香取神宮をうろうろ(24)
 元禄13年と現在の狭間に (2)

 さて、いよいよ本社の柱が立つところまでこぎつけましたね。どうも、色々と分からないことが出てきます。日記をつけている人たちは、目の前で起こっていることだし、知り尽くしている場所についてですから、建物の位置関係などを記載してくれないのが困りものです。とにかく、現在の拝殿の位置に本殿が無かったことは確実です。遅ればせながら、元禄13年以降の境内の工事を拾い出してみました。いつものことで、やってる順序が違うよな・・・こんなの最初にやるべきなのに・・・と前回もやってましたがその続きなんです。

 興味は続きます・・・そして、困ったことに、適当に画像ファイルを開くと、そこには橘三喜の諸国一宮巡詣記の香取神宮の絵図が・・・それで、もうひとつのギョ!がはじまってしまいました。次の図なんです・・・図その物は見慣れた社殿配置なんですが・・・だから、以前は見落としていた・・・よく描けているなと・・・しかし、私の目に飛び込んできたのは・・・延宝5年の年号なんです・・・いい加減な記憶によると、元禄より以前の年号だと・・・即確認・・・1677年の事なんです。すると、元禄13年の造替では、この配置のまま後に本殿を下げただけかよ・・・本殿は南東に向いてるだのの妄想が・・・妄想であることになってしまう・・・ついにやってきたか・・・でも、ある程度、薄弱だけど根拠が少しはあったはずなのに・・・と思うわけです。普通は、解説なども見ないのですが・・・珍しく眺める事になります。

 それでは普通に真面目に、その解説文の内容をまとめて行くと・・・・というより、発端からのゴタゴタのいつもの様なメモを開陳するとしましょう。

 橘三喜の諸国一宮巡詣記の三巻に延宝5年12月3日から17日頃までの参詣記録があります。その中の絵図が右の物です。延宝5年って1677年じゃないか・・・という事は、右の図は・・・でも、この位置に旧本社があるわけない・・・ん?この本刊行されたのは・・・というより、これは麻園叢書の中の写本で・・・この図は、財団法人明治聖徳学会紀要第51巻・1939年昭和14年一宮巡詣記挿図集の物であるとのこと・・・明治聖徳記念学会紀要 検索 ここに表題は載っていますが、中身が無いのです・・・1722年享保7年の簡略本から引いたか?1697年元禄10年9月に巡詣を終えてる・・・その後13巻の巡詣記を仕上げた以降か・・・橘三喜が参詣した時点の物なのか不明・・・水屋が書かれている・・・古来、お偉いさんが来る場合は、楼門のところで、手桶から水を汲んでという手水のサービスがあったらしいが・・・水屋はあるとは思えない・・・井戸とセットのはず・・・

 まず、この図は1677年の状況を写したものか?

 拝殿は1700年に初めて存在するようになったのでは?

 元禄12年9月16日の見分が気になります。二の鳥居の太さ、楼門の場所、小屋掛け場、御供所の場所、井戸の在所、水屋の在所等御見分とあります。

 これに対応する口上覚えが・・・一の鳥居跡に、楼門を下げ、楼門前に一の鳥居を出したいという話をやっています。

 となると、橘三喜が見たのは・・・この図の楼門と一の鳥居の位置関係が違っているという事が判明します。

 この図は、元禄13年の造営以降のものであるとすることができると思われます。ああ、良かった・・・これが1677年の状況だったら、私の妄想は、本物の妄想になるところでした・・・妄想というのは、夢の一種ですから、夢が壊れなかったからOKですね。この図と年代を見て、少しがっかりしていたんですが・・・どうやら、これは造営が終わった後に、付け加えられた物か、現況が変わったので差し替えられたものではないかと思われます。しかし、ちょっと橘三喜が見たものは・・・

12月1日の鹿島神宮を参詣して、奥院・大神宮・かなめ石・御手洗の様子などありがたく覚えた。大宮司、塙和泉守が出てきて、しきたりなどの話をしてくれた。それから、浜辺に出て、松原が広がり、岡か城・陣山・末なし川・高天原の海上から出る日が輝き非常に神秘的に見えた。帰りに物忌みの小屋に立ち寄ると、(・・・どこかで見た言い回し・・・木立物ふりかやふきの有様いとあわれなり・・・)木立がどことなく古びて、茅葺の有様が趣深い。(徒然草か?・・・わざとならぬ が入っていないが・・・大学入試で予備校時代に学んだ気が・・・古い記憶・・・おっと、・・・)斎宮・斎院の事など思い出して、

 すたれ行道にならはて物いみの絶ぬかしまの宮のとうとさ     (たふとさ じゃないんだ・・・)

 大船津で船を多とって息栖神社へ詣でた。神人・宮司などが出てきて、この神社は、天速日命が祀られていて、鹿島神宮や香取神宮と同じ信仰が流れている。鼎の三本脚のような物で、道のりも3里ほどずつであると言われている。その日の夕方、下総の津宮に着くと、香取大禰宜丹波守のところからという馬に乗った迎えの人がいたので、その夜、亥の刻に香取に着いた。(夜中近くに着いたのか・・・)
3日、下総国一宮の香取神宮に詣でた。神主は中西丹波守藤原某であった。
 香取大明神四座 経津主命、建甕槌命  天児屋命、姫太神
大禰宜にて、中臣祓を読む
17日、香取大禰宜の家を出て佐原に留まる。18日に・・・

 こんな感じですね。2週間何をしていたのやら?その記述がありません。中臣祓を読むのに2週間かかるわけないよね?最初読んだ時に、2週間で、この絵図を調べながら描いたのかと思ってしまいました。この写本は原本は何なのやら?贈答の歌を省略したやつなのかな?2週間ぐらい歌遊びをしていた・・・この歌がちょっと気になりますね。屋根に木が生えるとか、社殿の崩れゆく様とか・・・そういった歌があったりすると興味深いですが・・・修復が実現すると良いという歌とか・・・

 もうひとつこの図で気になったものがあるんです。それは、何も書かれていない長方形ですね。これを見て・・・多分、愛染堂と思うわけですが・・・こいつは境内だけど神宮ではない、でも、本社裏の堂とは?経堂か?なんって思って・・・ふと、ゴマンドって言葉が頭の中に落ちてきたんです。ゴマンド・・・護摩堂ですね。そこで、再読してしまった香取名所図会の該当箇所によれば、次のようなことになっています。

護摩堂
今俗に「ゴマンド屋敷」という所にありしもの、中世仏法隆盛の際、香取神宮の日護摩を修せし所なりしが、今は圃畠となりて、人民の所有に帰す、古昔は神林の東北隅にありしを、享保の頃、今の跡へ移したり、其後、文政・天保の交、漸々破壊して今は亡し。

 元禄13年の日記で護摩堂は・・・二の鳥居の上から大細工屋敷の後、愛染堂・経蔵の後の護摩堂屋敷の境・・・ここに矢来を作ったわけです。大細工屋敷は二の鳥居の上に大細工屋敷があり、その後方に愛染堂や経堂があって、その後の桜馬場になる場所?とは思えない、なぜなら香取名所図会の時代には桜馬場が再興されています。そして、今は圃畠となりて、人民の所有に帰すとしていますかね。従って、本殿の裏の道・・・を取り込む形で、桜馬場の北側の急傾斜地のあたりまで竹矢来を作った。その先の下にゴマンド屋敷と俗に言われる小字がある・・・俗に言われるのだから、正式名称ではない・・・何か別の寺院系の小字名であるという事なんでしょう。

 そして・・・香取参詣記の・・・大坂の中ほどより左へ登る坂を、別登昇路といい、昔は、わけのぼりの坂といった。いつの頃かこの坂の行きつく先に別当の寺を置いた事がある・・・つまり、桜馬場に入る道の一つ下、大坂原町青年館の向かいの道の奥、桜馬場の急斜面の下に護摩堂があったという事ですかね?

 こいつは土地宝典でも眺めればそれなりに解決しそうな感じなんですが・・・小字以外にも地名が出るんですね。現存している物ならそれは、それなりに分かりますが・・・というわけで、再び池の端で泥沼で・・・

 もう!ふと目についた俗称が・・・香取群書集成3に 尚古館は、香取神宮の祠職等が、境内近くの池の端(千歳屋前を右に上った坂の右、現在の滝口の上あたり)に、文久三年に建設した国学と武術を学ぶ学問所。・・・こんな風に書かれても千歳屋ってどこ?現在の滝口・・・滝口って・・・昭和55年に竣工した神池の滝口の事かね?

 この短い文の意味が取れない・・・池の端は境内の外である。近くだから、接していない・・・家か道路などが間にあって直に接しているわけではない。道と仮定すると、神宮沿いの道の神宮とは反対側に池之端がある。そこは千歳屋前を通り過ぎたところを右に曲がるとそこは坂で、それを上った所の右に前を右って意味不明・・・そもそも千歳屋が現在無い、近い名前は千年屋で、これは現参道の土産物屋・・・ネットで探すと・・・旧参道の神宮に一番近い場所にあった「千歳屋」という旅館 ・・という情報・・・千歳屋の場所は二の鳥居の前の右か左、何・・・二の鳥居前で神宮に向かって左に千歳屋があってその前を過ぎて右に曲がると上り坂は・・・現在ない、総門下への下りだよ?上って右・・・でも、千歳屋は・・・何かの絵で見たような?

 明治時代の観光案内的な香取名所図会に・・・なんだ看板付じゃん・・・香取群書集成3はいつの本だ?この本の原稿が書かれたときには総門への下り坂は上り坂だった?

 という事は、前から気になっていた旧参道が2本あって、雨乞塚から右の絵図の所へつながる直線の広い道と、雨乞塚の南の飯笹長威斎の墓所当たりの不断所の所から今はないが要石につながり、要石から旧参道大鳥居脇に出る道があり・・・・旧参道大鳥居脇の道は、かつては高くなっていて、いつの頃か切通しになって、総門下の宮下へ上って下るのではなく、素直に下る坂に造り変えられた。という事になるか・・・つまり、同じ目的の道は2本は要らない、宮中から宮下への道が素直な方が良い!という話になったというわけでしょう。

 しかし・・・池之端って言うんだから、池があったわけですね。池は?古い私の記憶ではこの場所に、四角い水を湛えた水槽のような物があった記憶が・・・現状では、ポンプがあって四角い水槽の様なものがありますが・・・多分同じ場所のような?・・・でも、池ではなかった・・・まあ、地域によっては井戸を池という所もありますし・・・水の溜まっている場所は池で良いのかも?でも・・・

 江戸時代の図には池之端の所と思われる場所に池の図がありますね・・・という事は、この場所は元禄13年以降のいつかに切通しになって・・・それに伴って水が枯れたか?何しろ、高いところの水源の下を大きく改変したんですから・・・

 ならば・・・総門下の神徳館の反対側には排水路があって水が常に少量でも流れ続けているかもしれませんね・・・推測は当たるか?気になるから、近いうちに行くことになりそうな感じです。

 日本語は難しい・・・しかし、なんで千歳屋を位置の基準に使った?どう見ても旧参道の石段下を南に上って要石の方へ向かう所・・・これでも判らんな・・・図を作るか・・・

 読み取った内容に妄想を加味すると、右のような図になるのかな?千歳屋のところからAが上り、Bが下りになって、要石の方へ進んで池之端・・・

一応、道の南側に池之端を置きましたが・・・要石の方に向かって、押手・要害と続き、その南東の現参道沿いが佐久で、神徳殿を中心に総門下の部分が宮下、旧参道沿い、池之端から要石の道を境に北側が宮中なんでしょう。

 やはり、土地宝典を眺めないと駄目かな?この池之端が、宮中・宮下・押手のいずれか?気になりますからね。予想は・・・宮中だな。案外、この場所が人間が生活するのに不可欠な水源だったのでは?湧水量はどれくらいだったのだろうか?気になりますね・・・御神池の湧水量も多そうじゃなかったから、大した湧水量ではなかったかもしれません。この場所って・・・楼門前の馬場とほぼ等高・・・水が湧いてたのかね?気になります。それから、ほぼ等高であるから、上の図で大鳥居脇に小さな門のような物が書かれていて、ここにつながる道だったという事になりますかね?

 実は、この旧参道二の鳥居跡の右側の道は以前から気になっていたんです。左の写真が上の図のAのあたりの神宮の石積みを撮ったものなんです。

 この角の部分から左と右では石積みの技法と石材が明らかに違うんです。

 左側が安山岩系の石材、右は銚子石のようです。砂岩なので時々表面がはがれて下の新鮮な石材が現れるようです。右側の石垣では何カ所かはがれて下のクリーム色っぽい地が出ている個所がありますね。

 多分、左側が元禄13年の石垣ではないかと・・・右側が、昭和9年か?このあたりが分からんね。でも、香取神宮文書集成3の校注者にとっては千歳屋やその脇の坂道などが鮮烈な記憶としてあったから、旧参道前の大鳥居の脇という書き方をしなかったのでしょう。しかし・・・この場所は千歳屋が中心と思いこむというのは、校注者は千歳屋で育った人かね?こういったことも気になります。でもそれなら千歳屋から出て石段の先の坂を上って右という表現か?可能性が高いのは、千歳屋を香取神宮の研究の常宿に使っていた人で、香取神宮に行くことは千歳屋に泊ることになっている人の発想のような気がします。

 そうなると、この校注者にとっては・・・佐原の停車場からバスに乗り、岩立商店前で下り、荷物を持ってとりあえず千歳屋に入る。荷物を預け、その足で・・・千歳屋から右へ坂を上って左に折れて神宮へ入ることになる?右に折れれば池之端だと・・・これが行動のパターンだとすると・・・非常に律義な人か、足がやや不自由な人か?

 律義な人の根拠は・・・旅の汚れを落とさずに、とりあえず参拝する人で、このときは大鳥居の方から入らず、勝手口の様な脇の不浄門のような所から入って、楼門の前の鳥居のあたりで参拝、翌朝には身を清めてから大鳥居をくぐって石段を上って拝殿で参拝・・・それでなければ、荷物を預け、その足で宮下の方の誰かの所へ挨拶に行くとか・・・そういったルートが決まっている妙に律義な人ですね。足が悪いというのは、石段を上るのが困難で、坂道を好むという理由です。もし、切通しが開削されたのが昭和9年ごろとするなら。壮年期頃までの記憶でそれから40年・・・校注したときは70〜80歳ぐらいの人となりますかね。

 こんな具合に、妄想をふくらませながら読むわけです。しかし、「千歳屋前を右に上った坂の右、現在の滝口の上あたり」これだけでずいぶんと遊んだ気がします。まあ、半日ほど妄想で遊んでいたわけです。

 ん・・・実は、新しい社務所の写真を眺めて悩んでいます・・・この建物って新規に造られたのか?という疑問です。だって・・・2つの建物をくっつけてつなぎ目に玄関を作ったみたいな建物に見えるんですから・・・

 まさか・・・またパズルを始めてしまいました・・・なんとなく、この立派な社務所は移転改築の成果では?明治31年の香取名所図会の境内図を良く見ると・・・神饌所・社務所・垣のついた建物・神饌所と社務所の間の御神木に隠れている少し高めの屋根を持った建物があります。

 それからもう一つ・・・花園神社が目に入っちゃって・・・昭和13年の境内図を眺めて、仮本殿の平面図を眺め・・・不思議な形だと考えていたんです。どんな仮本殿?ってね。こんな具合に思考遊びをやってると・・・でも、意味ないね・・・聞けばいい範囲だから。

 そう、歴史遊びをするための条件は、その事を体験した人が死に絶えてからというのが原則ですからね。生き証人は面倒です・・・昭和の初期の事など昨日の事のようです。生きていて強い体験を持った人にとってはね。従って、遊びにくい範囲です。

 仮御本殿は、花園社を使いってか・・・現在は花園神社は六所神社へと相殿ですね。本殿周りに垣をして・・・そのぐらいで良いでしょう。

 さあ、体験者のいない時代で、壮大な妄想を抱く旅へと再び旅立つとしましょう。井戸の件も明らかになるかもしれませんしね!

2013.07.22

関係ないが、興味深いもの
 今回もなし・・・












inserted by FC2 system