香取神宮をうろうろ(23)
 元禄13年と現在の狭間に (1)

 さて、いよいよ本社の柱が立つところまでこぎつけましたね。どうも、色々と分からないことが出てきます。日記をつけている人たちは、目の前で起こっていることだし、知り尽くしている場所についてですから、建物の位置関係などを記載してくれないのが困りものです。とにかく、現在の拝殿の位置に本殿が無かったことは確実です。遅ればせながら、元禄13年以降の境内の工事を拾い出してみました。いつものことで、やってる順序が違うよな・・・こんなの最初にやるべきなのに・・・

 右の図は昭和13年刊行の香取神宮志に掲載されているものです。近代デジタルライブラリー - 香取神宮志
  • 元禄13年改造
  • 明治29年4月御本殿修理・楼門屋根改修
  • 明治42年神庫建設
  • 昭和4年8月拝殿屋根改修
  • 昭和10年11月神饌所改修・・・昭和13年には旧御供所の位置に建物はない・・・御供所が神饌所になって移転か?参籠所=社務所は新規に現在の位置に作られたのか?
  • 昭和11年度から397000円で社殿改修
  • 昭和11年12月5日仮殿に遷宮ここまでは昭和13年刊行の香取神宮志による
  • 昭和15年幣殿・拝殿・神饌殿・手水舎竣工・・・旧拝殿移転
  • 昭和17年総門竣工
  • 昭和42年宝物館竣工神札授与所・祈祷者控室併設 ここまでは香取神宮案内記による
 さて、この仮御本殿は皇紀2600年事業で幣殿と拝殿が新しくなるのに当たっての物のようです。そして、元禄13年の造替・・・興味深いのは昭和13年の香取神宮志では改造とありますから。元禄13年で大きく神宮の建物の異動があったという事なんでしょう。その後は、基本的に改修が中心で皇紀2600年事業に向けて再び大きな変化があったと考えればOKなんでしょう。

 上の図で旧神饌殿は参籠所と呼ばれたものでしょう。長い渡り廊下で拝殿につながっています。よって、その外観は右の写真のようであったわけです。なかなか立派な建物であります。現在この場所には神札授与所+宝物館があるわけです。

上の図から消滅している御供所つまり神饌所は昭和10年に改修されていますが、この詳細が不明。ちょっと前に改修されているのに在るべき位置に存在しない・・・御供所の建物は左の写真のはずです。玉垣の入口が拝殿正面に当たり中央の大きな木が神木、左の方の屋根が旧神饌所と図に書かれている参籠所または社務所と呼ばれたものですね。これが、改修されただけか?何だっか判らない・・

 この建物は大饗の絵巻の中に現れてきますね。右の絵巻の部分です。左の方にぱらぱら出ている枝が御神木です。これによると、外壁は押縁下見板張りって板壁ですね。

 この図から読みとれるものは・・・右には同じような黒い板塀が続いています。食材などの搬入の目隠しかね?左の開口部の下には縁が伸びていますね。この黒い板塀がやや疑問ですが・・・

 御供所などは普通は写真の題材にならない・・・右の絵巻の中で現れるのは大饗の儀式記録に近いからなのでね。

 忘れてた、この大饗祭絵巻は明治17年12月に画家の岡勝谷が大饗祭を見物しに行った時に製作委嘱されたものだという事です。そして130日間籠って、明治18年7月14日に神前に奉献したとのこと。

 米を池の端にあった中教院を御炊殿として使って炊き上げ、それを楼門を入り、参籠所=社務所に運ばれ、そこで包丁式などを行う・・・御供所はその補助的な役割をする場所となるのでしょう。何しろ、飯を炊くのも特別に場所を設けて・・・

  昭和10年に改修された神饌所は何処?そうなると、境内図の中から選ぶと・・・大きさからすると旧神饌所の右(東)の社務所の並びの建物っぽいのですが・・・さすがにこの写真が見当たりませんね。

 御供所が無くなって、御神木のところから元禄の造営以降に作られた社務所が見える写真は・・・左のようなものですね。これなら、上の御供所が無くなって、社務所が明瞭に見えるわけです。従って、これが昭和13年の境内図に現れる、御供所が移転した後の新しい社務所の景色となるわけです。

 この社務所の建物は瓦葺ですね。この社務所が建設されたのはいつなのか?手持ちの資料では不明・・・可能性がある時期は・・・昭和の初めか、明治20年年代後半ごろか?香取名所図会は・・・明治31年刊行を見ればよいのか・・・この時代の境内図があったはずだから・・・やられた・・・神饌所と社務所と付属の建物がある・・・

 明治17年の大饗祭の時には、社務所の看板が出てるのは、参籠所として造られた建物だが、明治31年には、神饌所に名前が変わっているのか?

 少なくとも、上の写真の新社務所は明治30年代には存在していない・・・

 図を入れなきゃね。香取名所図会の境内図から関連する場所を引いてきました。

 これだと、瓦葺の建物以前の社務所が存在していて、参籠所・社務所・神饌所・旧神饌所と同じ建物の名称が移り変わってきたことになるのか?

 え・・・水戸って何?神木の近くに手水があるが・・・井戸の事か?周りが完全に囲われているから、これは井戸でしょうね。手水舎ではない・・・という事は、元禄13年の井戸は・・・

 こんなところに井戸があるなんて知らないよ・・・ここだと現在の旧拝殿=祈祷殿の場所ですから・・・祈祷殿は時には神楽殿の名称に化ける時もあるし・・・じゃあ、神宝館の裏あたりに想定した井戸はないことになる・・・ここしか考えられないと思ったのに・・・

 ますます分からなくなってきた・・・社務所の左側が問題ですね。ふむ、この社務所は瓦葺ですね。さっきの写真には、社務所の左がありませんから・・・とにかく、さっきの社務所の写真は昭和の始めに撮られたっぽい・・・

 ネットの画像では分からん!えい、1050円・・・右の写真社務所の左には・・・別の写真にわずかに御供所と思われる建物が写っていますね。

 昔の絵ハガキはガラス乾板の密着焼きつけのような感じです。スキャナーで読み込んで、大きく拡大してチェックも可能・・・

 瓦葺の建物で前に庇が伸びています。ん?なんだ・・・右の社務所の写真・・・地面に何か、拡大してみると長方形の何かが・・・これが案外元禄の井戸かもしれない水戸の跡か?でも・・・読み取った内容からするとここではないような気もするが・・・

 これだけ立派な上物を持った井戸なら、江戸時代の絵図にあっても良さそうなものだが・・・なぜ出てこない?明治28・9年の物か?

 とにかく、このあたりまでが、手持ちの写真資料の限界かね・・・

 ふと・・・図を見て宝庫の周りが空いてますね。鹿島新宮は何処?字がつぶれていて判読が困難です。こりゃ、図書館に行ってコピーサービスを受けるしかないか・・・国会図書館は遠い・・・何しろ、時間の都合で香取市の図書館にも行けない・・・本殿の裏の現在は存在しない道沿いに境内末社が集められているようです。これはいつのこと?江戸時代には本殿の北東にバラバラとあったようですが・・・明治29年に移動させたか?それから、手水舎の位置が上の写真で楼門内にあったものが、楼門外に出ています。これは良いとして・・・見落としている物が無いか・・・

 ん?香取名所図会の水舎が・・・楼門前にあるぞ・・・黄門桜の前あたり・・・馬場を塞ぐように・・・この場所は、後に大砲が置かれる場所ですね。大饗祭絵巻にもこの水舎は描かれています。昭和13年の境内図の水舎はこれが移転して来ている物?

 じゃあ、元禄13年の水盤は別の物があるという事か?現在の手水舎の水盤石を眺めてくる必要がありますね。石には昭和15年でない年号が入っているとか?

 となると、元禄の水盤石は昭和の初期の改修の際に、大砲と入れ替えに桜馬場入口へ配置転換、大砲は?返却か?・・・いや、大砲が消えるのは・・・終戦の年ではないかと・・・

 桜馬場にも大砲が置かれていおたことは、絵葉書に写ってるのを見たことがあるので・・・かなりの火砲が神宮にあったようです。
 
 手水舎はよく動いているのでどうもよくわかりません。そういえば、元禄13年の水盤の庭前の最後の状態はあまり良くありませんね。多分、右の写真が庭前から撤去される頃のものではないかと思われます。

 ん?これは違うかも・・・なんとなく、足の部分が違うような気がします。これって箱か?それでなければ、元禄13年の水盤ではないような・・・香取神宮の末社などは手水舎を持たない物が多いような?気のせいか・・・ん?これって・・・見たことある・・・護国神社の所の水盤石では?表面のゴチャってのが良く似ている・・・しかし何でここにある?護国神社の創建は昭和21年9月とか・・・

 しかし・・・明治31年の香取名所図会の水戸は・・・元禄の造営の際の井戸だったのか?悩みます・・・手水の水盤が気になるし・・・楼門前の手水舎は最初の境内図の大砲の位置に明治31年ごろまで確実にあって、其の後、昭和13年に楼門と総門になる場所の間の図の位置になり、昭和15年に現在の位置に変わる。

 楼門前の馬場が改修されたのは多分、昭和9年ごろでは?石碑にそのぐらいの年代が刻まれていたような?皇紀2600年に向けての改変・・・そして、戦後高度経済成長の波に乗って昭和40年代から60年ごろにかけて変革があったという感じです。

 しかし、明治30年代以降に作られた社務所の北側にある建物は、香取名所図会に描かれている社務所に付属する垣根のある建物の様な気がしますね。

 もしかしたら・・・およよ・・社務所は2階建てになってるけど二階を増築しただけで、同じ建物か?現在の社務所の1階部分とほぼ同じように見えますが・・・同じ建物だとしても屋根が瓦葺から変更されているようです。

 社務所が、新しそうな建物に見えたので、全然気にしていなかった・・・単なる事務所って・・・右の写真が全景です。金壱千五拾円也高い絵葉書だ1050円分遊べるか?・・・この建物前の細い杉の木ともう一本の木がありますが・・・この細い杉の木は現在、社務所と旧拝殿=祈祷殿の間に現存していますね。すると、正確な位置関係を割り出す事ができますね・・・もし、地面の白っぽい板のように見えるものが、かつての井戸の跡だとすると・・・

 香取名所図会の図はしっかりとした技術を持った人間が描いたようですね。一応絵の上にグリッドを引いて見て位置関係を眺めているんですが・・・井戸の場所は、雰囲気としては御神木の周りの植栽がある場所の、南へ伸びた先あたりの様な感じです。

 右の写真だと、赤い幟が建っているあたりですかね・・・改めて絵葉書を眺めると社務所の造りはやや不思議・・・2つの建物を中央の玄関ホールでつないで造ったみたい・・・右と左で屋根の勾配が微妙に違う・・・こりゃ現物を見てこないと・・・危ないのは、人に聞いてしまう事ですね。これは避けねば・・・さらっと、説明されてしまうと面白くない・・・知ることではなく、考える事を楽しみにしているのですから・・・聞いて納得するなんって、そりゃ受験勉強をする時ならOKですが、純粋に知的な遊びなんですから・・・ある意味、この香取神宮にある1つ1つの石にも歴史があるわけですからね。すべてを知るものは・・・神のみ・・・人の行いによって作り上げられてきたものですが・・・でも、明治以降の史料は膨大なものでしょうね。それでも、記載されていない物や記憶のかなたに、忘却の淵に沈んでしまった物も多々あるから、遊べるというわけです。別に、入試問題ではないので、正解を出そうと努力をしていますが、正解に至る道筋を楽しんでいるのですから・・・ありゃ!遊んでられない・・・模試の原稿依頼が来てますから。ただ一つの正解を求める問題を作る作業の裏返しをしていないと、なかなか良い問題が作れないのでね。ある意味、仕事の練習みたいな、お遊び研究ですから・・・しかし、まずいことに参考資料を買い込み始めています・・・興味は続きます・・・そして、困ったことに、適当に画像ファイルを開くと、そこには橘三喜の諸国一宮巡詣記の香取神宮の絵図が・・・それで、もうひとつのギョ!がはじまります。

 社務所は近いうちに見てくることとして、次回は、もうひとつのギョ!で遊んでみましょう。

2013.07.21

関係ないが、興味深いもの
今回は無し・・・












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