香取神宮をうろうろ(41)
 香取新誌 (1)

 今回から、ちょっと近現代の香取神宮の様子を 近代デジタルライブラリー - 香取新誌 を皮切りに香取神宮の様子をチェックしてみることにしましょう。この本は明治12年に出版された本なので、明治29年の修理以前の様子を示していると思われます。残念ながら、神仏分離以降のものですが・・・そういった事柄はどのように表現されているのか、そういった所も注意しながら読み進んでみることにしましょう。

 清宮秀堅纂 香取新誌 明治12年8月刊行

 序からすると明治5年ごろに書きためられたものが集められ内容が定まり、明治10年にはこの本の刊行が予定されていたようです。書誌情報によれば清宮秀堅は1809-1879に生きた人でこの本の著者兼出版人で佐原の住人です。この本は伊能頴則の友人の清宮棠陰(秀堅)が香取神宮の事を研究した成果を、明治12年10月20日死去71歳ですから・・・その直前に出版された本です。字は穎栗、通称は利右衛門、号は棠陰ですね。こりゃ色々とチェックしないといけないですが・・・略歴は 近代デジタルライブラリー - 志のぶ草 などにありますね。

 近代デジタルライブラリー - 検索結果 清宮秀堅 この人の著作が結構ある・・・こりゃ目を通さないといけない本がこれだけあるという事ですね。

さて、序はいいとして、本文へ入りましょう。


香取新誌 北総 清宮秀堅 著
こころあてに しをりするこそ かしこけれ 八千代経にける かみのみあとを

延喜式神名帳に、香取郡一座、香取の神宮 名神大 月次新嘗とあるのは、この神の事である。
香取神宮の正殿には経津主命、武甕槌命、天児屋根命、姫大神を祀っている。嘉吉4年の文書に、香取四所明神と記されている。
姫大神は経津主命の妃神であろう。鹿島の姫大神は武甕槌命の妃神で、いろいろな所に祀られている姫大神は、それぞれの場所の姫大神で、そこに祀られている神の妃神であろう。あるいは、香取四所明神というのは、後に春日神宮にならって、姫神は平岡の姫神であろうというが、内陣正面に彦神、姫神、左右は武甕槌命、天児屋根命であるから、おそらくは姫神であろう。


 ふむ・・・延喜式はOK、嘉吉4年は1444年ですね。内陣正面にとありますから、本殿の中の神座には、右のような原則からすると、一に経津主命、二に姫大神、三に武甕槌命、四に天児屋根命が祀られていることになりますかね?

 ちょっとだけ気になるのは・・・鹿島新宮ですね。本殿から武甕槌命を、新たに鹿島新宮に移したとか・・・何かで読みましたからね。このあたりは良くわかりません・・・

 ここの記述を眺めると・・・なんとなく・・・昔々、香取神宮には経津主命、武甕槌命、天児屋根命、姫大神が祀られていました。経津主命の妃神は姫大神で、やがて武甕槌命はある姫神を娶って姫大神を持つようになって、鹿島へ行ってしまいました。そして、香取神宮では鹿島新宮に祀られるように成りました。・・・って感じかな?でも、そうなると、祀られているのは三柱の神ってこと?このあたりは・・・神秘なり・・・続きは・・・


 本宮の神系は、日本記、旧事紀、古語拾遺等の書に詳しく書かれているので、さらに頻しく書き出す事はしない。
延喜式遷却崇神祭に、是を以て天津神あまつかみの御言みことを以て、更に量かり給たまひし、 経津主命・健雷命、二柱の神等を天降し給たまひしとか・・・


 香取神宮の祭神に関しては色々なものに書かれているから、これ以上くどくどとは書くつもりが無いのか・・・延喜式の遷却崇神祭?何だ・・・祭の項目には無くて・・・祝詞か・・・ 近代デジタルライブラリー - 延喜式. 第2 これの19コマにありますね。祝詞は一度、目を通したことがありましたが、記憶になかった・・・近代デジタルライブラリーの威力は絶大ですね。近代デジタルライブラリー - 賀茂真淵全集. 第2 いろいろな参考文献を駆使することができます。賀茂真淵も読むべきなのか・・・さて続きは・・・


 ただし古事記伝には、香取・鹿島は同体異名であるというせつがあって、それを信じる人もあるので、その事が正しくない事の説明を載せて、経津主命と武甕槌命が別の神であることを明らかにする。同体異名の説も長いので、その要点をあげておくだけにしよう。現在、鹿島神宮での相殿の様子は右が経津主命、左が天津児屋根の命、中央が武甕槌命である。同体異名であるのなら、どうして経津主命を祀るのであろうか。また、延喜式巻の10、神祇の10に陸奥国牡鹿の郡十座の内に香取・伊豆・御子の神社がある。鹿島の御子の神社もある。行方郡八座の内に鹿島・御子・栗原郷八座の内に香取・御子の神社がある。常陸風土記に鹿島郡当麻郷の条に香島・香取二神の社あり。これらも同体異名であるのなら、二神の御子を別に挙げるだろうか?この二事でも同体異名ではない確証として十分であろう。そうであっても、鹿島は藤原氏の租神であるから朝廷でもとりわけ敬っている。というわけで、世間でも別のものであると思われる。新田・足利のこと、新田は宗家であるというものの、名位声望については足利に劣っている。足利は、熱田大宮司と縁者であるから、頼朝の信もあって、その上北条家とも縁があるから、大いに声望を得て、当時は目立っていた。新田は大炊助といって、わずかに宗家であることをこれで知ることができるだけである。このことは二神の事に類似のものであるから、これを挙げて世に問う。
 古事記伝に又水分の神などの上にあって、また彌都波能賣命があるのも同じことである。上代から伝えられたことだから間違って伝わったこともあるだろうが、書紀ではそれでも、重複を嫌って省略されているらしく、この本には存在する神であっても書かれていないものが多いようだ。
 本居氏の説も分かった上で論じるべきであろう。二千年前後の古跡、異同のあるのは、帰って真面目であるに違いない。

 ふむ・・・香取・鹿島の神は同体異名であるという説がありますね・・・私も、別の神であると思います。ただ・・・気になるのは、神は1つであっても良いし、別々であっても良いし・・・そうですね・・・たとえば香取神宮は全国に約400社ある香取神社の総本社である。という事実があります。経津主命は一柱の神ですが、香取神宮に祀られていますが、同時に400余りの神社でも同時に祀られている・・・一柱の神であるが、同時に多数のアクセスポイントを持つ・・・一にして多であるわけですから・・・神は人間とは違って・・・情報の形態のような感じですね。インターネットと同じ、多くのサーバーに蓄積された情報がネット上で統合され、それを引き出している・・・ネットに対して、XXという情報があれば・・・と願うと、それは処理され探され繋がれ・・・願いを聞いてくれる・・・多であるが一として存在しているかのように見える・・・

 名前か・・・神が一つであっても2つの名前を持っていても・・・1つの名前を持っていてもそれが多数であっても問題は無いですが・・・でも、こだわりがあるようです。同じ社に、違う名前で同じ神が祀られるはずはないだろうという論理ですね。続くちょっと気になる論理構成が・・・朝廷で鹿島神宮が特別なものと考えているとか・・・何故、新田氏と足利氏の関係を挙げているのやら?

 鹿島神宮・香取神宮のこと、香取神宮は宗家であるというものの、名位声望については鹿島神宮に劣っている。鹿島神宮は、藤原氏の租神であるから、春日大社の信もあって、その上朝廷とも縁があるから、大いに声望を得て、当時は目立っていた。とでも言いたいのでしょうか?

 なんとなく・・・香取神宮の鹿島神宮に対する清宮秀堅の思いがあるのでしょか?気になる所です・・・とにかく、いろいろな言い伝えがあることは、ある事柄についての見方の違いがあることが、その事実があった証拠であるというのでしょう・・・興味深い話です。・・・続きは・・・


 常陸風土記、鹿島郡の条には、孝徳天皇の世に・・・そこには天の神社・坂戸神社・沼尾神社の三社があって、これを合わせて香島大明神と呼んでいた。この名にちなんで、郡の名前としたと。
 地元の人たちは、坂戸には天児屋根命を、沼尾には経津主の神を祭っていると、そうであるが、今も大神の社とこの2社を合わせて、鹿島三社という。さて、地元の人の説も、受け入れにくい部分が多いのだが、風土記にもこう書いてあるので、この三所を合わせて、鹿島という事は、古来よりの事であるようだ。この事についても、一体で分身ではないことを推測できるだろう。
 本居氏が最も正しい説という氏が著した神代正語に、二神の事を記して、又は高御産巣日神の命を以て、経津主の神、武甕槌の神を遣わして・・・または、天菩比の神を国の様子を見に遣わしている。・・・このときの斎主の命は、武御雷の神であった。それは、今、東国香取に居る。この斎主の神を祀る社は、下総の国香取郡の神宮、明神大 月次新嘗とある。古事記伝で説明していることによると、古事記を主張しているものの、日本書紀は神壽詞などを択取して。最も正しい説であるとか、正語にはこのように説かれているのであるが、一偏の見方は、当たっていないこともある。ここで啓発しておくものである。


 なんとなく歯切れの悪い感じがしますが・・・私の読み方が悪いためなのか・・・多分・・・風土記では鹿島の神を3つの社に祀られた神の総体として扱っているような感じで・・・祭神についてははっきりしないような感じであることは間違いないのですが・・・私は勝手に、最初は坂戸に祀られていたが、そこの津が海退によって使用不能になったから、次に、沼尾神社に移り、更なる海退で、現在の鹿島神宮に移り、奥宮と御手洗のセットになり、更なる海退で、現在の社殿の位置と社務所裏の谷津のセットになり・・・その後は、津は大船津へと離れたと信じているんでね。傍証はほとんど無くて、坂戸・沼尾のあたりに郡衙があり、それが神野向だっけ・・・に移転しています。これも、津の機能が失われたことによる移転と思うんでね。

 続く文は・・・何とも言えません・・・神代正語は読んだことが無いので・・・近代デジタルライブラリー - 神代正語 ひえ〜この本は読むのにむちゃくちゃ時間がかかるぞ・・・達筆過ぎて・・・でも、読み始めてみると意外と読みやすい文字のような?こんな感じの崩し方ならOKかな・・・なるほど、この神代正語の88コマの記述が気に入らないという事なのか・・・経津主命は古事記には現れず、日本書紀の方には現れるという事をどうするのか?それが問題なのでしょう。

 古事記は和銅5年;712年に成立、日本書紀は養老4年;720年に完成でしたっけ・・・8年間で事情がどの程度変わったか?という事なのでしょう。古事記を書いた太安万侶は723年まで生きていますから日本書紀も目にしていたのではないかと思われますが・・・715年に元明天皇が譲位し、第44代天皇の元正天皇が即位・・・元正天皇は独身のままで即位した初めての女帝ですね。この時代は・・・公地公民などの制度の崩壊・・・三世一身法が723年に成立するちょっと前・・・この法の前提になるのは・・・溝や池などの灌漑施設を新設して墾田を行った場合はそれは私有を許される・・・でも、墾田の主体となるのは単なる農民の訳はない・・・資本を必要としますからね。何しろ溝や池ですから・・・ただ地面を耕すのとは違う・・・水源の確保から始まるわけですから・・・開発領主が必要なはずです。

 多分、大貴族だけが開発行為が行える時代から、中小の貴族たちにも開発行為の機会が廻って来た時代なのではないかと思われます。上手く開発できれば・・・上席に移ることができる・・・711年の蓄銭叙位令なども資本の蓄積の効果を狙った物では?そういえば・・・銭百万文を献上して五位を叙位とか・・・百万枚ですぞ・・・蓄銭叙位令の末期でしょうが・・・711年当時は和同開宝しかないはずですから・・・案外、和同開宝の不足を補うために、銭の輸入促進政策ではなかったかと・・・ふと思ってしまいます。この時代の唐銭は・・・開元通宝ですね。この銭が通用した期間は長く・・・日本にもずいぶんと入って来たのではないかと思います。いい加減な記憶では・・・埋納銭で結構まとまった枚数が出土していたような気が・・・

 和同開珎だか、和同開寶だか・・・名称も厄介ですね。どうせ、鋳造技術が不十分で寶の字が鋳造できなかったのでは?なんって思いますね。蓄銭叙位令も同様で・・・和同開寶の生産量がそれほど多くなくて、唐銭と同じ規格なら混ぜて使ってもOK・・・だって、冊封体制下ですから・・・そういえば独立して970年冊封体制下に入ったのベトナムでも泰平興寶なる開元通寶とかをモデルにした銭貨を拵えていますね・・・まあ、唐銭や宋銭は国際通貨であった。そして、それに同規格の通貨も同様に流通した・・・なんだか貿易銀の世界に近いような・・・

 蓄銭叙位令って・・・買位売官制度の事なんですかね?しかし・・・そういった説明をする参考書を見たこと無いな・・・これって不思議・・・確か、蓄銭してそれを示すだけではなく納めると位をもらえると思いましたから・・・供託ではないよね?まあ、和同開寶以前に貨幣経済はかなり浸透していたのでは?なんってね。古くは石器になる石とか、塩なども通貨として流通していた気配がありますし・・・おっと、どこで脱線した?

 とりあえず、神代正語は読了・・・続きは次回だな・・・

2013.08.21

関係ないが、興味深いもの
近代デジタルライブラリー - 検索結果 延喜式 延喜式にもざっと目を通しておかないとまずいかな?
近代デジタルライブラリー - 本居宣長言行録 本居宣長に関する知識も持たねばならぬか・・・
近代デジタルライブラリー - 検索結果 憲法志料 興味深い・・・蓄銭叙位令をチェックしていて読み始めてしまいました。
 近代デジタルライブラリー - 憲法志料. 巻1 蓄銭叙位の話ですが・・・法の目的とかは書かれていないんですね。


 
 

  










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