香取神宮をうろうろ(14)
 造営への働きかけ・・・

 さて、造営への交渉も大詰めとも思われないうちに、突如抜き打ち的に見分が行われます。それでも、廻状がまわってからの出発ですから、どれだけの効果があるのかは不明ですが・・・少なくとも、江戸にいた連中は気付かず、国元の方から連絡が来て気付いたというような感じです。さて、日記の方は・・・

12日昼時より迎えのために津宮に大禰宜・金剛寶寺・社家総代は江戸にいるのでその倅の國分城右衛門が出た。日が暮れるころ篠原下まで船を出して、3人で出迎え、船で話をして帰って来た。両奉行から出迎えの礼の使いがやってきた。明日13日4ッ時から御宮の見分を行うとのこと。
13日4ッ時神宮に見分の人たちが来て参詣を済ませると早速、本社を始めとして、末社まで以前に提出した絵図の写しをで見分が行われた。金剛寶寺の管轄の堂や御手洗、それが終わると直ぐに側高の見分、奥宮。印手神社も見分を済ませた。
14日返田神社への道筋を案内し、それから王子社・又見神社を見分した。
本社後へ引き下げたいとのことで、その場所の見分、一の鳥居の所在場所の見分、この日返田の見分の後で、手代の2人と大工が1人で本社の詳細を再見分していた。伐採したり集めてあった木材などが使えるかの見分が行われた。
15日5ッ時津宮まで礼に出る。この日三の鳥居の場所や西宮・東宮・材木河岸の見分が行われた。その後で、金剛寶寺の堂塔の見分が行われた。
16日二の鳥居のメクリ、楼門の場所・小屋掛場・御供所の場所・井戸の在所・水屋の在所等の見分があった。
17日優波山・狭山・弧座山の見分があった。

 どうやら、社家総代の情報収集力が弱かったのか?それとも、日記の上では知らなかっただけなのか?ちょっと気になります。案外、夏の間は政務の類は無く9月になるとバタバタ始まることになっていたのか?前年は何やら7月8月にもやっていましたから・・・興味深いのは香取神宮の古い祭礼のパターンですね。何かで見かけたのですが、9月ごろからスタート、そして6月でおしまいという感じの書き方をしたものがありましたね。穀物年度とかに似ているような?

 千住から出発して水戸街道を我孫子まで進み、我孫子から木下まで陸路で、木下から香取まで船の旅の一行ですね。

 右の様な感じなのでしょうか?明治の末頃の潮来界隈の高瀬舟の姿ですが・・・ああ、多分帆が違いますね。

 この帆は松右衛門帆でしょうから・・・見分の頃の船は同じような形ですが、帆は多分蓆でしょうね。文献では松ニムとかで見かけたっけ・・・こんな船が走るのも見たいのですが・・・残念ながら現存しませんからね。

 到着が遅いのは・・・東風でも吹き続けたのか?とにかく、津宮から船を出して少し上流まで迎えに出て、船上で挨拶しているようです。津宮に宿はどんな宿なのやら?ちょっと気になります。廻状は津宮惣右衛門でしたから・・・明治時代まで続いていれば、明治時代の旅行関係の本に、この末裔が現れてくるかな・・・あれ?ちょっと妙な情報が・・・

 というので、近代デジタルライブラリー - 千葉県共進会香取鹿島成田宗吾案内 これを眺めていたら、「徳川氏に至ても慶長十二年に正神殿より末社雑舎に至るまで残らず造営せられろれより九十五年を経て元禄十三年に改造されたるが正神殿は去明治廿八年舊材を用い舊式の通り造営致されたるが即ち現今の御神殿なり、正御殿は巽向にして桁行五間・・・・」ってあるんです・・・正御殿は巽向きって南東ですね。確かに真南から多少東に振れてはいますが、南東という感じではないような?こういった表現って・・・昔から南東を向いているものと信じられている事の表明であったりしますから・・・現状が違っていても、そう言い伝えられているとか?それから、明治28年の改修についても少し情報を集めなければ・・・

 本社殿の様子なども、大工などの実務担当者がしっかりと見ているようです。また造営に使えそうな木材についても検討されていますね。何かでちらっと読んだ物の中に、津宮の河岸は鳥居河岸ともう一つあるとか・・・それが材木河岸なのか?確認できる資料が欲しくなります。

 ちなみに、左の写真が鳥居河岸の様子ですね。このあたりの景色は、利根川の築堤工事によって大きく変容していきます。

 利根川下流域の築堤は明治33年に第1期改修工事が開始され、明治40年からの第2期改修工事、昭和14年からの増補計画工事と続き、現在の姿になるのは昭和24年からの利根川改修改訂工事計画によるものでしょう。

 さて、16日の見分の二の鳥居のメクリ、楼門の場所・小屋掛場・御供所の場所・井戸の在所・水屋の在所等の見分というのが・・・二の鳥居のメクリって?この見分で使われている鳥居の数え方は本殿に近いところからのようで、一の鳥居は楼門の場所の物で、三の鳥居が津宮にあるものですね。上の津宮鳥居河岸の鳥居という事だと思われます。二の鳥居は?メクリってまわり?周囲?・・・太さの事か?太さの事だと・・・別段現物があれば考える必要はないのですが・・・二の鳥居も例によって隠滅していて存在が確認できないとか?そもそも二の鳥居ってどこにあるのか?大坂の通りにあるとかないとか・・・旧参道の大鳥居?ちょっと不明というやつなのかもしれません。・・・一応、旧参道の大鳥居として作られるようですが・・・古図を眺めても良くわかりませんね。

 古い造営注文によると
一鳥居一基作料米百石、東庄役、千葉介
二鳥居一基粮米百石、下葛西西役同跡
三鳥居一基粮米百石、大方郷所役
とのこと・・・二の鳥居と三の鳥居の規模は同じなんでしょう。米と粮米は違うのか?米はまさか籾で粮米は精白してある米とか?何かで調べた記憶があるのですが・・・何だっけ?いい加減だなぁ〜水戸藩の扶持米は籾で、他の所では玄米なので水戸藩士は貧しいとか・・・そういったことで調べた気が・・・

とにかく詰めの見分なんのでしょう。小屋掛場って掛小屋って仮設の小屋を建てる場所の事ですかね・・・それとも、補助的な建物に関するものか?とにかく、次の文へと・・・

口上の覚
・香取大明神の楼門は昔から馬場にあったが、祭礼や流鏑馬等の時には混み合って狭いので、今回御本殿を12間引き下げるのであれば、楼門を一の鳥居の跡に建て、一の鳥居を楼門の前に建てるのが良いのではないかと・・・
・この度の本社を引き下げるのにあたって、御本殿の場所となる所に土を盛って整地する作業は神宮側で先だって行います・・・
・香取神宮内にある末社の奥宮・印手社はどちらも跡かたもなく壊れていますが、どちらも境内の森を持っていますし、今後は祭礼もきちんと行うので、この2つの社殿もどうか再建してほしい・・・
・香取神宮境内には井戸が1つもないので、火の用心のために御供所の前に井戸を掘ってほしい・・・
・御本地堂にある鐘楼と門がひどく壊れてきているので、鐘楼は新しく、門も修理してほしい・・・

 拝殿を立派にするために、本殿の位置を後ろに下げるのは、鹿島神宮の時と同じですね。鹿島神宮では卜占によって神意を探っていましたっけ。それに伴って、楼門の位置を変更したいという事のようです。ちょっと気になるのは、一の鳥居の跡に建てる・・・一の鳥居も隠滅しているのか?なんて・・・そして、一の鳥居は楼門の前に出す・・・御本殿を12間下げるためには、整地作業を行わなければならない・・・本殿と桜馬場との間の森林は概ね平らに見えますが、結構くぼみや溝の様な感じの物が見えますね。そんな感じの場所ですかね。

 奥宮・押手社の話ですね。境内林があるから・・・今後は祭礼もするって・・・祭礼も絶え、社を維持していないのに・・・なかなかやるものだと思ってしまう。井戸の件も・・・火の用心か・・・気になるのは数千年に渡って井戸を掘らなかった理由の方が気になりますね。水は清浄な井から運ぶもので、井を作る必要はない・・・という事なのか?色々と便乗するわけですね。このとき、井戸は掘られたのか気になりますね。ざっと境内を眺めても、井戸の様な構造物は見当たりませんね。可能性のある場所は・・・神札授与所と宝物殿の間ぐらいかな?さて、次の口上は・・・

口上の覚
香取神宮の御本殿・末社を土朱塗りや場所によっては瀝青で塗ることに問題はあるかとの御尋ねに対して、そのように塗っていただいても、神事にさし障るようなことは無いので、そのようにしてくださいと答えた。

 ふむ?問題があるか?というのですから、これよい以前の造営では白木だったのか?色が付いているのは楼門や付属の建物・・・案外、楼門と愛染堂が朱塗りであったとか?神事に差しさわりがない・・・白木だったけど赤や黒で塗って欲しいという事かな?なるべく立派に!というコンセプト?

 そうなると、造営のための絵図は現存する物は墨で、存在しない物は朱で描かれていて、なおかつ現物の彩色は無かったという事になるのでしょう。

 じゃあ、絵巻物などに描かれた、右の図の様なものにある古い時代の彩色というのは・・・建設予定の理想形であって、実際に造営されたものはそれとは違ったものであったのか?ちょっと気になります。

 それとも・・・造営のパターンが変わったか?先ほど眺めた鳥居の注文・・・作料米100石、1石=1両=10万円とすれば1000万円か?つまり、鳥居を造営してもらうのではなく鳥居の代金を寄付してもらうという事なのか?そのため・・・描く夢は極彩色、出来上がるものは白木で荘厳な感じのものなのか?香取神宮が国衙の機能も持っているならこれは可能でしょう。香取神宮は国衙の機能は鹿島大掾氏でしょうから・・・微妙に様子が違うのか?そして、元禄の造営は、幕府の直轄事業であったという事なのか?香取神宮は国衙の機能を持つ山林地主で、寄付の注文を発して、自前の木材で造営を行うと・・・莫大な利益が出るという仕掛けを有していたのか?俗物なので妙な考えが頭の中に湧いてきます・・・さて、次の口上は・・・

口上の覚
社地の杉で、風などで倒れたものは板に挽いたり、皮をむいて置いたものがあるので、この度の修復で使えるものがあります。なかなか伐採できるような物ではありませんし、他の使い道も決まっていないものですから、修復に使っていただければよいでしょう。
以上の3通は16日に言って来たので、17日に書いて津宮の宿所へ大禰宜が持っていった。

 余計な事を思いつくと、この杉材が有償提供なのか、無償提供なのか考えてしまいます。予算仕事なら・・・既に予算が決まっていたら・・・沢山用材を貰うと予算が余る・・・予算は原則として使い切るなら、買上になるのか?こういった仕組みも気になりますね。さて、このあたりで、一度切ることにして、それでは次回へ

2013.07.06












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