香取神宮をうろうろ(18)
 地業が始まって・・・

 さて、香取神宮の造営を調べていたのですが・・・佐原の八坂神社の祭礼へと話が飛ぶことになってしまいました。現在の様な屋台を引きまわす祭りの形式は1721年享保6年あたりから本格的になった・・・この年に、新宿にて各町の山車に関する取り決めが行われた・・・それまでは、神輿に、附け祭として傘鉾や華万燈を持っての参加だったのが、突如の山車ブームに入ります。突如のブームって・・・香取神宮の造営に使われた石車の払下げではないかと勝手に考えるわけです。時期的にも合いますから・・・
 というわけで、佐原の大祭を眺めて来たというわけです。この山車はなかなか興味深い構造で・・・車軸は固定されていて、軸は回転しません。4つの木の車輪がはまって、それぞれが独自に回転することができます。

 車軸は飛び出していて左の写真で見られるように梃子を使って無理やり動かす事も可能・・・この車輪はどのぐらいの重量を支える事ができるのか気になる所です。

 現在の山車の車軸は鉄製ですかね?それとも鉄がかぶせてあるのか?少なくとも、ベアリングは使っていませんね。

 ほぼ平らな場所でお囃子連が乗っていない状態だと8人程度で梃子を使って移動が可能な状態であるようです。

 車輪の基本構造は太い四角い材を十字に組んで欠けている部分に三角の木片を充填して丸く削りだしてあるようです。

 車輪の部分は右の写真のようになっています。強固なフレームが車軸の上に乗っている形ですから、車軸の剪断応力によって決まりますね。本気で石材などを大量に積んだら車軸が折れたりするわけですが・・・

 あれ?この欅の車輪は新型なのか・・・もともとは欅の無垢材を使ったものであったが、そういった巨木を使うと余りにも高価なものになってしまうので集成材が使われるようになった・・・ふむ・・・屋台 山車 木製車輪-ハイブリッドウッド(集成材車輪)-佐原 祭 なるほど・・・車軸のあたりに鉄のリングがついていたりするわけだね。古来の物もチェックしないと・・・そういえば、どこぞの払下げ品の古典的な山車がどこかにあったな・・・それでも見せてもらいに行くか?数年前に63年ぶりに引っ張り出したとか言ってたっけ・・・車輪のハンマは水槽の中で保管とか・・・

 さて、この巨大な山車・・・重量はどのくらいあるのか?雰囲気は・・・4〜5トンぐらいですかね?それを動かすのには・・・後方から押す人たち、前方の綱を引く人たちから構成されますね。

 かじ取り装置は山車にはついていませんから、2本のてこを使って操縦しているようです。

 4輪が独立して回転しますから、直進性能はよくないことが予想されますが、基本的には人間の歩く速度で、しかも狭い街中を時には直角に曲がるというか梃子で浮かせるようにして・・・超信地旋回させたりしてますね。

 このハンマって車輪の良いところは・・・信頼性ですかね?よい無垢材でならそう簡単には割れたりしないでしょう。重量物運搬用には・・・大八車のようなl組物は輪金がついていないと強度はどうなるのだろうか?御所車のような車輪というのは・・・組み方次第ですかね。

 そういえば、釣鐘などの重量物は何で運搬していたんだろう?かなりの距離を移動している釣鐘がありますからね。

 多分、このハンマのような車輪だったのでは?現物を見たことがないので不明ですが・・・そういえば・・・小さな大砲の車輪がこれみたいなやつだったような?何で見たのか記憶がありませんが・・・明治以降では連隊砲などは大八車の車輪のようなやつですね。ただ、車軸の構造の関係で、車などで牽引できなかったと・・・おぼろげな記憶が・・・

 さて、佐原の山車の装備品って結構いろいろとあるようです。後には丸太が2本突き出していて、その丸太を使って山車の後部を無理やり回すとかしてますからね。

 もし、この車が石車を元にしているのであれば、欄干に腰かけている人の足のあたりの床が荷台になるという事なのでしょう・・・雰囲気は・・・

 この石車を始めてみた人たちにとっては左の様な重量物運搬車?

 俗な人間なんで、サンダーバードシリーズの第1回から引っ張って来てしまいましたがこんなものに見えたのでは?すげーカッコいい!ってね。

 初期の祭礼では・・・神輿に、附け祭として傘鉾や華万燈を持っての参加ですから、これも香取神宮の影響か?右のような御田植祭などの様子ですかね?

 香取神宮の様な大社は都とつながっていますから、最新のファッションが導入される場でもあるわけですから。

 元禄13年の造営で、お囃子に合わせての荷役作業・・・見たこともない巨大な車が行き来して膨大な量の物資を運ぶ姿が祭礼に反映しないはずはないと思うのでね。

 古い写真で、重量物の運搬を行っているものってなかなか見つからないものです。そうか、キーワードは造営じゃん! 近代デジタルライブラリー - 伊勢大廟御造営出材記念写真帖. 大正十年十二月 伊勢神宮への木材の切り出しと運搬の様子です・・・これって、完全にお祭りじゃん!残念なことに、この写真帳では陸上輸送の様子がないですね。

 とか言いつつも、探せば出てくるものです。古い伊勢神宮の御木曳の様子ですね。この写真ではどうやら2輪で・・・まるで砲車のような感じですね。大砲だと逆の様な感じに引くのでしょうが・・・

 とにかく、車輪はハンマに類似のものです。なんとなく輪金がはまっているようですが似た感じですね。

 このようなものを見れば、間違いなく祭礼に取り入れられてもおかしくない・・・というか、これも祭礼ですが・・・

 どうも、色々と調べていると綱吉の時代の建築物って傑出したものが結構多いような気がします。もしかしたら、低価格で高品質な建物を完成する技術が非常に高まった時代だったのではないかと・・・

 高品質で安いって・・・マスプロの強みみたいな気がします・・・もしかしたら・・・建築・土木の分野では精密な積算による見積もりが可能になった時期で、それに加えて、工具が飛躍的に進歩した時代だったのかもしれないとふと思うわけです。

 ふと、護国寺の本堂を見てみたくなったりと・・・なんとなく、滑川の観音堂と比較したい気がして来て・・・そういえば、貫をあまり使わず、長押で構成されていたような?丸い柱を長押で押さえるためには?貫より長押の方が加工する量は多いが、組み立てる時の精度がそれほど高くなくても良いとか?まあ、よくわかりませんが、何かこの時代に大規模建造物に関して大きな革新があったような気がするのでね。

 本文の方が手付かずでした・・・それでは、とにかく続きです。

5月17日小屋ならびに囲い木挽き方を請け負った吉野屋又三郎というものがやってきた。
5月21日御神前の的場へ小屋を作り始める。三間に二十五間
5月19日惣左衛門の手代鈴木文蔵が津宮に到着。20日大工久右衛門を連れて、本社の建設予定地に縄を張る。21日より掘りはじめる。
20日屋根方小買物の請負をした長澤屋長四郎という者がやって来て、自分で22日に見廻っていた。
23日御本殿と幣殿となる場所の地面を掘り終えた。
5月26日より御本殿の基礎をかためる千本築が始まる。そこより砂または砂利を入れ土を5・7寸の厚さに入れては突き固め、また砂利を入れて土を先ほどと同じ厚さに入れて段々に突き固め上げて行く。6月10日に終わった。それから石を据えるところに亀の甲胴突をした。6月14日より柱石を据える所には櫓胴突を入念に行っていた。この胴突・千本築では江戸より木遣がやって来て色々な歌など歌い、様々な掛け声をかけて賑やかだった。
26日大工請方棟梁権八がやってきて、一人で見廻る。この日、塗方人足の請負をした内田屋市右衛門がやってきた。

 小屋と囲いの専門の製材職人ですか?江戸では分業が起こっているわけですかね。それとも小型の大鋸・・・なんだか矛盾してるな・・・しか持っていないのでそれに特化した小物挽きを業としているのか?よくわかりません・・・こういった職人一覧のような本を後で探さなきゃ!職人尽くしのような物・・・ ちょっと面白い本を発見 近代デジタルライブラリー - 検索結果国史大図鑑 後でゆっくり眺めましょう。どうも、移り気で・・・というより、興味を持ったものを記録しておかないと忘れるので・・・ネットの中の物は意外と覚えておけないのでね。

 小屋は三間の二十五間だから5.4m×45mで的場という事は・・・馬場ですかね?楼門前の馬場は50mをそれほど越えないですからほぼ馬場の埒の南の部分をすべて使ったという事なのでしょう。

 そして、いよいよ新しい本殿と幣殿の地縄張りがはじまります。そして、本殿や幣殿となる場所を掘り下げる事になります。という事は・・・この時点で旧本殿は存在し、その後で地面を掘り下げているという事ですかね。このとき、旧本殿は現在の拝殿のあたりにあるという事なのでしょうか?それとも、神木に向かって南東に向いていたのか?などが気になる所です。そして、21日から23日までかかって本殿と幣殿となる場所の掘り下げが終わります。

 24・25日は休み?それとも天気が悪かったのか?千本築がはじまります。地面を打ち固める作業ですね。

 多分、右の写真の様なものでしょう。砂や砂利と土を入れて版築を行っているという事のようです。やや気になるのは。やたらと念入りに土台工事をやっているというような記述ですね。

 まあ、20年しか持たない建物であれば、それは掘立柱の建物でしょうから・・・それとは次元の違った建物が建とうとしていることに、やや当惑しているのか?

 胴突の種類が出てきますが・・・かめのこ胴突とは何か?石を置くという事は・・・束石のことかな?亀の甲のように盛り上がった形に地面を打ち固めそこに束石を置く?柱の場合は、大きな荷重がかかるから、櫓を組んで大きな丸太に何本もロープをつけたやつで大勢で引き上げ落とすことで固めて行く・・・真棒胴突でしたっけ・・・わざわざ細かく記載しているのは・・・こんなことはしたことがないというときですかね?天守閣などの高層建築の技術が放散していく過程をえがいているのか?

 綱吉の時代は、一部の者に伝えられていた高度技術の大衆化の時代だったのかもしれませんね。

 そして、このとき香取のあたりに江戸の労働歌が伝えられることになったようです。共同作業の唄声が・・・木遣、そして様々な掛け声・・・そういえば、佐原の大祭の山車の引き回しであまりうまくなかったチームは・・・声が出ていなかった・・・123で綱を引くのですが、その次のアクションにつながらないので、ちょっと動いて、また止まる・・・そんな感じで長い通りを引いていました・・・引いているメインとなるはずの連中が掛け声をかけず・・・止まるとブツブツやってるのではまずいよな・・・なんってふと思いましたっけ。

 人間1人は瞬発で半馬力程度の出力しかありませんが、掛け声で一斉に動くことができるので、力を合わせて思いのほか大きなパワーを出す事ができますね。だから、牛馬でだらだら引くより効率が良い・・・しかし、声を出さないと、何かに合わせないと、その力が発揮できないという事になりますね。

 まだ、日記の方には石車の話が出ませんが、少なくとも木遣や掛け声の文化が、香取にやってきたのはこのときであると言っても良い気がします。そして、ある意味、文化の担い手というか伝達者が神官連ではなく、庶民へと移ってしまった感じがしますね。神官たちは、作業の傍観者で指揮者としての地位を失っていますからね。主導権は幕府・・・そして、実務担当者という感じですからね。

 ちょっと、言葉としては違和感があるのですが・・・江戸という田舎者の集まりの中で急速に洗練化され統合された田舎文化が、かつての武家や貴族によって生み出された文化を凌駕し、それが地方へと移出された・・・ちょっと、言語明瞭意味不明に近いが・・・多分・・・田舎文化の良い所取りと、実質的な首都の財力が、それを洗練化した・・・これが元禄文化である!ってか?
2013.07.14












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