香取神宮をうろうろ(11)
 香取神宮と金剛寶寺・・・

 資料が増えてくると、物の見方が変わるのでなかなか厄介です。香取神宮に関する資料は多いようで少ない、少ないようで多いという・・・妙な感じになってきました。神仏習合に関する資料は少なく・・・色々と推測するのですが・・・それでも、納得のいく説明がつかないような物が多くてね。

 とにかく、神宮・不断所・金剛寶寺の関係がなかなか判らない・・・色々な寺の名前が出てくるが・・・廃寺は資料が乏しくてね。そういえば、チェックしていない本があったっけ・・・江戸幕府の寺院のリスト・・・江戸幕府寺院本末帳集成ってのかな?こいつをちょっとチェックしてくると何か分かるかも?鹿嶋市の図書館にあったような記憶が・・・こういった本で芋づる式に寺院の系列が分かると良いのかもしれません。近いうちに、史料をあさってこなきゃ!土地宝典も・・・香取私記も・・・色々と見たいものがあるのですが、本気の研究者ではないので・・・遊びですから・・・なかなか気合が入らない・・・行き当たりばったり・・・

 さて、享保20年の大禰宜日記を眺めています。 史料纂集 香取大禰宜家日記 - 続群書類従完成会 - Google ブックス 安上がりなんで・・・この中で、不断所の境は諸神塚=雨乞塚の南東となっています。そして、諸神塚の道の所に鍛冶屋の伝というものがいたようです。その後、ここは飴売り源十というものが小屋を作って住んでいたようです。その後、平七という商人が住み、段々家を広げて行って、道を塞ぐようになっていきます。これが色々と不都合で、家を9尺引き下げる事になります。こんなことが数年前にあり。管理者の不断所の前の住職は去り、新任の住職なので、こういったことが分かっていなかったという事が発端で、この平七が去った跡地は、商人たちが土を動かしてかなりいじっているようです。そして、新たな商人が入ることを許可することになっていくようなのです。・・・・あとで、事件が起こります・・・・先ずは、旧冬門の場所にあたらたに塀を作ったようです。旧冬門って?・・・とにかく、この場所が問題なんです。不断所は貧寺なので、中心街に面した所に商人を置いて、一分でも二分でも金を取りたいという事のようです。そして、定められた境からはみ出して営業を行ったりするわけです。これに対して、金剛寶寺は公儀へ申し立てを行う事になります。下の口道が狭くなってると・・・ここで、細かな通りの名称が出てきます。

 金剛寶寺は朱印地が20石あって・・・とかも出てきますね。朱印地か・・・とにかく、この雨乞塚のあたりは細かく分かれているような?案外間口2・3間の小屋が庇を長く出して営業していたとか?なんとなく、このあたりの道は・・・家と家を結ぶように伸びている道じゃないようで道なのがかなりあるような?雨乞塚から奥宮のあたりまでの道に向かって商店が立ち並んでいたような?航空写真、この訴訟の件と、旧参道で切られたと思われる道の様子からするとくねくねとした道が少なくとも2本旧参道口のあたりまで伸びていたような感じです。

 以前気になっていた火番所・・・どうやら、冬の間に火事に備えて壁土を保管している場所のようです。夏は埋めてしまうようなことが書かれていますから・・・近隣の火災の時に土蔵の戸とかを塗り込めるための壁土のような感じです。となると、消防署の様なものではないので、消防団の機材庫とはあまり関係ないようです。ただ、このあたりに会所があるようなことが書かれていますから、この会所に関連があるかもしれません。

 なんとなく・・・鍛冶屋とか提灯屋とか商工業者の町がこの場所に存在していたような?まあ、香取神宮という需要者がありますから、そこそこ手工業者も成り立ったのかもしれません。この訴訟の際に書かれた絵図があれば、このあたりの様子はもっと明瞭になるのに・・・残念です。案外、控えに絵図があるのかも?やはり、先に資料を集めた方が良いのかも?効率が悪いですから・・・

 というわけで、調べ物にも出かけました・・・なんと、愛染堂なんか当たり前のように記載されています。まいったね。花園神社の場所も分かったし・・・大禰宜の屋敷もわかったし・・・なぜ、文字のきちんと入ったバージョンとそうでない物があるかね・・・

 立場が色々とあるのは判りますがね・・・まあ、面白かったから良いでしょう。本気の学問だと・・・お前はなんにも知らないんだな・・・と笑われますが、知的好奇心を限られた資料から満足させる手法は重要なので悪くないと思うのですが・・・研究というのは先人の研究を踏まえてという事になるのでね。専門外の人間がいきなりやるのはなかなか難しい・・・研究者にも歴史的な系譜があって、家元制に近いようなものがあるのが嫌いだった・・・既成概念の虜になるのは嫌いな性質なのでね。

 まあ、効率は悪いのですが、少しずつ資料を集めて考えを深める作業を続けるとしましょう。何しろ、遊びの研究なんですからね。でも、本気の研究者になりたかった・・・だって、遊びが金に化けるのですから・・・・しかし、不純な動機では本職になれなかったのかな?

 さて、金剛寶寺の全貌も、なんと香取大神宮参詣略記に描かれています。絵についている言葉はちょっと間違っていると思うのですが・・・右の図が金剛寶寺でおよそ千坪ちょっとあるような場所です。これを見ると、明らかに旧参道は存在しません。山門と、その脇の門、そして、右の方に裏門が存在するようです。

 さまざまな資料から・・・この様子は推測できていましたからOK・・・しかし、ずいぶんと頭を使ったような?良い教師につけば、こういったものは簡単にクリアーできるけど・・・頭の使い方の訓練にはなりませんね。と、やや負け惜しみ・・・一応、昭和の初めごろから、香取群書集成があることは知っていましたが、1巻と2巻を見ていなかった・・・ネット上に無いのでね。そして、最寄りの図書館にも3巻以降しかない・・・やられました。

 まあ、頭の体操としては良かったですがね。そうだ・・・やはり、与えられた資料から、どれだけの事が分かるかの訓練って必要だと思うのです。これって・・・算数なんかでは鍛える範囲の様な気がしますが、文系では、大学教育で行われる範囲の様な感じがします。論理的な整合性と仮説、仮説の証明のためには何が必要かというような・・・そう、文献研究の基本というやつを、義務教育の範囲である程度行えるようにするのが良いような?

 オッカムの剃刀・・・私も基本的にケチなんで・・・できれば、国会図書館のネット上に公開されている資料以上のものは使いたくないのですが・・・仮説を証明するのは厄介ですから・・・仮説なんって提起したくない・・・事実の積み上げだけで・・・他は、妄想だけで・・・

 現在の旧参道は、神宮から金剛寶寺の間を結ぶ広場の様な空間である事が分かります。現在の楼門の場所に神宮から数えて一の鳥居があり。神宮と金剛寶寺の間の空間は、神宮側にある二の鳥居の前でも白馬祭のような神事が行われる空間のようです。商工業の中心は、どうやら金剛寶寺の門前のようです。この図の手前が大坂、右が佐原道という事で、これが原町との南の境になる、若宮坂なのだと思います。そして、図の上の方、つまり南に奥宮があり、左が香取神宮・・・ああ、すっきりした!あとは、旧参道がいつ開削されたのか?これが気になるのです。

 ちなみに、左の写真が金剛寶寺の裏門?上の図で寺の境内の右下の坂の上の門の場所の写真です。ここに門があったという事になりますね。図ではかなり立派な石段なんですが・・・多分、近くの家の庭に敷かれているとか?

 近くの民家の門を合成すると右の写真のようになりますかね?

 近くの民家の門も、同じ伝統を引くものと勝手に解釈してなんですがね。

 まあ、文化というものは模範となるものがあって、それを真似ることから・・・というか・・・良いと思われる立派なものが継承されるのでね。単なる土手の切れ目より、右の写真の方が現実味があって・・・それに、上の古図と雰囲気が似ているような気がしてね。

 そうなると、正面の方もそれなりに正しいのかもしれません。

 明治の初めのころ、旧参道が存在しなかった頃の様子なら写真で再現することができます。多分、祖霊社が建設されたころではないかと思いますが、旧参道が金剛寶寺の前でT字に分かれていた時の様子です。正面の現在は旧参道になっている道なんですが、当時は小高くなっていたようです。

左の写真がそうです。多分笹川屋旅館は当時の建物のままではないかと・・・アルミサッシが入るなどの変化はあるかもしれませんが・・・笹川屋の正面も明治初期の物にしてみました。・・・現在の雨乞塚は少し動かされているようです。

 この写真は、絵葉書のアングルに合わせて撮ってきたものですから、なかなか良い感じにすっきりと合成できたというわけです。白黒写真にすると、あまりに普通の写真になるので変換しない状態の物を掲載することにしました。と言っても・・・悪戯心で・・・マウスカーソルを写真の上に置くと白黒に変わっちゃいます。ね!違和感ないでしょ。これが、旧参道が開削される前の様子というわけです。およそ3mぐらい高くなっているような感じですね。

 旧参道の役割も事実上終わっていますから、旧参道を少し掘削してトンネル状にして、上に旧地所を作り出して、その上に金剛寶寺を復活させたりすると面白いかも?

 神仏習合時代の神社仏閣を再現した例はあまりなさそうな気がしますから・・・金剛寶寺の跡地は、祖霊社と畑ですから・・・ここに、三重塔と、本堂を再建したら?アスファルトもはがして、石畳にするとか・・・ああ、基本は茶色の土の色の舗装で、中央に石畳とか・・・趣があってよさそうな?現在、この旧参道沿いは空き地が多くなっていますから、江戸の景色を作り出せば・・・わずか150mです。現在の表参道を通って参拝、そして旧参道を通って駐車場へ・・・その途中に映画のセットの様な江戸時代の街並みが再現され、そこに飴屋や江戸情緒を感じさせる土産物屋があったら?江戸時代に店の狭間で何も買わずに通り抜けるのが困難なほど狭い路地のような場所とか・・・縁日の様なちょっとワクワクする空間が現出できるような気がしますね。

 浴衣姿で、笹川屋の二階から顔を出して、通り過ぎる観光客を眺めるとか・・・ちょっと面白いような・・・そして、この道は、神職や巫女さんが歩く道でもありますから・・・あるカットの一部を大きく拡大したんであまり良い写真ではないのですが、右の写真のように神職や巫女さん、弓道場へ行く弓道着をつけた人も歩きますから・・・

 基本的には、本気の寺院ではなく借景としての寺院ですから、鉄筋コンクリートでそれらしく作ったものでもよさそうです。気合を入れて資料を集めて本格的な木造建築の方が見てくれは良いのですがね。

 香取神宮は1つの観光地としては弱いので・・・ちょっと遊びながらの研究には良いのです・・・滞留時間2時間を越えて何かするのは困難ですから。ぼけーっと20分同じ場所で眺めるものがない・・・

 私の記憶の中で、香取神宮界隈でぼけーっと眺めたのは、何だったか?そうだ・・・草団子を作る機械だった・・・ころころ丸い団子ができて行く機械・・・それくらいですね。ああ・・・古い大禰宜家の日記を読んでいて気になったものが分かりました・・・飴屋です・・・包丁で調子よく飴を切る姿とか・・・仏師などを集めても面白いかも?店先で仏像を刻む姿とか・・・まあ、ここでは商売になりにくいが・・・他に販路を持ている仏師や・・・芸術家などの工房を誘致・・・条件は、江戸時代風の服装をすること・・・私なんかでも、干支の一刀彫とかできますから、こういった場所で製造するとか面白いかな?なんて・・・ネットでは、香取神宮鳥居前XX謹製とか謳って・・・この通りを上手く再開発すると・・・江戸の神社仏閣がらみの全ての娯楽が提供できる可能性があるな・・・程よい距離に境外末社もあるし・・・まじめな時代考証を行い、幕末の頃の雰囲気を再現したら?本地堂を再建し・・・本尊を本来の借りてくれば・・・年間90回を超える祭礼が復活できれば・・・少なくとも、明治以前の祭礼は、結構細かく記録がとられていますから、ほぼ完璧に再現できるのでは?

 資料があればそれなりに在りし日の金剛寶寺・不断所・妙幡院・法塔院などを再構築することができますね。・・・文政11年に刊行された香取参詣記によれば・・・というわけで、その本の中の図版をばらしてそれらしい場所に置いて見ました。寺院の名称はやや自信がありませんが・・・おおよその位置関係はこんなものではないかと・・・

 神宮から旧参道に出ると、宿屋の客引きや、土産物屋などが軒を連ねている。この中を歩く、正面には金剛寶寺の三重塔が見えてくる。少し歩くと左に不断所という小さな寺があり、その前には商店が道にかぶさるように軒を伸ばして参詣帰りの人を待っている。ここには諸神塚とか雨乞塚と呼ばれる塚がある。ここを右に進めば大坂で津宮への道だ。正面の小高い所に金剛寶寺の山門があり、左には奥宮の石段が見える。奥宮の右の道は法塔院や妙幡院を経て釜の辺田へ、左の道を進めば、海の久保へと下りる事ができる。

 金剛寶寺の山門をくぐると正面に本地堂があり、香取明神の本地仏である十一面観音菩薩の大きな御姿を拝観できる。本地堂の斜め後ろに三重塔がそびえている。本地堂の右の方には方丈があり、その脇に裏門があり、裏門を出るとそこは若宮坂である。この坂を下って少し行くと又見神社に至る・・・こんな感じかな?

 ・・・事実上空き地が大半を占める旧参道の再開発をやるとしたら・・・多分、このおよそ150mほどの道の両側の地権者の多くは・・・香取神宮大禰宜家関連では?なんって勝手に思惟します。会合を行い、江戸の街並復興委員会ってのでも作ります。復興のための作業は・・・地権者ではなく・・・香取市役所ですね。香取市の図書館の蔵書眺めると、それなりの本が一通りそろっていますから、江戸時代の町並は教育委員会か何かに音頭をとらせて、外部の研究者と連絡を取って素案を作る・・・地権者の利益を確保した上で・・・町並委員会の会合場所・・・会所を設置・・・会所の場所は江戸の資料を探せば確定できるでしょう。このあたりで、優秀な国会議員が1人必要ですね。予算の獲得をしなければなりません・・・金剛寶寺の復興と、水郷筑波国定公園の整備ですね。水郷や筑波山の眺めとして、桜馬場を大きく宣伝できる人間ですね。こいつは、世界遺産富士に関連した三保ノ松原を考えればOKかな?桜馬場や側高神社からの景観があっての筑波である!って本気で信じて話せる人間・・・続いて、香取・佐原の手工芸者でですね。1つはネット販売・・・香取神宮関連で売った商工業者が残っていれば・・・古い成田・香取・鹿嶋参詣のガイドブックに広告を載せていた業者で生き残っている業者のアンテナショップですかね。地代は安いが、客が少なくても常駐する人員を置ける老舗・・・話好きの御隠居さんが無給で出られるようなお店が何軒かあればOKでしょう。もちろん、ネット販売も行う事が前提・・・香取神宮のサイトなども旨く関連付けて・・・リンクだけですからね。90余度の祭礼に関連して、広告なんって意外と取れるかも?たとえば流鏑馬を行うとすると・・・XX弓具店提供の矢とか・・・XX馬具店とか・・・神餞などでは・・・XX餅菓子店とか、雉料理とか・・・祭礼で使われる実物と同じものが販売されるとか良いような気がします。香取ブランド・・・悪くないかもしれません。香取神宮神前奉納菓子とか・・・神前に上げたものなどのプレミヤ商品・・・香取神領米とか・・・かつての鹿嶋神領で作られた米が50%以上含まれていますとか・・・プレミアム商品・香取神宮ブランドの研究開発及び品質管理部門など利益率の良い部門になるのでは?あやかり商売・・・

 香取神宮が現有している施設は・・・神徳館か・・・剣道なんかの合宿で使われていますね。佐原には宿泊施設がそこそこありますから・・・神徳館では1日程度の稽古と楼門前あたりでの、神前奉納稽古をするとか・・・それ以外は、佐原の町内の体育館などを利用するとか・・・神宮の権威を高める形での、より多くの団体の誘致と宿泊施設の有効利用・・・弓道場もあるし・・・御神井を整備して、禊と祈りとか・・・流鏑馬の参加者に課せられたようなものの復興とか・・・体験型のものはよさそうです。

 神宮の北東に護摩行を行う御堂とかも再建すると面白いかも・・・火を眺める行はなかなか素晴らしいですから・・・私個人としては神仏習合というのは・・・文化の良いとこ取りのような気がするわけです。神道の立派に見える部分、仏教の立派に見える部分をあつめて、より立派に見えるものを作り出す作業ですから。香取神宮界隈はその絶好の条件が・・・150mを隔てて1本の道が仏殿と神殿を結んでいたわけですから・・・仏教文化と神道文化のアウフヘーベン・・・1000年以上に渡って行われ、高められたものの復元ですからね。近在の古い家屋を解体復元して築150年ほどの家屋を並べることもそれほど困難ではないような?

 本物を体験できる場・・・飯篠長威が修業したような・・・今では、そういった修業というのは稀有なものになっていますから・・・したくてもできない・・・夏経なんかも・・・

 幽玄な夜の神事・・・夜の神事を行うと、観光客の滞留時間が飛躍的に伸びるのではないかと思われます。確かに、首都に近い観光地ですが宿泊前提というものになれば・・・ただ古来の神事は夏休みには皆無なのが問題ですが・・・神仏習合というか、金剛寶寺を復活させれば、その期間も祭礼は生み出される・・・夏経関係ですね。かつて神宮境内にあった愛染堂を、金剛寶寺側に置いて・・・あとは・・・花火大会ですかね。桜馬場の正面あたりで、大きな花火は不要・・・田圃の真中あたりで4寸玉ぐらいで田圃を囲むような観覧を考えればよさそうに思えます。津宮と桜馬場の間の田圃が水郷を代表する景色となるように少し仕掛けをするとよさそうな・・・花火の合間に橋祭を再現するとか・・・馬に乗った神職と楽人が静かに歩き奏するという・・・照明を上手くすればよさそうな感じ・・・馬+奏楽なら、小さく見えてもOKでしょうからね。

 私も、ある意味・・・観光地に飢えているのかもしれませんね。一週間ぐらい逗留して楽しめる場所ってのにね。でも、その前に1週間の休みなんて夢の様な話がネックですが・・・右の写真はいつ頃のものでしょうか?看板が目立たないが落ち着きのある鳥居前町ですね。もう少しパワーを感じさせる街がよそそうな気がします。でも、このぐらいがよさそうな?理由は・・・江戸時代の街並みのセットとしてはこれぐらいでよさそうな気がしますから・・・明治期ならそれなりの看板を掲げればよさそうですから・・・明治期なら、人力車でも走らせれば、そんな雰囲気かな?昭和の初期なら・・・ボンネットバスの一台も置けばOK


 左の写真は鳥居の形状が異なりますね。これは上の写真よりも後代のものでしょう。車は何かな?ずいぶんと雰囲気が変わるものです。

 左奥の塗り篭めの建物はどの時代に消滅したのか?気になりますね。

 時代とともに変遷する建物・・・どういった時代を標準として一つの町を考えるか・・・これってなかなか難しいものです。

 この左の商店の裏に・・・多分、立派な大禰宜邸があるのでしょう。そういった物も見たい気がしますね。

 見えるもの、見たいもの・・・これはなかなか難しいものです。

 この大正期から昭和にかけてのある瞬間・・・看板の色はどんなものだったのか?白く塗られた板に黒で書かれていたのか?とか・・・想像の翼はどこへ行くやら?

 右の写真では人力車が確認できます。ふと・・・香取神宮の現代の写真も白黒にしちゃうか・・・なんって・・・

 土がむき出しになった道なんってものも、近頃では希少ですし・・・資料からすると・・・歴史的景観を生み出す事も可能なような?ふと・・・鎌倉を世界遺産に登録するより、香取神宮界隈を歴史的jな景観で登録する方が簡単ではないかと思い始めてしまいました。

 津宮あたりからの景観などは・・・明治期からそれほど変化していないような?道幅なんかも、忍男神社や膽男宮の間の道なども小型車でいっぱいいっぱいの旧規格の道ですから・・・まあ、昔はもう少し狭かったのではないかと思いますが・・・

 さて・・・香取神宮のスタンダードというのはどの時代のもの?なんっ下らないことを考えてしまいました。時の流れの中で変化していくものだと分かっているのですが・・・でも、神仏習合期だと思うので・・・廃仏棄釈前で、それなりに金銭的な余裕というか、廃仏棄釈前での経済成長期が全盛期であるのではないかと思います。庭園に関しては明治10年ごろなのか?最高にそれぞれの場所が美しかった時期の寄せ集めなどが良いのかもしれません。

 夜の幻想的な祭り・・・これがあるとね。無いものをねだり始めたという事は・・・なんとなく、香取神宮の探索に飽きつつある前兆かな?

2013.06.28












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