香取神宮をうろうろ(37)
 経蔵が引かれる・・・

 さて、残工事も大したものは残ってなさそうな感じです。ものすごい速度で社殿は立ち並び・・・解体されていた参籠所も組み立てられたようですし・・・井戸が最後まで残るような感じですね。

10日掃除普請、拝殿の障子、番の者が張るようにと役人が言っていた。
11日掃除普請、拝殿の障子、番の者が張る。
12日同じように作業が続く13日も同じ、獅子の間の御幣の所を掃いた。
14日同じように作業が続く、神前には出なかった。
15日大祝・田所が言うのは、残り木を使って、あちこちの井垣を作って欲しいと願うが、千右衛門の話では、あまり沢山だと江戸へ窺いを立てないとだめだから、予定を出すようにとのこと。
16日経蔵を引く場所の整地の事で相談したいことがあるとのことで、蔵人・内膳へ会所より手紙が届いた。出かけて行って決めてきた。そして井垣の予定個所の書付を渡した。参籠所へいろりを作って欲しいと願いを出した。御供所の庇を取り外す事も言ってきた。
16日明日17日に神領の人夫を出す事について、会所より蔵人・内膳方に手紙が来た。動員をかけた。
17日また明日の18日にも人足5人を出すようにと言ってきたので、動員をかけた。
この日、御供所のいろり・ながしを作る場所を決めてきた。匝瑳殿の立てる場所を決めた。経蔵を引き直す。井戸を作る。
18日人足を予定通り出す。
19日神領人足15人出した。井戸工事、経蔵引きを行う。
20日・21日段々清掃作業が進む。21日大絵図江戸より届いた。
22日隋人が完成した。井戸輪を入れた。23日同じ作業が続いている。

 清掃作業が続き、拝殿の障子などを張っています。現在の社殿だと、ガラス障子ですかね。旧拝殿は右の写真のように横桟の入った板戸の舞良戸(まいらど)が入っていますね。障子が入ってその外側には舞良戸という事になるのでしょうか・・・

 昔の絵ハガキはガラス乾板の密着焼きつけのような感じです。あまり粒状性が良くないのですが、かなり大きく引き伸ばす事が可能なので、ある程度詳細に眺めることができるのが良いですね。印刷物だとこうはいかないですね。

 獅子の間の御幣の所を掃いた・・・という事は、獅子の間は幣殿なんですかね?それとも・・・大床か・・・この記述からでは分かりませんね。ただ、幣殿と本殿の間には隙間があって、そこには銅のワイヤーを張ることになっていますね。幣殿には囲いがある。獅子の間は吹きさらしの大床の部分だから掃き掃除を行ったのか?

 大床の部分に御幣を置いているのなら・・・大床が獅子の間で良いのですが・・・

 明治29年の修理の後では、左の図のように幣殿は本殿に接しているような感じですね。本殿の階段を包摂する形ですかね。

 江戸期の図だと、右の図のように本殿の階段が描かれていますから・・・

 まあ、ちょっとはっきりとはしませんね。明治期には本殿を解体して修復したみたいですが、どのような修理が行われたのか?昭和の修理報告書には書かれているのではないかと思うのですが・・・重要文化財香取神宮本殿保存修理工事報告書1979年を見ればOKなんですが・・・置かれている図書館が問題だし、買うのは35000円近くするし・・・54ページ・・・そこまで本気になれない・・・というわけです。

 さて、残り木を使って井垣が作りたいか・・・作業量が多ければ江戸に判断を仰ぐことになるのか・・・経蔵の移転の話が出ていますね。経蔵は何処にあったのか、そして何処へ移動させたのか?気になります。図は数種類あって、本殿の真後か北西のあたり・・・ただ、本殿の裏の方ってかなりいじられているような感じです。境内末社などは昭和の初めには桜馬場への今は無い細い道の東側に並べられていたようですし・・・

 補助的な建物も完成を急いでいるようです。御供所の囲炉裏や流しか・・・匝瑳殿の位置、経蔵を引き直すとは?一度引いて、気に入らないので引き直したのですかね?経蔵に関する記述としては・・・矢来を作るときの・・・二の鳥居の上から大細工屋敷の後、愛染堂・経蔵の後の護摩堂屋敷の境・・・愛染堂は現在の神饌殿のあたり、経蔵はその先・・・護摩堂屋敷の境だから・・・およその位置の推測はできますが、それでも不明ですね。別当昇路を上がって本殿の裏への道は明瞭ですが、その側に出る・・・がヒントですけど・・・

 いい加減な推測では・・・旧本殿や御供所や参籠所とはぶつからない場所で、本殿を移転した関係で経蔵を動かさなければならなくなったと推測するのが良さそうです。同時に、匝瑳殿も位置を考えなければならないわけですからね。匝瑳殿の位置を決めたら、経蔵を引き直さなければならなかったと考えると、匝瑳殿の位置へ経蔵を引いてしまった。匝瑳殿の位置を考え始めたら・・・あれ、まずい!となったと考えると・・・愛染堂の近くに経蔵を移転させるつもりが、その間に匝瑳殿を入れる必要が出てきたのではないかと・・・匝瑳神社は磐筒男神、磐筒女神 を祀っています。経津主大神の親神ですね。そして、かつて仮殿とされていたアサメトノの祭神は磐裂神、根裂神で経津主大神の祖父母神・・・現在は裂々神社へ・・・旧大禰宜邸内にあるとのこと・・・こういった変化が気になるわけです。XX殿で表現されるものって気になるわけです。匝瑳神社じゃない匝瑳殿・・・仮殿は磐裂神、根裂神で経津主大神の祖父母神の神殿というのは、裂々神社というのは無理だと思うわけです。何しろ、夜に幕を引きまわして人の目に触れないように?夜気に触れないようにかもしれませんが・・・そういった移動をしますから・・・匝瑳殿は拝殿の近くが良いと考えたのではないかと・・・なんとなく、アサメトノが愛染堂に変わり、さらに花園神社に変わり、現在は神饌殿になったと勝手に考えているので・・・本殿との相対的な位置関係は・・・とね。アサメトノは愛染堂に化けているので神事には使えない・・・そして、XX殿でない建物のの場合は仮殿として使用後焼き捨てなければならないとしたら・・・再び妄想・・・一応、仮殿は御供所である。後に下屋を下げ神輿を遷して仮殿にした。遷宮以後下屋を取り払って焼き捨て、跡を御供所に用いたってのからの妄想ですけどね。

 ここで、なんとなく、匝瑳殿を仮殿に使う事を考えたら、拝殿近くで・・・でも、愛染堂は完成しているから・・・妥協の産物で三本杉の所へ・・・ついでに本殿からショートカットできるように掖門をつけて・・・掖門と匝瑳殿が向かい合うような位置関係なら当たりかもしれない・・・とかね。一応明治29年以降の絵図では匝瑳殿の位置は掖門の正面になっています。とか考えましたが・・・単純に、経蔵を引いて、位置を直したというだけなのかもしれませんがね。原文には「経蔵引直す」ですから・・・妄想的研究では妄想をしなければ面白くない・・・でも、現在の掖門と神饌殿との位置関係は遷宮を意識しているような気がして・・・でも、古い造営注文に掖門・脇門は東西にあることになっていますが、現在は西側だけ・・・そりゃ拝殿に通路がつながっていますから、東側には不要なんでしょうがね。

 気になるのは、この香取神宮の存在意義です・・・何しろ水の無い所ですから・・・何かよほど特別な理由が無ければ、この場所を維持することは、水を運ぶ労力と引き換えにする何かが無ければならないような気がしますからね。そして、御供所のいろり・ながしを作る場所を決めてきたという言葉が気に入らないのです・・・水が無いから、御供所は調理の場ではないと思うからです。傍証は・・・大饗祭です。大饗祭では、飯を御供所で炊いていないし、調理も切り盛だけです。そして、神前に上げたものだって、基本的には撤下して、みんなで食べちゃうのでしょうから・・・御器は別の所で洗われて戻ってくることになるのでしょう。そして、御供所の囲炉裏や流しの位置を決めなければならない・・・以前の通りでは済まないという事は存在しなかった・・・井戸ができたから、水瓶を置いた、流しができた、煮炊きもできるぞ!消火の用に足りない井戸に拘泥する理由・・・

 しかし・・・雰囲気として気に入らないのは、実は楼門の位置なんです。もし、楼門の位置が馬場なら、楼門から入ると結構不思議な空間が広がっていることになりそうな気がするのです。楼門の位置から広い空間が広がっていた。まるで、広場の門のような感じ・・・

 例の右の図ですがね。楼門は仁王門のようで馬場にあって、その楼門の正面から外れたところに本殿及び神木の空間がコンパクトに存在する。古図では馬場には埒がありますが・・・かなり狭い馬場のように思えます。そのため、楼門を上げたわけですから。経蔵は旧本殿の後あたり、愛染堂は三本杉の南で楼門を入ると通路のような空間が広がっていることになるのでは?

 つまり、楼門を入ると右側に神社、左側に寺院という感じ・・・楼門から真っ直ぐに・・・多分現在の本殿の北西の別当昇路へとつながる道が延びていたのでは?その道を塞ぐように現在の神殿が構築され、広場が消失・・・って感じですかね。

 そう、古い神宮の楼門のイメージって、左の図のような感じなんでしょう。あれ?この図変な感じ・・・広場のイメージは悪くないのですが、私の頭の中では、この図はありえない・・・というより、楼門がまるで看板建築のようにしか見えない・・・仏殿とか文化的建造物のイメージ・・・されど、外見的なイメージで内実は別・・・そもそも、こういった建物群が現実に存在したのか?多分、本殿・参籠所・御供所・愛染堂・経蔵は存在したでしょう。あと・・・南廳の昨日の建物・・・参籠所が兼ねたかもしれませんが・・・

 左の図が変に見える理由は・・・馬場の埒なんです。この埒があることで、この楼門は機能しがたいという事なんです。だって、大宮司邸から現総門の石段、左の図では鳥居の所を上がって、正面の埒を左に迂回して、右に進んで楼門を通って本殿へ行くわけがない。

 現実には、楼門を通らず、大宮司邸の裏から御神井道へ出る道がありますから。この楼門は、事実上飾りか?なんってね。馬場と、楼門北の広場にとっての象徴的な門ではないかと・・・それとも、広場の儀式や馬場を眺める特等席になっていたとか?

 現在の楼門の階上ははしごでなければ上がれないのでは?常設の階段のような物は見当たりませんから・・・そういえば、鹿島神宮も事情は同じで・・・鹿島神宮は楼門の上をかなり積極的に利用していたのではないかと思っています。理由は・・・鹿島神宮の楼門の古い写真を見ると、楼門に梯子が掛けられています。

 右の写真です。楼門右に梯子が掛かっている・・・この写真は多分、明治9年4月13日の写真ではないかと思うのですが・・・理由は、楼門近くに仮殿があるからで、この位置に仮殿があるのが明治14年に仮殿の移転が行われる前で、社務日誌に、本社及び奥宮、楼門、鳥居を初めて写真せしむ。とあるからです。

 それとも本社の写真を楼門上から撮るために梯子をかけたか?いや、これより後で、明治14年以前の写真がもう1種類あるようです。楼門の左右の回廊の屋根を修理した後に・・・あれ?この写真には敷石があるから・・・明治9年じゃない・・・明治12年5月以降明治14年2月までの間の撮影か?

 いずれにせよ、この梯子が写っている写真がかなりありますから、伝統的に楼門の上が使われていたという事なのでしょう。

 あれ、経蔵を引く話が膨らんでしまった・・・そのうち、きちんと考えましょう。

 あとは、楼門に納める隋人もできたし、江戸から大絵図も修復成って届いたし、井戸も作業が続いていますが・・・井戸も経蔵も所在不明ってのが問題ですね。分からないから妄想が・・・知の遊びは安上がりで良いのですが・・・智が足りないのが問題です。さあ、ここで切って次回へと・・・

2013.08.15

関係ないが、興味深いもの

 今回は無かった・・・
 
 
 

  










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