香取神宮をうろうろ(39)
 元禄の造営は完了・・・

 後は、修復された神宝その他の物品のリストが現れてきます。まずは仏像関係です。



・八龍神八体 御長二尺五寸 極彩色 但岩座あり 内二体新調 六体御修覆
・隋人二体 新調 御長二尺五寸 極彩色 但箱座あり
・十一面観音一体 御修覆 御長九尺八寸、箔仏、台座御光あり
・薬師如来一体 御修覆 御長二尺五寸、箔仏、台座御光あり
・二十八部衆 二十八体 御長三尺五寸、極彩色、但岩座あり 内十体新調 十六体御修覆
・愛染明王一体 御修覆 御長二尺二寸、朱彩色、極彩色
右の通りこの度新調・御修覆されたものについて、それぞれ引き渡しを受けました。以上
辰10月 金剛寶寺 香取図書 香取丹波
 竹村惣左衛門殿 平岡十左衛門殿


 八龍神の内6体が存在していたようです。そして2体欠のため新調されています。2体はぼろぼろ?それとも最初から存在しなかったか?龍神系の物はあちこちに祀ってあって統一が取れていないような感じです。こういった像は一度にそろえるとは限りませんから・・・購入計画に基づいて順々にか?それとも・・・六所神社がヒントのような?八龍神・・・楼門の2体と残り6体は六所神社に配当されたのでは?

 楼門の2体が、楼門から・・・元禄13年に楼門は解体されたのか?それとも、例によって隠滅していたのか?これが気になります。隠滅していて、それに伴って八龍神の内の2体が、おかま社とか花園社とか市神社へと転々とし・・・その言い伝えが残り・・・いつの間にか、2体が隠滅かね?

 隋人二体・・・これは明らかですね。楼門に納める予定のものです。楼門にはかつて龍が置かれていたが・・・と、八龍神へ話が戻る・・・ここの八龍神の内の2体が花園神社へ・・・隋人に替えた理由は?元禄期の廃仏・・・儒者が五山僧の教養から独立して暴れはじめる・・・そういった流れが、龍神を表に置くわけにはいかなくなって・・・隋人かね?その結果・・・八龍神は修復されてものの、人目につかない幣殿内部へまとめて納入ですかね?

 八龍神と隋人が神宮関連で・・・後は、金剛寶寺関連ですね。十一面観音は本地仏で、修復が京仏師今井左近によって為されたようです。大仏師善慶・こうじゅんとかが日記に出てきましたが・・・善慶は京都の建仁寺あたりに住んでいたとか・・・?さて・・・わからん・・・仏師のデータベースとかないのかな?なんって・・・幕府の御用を勤める仏師ってそれなりに記録がありそうなものですが・・・

 薬師如来か・・・薬師は・・・本堂の後ろに三重塔があって、高さは八丈七尺八寸、本尊は薬師如来というから、これは三重塔に納められるものなのでしょう。

 二十八部衆か・・・これは十一面観音の眷族ですね。16体を修覆、10体を新造か・・・十一面観音像の様子からすると、10体がぼろぼろとは思えないので、16体までしかそろえていなかったのか?気になりますね。予想では16体のみでしょう・・・なんとなく・・・東西南北までそろえて・・・

 そして、愛染明王・・・これは、拝殿脇あたりの愛染堂に入るものですね。しかし、なぜ愛染明王があの場所に入り込めたのか?もうひとつ気になるのは勢至殿ですが・・・現在のところよくわかりませんね。文献をもっと眺めないと・・・次は畳だ・・・



・御内陣畳 三十畳 大紋縁
・拝殿畳 十二畳 紺染布縁
・御供畳 十三畳 紺染布縁
・愛染堂畳 五畳 紺染布縁
・参籠所畳 十二畳 紺染布縁
・神楽所畳 七畳 紺染布縁
・本地堂畳 十五畳 大紋縁

右の通り新造され、引き渡しを受けました。以上
10月 金剛寶寺 香取図書 香取丹波
 竹村惣左衛門殿 平岡十左衛門殿


 ふむ、本殿は畳敷きなんだな・・・拝殿には一部分に畳が使われているという事ですかね?旧拝殿は5間の3間ぐらいですから30畳敷きぐらいになりますから・・・現状はどうなっているやら?ふと、御内陣の畳ってどれくらい持つのか?妙なことが気にかかります。何しろ、年に何回も開けませんから、直射日光が入ることも稀ですからね。床が高いのでで乾いている?ならずいぶんと持つのでは・・・拝殿と参籠所が同じ12畳ですね。ふと、旧拝殿は参籠所をモデルに作られたのか?ちょっと気になります。でも、なんとなく香取神宮は、幕府の標準工法で当時の標準的な社殿として作られてしまったような気もしますから・・・まあ、畳では何とも言えませんが・・・愛染堂がそれほど大きな建物ではないことは判りますね。


・青石 3本
・四半石 18本
・平筑石 65本
・岩岐石 7本
・玄蕃石 8本
・切居石 14本
石数合わせて115本
右は総州香取御修覆残り石の分で、楼門の内敷石ならびに、一の鳥居の左右の留石にしたいと申したもので、書面の通り渡され、受け取りました。以上。
辰11月 香取図書 香取丹波
 竹村惣左衛門殿 平岡十左衛門殿

 青石か・・・これって秩父の青石か何かですかね?3本・・・四半石は・・・四半敷きにする正方形の石ですかね?楼門の内に敷く石として?岩岐は並みなら・・・45cm×27cm×12cmぐらいでしたっけ?玄蕃石は1m×30cm×10cm程度?石は判りません〜

 あれ・・・一の鳥居の左右の留石・・・という事は・・・楼門前の明治時代に見られる石垣は、元禄のころのではない・・・もっと後のものか?楼門の所も石は十分には入っていない?という事ですかね?

 右の写真が明治29年以降昭和15年ごろまでの間の楼門の敷き石です。概ね正方形の石が並べられているようです。現在の楼門の敷き石とは少し違うような感じ・・・そう、門に横木が入っているから・・・これは躓くよな・・・結構危険・・・今は無いね。

 かなり、細かなところまで見て行くと仕様変更の跡が出てきますね。というより・・・修復したもののリストを先に眺めれば苦労しないとも言えますね・・・でも、先読みは面白くない・・・この石に関する申請の覚えが続きます・・・



・楼門内に敷石が無いので、神事の節には、不自由です。というわけで、この敷石をぜひお願いします。
。楼門の前の一の鳥居の左右の土留め石を入れてくれるようにお願いします。ここの地形は、大雨の際には土が流れてしまいます。神事の際には非常に困るので、幸い石が残っているように思われますので、この石を下されますようにお願いします。
辰10月 香取図書 香取丹波
 竹村惣左衛門殿 平岡十左衛門殿


 毎度のことですが、不思議な論法・・・神事に差し支える系の言い回し・・・でも、以前は無かったじゃないか?って言われないか気になります。ふと・・・楼門は元禄の造替の時にあったのか?再び気になるわけです。馬場に、楼門の遺構があったのか?なんってね。もしあったのならば、そこには敷き石があってもおかしくないような・・・でも、きっと掘立柱で、数十年で壊れてしまうものがあったかもしれないという感じだったのではないかと・・・やはり、古い文書を気合を入れて読んでみないといけないような感じです。次は、楼門前の左右60間の柵木ですね・・・



・栂・樅57本 長さ2間より3間まで平均3寸角 これ、小木171本分
・同じく32本 長さ9尺より2間まで平均3寸角 これ、小木64本分
・同じく小木70本 長さ7尺より5尺まで平均3寸角 小以て305本
・松木30本 長さ3間余り、目通り1尺6・7寸廻り これ、小木90本分
・栂・樅貫木60丁 長さ2間、巾4寸、厚さ2寸
右木品、楼門前左右60間の柵木にするので願って下されたもので、確かに受け取りました。以上
10月24日 香取内膳 香取蔵人
 竹村惣左衛門殿 平岡十左衛門殿

 これは何?楼門前・・・馬場の柵・・・つまり埒かね?でも、左右と分けているから・・・埒ではない?侵入防止用の柵かね?2間の貫が60丁・・・左右50mずつという事か?小木400本・・・100mに400本という事は25cm間隔かね?1.5m〜2mの高さの柵が作られることになっているという事か・・・しかし平均3寸角・・・芯芯で25cmに9cm角を入れると・・・なんだか凄い柵ができる・・・まるで牢だね?子供でも抜けられない・・・本当に作るのか?気になります。ふむ・・・続きは・・・何だ?


〔ここに図あり、便宜次頁に移す。〕
先年の本社より末社までの間数、対外この間数を以て、末社を建てる。


 うそ・・・この図が旧社殿の配置図ね・・・2つの図に分かれていて・・・なんだかよくわからんな・・・本殿を中心とした相対的な位置関係を示しているから・・・わかることは、本殿の12間後ろに経蔵があって・・・経蔵の位置まで下げたことになるようです。従って、経蔵の推定位置はOKだった・・・地形1尺2寸下がるとか

 前年の本社の位置が分からないから・・・そして、経蔵はちょっと移転か?相対的な位置関係は変えなかったようですが・・・

 次のページの分割図が下のやつ


 匝瑳殿はどうやら、拝殿の西にあった。現神饌殿の位置に建てられたような感じですね。

 とにかく、本社の位置が変更になったので、それに連れて、末社の位置が変更になったことは判りますが、本社はどちらに向いていたのやら?これに、御神木の位置とか三本杉でも書かれていればいいのですが、そういった絶対座標が分かるものが書かれていない・・・手書き文字を読み解くだけで大変・・・どういった意図で数字が入っているのか、やや不明・・・ええい、面倒だ・・・そのうち・・・

 どうして、御神木とかを基準に書かないかね?ん?榊って何だ?まさか・・・鳥居の代用か?続くのは・・・御年礼の願いか・・・

・元禄13年辰11月御年礼願い
御恐れながら書付で申し上げます。
・下総の国香取社家の何禮についてですが、権現様から代々御祈祷の御祓い、ならびに鳥目を差し出していましたが、大宮司・大祢宜両にんで御年礼に出ていましたが、大井大炊頭様の差図で、大宮司・大祢宜が隔年の正月六日に一人で勤めてきました。ところが元和元八年より三十二年間、大禰宜食が断絶していた、それ以来等年まで六・七十年ほど中絶していました。そこで、丹波大祢宜が勤めていた時分に、御年礼の訴えを度々していました。
・大祢宜闕職の以後、大宮司一人で御年礼をサボることなく勤めてきました。そうであれ、一昨年香取美作が職を追われ追放となり、昨年・等年は御年礼をサボることになりました。今年の六月中に、丹波が大宮司職にと仰せ下されましたので、それで御年礼の事についてお願いいたします。
・当社のことですは、御祈祷の御祭礼、一年に六十余度取り行っております。年初めの御祓い奉献は、第一御祈祷の最初です。次に、千石の社職総代の御年礼が一人ではちょっと問題でしょう。どうか、先例のように大宮司と大禰宜の両人が勤めるようにどうかお願いします。このような修氏ですので、どうかお願い!以上
元禄13年辰11月 下総の国香取宮 大宮司香取丹波 大祢宜香取図書
  寺社御奉行所
こんな具合に願いを出したところ、今度の発は、大宮司丹波が勤めるようにと言われた。
・丹波大祢宜職の時に、度々御年礼の願いを出していた。元禄10年の願い、元禄12年に願い書など出している。
・元禄辰11月中、津宮西宮・東宮の遷宮、一夜にて終わらせてきた。内膳が行った。もっとも蔵人他惣社家が勤めた。
12月
12月中、宮中にある末社の遷宮を、大祢宜図書が一人で、一夜ですべて終わらせる。もっとも神体、幣帛いずれも大禰宜が認めた。

 ああ、完全に造営関係は終わって、御年礼の話ですね。以前は大宮司と大禰宜の2人が出て行ったのが、一人ずつ交互になっているのが不満とのこと・・・どうやら、こういった行事には大勢出る方が立派なんですね。色々と理由をつけていますが、結局のところ、今年は大宮司の丹波一人で来いとのことでおしまいですね。何度も願いは出しているのに・・・という感じです。そして、津宮の東西社の遷宮を一夜で行った。境内末社も一夜で遷宮を終了・・・これで、元禄の造営関係は全て終了という事なのでしょう。

こまごまとした事が、元禄14年までにあって・・・この日記は終了します。元禄14年の話は次回ですね。次回で、この日記は終了・・・次は何をするか・・・

2013.08.17

関係ないが、興味深いもの

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