリー - 日本料理法大成 宮内省大膳職包丁師範の著書・・・料理も研究するかね。
近代デジタルライブラリー - 検索結果 石井泰次郎  石井泰次郎(1871-1953)は、四条流宗家9代・・・料理と礼法か・・・今更ながら、少し教養を身に付けるか・・・
近代デジタルライブラリー - 醤油沿革史 ヒゲタ醤油 田中玄蕃殿ご令息 金兆子 の本ですね。後の12代目田中玄蕃殿です。昔は醤油を1人1年に9升=1樽も使ったとか・・・文政4年の江戸府中を流通した醤油は125万樽・・・百万都市に違いないようだ。元治元年1864年頃は醤油2樽5分だから1両1分・・5貫文か・・・結構高いじゃん。この年、価格統制で3樽5分での販売が強いられたが・・・最上醤油の銘柄指定で回避、廉価な粗製醤油との分化が起こる。ふむ・・・興味深い本。
 
 
 

参考になるもの。
東京大学史料編纂所 Historiographical Institute The University of Tokyo
電子資料館 | 国文学研究資料館 
近代デジタルライブラリー - 検索結果 明治神社誌料
 近代デジタルライブラリー - 明治神社誌料 府県郷社. 上 千葉県 534コマ
 近代デジタルライブラリー - 明治神社誌料 府県郷社. 上 茨城県 592コマ
近代デジタルライブラリー - 検索結果 日本地理志料 
国立国会図書館デジタル化資料 - 和名類聚抄 20巻 
大日本海志編纂資料 資料分類
近代デジタルライブラリー - 大日本神名辞書
茨城県遺跡リポジトリ
近代デジタルライブラリー - 仮名日本書紀. 上巻 204コマ 景行天皇


近いうちにやりたいもの
香取志 
古文書(冊子・一紙・巻子・絵図) 日本銀行貨幣博物館 これって面白そう・・・特に、社会関係史料が・・・
近代デジタルライブラリー - 検索結果 徳川時代商業叢書
近代デジタルライブラリー - 検索結果 日本財政経済史料



  










inserted by FC2 system