香取神宮をうろうろ(46)
 香取新誌 (6)

 いつの間にか8月も終わりそうな・・・夏が終わるぞという感じです。香取神宮関連を3カ月もやっちゃったという感じですね。史料はいくらでもありますから、しばらくはこれを中心に遊んでいればよいようです。並行して鹿島関連も考えていますが、そちらを始めるのはいつになるか?利根川の治水も面白そうだし・・・仕事の原稿も書かないといけないし・・・なかなか厄介です。そういえば、ふと佐原-布川の狭窄部って・・・洪水時の下流への水量を制限し、田中・稲戸井調整池に越流させるってシステムですかね?ふと・・・だからわざと狭くした?ふと、中条堤ってやつを思い出したんでね。でも、古利根沼として残るあたりも狭窄部であったし・・・不明ですね。

 今回はなんとなく気分は永楽銭・・・なんとなくね。明の輸出用通貨ですかね?日本向け・・・日本では貨幣の普及が進んでいたようです。一応はまともな銅銭なんですが、明では人気がなく、旧時代の開元通寶が主流だったような話です。日本では私鋳銭が横行、いわゆる鐚銭です。でも銅の含有量の少ないものなんですかね?昔の人は何を基準に撰銭を行ったのか?見かけが綺麗なやつ、重さのまともなやつ・・・あとは・・・案外音かね?ちょっと前に、合衆国の1セント硬貨をいじっていて・・・古い1セント硬貨の響きは良いが、新しい1セント硬貨はチャリンとはいいませんからね。亜鉛だから響かない・・・案外、鉛が多くてチャリンといわない、音の悪い奴をビタって言ったのでは?なんって・・・鐚銭の語源は薄いとか平べったいというようなものが一般に言われますが、私は音が悪い奴ではないかと・・・何しろ、火箸だって風鈴にしちゃう民族ですから・・・落としたときの反挑力違うし・・・ビタって落ちるから・・・さあ、気を入れて始めるとしましょう。

 近代デジタルライブラリー - 香取新誌 19コマ このあたりを読んでるのでした・・・自分でも何処を読んでいるのか不明になる時があるんで、こいつを入れておかないと・・・香取浦の続きです。


常陸風土記に、板来の南の海に、3・4里ほどの洲がある。春には香島や行方の2郡の男女がことごとく集まって来て、津白貝、雑味之貝などを拾う。南海に洲があるとかいうのは、慶長の初めに租入の地となって、十六島という場所の中なのであろう。はっきりとした時代は、新島のできたことも、時が経って久しい、風土記は古書で和銅前後の事であるというので、その古いことを考えよ。或曰、旧潮来は今の台地であって、現在の潮来とは違っている。いわゆる南海に洲ありとは、今の潮来の事で、新島のことではないだろう。今後も調べで見なければならない。


 ふむ、常陸風土記が出てきましたね。潮来の南の洲の話です・・・近代デジタルライブラリー - 古事記・祝詞・風土記 この211コマの左のページの中ほどにありますね。この風土記には津白貝、雑味之貝はつおぼ、くさぐさのかいと読んでいますね。「つおぼ」ってどんな貝だ?大昔の海底だと・・・下総層群から出てくる貝は・・・二枚貝はサルボウ、イタヤガイ、アサリ、ハマグリ、バカガイ、ゴイサギガイなど。マキガイでは、アカニシ、ツメタガイ、ウミニナなどですね。これって十万年ぐらい前だよな・・・関東平野が海没していた時代・・・二万年ぐらい前だと大きく海退して今より陸地が大きく広がりますね。この時代の海浜部の遺跡は海の底・・・六千年ぐらい前は再び海進が起こって香取浦が広がっていた時代になるわけです。そして、およそ五千年ぐらい前頃から神栖や波崎が陸地として現れてきて、古墳時代には潮の満ち干がある銚子・波崎を出口とする広大な内海である香取浦が広がった時代になるのでしょう。そして、香取と神崎に監視所を設けた香取神宮の海軍が香取浦を支配していた・・・と考えたくなるんだな・・・

 一応、常陸風土記は和銅6年;713年に編纂されて養老5年、721年に正式に公開されたようです。1300年ほど前のものですね。確かに、この時代からもずいぶんと地形は変わっているわけですが・・・ただ良いことは、この時代の地形はほとんど陸上にあるということですかね。特に、ここで引用されている行方の話は、個人的に好きですね。そして、ここに書かれている場所ってかなりの部分が現存している感じですから・・・行方の郡衙が所在不明ですがね。

 南海の洲か・・・慶長の初めに租入地になる・・・この頃まともな村落になったわけですね。十六島というと・・・潮来の対岸、
水生植物園や千葉中央博物館大利根分館があったりする場所ですね。新島地区とか言う場所です。・・・何か、歯切れの悪い文章・・・ああ、なんとなく縄張り争い系の文章になってる・・・

 常陸風土記には香島や行方の人たちが潮来の南の洲で貝を取る・・・常陸のもの!でも慶長の頃は香取郡として新島地区が存在・・・下総のもの!そして、現在の潮来の市街がこの洲で、潮来は台地の上だったと言いたいのかな?新島地区は風土記に時代には存在しなくて、其の後、下総として開かれたとか・・・この証拠が欲しいという事のようです。続きは・・・


椿海祭
今も大宮司家で毎年二月初子丑の日に祭るという。この湖は古は神宮の神池であったという。寛文の頃に開墾が行われて、水田8000町余り、生産高は二万四百石程の土地ができたという。その利害は別に言うべきである。



 何が言いたいのかな?椿海祭についてのようですが・・・大宮司家で2月初子丑の日に祭る・・・これは何?香取神宮の祭りには見当たりません・・・2月は巳牛に一萬燈がありますが・・・あとは不明これは調べる糸口は無しかな?椿海の方は近代デジタルライブラリー - 匝瑳郡誌 176コマ 椿海村志 こういったのにありますからOK 椿海と香取の争いの話ってのがありますね。近代デジタルライブラリー - 史料通信叢誌. 第4編 136コマ 椿海 によれば・・・

香取志拾遺に神宮から6里ほど離れた所で香取・匝瑳・海上3郡の境に周囲10里ほどの湖水があって、今は水が無くなって殿円となっている。古老が言うには、太古にはここに巨大な椿の気があった。高さは数百丈枝葉は3里も伸ばしていた。花が咲く時には、天を紅く染め、散るときは地面に錦を敷いたようになる。大神宮に影を落とすようになると、この木は自然と根とともに倒れ、根の跡は湖水となった。これを椿海という、上枝の方を上総と、下枝の方を下総と云う。風土記に曰く上下総は本枝と下枝を謂う。昔この国に大楠が生えていた。その高さは数百丈、時の帝がこれを怪しんで、卜占を行った。大史が奏上するには、天下の大凶事である。これによってこの木を切ることになった。上枝が倒れたところを上総と云い、下枝の倒れた場所を下総というのだ。古語拾遺曰く・・・

 こんな感じですね。この手の話って、比喩的なものが多いですから・・・妄想的歴史法学の立場にある私としては・・・これは権力闘争を象徴的に示したものであるとしたいですね。香取神宮の水軍と、椿海の水軍との香取の海を巡る闘争なんって素敵じゃないですか。可能性としては・・・経津主命が神武東征以前に広大な香取海の支配権を香取で揮っていたとします。そこへ、神武天皇の配下の天富命が阿波の開拓を終え、東国に良い土地を求め阿波忌部氏らを率いて船出して黒潮に乗り、房総半島南端の布良の浜に上陸し拠点を置きます。この時代、九十九里浜は存在しませんから、複雑な海岸線に沢山の津があったでしょう。その津を併合しながら・・・外房を海岸沿いに進み・・・さあ、香取海へ・・・そこで、自ずと倒れるとは・・・風土記の記述を考慮すると・・・ここで争いが起こるとまずい・・・香取の方への勢力の伸長は避けるようにというわけで、自ずと倒れる・・・いや、そのまま太平洋岸を北上して下津の浜に上陸してそこから香取海への足がかりとして、鹿島神宮を・・・なんてね。

 こんな風に考えると・・・鹿島神宮は太平洋岸の沿岸航行によって中央に接触していたが、やがて九十九里浜や百里浜広がるようになって沿岸航行が困難になって水軍が低迷、香取神宮は香取海が縮小して水軍が低迷という感じとしても良さそうな?ついでに・・・日本書紀の記述・・・武甕槌神が進み出て、「どうして、經津主命だけが、一人ますらおであって、私がますらおではないのか?わたしじゃ駄目なのか!」と強弁するので、經津主命に副えて葦原中國の平定に向かわせた・・・これを・・・經津主命が拝命して先発したことにします。これについて武甕槌神が進み出て、「どうして、經津主命だけが、一人ますらおであって、私がますらおではないのか?わたしじゃ駄目なのか!」と強弁するので、經津主命の後を追わせるようにして葦原中國の平定に向かわせた・・・これを東国支配の話にしちゃえばOKかな?だって、古事記とは記述内容が違うので、葦原中國の平定は、經津主命の単独の行動にして、その後の東国遠征の話に武甕槌神が自己PR下と分ければ・・・難点は阿波忌部が中臣氏と対立している氏族であることですかね。中臣氏が支配権を持つような仕掛けが設定できればよいですから・・・忌部氏が職能集団としてその文化の力で支配し、中央政府の支配が十分に届かないので、同じ祭祀集団の中臣氏が入って中央の威光に従わせることに成功・・・春日大社に勧進・・・歴史学の新しい分野が開けるかも、妄想歴史学の誕生・・・

 妄想はこのぐらいにして・・・近代デジタルライブラリー - 椿新田開墾事略 これが江戸時代の椿海干拓の様子を示したものですね。利害は・・・既存の田圃では水が不足、新田も水の供給が不安定・・・干潟八万石は・・・天保水滸伝も・・・さてさて・・・続きは・・・


海夫文書
香取、鹿島のこと、記紀にはにはもちろん、古語拾遺、常陸風土記、出雲国造神賀詞等の正史に漏れている事も取り扱わなければならない、また、これらの他にも、その地方一社の私説の内にも歴然と証されているものも取り扱わなければならない。本宮のようなものは、前にも述べたように、経武二神の別神であることは既に挙げた2つの証明ではっきりとしている。なお、逸事であると思われるのは総常両国の津々浦々に海夫というものがあって、本宮に統属している。その古書は貞治・慶安の頃まで、数通存在しているけれども、だれも何のことであるかを知っているものがない。内容から推考すると、上古二神は海門の鎖鑰として備えられたと考えられて、大江の両岸に並立して祀られた。海夫というものも、それは海軍の兵丁などの名残、また舟師等の子孫であろう。今も各所の津々の村名に船子という村があることを思えば、そのことの跡であると考えるべきであろう。海夫という文字は万葉集にも見られる。



 海夫文書か・・・海夫注文ってやつですね。「なんとかの津 かんとか知行分」とか書かれたリストですね。海夫注文とありますが、注文内容が不明な文書です。請求書の送り先のリストなんでしょうが・・・分かりませんね。香取神宮が水軍を擁していた時代というのがあると明瞭なんでしょうが・・・武装して、神輿を載せて巡業・・・違った・・・巡幸ですね。御札を沢山用意して・・・おぼろげな記憶、集落でお金を集めて、大杉神社にお参り、御祓いと御札を貰って帰ってくる・・・そういった風習があったような?宗教的な権威が高ければ・・・貢物は向こうからやってくる・・・権威ってそういったものだと思うわけです。何しろ、江戸時代だって・・・廻状を回せば、餅がやってくる・・・廻状を廻していない所からだって餅が来てますからね。

 海夫注文で気になるのは、津の規模が書かれていないリストですから、どんな注文をするのか見当がつきません。造営注文の場合は「正神殿 一宇 千葉介」とかですから。注文内容は明瞭です。海夫注文の場合は・・・そういった注文内容が不明瞭過ぎて・・・私にはわかりませんね。一般に海夫は平安時代以来香取神宮の大宮司の支配下にあったとされ、南北朝時代には香取神宮から離れ在地領主の支配下になります。そこで、応安7年;1374年に室町幕府は、海夫の支配を各在地領主から新たに大禰宜の支配に入るように命じたことになっていますね。この時に、海夫注文が作られたと・・・手持ちの千葉県史料では年月未詳ですが、一応、その前に掲載されている応永7年の書類を眺めると海夫注文を発行していることがわかりますが・・・何のためのか?雰囲気では、応永5年あたりからの造替にかかるものなのでしょうが・・・単純に出費は皆さん嫌だと騒いでいるという事のようです。境内で暴れまわるのもいますし・・・物忌がサボって放逐される事件とか何やら・・・香取文書を気合を入れて読むか・・・今までは、造替関連の拾い読みばかりでしたから・・・応永年間の調査も課題としておいて、この本を素早く片付けるか・・・しかし、海夫注文に関しては・・・実はあまり気にしていませんでした。研究が進んでいるものと思っていましたから。そういえば、沙石集の巻八だったかな?便船したる法師の話・・・つまらない事を言ったために舟に乗せてもらえない話があったっけ?風早のゆいれんぼうから、豆をこぼつ・・・風早は良くない、舟に水がもる?舟がこぼつだと!・・・縁起でもない!乗せられるか!とか言う話・・・異本か?近代デジタルライブラリーに無い・・・?記憶違いか?

 なんだか、まずい状態・・・ふと、柳田國男の書物を愛する道の一節を思い出しました・・・「最初には欲しいものの集めきれぬことを歎き、中頃は選択の標準の示されぬを憾みとし、今は又読まねばならぬものの読み尽されぬことを悲しんで居る。」国会図書館の電子化された書籍の山?これからの人たちは欲しいものを集めきれない嘆きは無くなるわけですかね?読み尽くされぬことを悲しんでいる・・・というより、その時間を捻出する金のために悲しんでるのです・・・私はね。そして、「本を読むということは、大抵の場合には冒険である。それだから又冒険の魅力がある。」・・・そう、仕事をサボって仕事を失い、それでも本が読みたいとなると・・・困ったものだ、酒で身を持ち崩すのと変わりはない・・・まあ、「書物が唯一の今と過去との交通方法である」から・・・過去への旅も面白いのでね。デジタル化された文書か・・・「本の名前ばかり際限も無く教えられて、中味はちっとも読んで居ないという人ばかり多い世」ですね。柳田君の時代もそうなんですか・・・「崩した文字で書いた昔の写本を、楷書の活字になおして印刷すると同じく、古文の書きなおしということも或る程度までは必要かと思う。たとえば送りがなの数を加え、振りがなが見苦しいとならば、そこだけはかな文字に改め、又は返り点の付くような文字はまっすぐに書くとかいう類の、ほんの僅かな工作を施せば、一見した所非常に親しみやすく、且つ読んで見てもずっと楽になる」ほんと、そうだよな・・・柳田君の時代の活版本だって読みにくい時代なのだよ・・・ああ、結局、書物を愛する道を読み返してしまいました・・・仕事の原稿書かなきゃ!生活のために働くのはつらい・・・

 さて、海夫注文どうしますかね?最新研究は何処まで進んでいるのだろうか?このあたりが不明です。ただ、海夫注文関連の文書が、慶安の頃ものしかないので・・・海夫注文がどんな性格のものか推測しかできない・・・読みとれるのは、どの津を誰が知行しているかという事だけですね。

 ここで、今まであまり気にしていなくて、急に気になって来たことがあります。それは、新修香取神宮小史の中にある式年の造営の表の中の永和の項目です。応安七年(1374)4月25日大禰宜長房に下総国香取社造替・・・とかあるんですが、これは行われていないんですね。この頃は神宮と地頭との関係はかなり悪いようです。この頃の神宮文書には10年前の事件を引き合いに出して、地頭代を何とかしようと画策しています。引き合いに出されている事件は、1365年の1月4日の多分、山口祭とか竈神社の矢的神事の日ですかね?そして、翌年の2月11日に大勢の者を引き連れてやって来た地頭代の胤幹が騒いでいるようです。事件内容は、仮アサメトノや御供所や神主神官の屋敷などを燃してしまえと命令して、神殿にも類焼の恐れが出てきたので、神輿で外遷宮すると、これに矢を射かけてきた。さらには、八龍神のの木像の上の者がずたずたに切り裂かれた。この時以来社祠などは社内に追い込まれて何年にも及んでいる・・・

 この手の文書は嘘は書けませんから、事実としては大勢でやって来た。仮アサメトノが燃やされた、八龍神の木像の上にいた神人が死んだのは事実でしょう。10年前の事件を如何に潤色するか・・・おっと、直ぐ脇道に逸れる・・・でも、この時代の史料をあさるのも面白そうです。海夫注文に関しては判らないことが多すぎますからこの辺でおしまいにしましょう・・・続きは次回ですね。
2013.08.31

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