香取神宮をうろうろ(17)
 造営が決まって・・・

 前回余計な事をやってましたが・・・木鼻ですが、あれって一般的には獏ですね。しかし、象に見える・・・獏と象の違いは?気になります。獏は象に比べて鼻が短い、どちらも牙があるでしょう・・・多分、江戸時代のちょっと前から象ブームがあって鼻が獏が象へと変化していったとか?一応、くるくると巻いた毛がある方が獏というようなそうでないような?その中間形もあるようですし、滑川の観音堂のは象だと思うのですが、香取神宮の物はくるくる巻いた毛があって、鼻は滑川の観音のと同じ形をしているような?写実を要求されるような物ではなく、意匠なんでしょうから・・・そもそも獏の方は象と違って、想像上の生き物で体は熊、鼻は象、目は犀、尾は牛、脚は虎のようであるとは言うものの・・・マレーバクがモデルかも?深く考えるのは止めにして・・・でも、気になる・・・そのうち資料を集めてみましょう。

 さて、地業が始まりました。最初に動員された村々は神領内の老若男女の人足がすべてとなっていますね。総動員?確かに、喪中の者以外は・・・水火の締まりをきちんとして、朝は禊をして・・・道具を持っての集合というような配状ですから・・・そして、25日以降はちょっと違うような感じです。さて、その25日から眺める事にしましょう。

4月25日津宮村・中洲村・扇島村・加藤洲村・磯山村・下ノ洲村より人足210人が出た。
26日丁子より才梁甚蔵人足30人、山崎村より才梁左衛門人足16人、吉原村より才梁弥五右衛門人足30人、大倉村才梁甚之丞・藤左衛門・十郎右衛門・清左衛門・賀右衛門・杢右衛門門足81人、多田村才梁四郎左衛門・多右衛門人足73人、惣人足246人
27日新市場村老若男女共人足253人、返田村人足30人、新部人足17人、釜塚村人足25人、大根村勘解由・清左衛門。忠右衛門・源右衛門人足395人
28日小野村・織幡村・油田村・幡鋒村より人足、数は書きとめず。
29日・朔日の2日は書きとめなかった。篠原、。佐原、その他近辺の村々から、さらには小見川からも人足がずいぶんと来ていた。このほかに、二里・三里四方の村々から毎日老若男女の人足が夥しく来た。この人数や姓名は帳面に記して内陣に納めてあると聞いた。帳面に付けているそばからどんどん人足が集まって来て賑やかなものだった。これで、地形普請は終了し、人足の名を記した帳面は大宮司方へ保存した。

 かなりの人足が出てくるものです。配状はこれらの村に回ったのか?しかし、才梁ってのは宰領ですかね?土木工事を宰領するとか使いますから・・・物事を取り仕切る者って感じですかね?残念ながら才梁って用法はちょっと見当たらないですが雰囲気としては合っているようですね。丁子の人足頭の甚蔵が人足30人を引き連れてきたとか・・・って甚蔵+人足30人=31人?細かいことは考えなくても良いでしょうが・・・日当は出るのか?配状で動員されたものは?気になりますね。

 日当か・・・神社仏閣は無料の奉仕てのも可能ですから・・・昼食や帰りにお神酒でも出るとか、ちょっとの御祈祷、御札・・・その他、労働の対価となるものをそれなりに持っていますから・・・私のような不信心者では・・・右のような、奉賛者に名を連ねる事は、まずないというわけです。

 ある意味さびしい気がしますが・・・神楽殿なら奉賛者になると思うのですが・・・五萬円以上となると・・・やはりここに、私の名前は載りそうもないですね・・・

 ふと、昔々の映画、野のユリってのを思い出しました。1963年のラルフ・ネルソン監督、黒人初のアカデミー主演男優賞を受賞したシドニー・ポワチエの映画です。

 野のユリね・・・マタイの福音6章25節あたりから・・・「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。また、なぜ、着物のことで思いわずらうのか。野のユリがどうして育っているか、考えて見るがよい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。

 着飾るつもりはないのですが・・・日々の糧が問題なのです。日々の糧が・・・命を育んでくれるので・・・だから、不信心者なのです。あれ、また変な方向へ向いている・・・

 とにかく、24日から6日間の予定で行われた・・・ふむ、この年の4月は29日までしかなかったのか・・・この期間で、後になるほど人数が増えているような感じですね。口伝に人が人を呼んでいったのでしょうか?ただ、作業の総量が分かりませんから一人当たりの労働量がどんなものであったのか推測すらできませんね。

 ここで、ちょっと気になるのは土を何処から運んできたのか?という事なんです。遠くから運んだとすれば非常な労働になりますからね。比較的近場でそれなりの量の土が取れるところはどこ?なんって考えてしまうわけです。残念ながら、ヒントになるそうなものは見当たりませんね。考えられるのは・・・当時はそこが高くなっていて、現在は平らになっている・・・そして、元禄13年以降に建物が建った場所とか・・・元禄13年の造営の結果は後でリストになっているので、それでチェックすればそれなりに推測できるかもしれません・・・さて、とにかく先を読み進みましょう。

4月28日平岡十左衛門の役人の高橋兵右衛門が来て、御本社の建設予定地は8尺の深さに掘り下げ、また幣殿・拝殿の予定地は3尺掘り下げるようにと、両奉行からの指示があったと伝えにきた。
4月29日より道普請をするように言われた、津宮から香取まで車が通れるようにするようにという事で、人足は領内の百姓を百石について3人ずつ出すとのことで、1人宛1日5合をずつ出す事になった。

 あれ、せっかく土を入れて平らにしたのに・・・という感じですかね。本殿地下を8尺掘り下げて、土台を打ち固めて、その上に建物を建てるという事なんですが・・・多分、それまでの社殿は、基礎工事などはしないで、なんとなく平らな地面の上に適当に建てていたのかもしれませんね。ああ、分かった・・・右の図を見ればね。

 独立した基礎となる石の上に柱を建てています。はたして土台の石もきちんと水平を出して置いたのか?本殿の構造からすると上部構造と下部構造は別なもののような感じですね。まさか2X4のプラットフォーム工法に類似の工法で・・・しかも、鹿行地区の安価な傾斜地の別荘に見られる電柱を打ちこんで上面をそろえてその上に小屋を載せるような・・・まさかね。絵師の力量の問題ですかね?

 しかし、20年も持てばよいというコンセプトで作られる建物の場合、そういった工法でも問題ないと言えなくもない・・・例の滑川の観音堂、上ばっかり見ていて基礎をよく見てこなかった・・・写真も適当なものが・・・地長押とかの構造が気になるんで・・・きちんと版築された土台の様な感じですね。

 もうひとつ気になるのは、きちんと並べられた切り石の産地ですね。これも、江戸時代の造営の際の物ではないかと思うのでね。

 滑川の観音堂に関しての修造の情報がありました。元禄14年と大正5年に行われています。平成の修理で手付かずだった後方の屋根の修理が行われたわけですから、かなり古い姿を残している可能性がありますね。そして、大正5年に保護建造物に指定されているようです。

 こういった土台を作るために、地面を8尺掘り下げる必要が出たという事ですね。

 香取神宮の建物は、現在シートに覆われていてこういった土台の部分は見えにくいはず・・・あ!位置は変わっていますが、旧拝殿が在りますね。右の写真が拝殿の土台の部分です。地長押が地面に接するような高さにあります。ですから、多分滑川の観音堂と同じように石灰などを混ぜた土を版築した土台の上にあったのではないかと思われます。

鹿島神宮の拝殿の写真も出てきました。きちんと水平に置かれた石の上に置かれています。まあ、奥の方が分かりませんが、否、画像処理で見えない物を見えるように・・・ほら、香取神宮と同じだね。・・・あと、奥宮や仮殿などの土台部分もチェックした気がしますが・・・収差の小さな望遠レンズで遠くから取らないと・・・床下をストロボを使って撮ると変な写真を撮る人だということになってしまいそうな・・・

 何を撮ってるのか理解してもらえないと・・・不審者になってしまいますからね。

 本気の研究者でもないのに、学問ごっこですから・・・その時点でかなり頭がやられているとも言えますかね・・・さて、続きと行きますか・・・

5月3日稲毛庄兵衛・高橋兵右衛門が香取にやってきた。
5月初に御神宝の願いに内膳江戸に登る。伊賀守に伺いをたてる。青山播磨守の会合で述べる。金剛寶寺も職分について願い出る。逗留中に竹村惣左衛門・平岡十左衛門の所も見て歩く。また本所の御普請場へも行ってみると、小屋組も大方できていた。鈴木文蔵の案内で一通り見て直ぐに在所へ帰った。

 あちゃ、本庄って本所の事だったのか・・・本所は江戸城の普請を行うときに重要な役割を持っていたので、本城が本庄で本所とも・・・そんな事だった・・・中山道の本庄では遠すぎるから変だとは思ったが・・・本所の何処だ?木場のあたり・・・ここまで判れば、史料に当たれば・・・

 ほい、現猿江恩賜公園の場所に、一時的な木場である猿江御材木蔵が1669年から1701年に置かれ、その後、現在の木場に移転したとのこと。そうなると、もうちょっと・・・ 近代デジタルライブラリー - 新編武蔵風土記稿. 巻之25 葛飾郡之6,巻之26 葛飾郡之7,巻之27 葛飾郡之8,巻之28 葛飾郡之9,巻之29 葛飾郡之10,巻之30 葛飾郡之11,巻之31 葛飾郡之12 このあたりにヒントが隠れているかもとざっと眺めたけど・・・よくわからん?猿江恩賜公園の場所は猿江裏町とかがあったらしいが・・・猿江裏町は・・・近代デジタルライブラリー - 同潤会十八年史 ふむ、これまた興味深い・・・近代デジタルライブラリー - 同潤会十年史 近代デジタルライブラリー - 猿江裏町不良住宅地区改良事業報告 まずい、これも面白い・・・そのうち・・・人足の街などもチェックするのも面白い・・・

 とにかく、本所の2万坪ほどの広さの所で、大工がプレカットを行い、仮組をして香取への出荷準備を行っているという事ですね。現地で加工せずに、加工済み部材を香取に持ち込み組み立て、仕上げるだけという事のようです。元禄13年の造営・・・既に5月ですからね・・・年内に完成するのか?ちょっと気になる所ですが・・・史実では完成しています。非常に手際が良いということでしょうか?マスプロダクトの威力か?しかし、現在の屋根の葺き替え、お色直しにはどれだけの時間がかかっている?まあ、新築よりリフォームの方が面倒なのはわかりますが・・・

 という事は・・・応札した建築業者って、幕府と癒着しているのか?というより応札資格を持った巨大資本の建築業者という事なのか?本所の幕府の御用材をその脇の自分の作業場というか、一時的に借り受けてか、とにかく小屋場を有して作業を行う・・・大がかりな建造物のプレカットセンターを経営している大手建設業者が存在したということか?江戸時代のゼネコンは・・・竹中工務店などがそうですが・・・これは名古屋ですね。

 とにかく・・・仮組したものをばらして短時間で組み上げる技術って・・・一夜城などと言われるものの技術ですね。こういった高度な築城技術って・・・普請奉行、小普請奉行、作事奉行の下三奉行の直轄ですね。武士も土木会社を持っているようなものですね。ここでの労務者は黒鍬者で、後には最下層の御家人階層を形成する特殊技能集団・・・戦闘工兵的な集団です。
近代デジタルライブラリー - 検索結果日本民俗図誌 近代デジタルライブラリー - 検索結果民家図集 近代デジタルライブラリー - 日本の祭礼 祭礼民俗誌 などなかなか興味深い・・・

 さて、続きは次回なんですが・・・ちょっと、佐原の大祭へ・・・八坂神社の祭礼なんですが、それに出かけたので・・・どうなるか?

2013.07.03












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