香取神宮をうろうろ(40)
 元禄の造営は終わって・・・

 さて、この日記は3段階に分かれて執筆されているようです。第一段階はその日のメモ書きの集積、その次はそれを書き写したもの、そして、最後に清書して完成というような感じです。第一段階のメモ書きの集積が本当は見たいのですがね。そうすると、この日記の中で唯一、ちょっと感情がにじみ出た下役人に対する記述の元になった、日々の話などが採集できるような気がしますから・・・こういったメモ書きは・・・襖の下張とかに使われたのでしょうか?ちょっと気になります。さて、最後の元禄14年の日記に入りましょう。

元禄14年2月
・元禄14年巳2月、臨時の遷宮、相談して勤めた。御幸の御祭礼の行列に習い、大庭に矢来を作って、大神輿を出して、御供所から出て、矢来の内を廻り、拝殿を上がって、神輿を獅子の間の台の上に据えておいた。もっとも、供物なども備えて、祈祷を行う、氏子への配状をまわして、多くの人が参拝に出た。この行列の次第は別紙にあり。
・元禄13年国絵図御役より証文出すからと言って、次のようなものが来た。

・高九百石 香取大明神社領 香取郡香取村の内
・高百石 大戸明神社領 香取郡大戸村の内
この御朱印に香取郷の内千石とあるが、御吟味をして。御絵図香取大明神社領香取村の内、大戸明神領大戸村の内にと書くように書き直してほしい。これ以後、御公儀に対しての書状では、香取明神領千石、そのうち九百石香取村の内、百石大戸村の内、これでは末社大戸明神領に分地になったようだ。当村の名主方にもこのことを相談している。この件の後の証にするために。
元禄13年辰12月 日 下総国香取郡香取村 大宮司香取丹波 大祢宜香取図書
牧野備前守様御内 栗原六右衛門殿 梅澤権右衛門殿
松平伊豆守様御内 堀江忠右衛門殿 三輪源右衛門殿
国絵図お役人より案紙が来る。然しながらその意を納得できないので、右のように書いて、飛脚を使って御代官大草太郎左衛門殿手代たちまで届けさせた。年号は書面の通りにしたが、元禄14年巳の2月である。

 臨時遷宮があった?これは何のための遷宮?なんとなく、大神輿の披露みたいな感じの遷宮?矢来で庭を囲んで、その中を大神輿が御供所から出て、多くの人が眺める中、拝殿に入り・・・幣殿のに入れて・・・この遷宮は何?氏子たちに配状をまわしている・・・不明ですね。何かを修理するとかそういった物ではないようですから・・・

 次は問題の文書ですね。どうやら、大戸神社は香取神宮から独立していく過程を示した文書ですかね。大戸神社は香取神宮の造替の際に、造替を断っています。これに対応するわけでしょう。大戸神社は、香取神宮とはすでに別のものであるから、造替はしません・・・造替をしなかったから、香取神領の一部としていた大戸神社への配当を完全に分けることにしたという事なのでしょう。それでは神宮としては納得できないから・・・という感じです。

 その後の経緯は・・・香取神宮朱印地1,000石の内から100石を分配さることになり、1707年;宝永4年に綱吉の手により改築され、これが現在の社殿となっています。事実上香取神宮の摂社から分離されて存続、しかし、明治10年3月香取神宮の摂社になりますが・・・近代デジタルライブラリー - 房総叢書 紀元二千六百年記念. 第1卷 縁起古文書 こういった文書が伝わっているようです。こうなると・・・興味がありますが、文献資料はそれほどなさそうな感じです。この期間の香取神宮の日記があれば、ある程度経緯が読めると思いますが、年表の部分には・・・

宝永5年9月22日 大戸の宮、氏子奉加を以て建立、本社へ沙汰無しにつき咎め、証文で済ませる。
宝永7年3月 大戸社遷宮の儀について証文を取る。

 こんな2つの事がありますが・・・香取神宮のコントロールを外れつつある事が分かる程度ですかね。さて、続きは・・・・

臨時の遷宮の時の祝詞
東国楫取の地大月郷亀甲山に宮柱太立敷、高天原に千木高知て崇敬奉る。
香取太神宮ならびに王子三十余座の広前に申て曰さく・・・・(続きはあるけど略)

・辰年の御修覆の時分の砂利、津宮の者が請け負って、息栖前より取り、これを車で当地へ運んだ。
四月
・元禄14巳年4月、大祢宜図書官位昇進のために上京、4月14日当地を出発。6月8日参内、位記・宣旨・口宣案を頂戴する。從五位下讃岐守を勅許。7月13日帰郷。このことを上京の時に寺社奉行へ届け出る。
・上京の砌、惣社家たち、神領の百姓残らず、近辺で耳にした人たちが餞別の祝儀に来る。

これは、元禄11年より14年巳の年の日記、残らず書き留めて残す事にした。大抵の事はこのように清書して終える。

元禄14巳年 大祢宜讃岐守胤雪行年四十七歳
 子 内膳胤信行年三十二歳
 孫 喜四郎実幸
右清書内膳書之

 臨時遷宮の祝詞があって、修復の砂利は息栖から持ってきたことと、この造営後に、図書が京都へ出向いて從五位下讃岐守の勅許を得て終わります。

 ああ、読み終わったぞ!って感じですかね。さて、私の疑問は解けたかというと・・・疑問は増したというのが正しいような感じです。祝詞も興味深いので読みましたが、入力するのが面倒だったので・・・というより、どのように表記するかで悩み始めたのでパスです・・・それと・・・ただでなくともかな漢字変換が標準から外れつつあって、仕事の原稿を入力してあれ・・・というのをずいぶんとやりましたからね。余り、単漢字変換みたいな事はしない方が無難だというわけです。だって・・・これから原稿作業を気合を入れてやらないと・・・もうじき初校が上がってくるはずですから・・・

 さあ、次は何をやるか?次の日記は享保期のものですが・・・興味深い記事を読み拾っていくことにしますかね。いや、その前に、香取神宮小史とか、そういった基本になるものを読んでみることにしますかね。

 そう・・・近代デジタルライブラリー - 香取新誌 これが、近代デジタルライブラリーで香取で検索すると一番古い案内書のようですから、これでも読んで近現代の香取神宮の様子をチェックしてみることにしましょう。



2013.08.17

関係ないが、興味深いもの

近代デジタルライブラリー - 房総叢書 紀元二千六百年記念. 第1卷 縁起古文書 既出ですが大戸神社などの摂社の古文書がありますね。
 
 
 

  










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