香取神宮をうろうろ(36)
 残工事は・・・

 正遷宮が終わり、将軍との御目見も終わりましたから、造営部隊が縮小されていくようです。両奉行の一人は福島の任地へと出ましたしね。奉行が2人いたという事は、何か決定しなければならないことが出たら、権限の範囲内で合議によって決していたという事なのでしょう。権限を越える場合は、江戸へと御伺いというシステムですかね。その、一人を出したわけですから、これ以降は大がかりな話はなく、残務整理という事になるのでしょう。そういえば、材木などの片づけがはじまっていたりしますしね。

26日十左衛門は会所までやって来た。
27日十左衛門は来なかった。
・側高社の遷宮は29日に決まったので、社家にその事を話した。
・大祝・田所がやって来て言うには、十左衛門は近々帰るとの話で、そうなれば普請は段々粗略なものになるかもしれない。御帰りを少し伸ばしてもらえるように願おうかと話して、蔵人・内膳・大祝・田所を召連れて鈴木文蔵の所へその事を申しでた。すると、たとえ十左衛門が帰ったとしてもそういったことはない。当分は、少しごたごたすることがあるかもしれないが、そのうちきちんと廻るようになると言われた。
28日十左衛門が会所にやって来た。顔を出してきた。この日青木藤蔵・石井長右衛門・矢野佐左衛門・川野庄左衛門が明日の29日に帰るとのことで暇乞いにやって来た。こちらからも暇乞いに出る。
29日雨天のため、十左衛門は来なかった。この日、側高遷宮で七ッ時分に出発して、夜の五ッ過ぎに済ませた。作法はいつも通り、もっとも惣社家は残らず出勤した。図書は江戸に行っているので、内膳が行った。高田源助が奉行として来ていた。
この日、あい屋作兵衛、残っていた御道具を持参した。
晦日十左衛門御道具の見分に大祢宜方へやって来た。
この日、十左衛門津宮の宿舎で、蔵人。内膳へ蕎麦切りを振舞った。晩方に行ったところ、蕎麦切りが出た上で、色々と吸い物が出て、酒なども御馳走になった。

 どうやら、完全に残務整理モードに入っているような感じです。中堅の管理職連中が帰り始めましたから、本当に残工事は残っていない状態なのでしょう。神宮側から見ると・・・残念、あれ直して、このあたりをちょっと・・・とか言えなくなることを意味しますから・・・私のような下衆はそういった事ばかり考えてしまうので・・・遷宮ってのは、どうやら、本当に工事が終了している事を意味しているような感じですね。ですから、本社の正遷宮の時は、既に楼門から内側はわずかな残工事があるだけで、きれいな状態になっていて、楼門前の馬場あたりに作業小屋とかが残り、資材の残りはあまりなく、そのため竹矢来の内にも参詣人を入れることができたという事のようですね。10月一杯でほとんどの作業が終了・・・十左衛門も完全に残務整理モードに入っているわけですね。続きは・・・

10月1日鈴木文蔵が、楼門前の鳥居は石段の下に建てるのかと尋ねてきた。その通りと答えた。この日又見社の遷宮、末社木鉢の内7つ、又見へ出した。又見遷宮は夜の五ッ時に終わった。内膳が行った。物申・副祝・三奉行内院の者などが勤めた。
10月2日雨天、十左衛門は来なかった。栗石を本社の雨落ちに敷いた。
3日十左衛門がやって来た。会所へ顔を出した。
この日、楼門から拝殿まで縁石を並べ、栗石を敷いた。
4日十左衛門会所へやって来た。明日5日に帰るとのこと。早朝に津宮を出発するとのこと。大宮司・大祢宜両所へ暇乞いに立ち寄った。
暮れ方、十左衛門へ暇乞いのために蔵人。内膳。宮之助・国行事・大祝・田所など連立って、津宮の宿舎へ行く。もっとも樽1つ・鴈1羽の持参する。この樽や肴は家来が受け取って、後ほど聞くとのこと。
5日明け七ッ時分に佐原まで十左衛門を見送りに出る。蔵人・内膳・国行事を連れて行った。佐原の町中で、遠方までの見送りありがとうと喜んでいた。津宮で認めてあった礼状が来た。
色々ありがとう、昨夜の樽・肴をお送りいただき、お礼もしていなかったので、そのお礼を一筆認めます。
10月5日 平岡十左衛門 香取蔵人様
5日一の鳥居が建った。

 また、鳥居の話が出てますね。この鳥居の位置に関しては、以前も話があったような?幕府のデザイナーは、鹿島神宮の仁慈門の様に、拝殿前に置きたかったとか?しかし、神宮側は楼門の外に置きたがった・・・思惑の違いは?

 右の写真が鹿島神宮の拝殿前の様子です。そして、この鳥居が仁慈門というわけなんですが・・・これは中世にもあったようで、古い形式はどんなものであったのか不明ですが・・・江戸期には鳥居であったことは間違いないようです。鹿島神宮関連の本では、鳥居を神門って表現で良く見かけますから・・・

 まあ、鹿島神宮の拝殿前の通路は、庭上神事の場になりますが・・・元和4年の造営で大きく変わったような感じです。ここでも、本殿の位置を大きく下げて、壮大な権現造りへと変容していますから・・・

 案外、この拝殿のある空間が庭上神事の場であって、それが通路へと押し出されてしまったのかもしれません。そして、通路を庭上神事の空間らしくするために仮殿の位置を色々と変えていたのではないかなど考えてしまうわけです。特に、明治以降は仮殿が動くこと動くこと・・・これも、庭上儀式の変化につれてのような感じですね。大礼服による神事とかもあったようですから・・・鹿島神宮もそのうち研究せねば・・・

 さて、又見社も遷宮が終わっていくわけで・・・末社木鉢は21個だっけ、そのうちの7つを又見神社に出したようですが、神饌の鉢なんですかね?他の末社での正遷宮に関しては、木鉢の話はなかったような?

 本社の雨落ちに栗石が敷かれる・・・雨落ちは屋根から落ちる水で地面のえぐれてしまう場所ですね。そこには栗石が敷かれるわけです。わざわざ記述している物のパターンからすると、以前には無かったんですかね?そして、以前は無違いなくなかったのは、楼門から拝殿への砂利道というか・・・両側に石を入れて、その中に栗石を入れた通路ですね。ただ、気になるのは、ここで作られたのが直線のものか、それとも右の図のような不思議な形をしたものなのかですね。

 右の図のは切り石ですから、多分元禄の造営よりも後年の物ではないかと思いますがね。そういえば、遷宮の際に使った小型の神輿と思われる図がありました。神幸祭絵巻の中に、一の御舩木から三の御舩木で示されている図の中に左のような図があります。

 左の図のものですね。なんとなく、これに類似のものを香取神宮の拝殿の中にちらりと見たような記憶が・・・もちろん、芝はついていませんでしたが・・・ネット上の写真を当たると、それらしきものもありますが・・・不明です。そのうち、記憶を確認してこなければ・・・

 そうそう、そして懸念していた平岡十左衛門が帰ることになります。どうやら、蕎麦を食べていた時に内示が出ていたのではないかと、そして7日当たりに辞令が発令されるから5日に出立という感じですね。

 そういえば、竹村惣左衛門の時には、樽に鯉でしたね。竹村惣左衛門って藤沢宿での代官、そして香取神宮造営、この後、堀田正虎陸奥福島藩の第2代藩主が出羽山形藩の初代藩主として移転する際に、幕府代官に竹村惣左衛門が任じられていますが・・・今回の平岡十左衛門には樽と鴈ですね。この手の肴は・・・香取神宮の定番の神餞の中にあるようです。


 ほら、右のような感じに2つ並んで絵巻の中に描かれています。何か、伝統的に鯉と鴈というのがあるのかもしれません。

 さて、両奉行が去って行ったというわけです。十左衛門の礼状は結構長いのですが、内容的にはこんなものですね。途中まで、気合を入れて現代語に置き替えたのですが、面白くないので、原文にするかと考え・・・内容だけにしましたが・・・冗長な常套句ってどんな具合に訳せばよいやら・・・お遊び研究でも、手抜きについては考えてしまうというわけです。

 さて、一の鳥居が建った・・・どれですかね?この一の鳥居は浜の一の鳥居か、それとも本殿に近い方の一の鳥居か・・・浜の鳥居の方は既に建っていると思われるので、楼門前のものですかね?このあたりが不明なんです。

 石段もどうなってるのやら?積み石に関する記述が少ないのが気になるんです。銚子石のような軟質な石とは違った安山岩質の硬い石の加工についての記述があっても良さそうなんですが・・・それとも石工の技術が高く、硬質な石をあたかも軟質な石の如く加工する技を持っているとか?まあ、安山岩も砂岩も見かけは近いですから・・・それとも、加工済みの形で搬入され、組まれるだけだったとか?さて、続きは・・・

6日吉田彦六へ楼門前の石段の踏み面が狭いのではと内膳がいうと、様子を見る事にしようという事になった。御本社と幣殿の間の隙間があいている場所には銅の綱をを掛けるという事については、文蔵も彦六もそうするとのことであった。
10月7日彦六が内膳に言う事には、楼門の前の石段が狭いので広くしてくれないかという事については。之については、千右衛門・文蔵にも言っている。第一の表向きの者だから、御奉行の油断にもなってしまうかもしれないので、内膳が何度も言ってきたので、見合った幅に広げることになった。
・井戸も中途半端に出来上がっていて、掃除のためそのままになっていることについては、当方も分かっていて、そのままになっていて・・・
口上覚
・火の用心のために、社内に井戸を1か所掘ることになっているのだが、地形が高くて、水脈まで二十尋余り掘って、水はあまり湧きだしてこない上に、土を取りだしたので、途中から側面を覆わなければならないので、水底まで、輪を入れなければならなくて、資材も沢山必要になって、その上火事の時のような急用には役に立たないから止めにしようという話はもっともなのですが。しかしながら、御供所の御用や手水の水を遠くから運ぶのは不自由なので、完成させていただきたいと思います。そうでなければ、私どもで、井戸掘りの見分をして、何分にもお聞き届け下いただきたく、見積もりによれば、水底に輪を3つ、口より下へは6つ輪を入れて、途中は横貫を通して支えをして側面を持たせます。井戸掘りを、このような計画での普請をお願いします。願いが通らなければ、そのまま壊れてしまいますので、自分たちで普請したいと思います。9月 日
10月8日雨天、御普請・掃除等は中止。
9日井戸の輪の木を取ることは難しい。明日より井戸側を始まるとのこと。
この日参籠所を組み立てる。

 楼門前の石段の「階せまく」だから踏み面だと思うのですが・・・石段の幅ではなさそうな感じです。上りにくかったのでは?なんって思うわけです。

 石段の幅だったら一目瞭然で、仕上げる前に狭いとわかるでしょうからね。上ってみたらちょっと狭いんじゃないか?なんって・・・でも、見かけを気にしていますから・・・幅かもしれないし・・・分かりませんね。

 神社の階段って、踏み面の奥行きが小さく上りにくいのが多いですから・・・そういえば、鹿島神宮の拝殿の階段は古い急な階段の上に緩やかな階段が二重になっていましたっけ・・・

 比較的古い写真だけど・・・門の間口に合わせた石を1本減らしたぐらいの幅だったか?この写真で気になるのは、石段の右と左で石組が違う事ですかね?左は安山岩のかなり良い仕上げのもので、右側は銚子石の間知石のような感じですね。

 右側の石組が変更になっているのは何故?ちょっと気になります。明治時代になって変更されたとするなら、変更されたのは・・・手水舎と大砲ですかね?

 大砲は左のように設置されていましたから、可能性はありますね。この場所は大砲が来る前には手水舎があったと思われます。大砲によって手水舎は左の写真では良く判別できませんが、踏み跡からすると現総門とこの大砲の間の写真左側にあるようです。

 この大砲は日露戦争の戦利品ですから。鹿島神宮へのこれと同型の15センチ砲の据え付けは明治40年7月27日ですから、この頃に香取神宮にも据え付けられているのでしょう。

 そして、明治40年8月10日に水戸に初めて電灯がともったらしいですから・・・左の写真では左隅に電灯らしきものが写っていますから・・・千葉県では明治40年6月千葉市で送電開始・・・香取に電灯が点くのはいつなのやら?鹿島神宮に電灯が灯るのは、大正11年3月26日に電気技術者が図面を持ってきて、この年の8月3日に社務所に71円50銭をかけて工事を行い点灯に至ったようです。そして、翌大正12年3月15日手水舎に電灯設置・・・となるわけです。多分、香取神宮でも似た頃に電灯がついたのではないかと・・・そのうち史料に当たるとしましょう。電気は・・・そういえば、町史などを眺めていて、上下水道の話は良く見かけるけど、電気に関してはあまり見ないような気がしますね・・・

 幣殿と本殿の間の隙間に銅の綱をかける・・・獅子の間まで幕を張ったというのに対応するのでしょうか?幕を張るための常設のワイヤーかね?

 さて、問題の井戸に関してです・・・どうやら、埋め戻す話があったのですが、正遷宮の影で放置されていたようです。問題は湧水量と井戸として完成させるには資材が必要というのが問題になっているようです。湧水量に関しては、手水とか少量の用には足りるが、火事の際に使うには不足という感じです。井戸の話は、火災の際の用水ですから、所期の目的に達しない物ですから幕府側は廃棄したいわけですね。それに対して、神宮側は水運びは面倒だから、手水や日用の用には足りるから埋め戻しはしたくない・・・とりあえず完成させるには・・・というわけで、自前で見積もりを出しているという事のようです。やってくれないなら、自分の所でやる!なんって感じですね。

 この調子だと・・・元禄13年の井戸は存在することになるが・・・現在まで維持されているかは疑問ですね。とにかく、井戸の普請は継続という事になるようです。しかし、この井戸は何処にあるのやら?気になるわけです。

2013.08.15

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