香取神宮をうろうろ(35)
 正遷宮が終わって・・・

 正遷宮は、普通の祭礼の如く終わってしまいました。ちっとも面白くない!なんって感じです。何しろ、どこまで完成しているのかも分かりません。本殿内陣が完成していれば正遷宮をするんだ!って感じの証文を取ったりしていましたが・・・それでも、拝殿や幣殿も完成しているような雰囲気だし・・・残工事がどれだけあるのか?大祢宜邸前の井戸はどうなったのやら?色々と気になるものがありますが、そういった記述はないのでね。

 16日丹波・図書、津宮の両奉行の所へ祝儀に行った。御祓・御供・高盛を両人へ持って行った。惣下奉行にも御供を出した。昼ごろから蔵人・内膳・権祢宜・国行事・大祝・副之祝・田所などを連れて、御内陣に上げていた餅を持って津宮の両奉行の所へ祝儀へ出た。惣左衛門はことのほか喜んでいて色々と話をしたが、十左衛門には会えなかったという事だ。下奉行へも祝儀に行って来た。もっとも、この日の御普請は休みで、諸職人はいずれも休んでいた。この日の四ッ時過ぎより矢来の中に参詣人を入れた。
この日、半田弥一右衛門が江戸へ出発した。
17日両奉行へ会所まで顔を出した。御普請は段々完成に近づいてきた。
18日御普請は完成に近付いている。
19日雨天、終日雨が降っていた。

 まだ、工事はやっているようなんですが・・・どうも、具体的な工事記録が無いですね。正遷宮の翌日は作業は休み、まったりしてるんですかね?とにかく、完成に近付いているという事のようです。どうやら、工事現場もかなり整理されて、矢来の内に人を入れても良い状態になったという事なのでしょう。もうちょっと、目の前で起こっていることを書いてくれても・・・続きは・・・

20日丹波・図書・金剛寶寺・権祢宜が江戸に上っていった。彼らは御普請が終わり、御遷宮が首尾よく終わった事の報告のためである。
この日、妙塔院の閉門が解かれるとのことであった。この日、両奉行が会所に来たので顔を出しに行った。この日、返田の遷宮が23日に行いたいと言って来た。
・吉田彦六、遷宮料の手形のコピー(下書・げしょ?)をくれた。
21日両奉行が会所に来た。内膳が行ってきた。
22日両奉行がやって来た。大仏師善慶が顔出しに来た。江戸では9月22日4人一緒に伊賀守へ行って、その他3奉行の所へも行って来た。
26日伊賀守・播磨守へ明日の寄合に出席のお伺いに行った。
27日播磨守の寄合に4人で出席した。御修復が完成して、遷宮も首尾よく終わった報告と、お礼を申し上げた。
28日小幡備中守へ出かける。
29日柳沢出羽守の役人衆の所へ出かける。
30日絵図が完成した。伊賀守へ持って行ったが、留守だったので帰って来た。

 正遷宮が終了したことを報告に江戸へ揃って御出掛です。インチキ図面事件で閉門を食った妙塔院も閉門が解かれるようです。遷宮料の手形か・・・この時代の手形って、どんなシステムだったんですかね?近代デジタルライブラリー - 徳川時代商業叢書.  第3 ふむ、大坂のシステムの説明がありますが、これに準じるのでしょう・・・江戸時代の日本は・・・金融システムでは世界のトップレベルでは?結局、このシステムが現在につながる、明治12年だたっけ?手形交換所の設立・・・それよりも遥か昔にそういったシステムが動いていたんですから・・・これは、驚きですね。江戸は・・・法治国家ですね。なんとなく、物流システムは江戸から昭和まで基本は変わらず、そう、宅急便で大飛躍なのですかね?IT技術導入前は、江戸時代のシステムで動いていたのか?

 あとは、例によってお礼廻り・・・絵図が完成・・・というわけで遷宮から半月が過ぎて10月に入るわけです。遷宮が終わってしまいましたから・・・あとは通常業務ですね。それでは続きを・・・

10月
10月1日朝、伊賀守へ絵図を持参し御目にかける。
2日出羽守へ遷宮が済んだので、御札を差し上げお目見え願いに3人で出かけた。御帳に付けて帰る。
この日久貝因幡守へ出かける。
7日伊賀守へ御伺いに出る。遷宮が済んだので、祈祷の御祓いを行い、お目見えしたい旨を願い出た。
9日図書・金剛寶寺両人、伊賀守の寄合に出てお目見えの願いをした。後で窺いを立てるようにという事で14日に罷り出るようにとの話だった。この日、出羽守へは丹波が行ったら10日の朝に会うという事だった。
10日朝、出羽守へ行った。お礼差し上げのうえ、三人一同で合ってきた。
11日出羽守の役人達にお礼に出る。それから、稲垣対馬守へも顔を出してきた。
10月12日久貝因幡守へ行ったところ、会う事が出来て、普請が何の滞りもなく、すべてにわたって首尾よくできたことについて考え通りになったと言って来た。
・10月28日、大宮司丹波・大祢宜図書・金剛寶寺一同は登城して、御払いと扇子3本入りの箱を黒書院で献上すること。
・お目見えは、永井伊賀守を奏者として、香取・三瀧、神主・社僧と御披露となる。これは諸大名御詰めになる前に出てのお目見えで、結構の至りだった。11月3日帰国した。
・権祢宜にも、社家総代にも御目見を願ったが、それは駄目だったので、先に帰国した。
・武州三瀧権現の社も香取と同年に御修復となって、お目見えも一緒になった。

 絵図を見せたり・・・問題は、将軍への御目見ですね。ここでは、江戸での10月の動きが羅列されています。なにやら、ちょろちょろ動いているうちに御目見が決まり10月28日に将軍に黒書院にて会う事になります。右の図が黒書院です。この年に同時に造営が行われた香取神宮と三瀧権現の両方が完成し、それの御目見とのこと・・・2つの大きな工事を並行して行い、完工をそろえているという事ですね。三瀧権現・・・武蔵御嶽神社の事ですね。こういった御目見の儀式までをセットに考えると・・・工程管理がきちんとしていないとまずいという事なのでしょうか・・・さてさて・・・

当地にて
9月23日十左衛門一人でやって来た。この日、返田の社の遷宮なので、暮れ方内膳が出かけて遷宮を行った。この日、高田源助が御本社の唐戸の御錠のつぼを直すというので、御鎰を渡す。この日、神領人足20人ほど借りたいという事で、千右衛門・彦六から言ってきた。材木など片付けるというので、申しつけた。
24日両奉行会所にやって来た。惣左衛門は奥州福島の支配地へ行くという事で、福島行きの暇乞いの参詣で、大宮司方にも、図書方にもいとまごいのために玄関までやって来た。その夜の五ッ半時分に津宮を発つというので、見送りに蔵人・内膳・物申祝・大祝・田所が船で潮来間で出かけた。樽二ッ新しく拵え、鯉五本を台に乗せて出した。ことのほか悦んで、わざわざ遠くから届けてくれてと礼を述べていた。暇を請い帰る。宮之助も昼のうち、津宮惣左衛門もへも暇乞いに来ていた。この日、装束や太郎兵衛が戻ってきて装束の直しについて相談した。
この日、遷宮料の金子、八両二分を吉田彦六から受け取り、蔵人に渡す。うち銭128文を返す。もっともこのことは証文にして彦六に渡した。
25日十左衛門会所へ顔を出す。この日、御本社唐戸の上下が離れてしまい(くたる)、金物を打ち直すとのことで、内院の者が潔斎して、御錠を明けて唐戸を外して金物を打ち直した。
・装束屋がやって来た。装束を江戸へ持って行って仕立て直すという事で、証文を取って、袍・上袴・下の袴を渡した。

 香取での話に戻ります。返田の遷宮が行われたか・・・また夜の行事ですね。なぜ夜に遷宮なのだろう?ちょっと気になります。香取に神様がやって来た時・・・夜陰に乗じてなのか?

 唐戸の御錠のつぼを直す・・・う・・・多分、唐戸側の錠のシャフト部分が通る錠坪の具合が悪いから、それを打ち直すという事なのでしょう。それで、錠の鎰を渡して錠を外して直したという事ですかね?この錠には封印がしてあるのでは?それから、神領の人足を使って、矢来の内の材木を片づけたいという事のようですね。いよいよ作業は終了なのでしょう。さらに、惣左衛門は新たな任地の福島へ旅立つとのこと・・・あちこち飛ばされているようです。有能なのでしょう。この時代の転勤の内示から辞令までの間の時間はどれくらいなのでしょうか?気になりますね。現国家公務員は国内なら10日前ぐらいでしたっけ・・・まあ、内内示があったりしますが・・・今日の20時の舟で出るから・・・と言って暇乞いというわけですから慌ただしいですね。福島へ行くのですが・・・この時代の交通網はどうなっている?津宮から潮来・・・鉾田・・・下吉影・・・海老沢から涸沼を抜けて太平洋へという事ですかね?紅葉運河はこれよりちょっと後ですから・・・それとも銚子経由か?ちょっと気になりますね。

 そして、装束の仕立て直し・・・何が気に入らなかったのやら?受け取り証文を書かせて仕立て直しですね。これは良いとしても、遷宮料の銭128文を返すって?8両2分・・・何かの差額?遷宮料は白銀で十枚では?まさか、包銀換算をすると包料が128÷8.5=15.0・・・1両について15文程度だから、その分を差し引いて受け取ったとか?1両=銀43匁に包ほどきの保障金の0.2匁・・・4貫文で18文相当・・・15文で計算することになっていたのか?それとも8両分を・・・128÷8=16文・・・20日に吉田彦六から手形をもらったのか、手形のコピーをもらったのか、下書の意味が不定でしたが、手形そのものが下されたのではないらしいですね。専門教育を受けてないから上手く訳せない言葉が沢山出てくるし・・・こういった金銭の端数のやり取りが気になりますが、意味不明なことが多くて・・・両替の際の切賃とか打賃とか・・・

 また分からん言葉が・・・くたる・・・腐る・離れる・下がる・・・何だろう?唐戸の錠坪の直しの後ですから、いじったら不具合が出たというのですかね?錠坪の打ち直しをしたらしいから・・・叩いたら、唐戸が構成部材に分解を始めた?結局、表面を直すだけでは終わらず、扉を外して修正を加える必要があったので、内院神主が潔斎して扉を開いたという事ですかね。閉じている扉だから、上下が・・・下がっても分からない。新品か再生品かわからないがチェック済みの物が腐っているわけはない・・・唐戸って言ってもどんな唐戸なのやら?古い絵図の本殿扉を拡大すると・・・右のような感じですね。この印刷物の解像度ではこれ以上の読み取りは困難ですね。

 シンプルな桟唐戸ですね。隙間があいたとかそういったような不具合ぐらいしか起こりそうもないが・・・

 ?扉の左右に狛犬みたいな物がある・・・獅子?もしかして大床の部分が獅子の間というわけ?しかし、神殿の構成が変わってしまっているので・・・どうなっているのやら?八龍神はどの時期に神殿に入り込んだのやら?

 そして、装束屋がやって来て仕立て直しか・・・サイズの関係?豪華さ?有職故実の類・・・ローカルルール・・・まあ、何かがあったのでしょう。

 読めば読むほど分からなくなるのが問題ですね。何か、良い参考書はないものか・・・考え始めてしまいます。そりゃ、国会図書館の論文がらみの検索を掛ければ、研究者の一覧が出て、参考文献がぞろぞろと出てくることも分かってますが・・・ゲーム攻略本は欲しくないし・・・でも、知ってる人にとっては間抜けな作業をしていることもわかるのでね。お遊びお遊び・・・しかし、遊びに時間を遣いすぎている気もしますね。

2013.08.13

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