香取神宮をうろうろ(44)
 香取新誌 (4)

 どうも、清宮君の文章は嫌いです。なんだか、論理構成が私の頭ではついていくことが困難です。投げ出したい気分・・・投げ出しても良いのですが・・・時代精神がこういった文章を書かせていたのかもしれませんから読んでいますが・・・サラッと流して読んで一読後に内容を拾えば良かったかと・・・きっちり読んでやろうなんって思ったのが間違いなのか・・・なんとなく、天保銭をいじりながら考えるというわけです。

 物の価値ってなかなか厄介・・・天保銭も100文銭として登場しますが、その実勢価値は80文程度で通用という事のようです。そして明治の御世になると、交換レートは重さになって、前回眺めていた文久銭などの8枚分の重さなんで8厘になってしまうわけです。通用しているうちは・・・天保銭1枚が8厘で1銭に足りないところから・・・知恵の足りない者を天保銭と言ったり・・・陸軍大学校の卒業生が胸に付けた記章がこれに似ている・・・大きさだね、小判形で真ん中に星が入った記章・・・ふと下らないことを・・・幕府は天保銭を100文で流通させようとしていますから、小物成などはこの天保銭で支払ったらどうなるのかと・・・80文程度で仕入れて100文として支払えるのか?そうなっていたら・・・天保銭は納税専門の通貨になってしまう?印紙のような物かね?下らないことばかり思いつく・・・さて、続きを・・・


大槻郷
 或云、いにしえ香取は戸数稠密であったので、大槻郷は宮下、香取郷は宮中なるべしと。或云、多田村に槻の池という池がある、その隣の吉原は、割余しの原の続きであって、古は割余し千軒という事もあれば、これなのであろう。
吉原は多田の隣であるので、もとは一村であったと思えて、原野が錯綜している昔から香取とは一の田圃を境界としていたのであれば、後説はこれであろう。

 伊能君はこの文章をよく通したな・・・慶長年間より以前には、宮下・宮中には住人がいなかったようですから・・・水源地がなければ生活できない・・・神宮の境内に不完全な井戸が造られたのが元禄13年ですから・・・そして、この年に、大祢宜家の前に井戸が掘られたのですから・・・大槻郷は宮下でも下の方で氷室井のあたりか吉原・多田ではないかと思われますが・・・室町時代より前の霞ヶ浦は塩水ですから・・・田圃のところは多分、古代には塩水で隔てられていたのでしょうから・・・香取郷が宮中ではないですから・・・それより下の大町ですかね?というより、香取郷は単純に氷室井界隈で、大槻郷は吉原・多田ではないかと・・・ですから、この場合は後説を採るべきではないかと・・・別の文献に当たるか・・・


 万葉集神楽歌に斎槻という詠歌が多くある。孝徳紀に天皇の祖母の尊の皇子が大槻の樹の下に多くの臣下を召し集めて誓いを交わされた。古は、神を祭りや盟約などをするには槻の木の下で行った事がはっきりとしている。古老が言うには、宮地の縦横は八町で、太古は大槻が生い茂っていたために、大槻郷と言っていた。伊勢を槻の宮という事から、いにしえの宮林は、多くは槻の木であったと思われる。さて、往古は槻であったが、後に竹となったようである。建永2年に官朴家の政所の下し文に、宝殿四面八町、大竹林とある。竹を取りつくしたのか、今は杉林である。或云、古事記雄略紀にも、槻の木の下にて典楽をしたことある。必ずしも盟約を行う所とは限らないのであろう。


 孝徳紀か・・・六国史ですね・・・ 近代デジタルライブラリー - 六国史. 巻2 97コマ このページだね。盟約を誓う場所か・・・大昔はどうも、議場は大きな木の下を遣ったような感じです。大勢集まれる建物が無かったからかね?そして、人の背丈より高い所で枝が分かれ、地面を大きく覆う形になるのが大槻、即ち欅の大木という事になるのでしょう。そういえば、常陸国風土記に行方の郡衙の南門に大きな大槻があって、北の枝は自ずから垂れて地に触れているとか書かれていますね。こういった木陰が合議の場になていたのでは?なんって 近代デジタルライブラリー - 古事記・祝詞・風土記 210コマ 槻=欅の木を強調したいのは、現在は杉林であるが、大昔から神聖な場所であることを示したいのでしょう。欅の木はどうしたんでしょうか?ちょっと気になります。欅の乱伐の跡に竹が入り込んだか?そして、その跡に杉を植林したのか?香取神宮の神林は船舶用の良材が取れる場所ですから・・・計画造林を行っていたのではないかと、私は勝手に思っていますが・・・杉の種子の生産などもしていたはずですから。


飯篠長威の碑
梅木山不断所の囲みの土手の上に古碑がある。碑面には飯篠長威、長享二年四月十五日と刻まれている。このことは武芸小伝、北条五代紀等に載っている。併せてみるように。
鹿島須賀村の梅林寺に塚原卜伝の碑がある。元亀二年三月十一日卒と記されている。長威が死んだ長享二年より八十四年後の事である。



 長威の話ですね。この碑は果たしてここにあったか?かなり疑問ですね。多分、このあたりの坂が改修されたときに動かされてきたのでしょう。だって、墓碑でしょう・・・こんな場所に?有名な飯篠長威の墓として現在知られている所のすぐ後ろの空間には、右のように板碑が集められていますから・・・きっと、この墓碑もどこかで拾ってきたというか・・・埋もれていたものが脚光を浴びるようになったのではないかと思ってしまいます。墓碑ではないとか?

 この写真の板碑は何?何処にあったもの?気になりますね。そういえば、香取神宮の境内にも1枚ぐらいありましたね。

 飯篠長威はここで修業しただけですから・・・このあたりで死んだとも思えないのでね。ふと・・・何の分野にしろ本気の研究者にならなかったのは良かったかも?いいかげんな事を書く自由がありますから・・・象牙の塔に籠っての研究って、象牙の塔を磨くに他ならないですから・・・染みになるような研究は絶対できませんからね。それだから、研究者の道を途中まで歩んで行った時に窮屈でしかたなかったような気がします。学者という肩書は欲しかったですが・・・今の時代には・・・しかし、肩書が無いとアクセスすることができない史料というものもありますから・・・まあ、国会図書館の資料だけでもかなりの研究はできそうですから・・・しかし、社会がもっと豊かになって、情報化が進んで・・・個人の自由になる時間が多くなったら・・・所謂本気の研究者の存在意義はあるのか?ふと、思ってしまいます。学問に徒弟制度は必要なのか?ちょっと気になりますね。徒弟制度=排他的制度 か?

 武芸小伝とか近代デジタルライブラリー - 本朝武芸小伝 61コマ 、北條五代記も真正な歴史を書いているかというと・・・かなり疑問な部分がありますから・・・おっと、余計な事を・・・研究ごっこ万歳!

 さて、長威の話をしているのに、なぜ卜伝が出てくるかね?ここで出てくるのは、多分・・・長威より卜伝の方が有名だからでしょうね。それが気に入らないので、長威の方が古い時代の人間だとか言いたいようです。ん?この本では長威の碑としていますね。近頃は、これは墓とされているような?飯篠長威の死んだのが長享2年4月15日というのは、この碑からですかね?これも気になります。生年は1387年・・・死んだのが1488年・・・百歳を超えてるんですね・・・この時代に百歳を超えるのは・・・この碑が建てられたのが1488年と考えたくなってしまいます。如意山地福寺を創建・・・この近くに住んでいた、ここには長威の墓らしきものがある・・・何が真実なのか分かりませんね。梅木山不断所も・・・これはいつから存在するのかも気になりますね。何しろ、不断所も良くわからないものですから・・・古くからあったとしても、ここで生活を営むのは困難で、毎日のように坂を下って現在の大鳥居の方へ降りて近くの井から水を汲んで来る作業をしていたはずです。そりゃ・・・ここは台地の上縁部で登る道があるので居住は可能ですが、毎日水運びか・・・修業には良いですがね。やはり、お籠り堂のようなものだけが台地の上にあったような気がしますね。慶長より前には台地の上には人家はほとんどなかったような記述も見ましたし・・・しかし、その事情が変わるのは何だったのか?相変わらず気になります。

 この事に関連する記述は・・・近代デジタルライブラリー - 香取郡誌 68コマ 応永以降神領散居の神官等は地頭或は地方豪族の為に所領を侵掠せられ避けて宮林内に移住するものあり、遂に一つの村落を成せしものならむ故に香取の地は今尚ほ宮中の古称あり・・・ですね。応永か・・・1394年から1427年この頃は・・・金閣などの・・・北山文化の時代です。室町初期の安定した時代ですね。戦乱が無い平和な時期・・・そうすると、地方領主の台頭によって神官等が逃げてきたというのはそぐわない話になりそうな気がします。案外、この時代人口増加があって、神官等にも余裕が出てきて下僕に水汲みとかさせる余裕が出てきたとか・・・眺めの良いじめじめしない丘の上に居を構え、下僕に水運びなどをさせるのがステータスになったとか?この時代の大型の水甕でも沢山あれば可能性は見出せる?かな・・・文献資料があれば・・・でも、生活にかかわる文献史料は少ないんでね。それが問題・・・おっと、続きはちょっと読んだらやる気が・・・


香取浦
 人丸の歌に大船の云々、これは真淵の説の如く下総の事であろう。光俊の歌、浪あらき云々、古くは渺漫たる大江であって、渡ることが困難なことを考えるように。古本今昔物語に、源の信頼、平の忠常を討する条に、この香取浦のといって、衣川の末とある。昔は利根川の末ではなかったことがわかる。


 参ったね、人丸の歌に大船の・・・これだけで判るのかよ・・・古典的教養がずいぶんと必要です。人丸=柿本人麻呂で大船の・・・大船の 香取の海に いかりおろし 如何なる人か ものおもはざらむ・・・かな?まあ、わかる人は判るんだろうけど・・・加茂真淵まで出てきたぞ・・・柿本朝臣人麻呂歌集の歌考か?・・・ 近代デジタルライブラリー - 賀茂真淵全集. 第3 これですかね・・・なんとなく違うか?そして、光俊の歌、浪あらき・・・と来たぞ・・・藤原光俊 なみあらき かとりのうみの ゆふしほに わたりかねたる よをなけくかな・・・かね?この時代の教養人にはこれだけで通じたのか?そして、今昔物語まで出てきたぞ・・・衣川の末・・・この話は知ってますね。近代デジタルライブラリー - 今昔物語集. 巻第25 23コマ 衣川・・・現在は鬼怒川ですね。現在は利根川の支流ですが、江戸時代から本格的に物流のために東遷事業が行われます。で江戸川への分水を減らして銚子の方へと、その結果鬼怒川も小貝川も利根川の支流へとなって行きます。この事ですね・・・

 この今昔物語の話は・・・平忠常の乱として知られるものです。平忠常の上総・下総・常陸にまたがる領地を支配していました。1028年に安房守である平惟忠を焼き殺してしまいます。続いて、上総の国衙を占領します。これで、事実上平将門の乱状態になるわけです。まあ、独立国を作るまでには至りませんが・・・朝廷は討伐軍を派遣しすが軍にはやる気がなかったようで、地元の覇権抗争にかかわって収奪に明け暮れているという感じですかね?普通なら適当なところで、中央貴族との間の話でうやむやになる予定だったという感じなのでしょう。しかし、常陸平氏と武蔵・下総の平氏と仲がちょっと悪くて・・・本気の覇権抗争へと進展しつつあったようです。

 ここで現れるのが源頼信です。甲斐守の源頼信は都で法師になっている忠常の子を伴ってまずは甲斐国へ下向します。そして、甲斐からどこを通ったか知りませんが・・・どうせ、八王子の方へ出て、国道16号線で春日部あたりから石岡へ向かって、鹿島まで出向いたのではないかと・・・なんとなく・・・でも甲州街道の整備ってずいぶんと遅かったような感じですから、甲斐から信濃へ出て東山道通って石岡から鹿島への方が信頼性があるかな?・・・考えることは夢を描くことさ!とにかく、鹿島神宮のあたりに陣取って・・・前に広がる香取浦を渡って攻めることを考えるわけです。この話、清宮君は気に入らないのかな?香取浦についての説明が今昔物語に色々と書かれているのに・・・

 香取神宮の前から下総攻略軍を出そうっていうわけですが、香取浦を迂回すると7日かかるから・・・ここを越えたいわけです。船の手配を考えますが、下総側の香取神宮が海夫の支配権を持っていることにすると、香取神宮も巻き込んで話がでかくなるのです。今昔物語をベースにしていますから、香取神宮を巻き込むと・・・平忠常の本営は津宮にあることにしましょう。香取神宮の高台か斥候杉から、鹿島神宮方面を監視します。常忠は香取神宮の支配している海夫に指令を出させます・・・船を隠すように・・・鹿島と香取の間は、人の顔が識別できる距離ではありませんが、多くの武人が武装して浜に集まっているようすが手に取るように分かります。そこへ頼信の軍使の乗った小舟が忠常の所へやってくる・・・美しい光景ではありませんか。忠常は船を隠させていますから直ぐには攻めてこられないだろうと、ちょっと強気・・・投降の誘いは断ります。頼信の方は漠然とした攻略法を胸に秘めています・・・それは、家に伝えられていた大船渡から津宮までの幅1丈ほどの海中の道です。2か所深い所があるが、馬で渡れる場所があることです。ただ、その道案内となるべき者が居ないわけです。しかし、軍勢の中に真髪の高文という者がいて、その者が案内を申し出て、従者に葦を一束持たせ、その海中の道を進みす進みその葦を後に突き刺して道を示します。これによって、軍は香取浦を渡ることができ、これの知らせを聞いた忠常は降伏したとのこと・・・

 多分、海中を馬で渡れる道は無いのでしょう。しかし、竿をさして渡れる場所があるようですから、昼間の内に軍使の船がその道しるべとなる葦を差して船で渡り、月もない暗夜に夜襲をかけたのでは?早朝、ほのかに明るくなる頃に武人たちを乗せた船が一列に押し寄せてくるのを見たのではないかと・・・香取神宮の支配を離れている津の海夫が存在しているわけですから・・・この風景が、神幸祭、かつての軍神祭の原風景ではないかと・・・

 すんなり降伏してくれたので、香取神宮などは巻き添えを食わなくて済んだとか・・・しかし、これによって香取神宮が支配していた海夫の動向を考えると・・・かなり、大きな事件になりそうな感じです。この事件は1031年の春の事のようですね。続きは次回としましょう・・・

2013.08.27

関係ないが、興味深いもの
近代デジタルライブラリー - 北条五代記
 なかなかカッコいい本です。絵本は面白いですが・・・
近代デジタルライブラリー - 通俗日本全史. 第15巻 275コマ 北條五代記です。こっちは絵本じゃないので・・・ 
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