香取神宮をうろうろ(7)
 香取神宮の社殿・・・

 近代デジタルライブラリー - 房総叢書 紀元二千六百年記念. 第8巻 紀行及日記 この本の続きですね。今度は楼門に戻って、そこから再び神宮近辺を巡る事になります。それより気になるのは・・・実は、神仏習合なんです。神仏習合がどのようなものであったのか、あまり実感が無いんですね。神棚に仏像が並んでいるようなイメージではまずいような気がします。システムとしての神仏習合を理解していないといけないような?確かに、別当寺が存在していることも知っていますし、寺受け制度の中で・・・人民の支配にも関連のあるものですから・・・ある意味、律令世界での役所の出先機関が神社で、氏子という形の枠組みを乗っ取る形で神宮寺を置き、別当の支配下に神社を系列化するというのもあるでしょう。日本って、本当に宗教ってあるの?って気になっちゃいますが・・・祭り事=政り事ですから・・・神社って、寄り合いの場だったりとかね。お寺も・・・廃寺になった所が、そのまま地区の公民館になっていたり・・・なんとなく、集落のさまざまな事を決める庭=議場が神社・寺・公民館とかを冠するような感じですね。そして、その場が、同時に娯楽の場になるから、最新型の娯楽導入をできるものが、その庭を占有するという感じなのでしょうか?ふと・・・ 近代デジタルライブラリー - 農村文化の課題 農村文化調査報告 などを見ていて思ったりしました。政教分離・・・によって政治の場が詰まらなくなったのかな?と飛躍したり・・・さて、本文を眺めてみましょう。

 楼門の前の石段を南に下がると、そこは宮下町という社家町がある。左の方には大宮司の館がある。本宮の神主職として延喜式に書かれている香取神宮司である。勅任の職である。ここから南に200m余り坂を下ることになる。この坂を氷室坂と言い、八坂の一つである。坂の上の山を姥山といい、その北に並んでいる山を佐山と言う。その次にあるのは弧座山と言って、どれも神の鎮座する山で、三山といって、深い由来を持つのであろう。

 楼門の前の石段を南に下がると・・・現在の総門がある場所の石段の事ですね。現在の神徳殿が大宮司邸というわけです。このあたりが宮下町という社家町・・・昔はこのあたりに民家が立ち並んでいたのか?宮中町が大禰宜家と別当寺を中心として繁華な町を作っていたのに対して、宮下町は大宮司を中心として繁華な町になっていた?どちらも市が立ったとか・・・参道整備で消滅したのか?ちょっと気になりますね。

 左の江戸期の図だと・・・現在とずいぶんと地形が違うような気がします。大宮司邸が高くなっている。そして、神池が高いところにあるような?この場所はどこの事?ちょっと気になります。雰囲気からすると、現在の神池に水を送っているポンプなどがある当たりかね?神池に関しては、現在の亀甲の池・宮下の池・菖蒲の池の3つは昭和53年式年大祭の事業で昭和55年に完成したものとのこと。そういえば・・・昭和45年ごろの記憶では、神池に水を送るポンプのところに溜めがあったような?あれがかつての神池?

 ちょっと、この図と、現在の様子は違いすぎるような?大宮司の館って・・・神徳館ですよね・・・総門下の道の脇は小高くなっていますが・・・この図では全体的に高くなっている・・・総門下の鳥居が前進して・・・平成10年に在位10周年で奉納された総門下石鳥居か・・・神徳館は旧大宮司邸跡に昭和36年に建設、正面の門は、旧大宮司邸の表門で、勅使門と呼ばれる天明元年1781年のもののようです。総門は昭和17年に竣工2600年行事関連ですね。手水舎は昭和15年・・・このあたり関連はこんなもののようです。珍しく本を買ったんです。神札授与所で香取神宮案内記って和文・英文対訳本です。神札授与所+宝物館は昭和41年式年大祭記念で昭和42年に竣工か・・・できたばかりの時に行ったんだ・・・斥候杉が見当たらないのは、平成2年式年大祭事業で計画され、平成6年竣工の香取文庫によって斥候杉の跡が無くなったのかね?まあ、生きている神社ですから、常に更新されて生き続けないければなりません。

 さて、氷室坂を近いうちに下ってみないと・・・右の写真が旧大宮司邸、現神徳館の前から下っていく坂ですから、これが多分氷室坂なのでしょう。

 普通に邸宅が並んでいるようなので、このときは下まで行ってませんが・・・近いうちに・・・

 この坂を語って、鹿島三山の話をしていますから、何か特徴的な眺めがあるのかもしれません。弧座山は上まで上がって弧座山神社は見てきました。他の2つの山は見ていませんからね。

 姥山神社は香取の宮下に鎮座、一言主を祀る。佐山神社は香取の宮下に鎮座、田心姫神を祀る。弧座山神社は香取の御手洗に鎮座、命婦神を祀るとありますね。深い由来がある・・・何だろうね? さて、次の文は・・・

 氷室坂を下りて、右の方へ100m程行った谷間に新福寺という寺がある。曹洞宗で観音が安置されている。この北側に飯笹長威入道の子孫が住んでいる。神道流天真を伝える家である。ここから1km余りで高房社に行くことができる。

 ふむ、この坂を下りていないから、この先は不明、近日中に、行かなきゃ!それから、新福寺にもね。ちょっと、地図で道をチェックすると・・・氷室坂のように見える道が3つあるような?広い道は・・・坂の上の山を姥山といい、その北に並んでいる山を佐山と言う。その次にあるのは弧座山・・・という、前の文からすると、姥山と佐山の間を抜けているから、この道はこの時代以降に付けられたものでしょう。この道が必要になるのは?案外、神徳館の建設の時かもしれませんね。すると、残りの2本の可能性が大ですね。上の写真から、右へ分かれる細い道が地図には記されています。それと、池の脇から伸び、連なる家々の間を抜ける細い道が存在するようです。これが、新福寺への最短に当たるようです。さあ、どれが氷室坂なのか?氷室坂って言うんですから、どこかに氷室があったのかな?これも気になりますね。氷室を設置する場所って山の北側斜面で、氷を切り出す池が必要ですね。何かその名残でもないものですかね?ふと・・・おぼろげな記憶・・・日光の天然氷の製造用の池ですね。なんとなく、御神井に似てるような?気のせいかな?

 これに類似の物がないかきょろきょろしなきゃ!新福寺は現在ちゃんと存在していて、その南側に広い森林が広がっていて、そこが新福寺遺跡として知られているようです。どんな場所かちょっと気になります。どうやら、神道流の道場もあるようだし・・・今後の課題ですね。また、遊びに行かなきゃ!という事で、次の文ですね。

 馬場の後より西南の方角に小道を100m余り行くと押手社がある。神印を納めた場所である。前に要石がある。これは、地下から生えてきたようなものではない。押手社に要石を置いたという伝承があるとのことである。ここから北へ行くと宮中町の中ほどに出る事ができる。

 この本と並行して、大禰宜日記をエクセルで整理してるんだが・・・1699年とかは、まともに日付として扱ってくれない・・・困ったな・・・古い和歴用のデータベースでも構築しないといけないのかな?なんとなく・・・

 ふむ、押手社と璽神社って、同種の神社があるけど、璽神社は大宮司邸の付属のようなのかな?璽神社は造営の目録に入れられていなくて、このときには押手社は遥か以前に壊れて隠滅しているのを新たに作ってくれるように願いを出してますね。おっと、この本が終わったら、元禄の造営の様子をえがいみようとしてるんです。その準備です。

 左が押手神社ですね。本来は神璽を祀るんでしょうか?しかし、現況はお稲荷さんになってますね。宇迦之御魂神を祀る社となっています。

 ふと気になるのは、この宮は江戸の初めに朽ち果てていた。この社の位置は判っていた。そして、この場所は象徴的な意味のある場所で・・・要石が置かれた。

 押手社と要石がある場所は、あたかも通路のように見えるんです。この場所の南の広場のように開けた場所が、現在の護国社ですが、古くは長吉寺という寺があり、その前は、香取要害城であったようです。城や寺が置かれるのは、そこには水源があることを意味します。どこかに井戸でもあったのでしょう。多分・・・古い時代にはここに大宮司邸があったのでは?なんてね。そうすれば、押手社の跡があってもおかしくなく、元禄13年に再興されたので、押手社と璽神社という、同じ役割を持った2つの神社があってもおかしくないと思えるのです。大宮司邸がここから移転したのは・・・多分、元大宮司邸の場所に井戸を掘ることに成功したからではないかと思いますね。そして、要石は・・・私が勝手に想像している、大宮司邸・大禰宜邸・不断所の接する場所にあるのではないかと勝手に想像しています。そして、不断所の中心が諸神塚ではないかと・・・例によって、根拠は薄弱・・・神秘なり。

 ついでに、もうひとつ妄想を・・・妄想は面白いので・・・要石は、議場を意味するとしたら?この場所に大宮司・大禰宜・不断所が集まる。何かを決定する、そして、書類を作り、押手神社に納められている神璽を押すことで、決議が発効する。ってのは?

 合議か・・・ちょっと、類似の物を・・・鹿島三支配ってやつです。鹿島神宮の神領に関しては確か、神野の物忌代当祢宜東家(お屋敷様)、桜町の桜山の鹿島大宮司家(桜山様)、新町の堀の内の鹿島城主鹿島家(堀様・堀の内様)この鹿島三支配と呼ばれる家々が鹿島の政治を行っていたようです。

 香取神宮だって同じような職制でもおかしくないですから・・・大宮司家・大禰宜家・さてあとは何?そういえば・・・森林ってのは誰に支配権限がある?鹿島神宮って、山林地主のような神社ですから・・・鹿島神宮だと造替は鹿島城主大掾家が発するが・・・香取神宮はどうなってるんだ?今問題にしている時代は、神宮寺が成立して、その勢力が拡大した時期を想定しているつもりだから・・・神宮寺が成立して行くのは・・・鹿島神宮が早くて天平勝宝年間かな?奈良時代・・・律令時代だから・・・森林は・・・山・川・藪・沢の利は公私これを共にするってか・・・国衙の支配下か?

 ああ、なるほど・・・1つ了解、幕府、つまり政権交代があると、鹿島神宮や香取神宮が立派になるのは、木材などの徴発権が国衙にあって・・・その権利を行使できる、正当な政権であることを内外に示す事ができるという事なんでしょう。しかし・・・鹿島神宮と香取神宮文書ではなんとなく雰囲気が違う・・・鹿島神宮の江戸時代の造営の書類は・・・鹿島神宮文書にまとめられていますから・・・近いうちに読み返してみましょう。

 香取神宮ってかなり特殊なのかな?国衙の支配下にあるはずの香取の海やそこの海夫や関や森林を大宮司職が司っていた?香取神宮が行政府として行動していたという事になりますね。鹿島神宮なら鹿島城主大掾家ってなるんでしょうが・・・そして、大宮司の職分を大禰宜が南北朝時代に手にして、事実上、香取のあたりの支配権を香取神宮が持つことになる・・・そして、その上に鎌倉幕府を頂く形で・・・その形式が江戸まで残っている?という事かね?本気の研究者はどんな風に考えているやら?ちなみに、元禄の造営の際には大宮司職は闕職になってますね。

 気になるのは、要石に関する伝承ですね。ここに要石を置いた事について・・・書いてないのが困りますね。まあ、ここを通り抜け北へ行けば宮中町の中ほどに出る事ができますね。岩立商店の脇の、石の橋がある、まわりとはちょっと違った感じの空間にね。右の写真の道が要石につながる道なんです。

 しかし、要石は・・・押手社に置いたって伝承か・・・なんと夢がない、常識的な・・・まあ、そう思うけどね。流水で磨かれたような石ですから・・・それに、黄門様はこちらも掘ったなんって聞いてないし・・・しかも、黄門様が掘った要石は、鹿島の海岸にあって、波打ち際に矢板を打っての作業って江戸の通俗本には書いてあったような?こんな、山の中じゃないし・・・

 歴史の真実って難しい・・・でも、空想の羽を広げるには面白いものです。さて・・・次の文は・・・

 宮中町へ戻り、諸神塚の左の方の人家の裏に飯笹長威入道の小さな碑がある。長享二年戌申四月十五日とある。この場所は梅木山不断所という寺があった所で、長威入道兵術錬行の跡と言われている。側の坂を下根坂と言い、八坂の一つである。坂の傍らに長威入道の子孫の碑がある。この坂を4kmばかり行くと返田社に着く。

 諸神塚左の方の人家の裏に・・・という事は右の写真の赤い垣の中にも民家があって、その裏・・・石段がある所が笹長威入道の碑があるわけです。

 民家もあるという事は・・・この時代には寺の後で、樹木が生えていない状態で民家が結構あったという事なのでしょうか?1700年ごろは、不断所が存在しているようですが・・・不断所はいつ無くなったのか?ちょっと気になります。そして、この写真の中央の道を進むと、奥宮があって、その左を下る坂が下根坂で、現在の参道の大鳥居脇につながる道になります。

 例の如く、根拠も何もないのですが、諸神塚ってのがかつての不断所の中心ではないかと思うのです。神宮境内以外での祭祀の場所ですから。こういった場所に寺院が建てられ、しかも、普通の道を境内に包摂する形の寺院って昔はよくあったような気がするのでね。もし、そうなら・・・本堂は現在の笹川屋旅館のあたりですかね?この雨乞い塚に正対するような形で・・・そして現在の岩立商店のあたりまで、南は奥宮、南東は要石のあたりまでじゃないかと・・・妄想が湧いてきます。

 さらに妄想を・・・不断所って言うのですから、不断念仏を行う寺ですね・・・なんとなく密教系のような?で護摩修法をこの諸神塚で行っていて・・・露天で、塚といっても平らな場所ですからね。だから・・・大柴燈護摩供か?真言系ですね。香取山金剛寶寺は真言宗のお寺で、本地仏の十一面観音を本尊としていますから・・・で、なんとなく、不断所は愛染明王で・・・不断愛染護摩供・・・時代は・・・愛染明王が流行するのはいつだっけ?白河法皇のころかね?平安末期・・・高野山あたりも愛染明王ブームがあったような・・・金剛三昧院とか・・・真言宗についても少しは知識を蓄えておく必要があるかな?

 そうそう、年号があった、聖武天皇天平4年、干ばつで雨乞いをしたって・・・天平4年って732年奈良時代か・・・そういえば満願が天平勝宝年間だから749から757に鹿島神宮寺を建てていますから・・・新型の修法の開始を意味するのでしょう。そして、仮御本殿にやがて、愛染明王が入り込み、不断愛染護摩供が行われ、それを管理するのが不断所かね。そのうち資料が出てくるかもしれませんね。とりあえず保留・・・何しろ、香取神宮の北東に護摩堂があったし・・・

 わ!長くなってるな・・・この辺で切って・・・・続きは次回ですね。

2013.06.19 












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