香取神宮をうろうろ(42)
 香取新誌 (2)

 気になるのは、古事記と日本書紀の記述内容の違いですね。成立時期はほぼ同じなんですが・・・気になりますね。古事記は偽書であるという話もありますが・・・後代の編集の可能性はあると思いますが・・・まあ、そんな事はどうでもよいのでね。史書の編纂などは、自らの名を残すための装置の設置のようなものですから・・・さて、続けましょう・・・まあ、一般的な解釈では経津主命が物部系の神で、武甕槌命が中臣系の神だという事ですかね・・・香取氏は大中臣氏・・・か?わからん・・・とにかく大昔の事は実感がわきません・・・和同開寶などの話を引っ張り出したので・・・唐代の開元通寶を引っ張り出して何か、実感できるものがあるかといじっていますが・・・621年からおよそ300年間に製造されたものの1枚・・・1000年以上昔のお金ですから・・・どんな人の手を渡って、ここまでたどり着いたのか?お金は喋ってくれませんから・・・遣唐使の時代の・・・菅原道真の時代の・・・三蔵法師が・・・実物が持つ時代性は偉大だと思うのですが・・・私の手持ちの古ものは・・・武蔵国国分寺の瓦のかけらとか、縄文土器のかけらとかが古いですが・・・

 さて、近代デジタルライブラリー - 香取新誌の続きです。


 又見の社は追野という所にある、匝瑳郡の老尾の神社は香取の御子であるという、その他、色々と言われるが、多分、地名を取っての話ではないかと思われる。追野も老尾も横韻が同じである。
 神宮の御子である天の苗加の命、鹿島の御子である武沼井の命、天津児屋根の命の御子である天の押雲の命を祀っている。祠の側の山際に石槨があって、半ば形を露わにしている。祠の下にも石槨がある。その上に祠が建っている。話では、他の神社の下にも石槨がしばしばあるようで、延喜式で死人を埋蔵するを許さずというのは、他の死人を埋めさせないという事で、栗田寛が言うには、上古の制度では、大抵は墓には神社を建てたと思われる。吉備津彦の神社、狭投の神社の類はこれである。
 姓氏録に矢作の連は経津主命の子孫である。矢作村は香取郡にあって香取の西一里ほどの所にある。



 又見神社の話ですね。又見の社は追野にある・・・小字では又見ですね。又見社の石段を上ったあたりから続く台地の上をまとめて追野と言ったのでしょう。又見神社の社殿は右のようなものですね。

 社殿の雰囲気は、色とか形とかからすると、香取神宮の旧拝殿と同じようなデザインのような感じです。この建物はいつのものやら?近いうちに境内の外にある摂社を眺めてこないと・・・左の祠は、三島神社ですかね?香取連三島命を祀っているのか・・・

 匝瑳郡の老尾神社にも経津主命の御子神の阿佐比古命を主祭神として、磐筒男命・磐筒女命・国常立命が祀られているとことです。

 匝瑳郡誌によればこの神社は・・・


 匝瑳村大字生尾字加知内にあり、延喜式内の神社なり、祭神は経津主の神の御子阿佐比古命なりと云う。崇神邸の御宇神田を附し恒例の祭祀はこの時より始まる。後村上天皇の正平年間に千葉氏より神田の寄付あり、又、足利晴氏、千葉胤富に状を下して本社の大禰宜を匝海二郡社々人の長たるべきを沙汰せられたり。氏子は匝瑳郡全体なり。
一説に云う、本社は物部小事大連を祀れり、續紀に承和二年三月辛酉下総国人陸奥鎮守外從五位下勲六等物部匝瑳連熊猪、改連賜宿禰という條に昔物部小事大連、錫節天朝、出征坂東、凱旋帰報、藉此功勲令得於下総国、始建匝瑳郡、仍以為氏、是則熊猪等祖也とあれば、小事大連は本郡の祖神として永く奉祀せられるべきものにして本神社は即ち是なりと、然れども本社の伝えと異なるを以て記して疑を存す。本社は明治六年十月を以て郷社に列せられ、幣饌料供進指定の神社たり、境内百六十二坪



 ・・・との事・・・近くには観応3年の種字の入った碑があるとか・・・ふむ・・・この神社は匝瑳大明神とも呼ばれる・・・香取神宮内の境内摂社の匝瑳神社は経津主大神の親神の磐筒男神、磐筒女神が祭神・・・なんだかよくわからない・・・香取神宮の摂社は奥宮・鹿島新宮・匝瑳神社・側高神社・又見神社・津の東西社(忍男神社・膽男神社)、大戸神社・返田神社ですが・・・古くは、これらの他に神崎神社・高房神社・切手神社・東大社・木内神社などがあったようですが・・・これらの神社に関しても何か出てきそうな予感が・・・

 さて、又見神社の脇には右のような古墳の石室が露出しています。社殿の下にも石室があるようですが、こちらの方は外から眺めても良くわかりませんでしたね。

 境内には三島神社があって、香取連三島命を祀っているとの事ですから、その系統の墓所であったのかもしれませんね・・・そこで・・・延喜式で死体の埋蔵の禁止の話をつけているのかね・・・

 大化2年;646年の薄葬令でモガリの禁止があって、ここで日本の葬制が大きく変わるわけです。ここまでは、3年ぐらい遺体をもがりと称してそれなりの場所に置いて、腐らせ白骨化してから改葬という手順であったようです。多分風が無くても半径100mぐらいはそれなりに匂ったに違いないですが・・・人間が腐乱して白骨化しやがて無になってしまう様が 九相図 - Google 検索 ってのに描かれたりしますね。あまり見る気がしない図ですが・・・かなり人気があったような?

 朝鮮半島ではずいぶんと後年までこのモガリというのをやっていたようです。ちょっと前に朝鮮総督府の発刊した本など眺めた時に関心を持って眺めましたが・・・近代デジタルライブラリー - [朝鮮総督府]調査資料. 第31輯 民間信仰第二部 朝鮮の風水 この195コマあたりから葬制に関しての記述があります。こういったものは興味深いですね。しかし、遺体を薦に包んで木からぶら下げるとか・・・ちょっと凄いですね。北朝鮮を衛星写真で眺めると、確かにモガリを行うと思われる場所が、集落と墓地を結ぶ道の間にあったりしますから・・・

 ええと・・・延喜式に栗田寛が言うような話があるのか気になります。栗田寛は・・・近代デジタルライブラリー - 検索結果 栗田寛 ずいぶんと本を書いてますね。・・・延喜式の時代・・・時期的言えば、確かに土葬から火葬へと移行していく時期かと思いますが・・・墓の上に神社を建てる・・・まあ、古墳が神社に化けているのは結構ありますね。墓だった土地を別の用途に変えるのはなかなか難しいという事ではないかと・・・さすがに、私の家はかつての激戦地だったので、この下には経文が書かれた頭蓋骨とかが掘ればザクザクと出ますと言うのでは・・・あまり良くないですが・・・投げ込み寺の跡で、長い溝に端から順に仏さんを埋けたんです・・・とかじゃね。神社や仏閣ならOKなのでしょう。又見神社のあたりは多分、墓所であったのでしょう・・・そういえば、この追野には惣持院があったはずです・・・現在は、墓地しかないような感じですが・・・どうなっているのやら?お寺は移転したのか?そのうち調べるとしましょう・・・

 延喜式はそのうち読むことにして・・・意外と長くて、ざっと眺めるのもつかれました。気長に目を通す事にしましょう。

 あとは・・・姓氏録に矢作の連は経津主命の子孫である・・・ふむ、姓氏録なんって見たこと無いな・・・近代デジタルライブラリー - 新撰姓氏録考証. 巻之21 19コマに矢作連が出てますね。書いてある内容は・・・注釈本ですから・・・内容は判りますが意味が良くわからんなぁ〜・・・矢作村は香取郡にあって香取の西一里ほどの所にあるのは判りますが・・・これまた何?という感じですかね?この集落と経津主命とのかかわり合いはどのようなものなのでしょうか?気になりますが・・・

 近代デジタルライブラリー - 香取郡誌 133コマから矢作砦や矢作牧について書かれています。

矢作砦 香西村本矢作区字館に在り、今は民家がある。国分氏、初めにここに城を置いたが、後に大崎砦に移った。

矢作牧跡 矢作原 香西村の本矢作区にある。舊紀古文書でそれをはっきりと書いている物は無いが、里人はこれを矢作荘または矢作郷、矢作領などと称し、昔は国分氏の領地に属し、時代が下って、天正年間になって鳥居氏がここに封ぜられ、4万石を所領としていた。このことで彊域が広いことがわかる。だから、今の香西村全体とその隣接地を総称したものであろう。里人は、これに接する原野を称して、矢作原と名付けている。東西2里南北1里ほどで徳川氏の時代には牝牡の馬の数はおよそ500頭を下らなかったという事だ。


 こんな記述ですね・・・特別な関連は見出せないような感じです。さて、続きは・・・


王子の社は登戸という地にある。
王子三十余座であるという。神宮の御子孫は三十余代の間ここの祀られれていたという。山の中腹の平らな所に土中の所々に大きな石が連なっている。これは墳墓の跡で、石槨であると言われている。



 王子社か・・・これは香取小学校の脇にありますね。登戸か・・・新市場のある台地への登り口に当たる場所だからですかね?それとも、経津主命の御子が代々葬られた場所への入口で登戸なんですかね?どの山の中腹なのか不明ですが・・・古い墓所があったようですね。ここでは学校になったのか?ちょっと気になります。・・・この続きは、なぜか延喜式が・・・


延喜式の臨時祭式に、香取の神宮、楽人装束は命ぜられて国司から受け取ることになっていて、不足するものがあれば代わりが支給された。楽人6人分の装束は袍6着、襖子6着、汗袗6着、白袴6着、襪6足。舞妓8人分の装束は、袷8着、単衣8着、袴8着、裳8着、絹帯8條、襪8足。
延喜式巻十五、内蔵寮四丁鹿島祭、香取祭。鹿島の社、宮司・禰宜・祝各1人、物忌1人。香取社、宮司・禰宜各1人、物忌2人。
同書巻三十大蔵省八丁 凡そ、鹿島・香取社に幣帛を奉る。この日、物忌3人に(鹿島1人・香取2人)に別けて紫の纈の帛を3丈・・・とか。



 香取神宮と鹿島神宮の比較を始めるつもりでしょうか?摂社を2つ紹介したと思ったら、いきなり延喜式で鹿島・香取両神宮を併記して書いている文へと飛んでます・・・落丁ではないのは明白ですが・・・いきなり飛ぶなよという感じですね。さて、これについて何を述べるつもりやら・・・先へ進みましょう・・・


伊能頴則が云うには、二神の事について延喜式では甲乙の関係は無い。ただし四時祭式の春日祭の料について、香取は鹿島より少なくされている。しかし、香取は物忌2人を置き、鹿島より1人多い。その上、楽人舞妓の装束は香取だけに支給されて、鹿島には無い。春日祭や藤原氏に関係ある事は鹿島を先とする例を見ることができる。
延喜式三千三百余座の内、楽人装束等を賜うのは本宮に限られている。諸社の内でも特別に目立つ神社であることをこういったところから推し量って知るように。



 へいへい・・・伊能頴則 近代デジタルライブラリー - 房総の偉人 こんな人物ですね。この人も、呉服店を経営していて、五十あたりで隠居、そして、国学者へと転身して行く人ですね。この人の話では、延喜式では香取神宮と鹿島神宮に関して優劣の関係は無いという・・・延喜式四時祭式の春日祭では、香取は鹿島の祭神料より低く抑えられている。近代デジタルライブラリー - 延喜式. 第1 25コマ以降春日の神四座の祭 祭神料 延喜式. 第1 27コマ この部分ですね。・・・だけれども、香取は物忌を2人置いているから、鹿島より1人多い!楽人舞妓の装束をは香取神宮だけだ!・・・春日大社や藤原氏の話になると鹿島神宮の方が重視されるが・・・だけど、楽人の装束をもらえるのは香取だけ、香取だけ目立ってるぞ!って強弁していますね。

2013.08.23

関係ないが、興味深いもの

近代デジタルライブラリー - 匝瑳郡誌 匝瑳郡の老尾神社は39コマに出てますね。
近代デジタルライブラリー - 古代日本遺物遺跡の研究
 
 
 
 
 
 
 
 
 

  










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